2008.09.04
無神論からの回心
『ナルニア国ものがたり』の著者であるイギリスの作家、
C・S・ルイス氏は、キリスト教神学者としても有名です。
彼は、近代合理主義に影響され、一度、無神論に陥りますが、
30歳ごろに回心体験を経験することになります。
その時の興味深い内面の葛藤を自叙伝より紹介します。
わたしが考えていた「神」や「霊」を真面目に信じていると、
全然新しい局面が展開するかも知れないという恐れがあった。
わたしはもはや哲学をもてあそぶことが許されない運命にあった。
わたしの「霊」がいろいろな点で「民衆の宗教の神」と異っているかも知れないと思った。
わが対戦者(神)は、そうした問題を顧みず、取るに足らぬこととして無視した。
論議しようとさえしなかった。ただこう言ったのである。
「わたしは主である。」「わたしはありてある者である。」「わたしは存在する。」
生来信仰心に篤い人たちは、
そうした啓示がいかに恐しいものであるかをなかなか理解できない。
愛想のよい不可知論者は、これを快活に「神についての人間の探求」だと評するだろう。
当時のわたしは、そんな風な言い方をされるよりも、
いっそ猫についての鼠の探求とでも言ってもらいたかった。
わたしは気狂いじみた望みだが、自分の魂は自分のものだと主張したかった。
それに楽しい思いをするよりも苦しみを避けることを切実に望んでいた。
なるべく負債を少くするように努めたのである。
超自然的な存在は、当初は禁制の酒のようなものだったが、
酒を飲みすぎた時とおなじで吐き気をもよおすようになった。
自分の哲学の方針に従って生きてゆこうとしても、
いろいろな思わぬ条件がついていることを知った。
世の道徳の理想を目標にしていれば、
耐えがたいほど苦しい目にあわないですむと思い、理知をはたらかすように努めた。
だが理想であったものが、厳しい命令に変った。
命令であれば、あれこれと詮議することができない。神はもちろん理性的な存在である。
しかし人間に対して没義道なことを要求しないだろうか。
それについてはどうとも言えなかった。
むしろ全面降伏、暗闇にむかってのひたすらな飛躍を求められた。
神は人間と安易な交渉をして取決めを結ぶような方ではなかった。
神が命ずることは、「すべてか無か」でさえなかった。
パスに乗っていて、わたしは鎧を脱ぎかけ、
自我の雪だるまが溶けはじめた時、新たな局面を迎えたのだと思う。
神の命令は、「すべてに賭けよ」というものであった。
わたしはモードリン学寮の個室にいて、一瞬仕事から気がそれた時、
こちらからは会いたいとは思わないのに、神がゆっくりと執拗にせまってくるのを感じた。
恐れていたことが、ついにやって来た。一九二九年の夏学期、わたしは降伏した。
神を神であると認め、ひざまずいて祈った。
その夜、英国中で最も意気上らぬ、不承不承納得した回心者だったろう。
その時のわたしは、旭日のように明々白々なことが理解できなかった。
その程度の回心者をもよしとし給う神の謙遜に思い及ばなかったのである。
放蕩息子が少くとも自分の足で家に帰った。
しかしもがいたり、あばれたり、憤慨したり、
何とか逃げだそうとして様子を伺ったりする放蕩息子を許して、
門を開く大いなる愛の神に対して、だれがそのことにふさわしい崇拝ができるだろうか。
神は人間に有無を言わさないということばが、つまらない人間に乱用されているので、
ぞっとする思いをしているが、これを正しく理解するならば、
そのことばは神の慈悲の深さを遺憾なく示している。
神の厳しさは、人間の優しさよりも情深い。
神が強制することは、人間の解放なのだから。
「喜びのおとずれ」
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C・S・ルイス氏は、キリスト教神学者としても有名です。
彼は、近代合理主義に影響され、一度、無神論に陥りますが、
30歳ごろに回心体験を経験することになります。
その時の興味深い内面の葛藤を自叙伝より紹介します。
わたしが考えていた「神」や「霊」を真面目に信じていると、
全然新しい局面が展開するかも知れないという恐れがあった。
わたしはもはや哲学をもてあそぶことが許されない運命にあった。
わたしの「霊」がいろいろな点で「民衆の宗教の神」と異っているかも知れないと思った。
わが対戦者(神)は、そうした問題を顧みず、取るに足らぬこととして無視した。
論議しようとさえしなかった。ただこう言ったのである。
「わたしは主である。」「わたしはありてある者である。」「わたしは存在する。」
生来信仰心に篤い人たちは、
そうした啓示がいかに恐しいものであるかをなかなか理解できない。
愛想のよい不可知論者は、これを快活に「神についての人間の探求」だと評するだろう。
当時のわたしは、そんな風な言い方をされるよりも、
いっそ猫についての鼠の探求とでも言ってもらいたかった。
わたしは気狂いじみた望みだが、自分の魂は自分のものだと主張したかった。
