僧侶のたくらみ

仏教とニューエイジの対話を推進するべく、 こっそりと活動中

焦りは禁物

当ブログでは、僧侶として、どんな情報を発信できるのかを試みています。

混迷する現代のなかで、愚僧は、力不足に悩む毎日です。

しかし、出来ることをするしかありません。

焦りは禁物なのであります。

たとえ、今世で悟れなくとも、それはそれ、修行は永遠なのですから。

ここを見られる人が、少しでも幸福になってくだされば、この上ない喜びです。

仏教は本来、総合的な人間学であり、三世を貫く幸福の為の教えです。

この現代には見失われた神法を、こつこつと発見していこうと思います。

日々、精進いたします。

合掌。(_ 人 _)




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驚くべき脳力

人間は、生涯、成長出来るようにつくられています。
神は驚くべき脳の力を我々に与えてくださっているのです。

無限力に目覚めましょう。

最近の科学研究の結果がそれを裏づけています。
脳神経学者であるダニエル・モンティ博士はこう説明しています。


幸い、われわれが陥っている行動や性格のパターンを変えられる可能性は十分にある。
たとえば、私が言ったことを聞いて、それを記憶するだけで、
あなたの生理機構はそれまでとは違っている。
その記憶がコード化されて、あなたの遺伝子構造が変化するのだ。
従来の考え方では、神経系は固定化されたもので、
変化の余地はあまりないとされていた。
しかし今日では、さまざまなレベルでそうではないことが分かっている。
神経系は可塑性に非常に富んでいる。
そのことは、神経系には変化する能力があることを意味するのだ。

ヴェーダの伝統は、統一場について単に語っているだけではない。
それは、統一場のことを極めて正確に示し、それを体験し、
それを生きるための経験に基づくさまざまなテクニック(瞑想法)を提供している。
「生命の統一」を生きることから得られるメリットは非常に大きい。
脳の機能がパランス良く発達すると、
心身への健康効果や深い心理的効果を得ることができる。
それらを実証した研究は挙げればきりがないほどだ。
内なる世界を体験すると、脳が整然と秩序正しく働くようになる。
脳が秩序正しく機能すれば、IQがアップし、創造力や学習能力が高まり、
学力や思考力が向上し、精神と情動が安定し、
反応がすばやくなり、動きが機敏になる。
これまでは、16歳を過ぎるとIQが徐々に低下していくと考えられていた。
しかし今では、どの年代の学生でも、
脳の機能の秩序性を高めることが可能であると分かっている。
われわれは、生涯を通じて創造性と知性を発達させていくよう意図され、
設計され、つくられている―しかし、そのためには、
脳に備わっている本来の能力にアクセスしなければならない。
脳を総合的に発達させるには、
瞑想状態に入って全包括的なリアリティを体験することが鍵となる。
つまり、思考の源泉である統一場を体験すること、
いわゆるスピリチュアルな体験をすることが重要なのだ。





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教育の力

教育によって人間はつくられます。

お釈迦さまがインド中を歩いて次第説法し、人々を教え導いた結果、
阿羅漢の境地に到る弟子達が続出しました。

ヘレン・ケラーを救ったのはサリバン先生の教育の力でありました。

教育は、国家百年の計と言われるほど重要です。

戦後教育が間違いだったことは、
モラルの低下した現代の日本を見ればよくわかります。

最大の誤りは、知識を単なる物質レベルにまで貶めたこと、
学問の根本にあるべき神を否定したところにあります。

また、脳細胞は成人を過ぎると減る一方だとか、
遺伝子によって知能指数は決まる、というような誤った理論もまかりとおっていました。

努力の意味を教えなかったのです。

学問や知識の進歩に天井などなく、
大宇宙の神秘は、学んでも学び尽すことは不可能なのです。

そして、学ぶことは楽しいことであり、
知識や自分を表現することは、最大の武器になります。

教育者は、
どんな人間にも仏性が宿っていることを強く信じなければいけません。
また、夢や目標を持って精進すれば、必ず希望は実現するということを教えるべきです。

教育者の信念が、人間の持つ無限の可能性を引き出すのです。




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科学者は知っている

「無神論は、人類にとってあまりにも無意味で忌まわしいものである。」
といったのは、近代的な科学的世界観の構築に最も貢献した人物である、
アイザック・ニュートンでした。

