fc2ブログ
2009.04.15 求道心こそ
感心しました。
まったく同感です。

中外日報の社説より
コピペ
「求道心」こそ前提
2009年4月14日

今日、日本仏教の僧侶の俗化が著しく、あまつさえ例外的とはいえ、
人道的立場から見てさえ恥ずべき事件が世間の話題となり、
これらによって一般社会からの仏教僧侶に対する批判が日ごとに高まっている。
そういう傾向の中で、ひたすら宗教者の道を実践している多くの僧侶たちの努力が、
見逃されやすいことは、まことに遺憾なことではある。
仏教僧侶に宗教的自覚を見失わせ、容易に職業的な生き方を許してしまう土壌が、
現代日本の葬式仏教を支えていることは否めないが、問題の本質はやはりそれに悪乗りして、
自己欺瞞的に生きようとする僧侶の側にあることは言うまでもない。
端的に言って、現今の日本の仏教僧侶には、
在家生活から出家に至る質的転換のプロセスがまったく欠如している。
嫌々ながらずるずると坊さんになっていくという、なんともメリハリの利かない職業的移行には、
基本的に仏道実践者としての「道心」が欠如している。
それを支えるように僧俗一体という在家仏教独特の負の要素が絡んでいる。
その出家者と檀信徒とのなれ合いのようなものが、また日本仏教の特色のようでもあるが、
これが宗教的な堕落の要素になることは免れない。
そもそも、仏教僧侶であることのまず第一の条件は、「出家」であるということ、
すなわち俗的執着との決別にあるのだ。
それが「割愛の情」といわれるように、出家はただ俗家を出るということではなく、
俗との決別であり、そのためには並々ならぬ「求道心」がなければならないはずである。
「求道心」あるいは「発心」は、無辺の衆生を悟りの岸に運ぼうとする慈悲心と、
それを起こすための智慧を得ようとする願心である。
これが出家者となることへの前提条件であり、出家者であることのアルファでありオメガである。
しかし実際問題として、出家者「になる」ことはやさしいが、
出家者「である」ことは難しいのである。
今日、臨済宗の修行道場では入門者に対して、
「初発心の時、便ち正覚を成ず」という『華厳経』の一句をもって、
入門者の願心を喚起するのを通例としているのはそのためであろう。
仏道修行の目的である正覚(悟り)は、
仏道という荊棘林(けいきょくりん)の一路を突き進まんとする強い「初發菩提心」において、
既に成就されているというのである。
これを裏返せば、求道心のない者には、たとい何十年の修行を続けようとも、
仏道の成就はかない難しということになる。
かの徳川期臨済宗の白隠が、「勇猛の衆生の爲には、成仏一念に在り。
懈怠の衆生の爲には、涅槃三祇に渉る」(白隠『壁生草』)と説かれたゆえんである。
出家者ばかりではない。
在家信者の歩む四国霊場の道でさえ、巡礼は「発心の道場」に始まり、
それが修行の道場・菩提の道場・涅槃の道場への前提になっているくらいである。
求道心がなければ修行も悟りもあり得ないことは、大乗・小乗に共通している認識である。
にもかかわらず今日の日本仏教の僧侶にこの認識が忘れられているとすれば、
日本の仏教そのものは、もはや仏教でさえない。
ただ「剃頭の俗人」の率いる愚蒙な世俗集団として、世界宗教の座から排除されるだけである。
今、日本の仏教に期待されていることは、指導者としての僧侶自らの品位の回復と、
それによってのみ可能な宗教的指導力の発揮である。
僧侶たちはそのための自浄努力を惜しんではならない。
そしてその具体的実践内容は、僧侶一人一人の新たなる宗教者としての自覚と、
彼の率いる信徒たちとの熱い宗教的連帯による現代世界への関与でなければならない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2009.04.10 僧侶の祈り
仏の慈悲は、生きとし生けるものすべてに降り注いでいます。

そして、仏は、すべてのものの幸福と繁栄を願っておられます。

僧侶の役割は、仏の理想を押し広げること。

このような祈りを忘れず、日々、精進します。


貧者には、富が見つからんことを。
悲しみにくれる者には、喜びが見つからんことを。
淋しき者には、希望、とこしえの幸せ、繁栄が見つからんことを。
怖れる者は、恐怖が止まんことを。
束縛される者が、解き放たれんことを。
弱き者には、力が見つからんことを。
そして心が友情で結ばれんことを。