それに楽しい思いをするよりも苦しみを避けることを切実に望んでいた。
なるべく負債を少くするように努めたのである。
超自然的な存在は、当初は禁制の酒のようなものだったが、
酒を飲みすぎた時とおなじで吐き気をもよおすようになった。
自分の哲学の方針に従って生きてゆこうとしても、
いろいろな思わぬ条件がついていることを知った。
世の道徳の理想を目標にしていれば、
耐えがたいほど苦しい目にあわないですむと思い、理知をはたらかすように努めた。
だが理想であったものが、厳しい命令に変った。
命令であれば、あれこれと詮議することができない。神はもちろん理性的な存在である。
しかし人間に対して没義道なことを要求しないだろうか。
それについてはどうとも言えなかった。
むしろ全面降伏、暗闇にむかってのひたすらな飛躍を求められた。
神は人間と安易な交渉をして取決めを結ぶような方ではなかった。
神が命ずることは、「すべてか無か」でさえなかった。
パスに乗っていて、わたしは鎧を脱ぎかけ、
自我の雪だるまが溶けはじめた時、新たな局面を迎えたのだと思う。
神の命令は、「すべてに賭けよ」というものであった。
わたしはモードリン学寮の個室にいて、一瞬仕事から気がそれた時、
こちらからは会いたいとは思わないのに、神がゆっくりと執拗にせまってくるのを感じた。
恐れていたことが、ついにやって来た。一九二九年の夏学期、わたしは降伏した。
神を神であると認め、ひざまずいて祈った。
その夜、英国中で最も意気上らぬ、不承不承納得した回心者だったろう。
その時のわたしは、旭日のように明々白々なことが理解できなかった。
その程度の回心者をもよしとし給う神の謙遜に思い及ばなかったのである。
放蕩息子が少くとも自分の足で家に帰った。
しかしもがいたり、あばれたり、憤慨したり、
何とか逃げだそうとして様子を伺ったりする放蕩息子を許して、
門を開く大いなる愛の神に対して、だれがそのことにふさわしい崇拝ができるだろうか。
神は人間に有無を言わさないということばが、つまらない人間に乱用されているので、
ぞっとする思いをしているが、これを正しく理解するならば、
そのことばは神の慈悲の深さを遺憾なく示している。
神の厳しさは、人間の優しさよりも情深い。
神が強制することは、人間の解放なのだから。
「喜びのおとずれ」



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2008.08.07
内村鑑三の信仰
神なき近代日本において、
不屈の精神で、神の教えを説き続けた内村鑑三氏は、預言者エレミヤの再出でした。
非戦論をつらぬき、教会制度を批判し無教会主義を唱えるなど、
戦い続けた孤高の生涯をおくりました。
近代日本に、このような強烈な信仰心を持つ人物がいたのは驚きです。
私はまことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。
否、奇跡を信ぜずして、いかなる宗教も信ぜられません。
私はいまだ世に奇跡のない宗教のあるのを知りません。
しかるに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、あるいは理学宗とか、
あるいは倫理宗とか唱えて、奇跡のない宗教を造らんといたしまするが、
しかし、かかるものが宗教の用をなさないことは誰でも知っております。
私の考えまするに、奇跡を排斥しまするならば、
それと同時に宗教を排斥するべきであると思います。
奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら、
健康の幸福を説くの類であると思います。
奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、
宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。
奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。
奇跡の内容とは霊の活動であります。
もし霊なるものの実在を認めますならば、
奇跡はいやでも信じなければならなくなります。
霊そのものが天然以上のものであります。
またもし霊も天然の一部分であると言う人がありまするならば、
さらば奇跡もまた天然現象の一種でありまして、
これについて何の疑いをはさむの必要もなくなります。
もちろん、この事は哲学上の大問題であります。
自由意志を有する霊なるものありや否や、この問題を充分に討究せんとすれば、
スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、
その他の大哲学者をことごとく呼びきたらなければなりません。
しかしながら、これかならずしも大哲学者の判断を待たなければ、
解決のできない問題ではないと思います。
自由意志とは自由意志であります。すなわち外界何物の束縛をも受けずして、