しかし、現代では、科学的世界観が暴走した結果、
神の存在を否定するまでになってしまいました。

特に日本では、この無神論が知的であるかのごとくに誤解されています。

物質が偶然に結合して出来たという、神なき機械的宇宙観は、
何故か仏教者の好むところです。

しかし一流の科学者は知っています。

宗教者(僧侶)が神を否定し、科学者が神を認めるとは、何と皮肉なことでしょう。

ノエティックサイエンス研究所主任研究員のディーン・ラディン氏はこう言います。

主流派の科学者にも、経験から得た個人的な見解がある。
だが、それを公の場で語ることはない。
なぜならアカデミズムの世界では、
そうしたことは言ってはいけないことになっているからだ。
これほど強い夕ブーが1世紀以上続いている例は、
アカデミズムの世界でも珍しいだろう。
心理学や認知神経科学、基礎神経科学、物理学などの第一人者のなかに、
個人的には超常現象に関心を寄せている人が非常に多いことも、私は知っている。
彼らのなかには、実験によってかなりの成果を得ている人たちもいる。
その成果が発表されないのは、学界の体質がそれを禁じているからだ。
今日でさえタブーの掟は非常に強く、何人もそれについて話してはならないのだ。
夕ブーが公表されれば、それをきっかけにタブーは消滅する。
そうなれば主流派の科学者のなかに、
こうした研究に多大な関心を寄せている人がいかに多いかが分かるだろう。



タブーが消滅する日は近いのです。




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自覚なき僧侶

愚僧は、たとえ同じ僧侶であっても、
無神論者、唯物論者を容認することは出来ません。

現代の僧侶の多くは、合理主義者を装っています。

おかけで、日本は極めて宗教に対して無知な民族となってしまいました。

僧侶が、きちんと霊的世界や神秘を説かないからです。

これは、仏教僧が世俗に阿った結果なのです。

戦後の公職追放令では、
有神論者である保守系知識人の20万人(!)が、要職を首になったということです。

一方、国家権力の中枢にはびこったのは、
コミンテルンの息のかかった無神論者の左翼知識人でありました。

それらが勝手に仏教を歪めた罪は重すぎます。

僧侶は自覚的なのか、無自覚なのか、どちらなのでしょうか?




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霊的直感を取り戻せ

仏教の話題ばかりですいませんが、
最近では、このような一歩踏み出した意見を述べられる学者さんも現れています。
願わくば、このような学説が主流となりますように祈念いたします。

東大印哲卒、青森公立大学教授の羽矢辰夫氏の主張です。




「ゴータマ・ブッダのさとりは直観であった」といわれる場合があるが、
これだけでは、その直観とは感覚的直観なのか、言語的直観であるのか、
霊的直観であるのか、あるいはまたそれらすべてを含んだものなのか、不明である。
領域の指示があってはじめて相互に語り合いができるのである。
あいまいなままでは、誤解を生じやすいのである。
このように、唯物論的な科学主義にきわめて深刻に影響を受けている、
われわれの生死観は、もろもろの原子の集合が生で、
それらの離散が死である、という極端な見方にもなり、
つきつめて考えれば、結局は死んでしまえばそれですべて終わり、
というようなニヒリスティックな結論にいたる。
仏教的な文脈でいえば、これは「断滅論」であり、ゴータマ・ブッダは明確に退けている。
さらに、われわれは考える。

『来世、輪廻、解脱、涅槃、これらは所詮、想像による産物であり、
想像しない者にとっては、それらは存在しないも同然である。
ありもしないものを想像で作りあげて、それによって苦しみ悩んだり、
また喜んだりするのは、それこそ無明の発露である。
したがって、何も考えないし、何も感じないのが究極なのではないだろうか。
事実、経典にも分別がないこと、すなわち無分別がさとりであると説いてある。
しかし、そのことによって、たとえさとりを得て涅槃にいたろうとも、
結局は死んでしまうのだろう。
それがいったい何になるというのだろう』と。