シャーンティデーヴァ「入菩提論」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2009.03.11 僧侶の苦悩
現代のお坊さんの苦悩は深いのです。




仏教は悟りの宗教、宇宙の真理を諦める宗教だから、
生きた者のための宗教でこそあれ、
死人をあつかう宗教ではないという勇ましい発言もよく聞かれる。
いかにも御尤もなので、
そのような坊さんは死者はどうなっても構わないのだから、どうか葬式は辞退してほしい。
いまでは病気になやめる生者のためには病院があり、
貧苦になやめる生者のためには不十分ながらも社会福祉がある。
それでもみたされない精神的な悩みをもつ生者のためには、
精神医学や精神分析の有能なカウンセラーが、白衣を着て作り笑いしながら待っている。
そこで「何々を語る会」や「何々を読む会」などという懇談会、
読書会を寺でひらくことになるが、それもあまり面白くないので、
月を追ってさびれてゆく現状である。

やはり宗教は「生」とおなじというよりは、生よりも重い「死」のためにあるといってよいだろう。
一億二千万の人口には一億二千万の死がかならずある。
その死をうけとり、その霊にやすらかな無限の世界をあたえるのは、宗教のほかにはない。
これは日本仏教にはかぎらないのであるが、
とくに日本人は死者の霊魂の実在をつよく信じ、これを鎮めたり慰めたりして、
やがてその恩寵をもとめる民族であった。
それも先祖から子孫へとつたわる系譜的霊魂の実在を信じたから、
葬式と供養が日本の「家」の原理をささえ、社会秩序と歴史の原理の根底をなしている。
日本仏教はただ葬式だけを執行して来たのでなく、
葬式を通して日本人の精神生活をゆたかにし、社会と歴史をささえて来たといえる。
坊さんの執行する一つ一つの葬式は暗くささやかであるかもしれないが、
日本仏教として総合された役割は大きかった。
そのために大きく言えば、日本の仏教文化は花開いたのである。
葬式と供養の場として寺が建てられ、仏像がつくられ、経典が写された。
平安鎌倉の写経奥書も、石造美術の銘文も、
目ざす死者の成仏と往生のためでないものはない。
阿弥陀如来像というものは、
かつて日本に存在したもっとも華麗な寺であった道長の法成寺九躰阿弥陀像をはじめ、
村々の阿弥陀堂の本尊にいたるまで、臨終仏や供養仏として造立されたものばかりである。
拝観者や展覧会のために造られた作品でないことはいうまでもない。
「山越の弥陀図」や「聖衆来迎図」などの絵画もおなじことであるし、
融通念仏や六斎念仏、あるいは歌念仏や和讃、踊念仏、大念仏、
念仏狂言から盆踊にいたるまで、葬式と供養の必要が生みだした日本人の宗教文化であった。
このような宗教文化創造の原動力は、
日本人の死者の霊魂の実在観と不滅観であったと私はかんがえている。
日本の映画ぐらい葬式やお墓の出てくる国はすくないと聞いているが、
これは日本人のセンチメンタリズムのためばかりでなく、
死者や霊魂への関心が大きいことをしめすものだろうとおもう。
したがって葬式というものは、欧米のように人生の通過儀礼として、
一人の人間が社会から消えてゆく儀礼であるよりは、
その霊魂をやすらかにするための宗教的実践であることが要求される。