その上に超然たるものであります。人はパンのみをもって生くる者ではない。
正義、真理、神、愛、これは全世界よりも尊いものである。
人が身を処するにあたって、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない。
霊には霊界の法則があって、
人はこの「自由の律法」に従ってのみ、さばかるる者であると。
これは自由の精神であります。自由意志を哲学的にどう説明しましょうとも、
自由とはかかるものであります。
そうして自由のあるところには奇跡をなし得るの力があります。
人が人たるの特権をふるう時に、彼は奇跡の可能力を疑いません。
彼が神の子たることを忘れて、たんに天然の子であるとのみ思う時に、
彼は奇跡の有無について彼の心思をひじょうに悩ますのであります。
奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、
自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。
奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。
世に愛にまさるの権能はありません。
そうして、そのまことに宇宙を動かすの能力なることを示さんために、
神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります。
「キリスト教問答」
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不屈の精神で、神の教えを説き続けた内村鑑三氏は、預言者エレミヤの再出でした。
非戦論をつらぬき、教会制度を批判し無教会主義を唱えるなど、
戦い続けた孤高の生涯をおくりました。
近代日本に、このような強烈な信仰心を持つ人物がいたのは驚きです。
私はまことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。
否、奇跡を信ぜずして、いかなる宗教も信ぜられません。
私はいまだ世に奇跡のない宗教のあるのを知りません。
しかるに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、あるいは理学宗とか、
あるいは倫理宗とか唱えて、奇跡のない宗教を造らんといたしまするが、
しかし、かかるものが宗教の用をなさないことは誰でも知っております。
私の考えまするに、奇跡を排斥しまするならば、
それと同時に宗教を排斥するべきであると思います。
奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら、
健康の幸福を説くの類であると思います。
奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、
宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。
奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。
奇跡の内容とは霊の活動であります。
もし霊なるものの実在を認めますならば、
奇跡はいやでも信じなければならなくなります。
霊そのものが天然以上のものであります。
またもし霊も天然の一部分であると言う人がありまするならば、
さらば奇跡もまた天然現象の一種でありまして、
これについて何の疑いをはさむの必要もなくなります。
もちろん、この事は哲学上の大問題であります。
自由意志を有する霊なるものありや否や、この問題を充分に討究せんとすれば、
スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、
その他の大哲学者をことごとく呼びきたらなければなりません。
しかしながら、これかならずしも大哲学者の判断を待たなければ、
解決のできない問題ではないと思います。
自由意志とは自由意志であります。すなわち外界何物の束縛をも受けずして、
その上に超然たるものであります。人はパンのみをもって生くる者ではない。
正義、真理、神、愛、これは全世界よりも尊いものである。
人が身を処するにあたって、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない。
霊には霊界の法則があって、
人はこの「自由の律法」に従ってのみ、さばかるる者であると。
これは自由の精神であります。自由意志を哲学的にどう説明しましょうとも、
自由とはかかるものであります。
そうして自由のあるところには奇跡をなし得るの力があります。
人が人たるの特権をふるう時に、彼は奇跡の可能力を疑いません。
彼が神の子たることを忘れて、たんに天然の子であるとのみ思う時に、
彼は奇跡の有無について彼の心思をひじょうに悩ますのであります。
奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、