経典においても、parinibbanaは、「完全な涅槃」の意味であり、
それは同時に「死」をも意味する。
そこで「肉の眼」はためらうことなく、身心が完全に滅した涅槃、
すなわち「死」が究極の境地である、と読むであろう。
しかし、疑間は残る。何もしなくても人は身心が完全に滅した状態、
すなわち死をむかえるはずである。
それなのに、どうして、それが命がけで求められなければならないのだろうか。
これも当然の疑問である。
原始仏教経典には、ゴータマ・ブッダをはじめとして、
多くの弟子たちが厳しい修行をおこなっていた様子が、
ありありと描かれているではないか。疑問はけっして解決できない。
かろうじてできるのは、ことばによる解決である。
それは「大自然に帰る」などの表現に活路を見出そうとするのであるが、
実際にイメージされているのは、もろもろの原子がそれぞれバラバラに離散して、
もともとの自然の状態にもどるということである。
ことばで解決できたような錯覚をもたらすが、問題は何も解決されてはいないのである。
無分別というのも、「黙想の眼」を用いて理解しなさい、という意味なのであり、
「肉の眼」や「理知の眼」を放棄しなさい、という指示ではないのである。
経験主義的ないし科学的方法は事実上「質」を扱えないのである。
科学、すなわち「肉の眼」は世界をもっぱら量的客観的なものとしてとらえるが、
「質」そのものは測定不能だからである。
経験論的な知だけが唯一の知の形態ではないことを理解すれば、
科学主義や排他的な経験主義からのがれられる。
それを超えたところには、理知的・合理的な知と黙想的・霊的な知が存在するのである。


「ゴータマ・ブッダの仏教」 




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法と神

仏教は、断じて無神論宗教ではありません。
このことをおさえておかないと、全てが逆に見えてきます。
これは、ものすごく重要なことなのです。

「神は存在しない」というそんな傲慢な宗教を釈尊が説くはずもありません。

仏教では、
他宗教の言う「神」はもちろん、究極の神が、「法」というかたちで説かれているのです。




カニシカ王、悠然として尋ねて言う、

「尊者よ、願くは我がために説け。
我等が仏陀を崇敬礼拝するは、その人格にあるか、またはその神格にあるか。」

馬鳴尊者言う、

「仏陀は人にあらず、神にあらず、神人を超越す、
何となれば仏陀は万徳具足円満の相なればなり。
我等が仏陀を尊崇するは、その智慧にあり、その徳相にあり、
真諦を徹見する般若力と、これを俗諦の上に活動せしむる慈悲の本願力とにあり。
真諦は古今を通じて不変なり、平等なり、
俗諦の世界のみ時時に生死す、神人といえども、これをまぬかるを得ず。」

チャラカ、遮りて言う、

「我等がいう所の神とは、諸天をいうにあらず、一神の本体を直ちに指せるなり。
あえて問う、仏陀はこの点について、如何なる垂教あるべきか。」

カニシカ王、これを補いて言う、

「我等の神とは、梵天の如き唯有の体をいうにあらず、
又、自在天の如き、個人的天地の主宰及び創造者を言うにあらず。
我等は慈悲・智慧・功徳・正義の源泉を以て神となす。
尊者はこの如きものの存在を説き給うか、はたこれを以て夢幻泡影となし給うか。
もし実在なりとせんに、我等は如何にしてそれを知り得るか。」

馬鳴言う、

「この如きは、一朝一夕の説話のつくす所にあらず、
されど略してこれを言うに、この如き本源は確かに実在なり。
この実在は万有の上に如来の善法として現前し、
一切の有情を一歩一歩進めて大覚の境に到らしむ。
この善法を領得する者は正道に入る、
我等はこの法の本体を名づけて法身仏となす、大日如来となす、無量光となす。 
一切法の儀表となり、一切の善を進め、一切の悪を挫く、
皆、因果応報の理にしたがわずということなし。」