それでは葬墓にかかわる宗教的実践とは何かといえば、
まず何よりも霊魂の実在と不滅を確認する修行であるとおもう。
仏教各宗には加行や修法、籠山行や回峯行、坐禅や念仏行、
抖擻や荒行などの実践行がととのっている。
これらはいま形式化したものが多いけれども、
もとは死にいたるまでの厳しい苦行であった。
ということは行者一人の悟りのためというよりは、
死の体験を通して獲得される、霊魂の世界の確認にほかならなかった。
よく修行者が頓死して、地獄や極楽をめぐってくる蘇生譚が、
古代・中世のみならず、近世になってもくり返しくり返し書かれたり、語られたりしている。
智光・礼光の話や日蔵(道賢上人)の話などはとくに有名であるが、
これをたんなる唱導のための作り話としたり、中国の説話の焼直しとするのでは、
あれほどつよく民衆の心をとらえた理由が説明できない。
これは修行の目的に霊魂の世界の確認をもとめるものがあり、
その世界で肉親知人の死者に会ったり、
ときには菅原道真のような有名人に会ったり、天皇や女帝に会ったりして、
その消息をつたえるメディアム(霊媒)のはたらきがもとめられたからであろう。
宗教者や「ひじり」には常識的な現世とはちがった、
非常識な霊界へ出入りする霊的能力が要求されていた。
しかも霊魂の世界に出入りし得る人にして、
はじめて地獄や極楽をかたる資格があったのである。
その体験なしに浄土をかたっても、それはすべて嘘になってしまう。
お経や浄土変に描いてあるといっても、
取り次ぐ坊さんが信じていないことには、すこしも迫力がない。
またそのような浄土を体認した人でなければ、
死者を確実に浄土に往生させる能力があるとは信じられなかったのである。
したがって日本仏教が真の葬式仏教になるためには、
僧侶が霊魂の実在と不滅を体験する宗教的実践を前提としなければならない。
いま葬式仏教を自嘲する人は、葬式を執行しながらも、
そこに霊魂の実在を確信できないことを表明した正直な人であるし、
それにもかかわらず、
莫大なお布施をもらうことを後ろめたいと感ずる善良な人であるとおもう。


五来重「日本の庶民仏教」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
仏教僧団は、
明治政府による神仏分離令、廃仏毀釈の弾圧を経て、
明治5年に発布された「太政官布告」によって、事実上、解体されてしまった。

その後は、
戒(律)・定(瞑想)・慧(霊的覚醒)の三学を修めない僧侶が大量生産されることになる。

わが国では、奈良時代より、
僧侶といえば、「僧尼令」の制約を受けて、
国家に公認された極めて優秀な人材しかなれなかった。

近代合理革命は、聖俗の境界を取り壊してしまった。

現代の僧侶は、知の洪水なかに埋没している。

そして、末期的にも、「西洋唯物論」を信奉しているありさまである。

しかし、時代は、大きく変わろうとしている。

仏陀の魂の本体が下生して、より深遠な「法」を説かれているのだ。

仏陀は根本神と一体であるが故に、「仏法」は神を体現している。

全ての仏弟子は目覚めねばならない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2009.03.05 戦後坊主
仏教僧はよく言う。

「仏教の信仰と、キリスト教の信仰は違う」と。

うんざりするほど聞かされてきた。

何が言いたいのか?

つまり、「宗教として、仏教の方がキリスト教より優越する」と。

「仏教は合理的であるのに対して、
キリスト教は、創造神などを認めており、
ダーウィニズムに反した非科学的宗教(?)である」と。

このようなことを強調したいのであろう。

しかし、これは、
他を知ることなく、己の信じるものこそ絶対だと狂信している姿のようにも見える。

科学分野では西洋に圧倒されたので、宗教ぐらいは勝ちたいとの打算が見える。


あまりにも軽薄である。

そのような仏教僧は、自説や常識を信じているだけなのだ。

もしくは、イデオロギーと真理を混同しているのだ。


霊的生命を無視した信仰などありえない。

信仰において、仏教もキリスト教も違いはない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
2009.02.14 破戒僧天国
現代の僧侶はこう説教します。


「天国と極楽浄土は違います。」

「永遠のたましいとか死後の世界とかはありません。」

「人間を創った神さまなどはナンセンスです。」


まるで、マルクス主義者の言説です。

何故、わが国ではそんな輩が、宗教を騙り、税金を免除されているのでしょうか?

理解に苦しみます。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
僧侶の本来の仕事は、あの世や魂の存在を教えることです。

ところが、現代の僧侶は、意味不明な懐疑論を一生懸命説いています。

人々の要請から、全くずれてしまっているのです。

たいへん耳が痛い、ある雑誌の記事です。




10月に、四国内のある寺で、「心と命のフォーラム」が開かれた。
「生きる作法・死ぬ作法―死ぬまでにやっておくこと」というテーマだった。
異なる宗派の僧侶2人と宗教学者の山折哲雄、
医師の立場として朝日(あさひクリニック院長、朝日俊彦氏)が講演をした。
驚いたのは、僧侶があの世の存在を自信をもって語れないことだった。
むしろ、仏教教義を哲学的に解釈する故に、
あの世に対して、否定的なニュアンスを含んでいた。
だとするならば、彼らは何を根拠に葬儀や法事を執り行っているのだろうか。
フォーラムのメインテーマが「死ぬまでにやっておくこと」である以上、
明確な死生観が前提になければ、聴衆が納得できるわけがない。
朝日は輝身の力を込めて聴衆に語りかけた。