自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。
奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。
世に愛にまさるの権能はありません。
そうして、そのまことに宇宙を動かすの能力なることを示さんために、
神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります。
「キリスト教問答」



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2008.07.16
ルターの影響力
マルティン・ルターは、16世紀に活躍したドイツの神学者です。
ルターは、
神は、教会や聖職者の専売特許ではなく、
民衆一人一人のものであるとして憤然と教会権力に立ち向かい、
神への信仰を強く説いて、聖書をドイツ語に翻訳するなどしてその普及につとめました。
また、ルターは妻を娶り家庭を持ち、肉食をし、普通の職業生活をしても、
神への信仰さえあれば、天国に帰れることを自らの身を持って示したのです。
ルターの宗教改革により神は民衆のものになりました。
また、国家も法も、神のくだした命令として神聖なものとなったのです。
ルターのなした仕事によって、
人間の営みの上に、神が宿ることが確約され、
人々は世俗の営みに邁進することが出来ました。
このことは、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」といわれるように、
文明の発展繁栄に大きく貢献しました。
キリストは、霊的な教えを説いて神の国と世俗を分けましたが、
宗教改革は、地上にも神の国を打ち立てるという霊界側の方向転換でありました。
その大きな役割を担ったルターは、七大天使長のミカエルの魂の兄弟であったのです。
日本でも、信仰を民衆のものにしようとする同じ流れが、
法然、親鸞、一遍、蓮如らによる浄土教の興隆としてありましたが、
彼らは皆、過去世において、キリストの使徒だったのです。
国家や民族を超越した霊天上界の壮大な計画には、驚かずにはおれません。
ちなみに、ルターは、
宗教改革時に、身のまわりで頻繁に不思議な騒音や物理現象がおこったため、
この現象を、霊が騒ぎ立てているのだろうと「ポルターガイスト」と命名したそうです。
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ルターは、
神は、教会や聖職者の専売特許ではなく、
民衆一人一人のものであるとして憤然と教会権力に立ち向かい、
神への信仰を強く説いて、聖書をドイツ語に翻訳するなどしてその普及につとめました。
また、ルターは妻を娶り家庭を持ち、肉食をし、普通の職業生活をしても、
神への信仰さえあれば、天国に帰れることを自らの身を持って示したのです。
ルターの宗教改革により神は民衆のものになりました。
また、国家も法も、神のくだした命令として神聖なものとなったのです。
ルターのなした仕事によって、
人間の営みの上に、神が宿ることが確約され、
人々は世俗の営みに邁進することが出来ました。
このことは、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」といわれるように、
文明の発展繁栄に大きく貢献しました。
キリストは、霊的な教えを説いて神の国と世俗を分けましたが、
宗教改革は、地上にも神の国を打ち立てるという霊界側の方向転換でありました。
その大きな役割を担ったルターは、七大天使長のミカエルの魂の兄弟であったのです。
日本でも、信仰を民衆のものにしようとする同じ流れが、
法然、親鸞、一遍、蓮如らによる浄土教の興隆としてありましたが、
彼らは皆、過去世において、キリストの使徒だったのです。
国家や民族を超越した霊天上界の壮大な計画には、驚かずにはおれません。
ちなみに、ルターは、
宗教改革時に、身のまわりで頻繁に不思議な騒音や物理現象がおこったため、
この現象を、霊が騒ぎ立てているのだろうと「ポルターガイスト」と命名したそうです。



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2008.06.29
あの世の実在
鈴木秀子氏は、カトリックの聖心会会員であり、
聖心女子大学の教授を経て、
国際コミュニオン学会をたちあげ、愛と癒しの活動をされています。
その著書では、
仏教にも正当な評価を与えつつ、
自らの臨死体験によって確信した死後の世界の実在が主張されています。
彼女の宗派に捉われない姿勢には、
僧侶が見習うべきところがたくさんあります。
死後の世界など無い、と言って通用する時代は終りました。
そう言えば、こんな本が出てました。
来世をどう説くかなど、ためらう必要はありません。
二〇世紀の後半に至って、臨死体験という言葉が生まれ、