ポール・ケーラス「無量光」




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宗教の力

宗教には、力があります。

宗教は、単なる教義や、建築物や組織のことではありません。

宗教は、今、ここに働く、現実的なる神の愛の顕れなのです。

宗教は、先端科学よりも深遠な真実を教えます。

心を扱う学問に数字は通用しません。

また、愛は数字では表せません。

善・正義・勇気・慈悲などの最も大切な徳目は、みな目に見えないものです。

霊界や魂の存在も、数学的証明にはなじみません。

夢の世界を考えれば、
それを証明しようということがいかに困難なことであるかが分かります。

しかし、近年、精神も波動であることが解ってきました。

この波動が謎を解く鍵になりそうです。

宗教は誤解されてきましたが、
これからは、宗教と科学の逆転現象が起きてくるでしょう。

それが、本来の姿なのです。

中世には、世界は神の創造の産物であると、
実際上すべての人が信じていたのです。

神に不可能は無い故に、信仰や祈りの力は絶大なのです。

だから、宗教には、現実や人間を根本から変える力があるのです。

仏教は信仰無き宗教、神秘無き宗教である」と喧伝する勢力には注意が必要です。

それは、形を変えた唯物論者、無神論者が生き残ろうとしている姿なのです。




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霊性文明へ

一宗一派にこだわっている時代ではなくなりました。

霊性文明の胎動は、
人類に共通した目覚めであり、真実であります。

ニューエイジの流れは、
仏教も既存宗教もすべてを包含するものです。

全ては、
霊天上界の計画により、進められているのです。

そして、地上では、
神の意を受けた、再誕の仏陀が希有なる法を説いているのです。

人類の末来は、
闇になるか、光に満ちたものになるか、今がその分水嶺なのです。




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三宝帰依

仏教者は、三宝帰依をしなければなりません。
これはとても重要で、修行者が単独で悟りに到るのは難しいのです。


我は仏陀に帰依し奉る。
円かにして欠くることなき彼は神聖なり。最勝なり。
仏陀は我等に教えと智慧と解脱とを与え給えり。
彼は天の福を享け給えるものなり、万有の法を知り給うものなり。
彼は世の主なり、牧牛者の如く我等を護り給う。
彼は人天の師なり、聖に到れる仏なり。
我は仏陀に帰依し奉る。

我は教法に帰依し奉る。
法は聖者の説き給う所なり。
法は我等の見得る程に顕わになれり、
法は時と所との上にあり、
法は伝説口碑に基けるにあらず、
「来たりて看よ」との義あり。
法は幸福に到る道なり、
法は賢き人の自ら認め識る所なり、
我は法に帰依し奉る。

我は僧伽に帰依し奉る。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして正義の生を送るべきかを教う。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして正直律義を行うべきかを教う。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして真理を実践するべきかを示す。
仏弟子は慈愛の団結を作れり。その聖きものは皆尊敬するに足れり。
仏弟子の僧伽は、人々が義の守るべき、善の行うべきを教えんため、
神聖なる同盟をなさんとて建てられたるものなり。
我は僧伽に帰依し奉る。


ポール・ケーラス「仏陀の福音」




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衰えぬ高僧

天外伺朗氏は、電子工学を専攻し、ソニーの技術者として、
CDやアイボなどの開発に携わった実績のある科学技術評論家ですが、
ニューサイエンス的立場から、意識や異次元についての著書を多くだされています。

その天外氏の『ここまで来た「あの世」の科学』という本に、
南無の会会長、臨済宗の松原泰道氏がこのような推薦文を寄せています。


宇宙の神秘や人生の謎という共同根から育った科学と宗教とが、
互いに背離すること自体がおかしい。21世紀は、両者の握手よりも、
宗教と科学とを止揚した新しい思想が創造されるべきではないでしょうか。


と、
霊界の実在を主張する内容の本を、勇気を持って肯定されているのです。


松原氏は、ご老体でありながらも、精力的に宗派を超えて活動されています。
ニューエイジ系の団体とも接触を持たれることもあるようです。
仏教界の重鎮は、100歳になって尚、新しい問題意識を失っていないのです。

僧侶は、氏のようにありたいものです。




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メッテーヤの出現

何故、現代の仏教者は、神々を信じないのでしょうか?
輪廻転生を否定して、仏教が成り立つのでしょうか?
何故、仏陀、転輪聖王の再臨を否定するのでしょうか?

不思議でなりません。

最古の仏典には、はっきりと書かれています。




「修行者のみなさん、メッテーヤという名の敬われるべき人、全きさとりを開いた人、
明知と行ないを具えた人、幸せな人、世間を知った人、無上の人、
人間を調練する御者、神々と人間の師、ブッダ、世尊が世界に出現するでしょう。 
ちょうどいま、わたしという敬われるべき人、全きさとりを開いた人、
明知と行ないを具えた人、幸せな人、世間を知った人、無上の人、
人間を調練する御者、神々と人間の師、ブッダ、世尊がこの世界に出現しているように。
かれは神、悪魔、梵天を含めたこの世界のこと、
修行者、バラモン、神々、人間すべてについて、みずから認識し、
まのあたりに見て説明するでしょう。
ちょうどいま、このわたしが、ここで神、悪魔、梵天を含めたこの世界のこと、
修行者、バラモン、神々、人間すべてについて、みずから認識し、
まのあたりに見て説明するように。
かれは初めも素晴らしく、中間も素晴らしく、終わりも素晴らしく、意味深く、
形式が整っている教えを説き、完全無欠で純粋な清浄行を説示するでしょう。
ちょうどいま、このわたしが、ここで初めも素晴らしく、中間も素晴らしく、
終わりも素晴らしく、意味深く、形式が整っている教えを説き、
完全無欠で純粋な清浄行を説示するように。
かれは何千人もの修行僧のサンガを統率するでしょう。
ちょうどいま、このわたしが、ここで何千人もの修行僧のサンガを統率しているように。」