「死ぬまでにやっておかなければならなないことがあるのです。
あの世は必ずあります。
私たちの魂、私たちの心が死によってなくなることなどありえません。
あの世がある以上は極楽と地獄があります。
お勧めは極楽へ行くことです。
死んでから、いずれに行くかは、その人の行状や心の持ち方で決まります。
世のため人のためにお役に立つことをしていれば貯金ですし、そうでなければ借金です。
人生をトータルで見て、貯金が多ければ極楽、借金が多ければ地獄ということになります。
すると、皆さんがこれからしなければならないことは、
いかにして貯金を殖やすかということです。」

朝日の講演に実感がこもるようになった。
自分自身ががんを背負ったことで、相手の立場と自分の立場が重なる。
それが説得力となって迫ってくる。
受講者は食い入るように朝日の話に耳を傾けた。
万雷の拍手が響いた。
このフォーラムで、朝日は自分にはまだ与えられた仕事があることを実感した。
終末医療の現場で、静謐なる死のために必要だと思われた霊的人生観。
それを伝えるのは自分の仕事だ。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
僧侶や仏教学者のほとんどは、神を否定する。

よく、仏教をキリスト教(一神教)と比較して、
「万物を創造した神」など非科学的存在であって、
神を説かない仏教こそが近代の要請に合致した合理的な教えなのだ、とやる。

しかし、これは正しくないだけではなく、宗教に対する冒瀆である。

釈尊は、創造神を否定してはいない。

およそ宗教である以上、神概念の無いものなどありえない。

それは、教義を持たない土着信仰においても、儒教においてさえそうである。

造物主は存在しないというのならば、
人間機械論、因果無き偶然論、ダーウィニズムを信奉しているということである。

キリスト教と対比させ神を否定する仏教者は、
戦後流行した左翼学者の丸山真男的解釈を踏襲しているだけである。

よく研究もせずやたらとキリスト教を批判するのは、西洋コンプレックスの裏返しなのである。

神を否定するということは、
自分は唯物論者か無信仰者だと公言しているだけで、それ以上のものではない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
2009.01.27 断見外道
仏教で厳しく戒められる「断見」とは、
その字のごとく、肉体の死を境にしていのちは断絶する、
すなわち、死ねば終りという見解です。

同じく否定されるべき「常見」とは、
肉体の死を境にしても、生前時と変わりなくいのちは恒常的に存続する、
すなわち、不死という見解です。

断見はもちろんのこと、
死を境に、肉体とエーテル体を脱ぎ捨てていくのですから、常見も正しくありません。

現代の僧侶の多くは、
「断見」については、なぜか不問に付し、
「常見」については曲解して、霊魂否定に結びつけたがるようです。

日本では、断見仏教者が大きな顔をして、無霊魂説を流布しているのです。

不出生の禅僧、白隠禅師の厳しいお言葉です。




人は二気(陰陽)の良能にして、
死すれば灯などの消えうせるが如くなるものを、
何の天堂(天界)かあり、何の地獄かあらむと。
これは断見外道の所見にして、恐るべきの悪見なり。
昏愚、これより甚しきはなし。
仏教中には因果を信じ、来世あることを知り、
苦報を恐るるを以って、大智慧とす。

「邊鄙以知吾」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 
どの国でも聖職者は「僧侶」と呼ばれる。

日本で「僧侶」といえば、仏教のお坊さん。

そのお坊さんの印象は、だいたいこんなところ。

「お経をもごもごいう人」
「つるぴかの人」
「ありがたいのか生臭なのかよくわからない人」
「安あがりの拝み屋」
「坊主ぼろ儲け」

現代には、
二足のわらじをはいているお坊さんもいれば、刑に服するお坊さんもいる。
なんと、宗教を批判するはずの「マルクス主義」を信奉するお坊さんも多い。

世界的には、このような聖職者の姿勢は許されることではない。

かつては、聖職者が「魂の先在」を主張しただけで死刑になる時代もあったのだ。

信仰は、いのちがけである。

死を覚悟できない人間が、宗教などに関わるべきではない。

世界的には、ますます聖職者の責任と影響力は増すばかり。


日本のお坊さんは、
現代の印籠「平和と人権」を隠れ蓑にして、魂の問題から逃げているようにしか見えない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。