その存在が科学的に研究されたことで、
想像以上に多くの臨死体験例が存在することが明らかになりました。
そして臨死体験例は、以前より増加しているようにわたしは思います。
臨死体験者が増加し、それが世界的に注目を集めるようになったという事実には、
重要な意味があると思います。
それは、「死後を思い悩むな」という啓示だろうとわたしは思っています。
死んだらすばらしいところへ行くんだということを知り、
死を楽しみにできるほうが、幸せな人生を生きることができます。
死への不安で、今、与えられている命を汚染するというのはもったいないことです。
臨死体験は、現代人に、「生に執着し、未来について思い悩む必要がない」、
ということを教えてくれているのではないでしょうか。
死について思い煩うと、人は、漠然とした不安にかられ、
それが、貧困の不安、病気の不安、人間関係への不安などに結びついていきます。
今ある幸福をしっかり味わうこともできず、
今やるべきことに集中することもできなくなるのです。
しかも死を恐ろしいものととらえ、
人は必ず死ぬという現実を無視しようとすれば、
目の前の楽しさだけを追い求めることになります。
しかしもし、あなたが、魂は永遠に生きつづけるのであり、
死によって、何も終わらず、何も妨げられないということを信じることができれば、
今が一番大切であることが分かるはずです。
目前の楽しさにだけ目を奪われることなく、愛と真理のために、
しっかり腰を据ていくことができるようになるのです。
臨死体験が教えてくれるのは、わたしたちが、
「この世」で生きる知恵と言えるのではないでしょうか。
「生かされる理由」
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聖心女子大学の教授を経て、
国際コミュニオン学会をたちあげ、愛と癒しの活動をされています。
その著書では、
仏教にも正当な評価を与えつつ、
自らの臨死体験によって確信した死後の世界の実在が主張されています。
彼女の宗派に捉われない姿勢には、
僧侶が見習うべきところがたくさんあります。
死後の世界など無い、と言って通用する時代は終りました。
そう言えば、こんな本が出てました。
『 来世をどう説くか ― 教化のための現代往生論 』
中野東禅◆藤井正雄◆山崎龍明監修
A4 341頁 15,750円 四季社
仏教での「来世」について思想や概念がどのような比喩、
例話等をもって説かれているのかを様々な角度から解説した書。
【目次】
・序 「来世」を言語化しよう
・第一章 「来世・死後・再生」の問題整理
・第二章 仏教各宗派の来世観
・第三章 「来世をどう説くか」シンポジウム ほか
来世をどう説くかなど、ためらう必要はありません。
二〇世紀の後半に至って、臨死体験という言葉が生まれ、
その存在が科学的に研究されたことで、
想像以上に多くの臨死体験例が存在することが明らかになりました。
そして臨死体験例は、以前より増加しているようにわたしは思います。
臨死体験者が増加し、それが世界的に注目を集めるようになったという事実には、
重要な意味があると思います。
それは、「死後を思い悩むな」という啓示だろうとわたしは思っています。
死んだらすばらしいところへ行くんだということを知り、
死を楽しみにできるほうが、幸せな人生を生きることができます。
死への不安で、今、与えられている命を汚染するというのはもったいないことです。
臨死体験は、現代人に、「生に執着し、未来について思い悩む必要がない」、
ということを教えてくれているのではないでしょうか。
死について思い煩うと、人は、漠然とした不安にかられ、
それが、貧困の不安、病気の不安、人間関係への不安などに結びついていきます。
今ある幸福をしっかり味わうこともできず、
今やるべきことに集中することもできなくなるのです。
しかも死を恐ろしいものととらえ、
人は必ず死ぬという現実を無視しようとすれば、
目の前の楽しさだけを追い求めることになります。
しかしもし、あなたが、魂は永遠に生きつづけるのであり、
死によって、何も終わらず、何も妨げられないということを信じることができれば、
今が一番大切であることが分かるはずです。
目前の楽しさにだけ目を奪われることなく、愛と真理のために、
しっかり腰を据ていくことができるようになるのです。
臨死体験が教えてくれるのは、わたしたちが、
「この世」で生きる知恵と言えるのではないでしょうか。
「生かされる理由」



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2008.06.22
神の名
英語圏の人々が、
驚いた時や自分の感情を対処しきれない時に、反射的にだす言葉は、
「Oh my god!」です。
言うまでもなく、神にすがっています。
これは、慣用句だからというよりも、
反射反応であるから、本音なのです。
やはり、キリスト教の影響力は絶大です。
私達日本人ならば、どうでしょうか?