パーリ原始仏典長部第26経「転輪聖王修行経」




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地球の危機

大変な時代をむかえようとしています。

霊的情報では、今後かなりの危機が起きてくるそうです。

小惑星衝突のパニックも考えられる、とのこと。

これらは、神を忘れた人類への、霊天上界からの警告です。

危機の時代だからこそ、救世の法が説かれているのです。

一刻もはやく、一人でも多くの人が目覚めなければいけません。

祈りや信仰には、大きな力があります。

危機から地球を救うのは私達であり、一人一人が主役なのです。

愚僧も、精進します。




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あの世の実在

鈴木秀子氏は、カトリックの聖心会会員であり、
聖心女子大学の教授を経て、
国際コミュニオン学会をたちあげ、愛と癒しの活動をされています。

その著書では、
仏教にも正当な評価を与えつつ、
自らの臨死体験によって確信した死後の世界の実在が主張されています。

彼女の宗派に捉われない姿勢には、
僧侶が見習うべきところがたくさんあります。

死後の世界など無い、と言って通用する時代は終りました。

そう言えば、こんな本が出てました。

   

『 来世をどう説くか ― 教化のための現代往生論 』
   中野東禅◆藤井正雄◆山崎龍明監修   
   A4 341頁 15,750円 四季社

   仏教での「来世」について思想や概念がどのような比喩、
   例話等をもって説かれているのかを様々な角度から解説した書。

   【目次】
    ・序 「来世」を言語化しよう
    ・第一章 「来世・死後・再生」の問題整理
    ・第二章 仏教各宗派の来世観
    ・第三章 「来世をどう説くか」シンポジウム ほか



来世をどう説くかなど、ためらう必要はありません。




二〇世紀の後半に至って、臨死体験という言葉が生まれ、
その存在が科学的に研究されたことで、
想像以上に多くの臨死体験例が存在することが明らかになりました。
そして臨死体験例は、以前より増加しているようにわたしは思います。
臨死体験者が増加し、それが世界的に注目を集めるようになったという事実には、
重要な意味があると思います。
それは、「死後を思い悩むな」という啓示だろうとわたしは思っています。
死んだらすばらしいところへ行くんだということを知り、
死を楽しみにできるほうが、幸せな人生を生きることができます。
死への不安で、今、与えられている命を汚染するというのはもったいないことです。
臨死体験は、現代人に、「生に執着し、未来について思い悩む必要がない」、
ということを教えてくれているのではないでしょうか。
死について思い煩うと、人は、漠然とした不安にかられ、
それが、貧困の不安、病気の不安、人間関係への不安などに結びついていきます。
今ある幸福をしっかり味わうこともできず、
今やるべきことに集中することもできなくなるのです。
しかも死を恐ろしいものととらえ、
人は必ず死ぬという現実を無視しようとすれば、
目の前の楽しさだけを追い求めることになります。
しかしもし、あなたが、魂は永遠に生きつづけるのであり、
死によって、何も終わらず、何も妨げられないということを信じることができれば、
今が一番大切であることが分かるはずです。
目前の楽しさにだけ目を奪われることなく、愛と真理のために、
しっかり腰を据ていくことができるようになるのです。
臨死体験が教えてくれるのは、わたしたちが、
「この世」で生きる知恵と言えるのではないでしょうか。

「生かされる理由」




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悟りを目指して

この世限りの人生であるならば、自暴自棄になってもかまいません。
しかし、肉体が活動を止めても、魂は生き続けます。
生き通しの人生であるからこそ、今という時間が大切なのです。
この世での経験は、来世、来来世で必ず役立ちます。
いのちの目的は、神仏が喜ぶ方向に成長することです。

人生のすべてが学びなのです。


毎日の生活のなかのさまざまな面において、 
「大いなる光」を見つけるという仕事のために、
できるだけのことをする機会はたくさんあるはずです。
あらゆる行為がそのために役立ちます。
やがて実が熟し、あなたは神の腕のなかに落ちるのです。
人生のすべての部分が、この実が熟する過程にかかわっています。
なかには、楽しくてウキウキするような経験もあれば、
どうしようもなくつらい経験もあるでしよう。
花や実をすでにつけた姿で土から出てくる植物はありません。
すべては成長の過程なのです。
人生の目的が悟りであるならば、
自分のあらゆる行為を通して目覚める方法を見つけてください。
実の熱する過程にかかわりつづけることです。
そしていつか、すべてを理解することができる日が来て、
「大いなる光」に満たされた意識を持つことができるのだ、ということに感謝してください。


「バーソロミュー」




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