現代人ならば、「ビックリしたー。」とか、「助けてー。」となります。
しかし、すこし前の日本人ならば、
「くわばら、くわばら。」、「なまんだぶつ。」、だったのです。
とっさの時に、神仏の名がでるかでないか?
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驚いた時や自分の感情を対処しきれない時に、反射的にだす言葉は、
「Oh my god!」です。
言うまでもなく、神にすがっています。
これは、慣用句だからというよりも、
反射反応であるから、本音なのです。
やはり、キリスト教の影響力は絶大です。
私達日本人ならば、どうでしょうか?
現代人ならば、「ビックリしたー。」とか、「助けてー。」となります。
しかし、すこし前の日本人ならば、
「くわばら、くわばら。」、「なまんだぶつ。」、だったのです。
とっさの時に、神仏の名がでるかでないか?



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2008.06.01
サンダー・シングの教え
サンダー・シングは、
スウェーデンボルグと並び、霊界の二大巨星と称されるキリスト者です。
彼は、19世紀後半の北インドに生まれ、
敬虔なヒンドゥー教徒である母のもとで宗教教育を受けて育ちます。
幼少のころから、ウパニシャッド、コーラン、ヴェーダを学び、ヨガ、瞑想を実践しました。
しかし、どのような宗教修行を重ねても心の平和を得ることができず、
ある時、
「神よ、もし本当にいるのなら、
わたしに正しい道を示してください。さもなくば、自殺します。」
と、死を決して祈ります。
そしてついに、
彼の前にあらわれた神は、インドの神々ではなく、なんとイエス・キリストだったのです。
以後、彼はクリスチャンとして、キリストに生涯を捧げます。
二度に渡る世界伝道の後は、
静かな環境に隠遁し、霊的啓示を受けて7冊の書物を執筆しています。
彼はこう教えています。
霊界下層の存在者たちは、
末来について少しは知っていても、それほどは知らない。
インド人が二、三週間先の天候を予測できるように、
低い霊は事物の傾向をよく知っているので、少し先のことなら予言ができる。
それによって人を欺くのだ。
神の霊感を受けた真の預言者は、遠い未来のことまで預言できる。
そこに違いがある。心霊家たちが接触するのは、このような低い世界の霊たちである。
心霊家は、彼らから興味深い情報を受け取るが、
霊たちは初め、九九パーセント正しいことを告げ、一パーセントの偽りをいう。
次に、徐々に偽りの割合を増やしてゆき、真実を減らし、
こうして、人々は無神論か邪教に導き込まれる。
真に霊的な人間は、これら悪霊が吹き込む話に本能的に異和感を覚える。
好奇心をかき立てる情報ばかりを求めていれば、
けっして高い霊界に辿り着くことはできない。
死に際して、霊魂は死にもしなければ、どこか遠い場所に飛び去るのでもない。
死を通して、霊魂は新しい生命を開始し、新しい状態に入るのである。
母の胎から生まれ出た赤子は新しい状態に入ることによって新生命を開始するが、
赤ん坊の生きている世界あるいは場所そのものは変わらないように、
肉体を脱ぎ捨てる霊魂ははるかによい霊的状態に入るが、
それが生きている世界は同じままである。
母の胎内にいる赤ん坊も、体の中にある霊魂も、
未来の状況については知らずにいる。目から隠されているからだ。
生まれ出た赤ん坊は自分の元いた子宮をみることはできない。
体から出た霊魂もまた、幾つか例外はあっても、自分の元いた物質界をみることはない。
霊魂は常に霊界の中に生き、
物質界は霊界に包み込まれた粗雑な物質にすぎないからである。
子が臍の緒を断ち切ることによって母親の子宮から分離するように、
霊魂は銀の紐を切ることによって体から自由になる。
子にとっての母の子宮、魂にとっての肉体は、末来への準備の場所である。
魂は体から離れて、真の運命と完成を得られる神の御前に移る。
人の霊が体内に留まっているのは、卵の殻の中にいる雛に似ている。
あらゆる種類の実と花、川や山々のある広大な世界が外にあり、母鳥もそこにいて、
殻から抜け出せばそれがすべてみえるのだと、
中にいる雛に教えることができたとしても、
雛はそれを理解もしないし信じることもできないであろう。
今や使うばかりになっている翼と目でもってその世界をみ、
飛ぶことができるのだと教えてやっても、
雛が実際に殻から出てくるまでは、それを信じることも証拠立てることもできない。
それと同じように、この殻のような肉体を超えてみることができず、
弱々しい翼のような彼らの思いも、頭脳という狭い限界を超えることができないために、
来世についても、神の存在についても確信できずにいる者が多い。
彼らの弱い目は、神を愛する者のために神がお備えくださった永遠の、
消えることなき宝を発見することができない。
この永遠の生命を得るのに必要なことは、この体に留まっているうちに、
雛が母鳥から受けとるあの生命を与えてくれる熱を、
信仰によって聖霊から受けとることである。
さもなければ、死と永遠の損失をみる危険がある。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スウェーデンボルグと並び、霊界の二大巨星と称されるキリスト者です。
彼は、19世紀後半の北インドに生まれ、
敬虔なヒンドゥー教徒である母のもとで宗教教育を受けて育ちます。
幼少のころから、ウパニシャッド、コーラン、ヴェーダを学び、ヨガ、瞑想を実践しました。
しかし、どのような宗教修行を重ねても心の平和を得ることができず、
ある時、
「神よ、もし本当にいるのなら、
わたしに正しい道を示してください。さもなくば、自殺します。」
と、死を決して祈ります。
そしてついに、
彼の前にあらわれた神は、インドの神々ではなく、なんとイエス・キリストだったのです。
以後、彼はクリスチャンとして、キリストに生涯を捧げます。
二度に渡る世界伝道の後は、
静かな環境に隠遁し、霊的啓示を受けて7冊の書物を執筆しています。
彼はこう教えています。
霊界下層の存在者たちは、
末来について少しは知っていても、それほどは知らない。
インド人が二、三週間先の天候を予測できるように、
低い霊は事物の傾向をよく知っているので、少し先のことなら予言ができる。
それによって人を欺くのだ。
神の霊感を受けた真の預言者は、遠い未来のことまで預言できる。
そこに違いがある。心霊家たちが接触するのは、このような低い世界の霊たちである。
心霊家は、彼らから興味深い情報を受け取るが、
霊たちは初め、九九パーセント正しいことを告げ、一パーセントの偽りをいう。
次に、徐々に偽りの割合を増やしてゆき、真実を減らし、
こうして、人々は無神論か邪教に導き込まれる。
真に霊的な人間は、これら悪霊が吹き込む話に本能的に異和感を覚える。
好奇心をかき立てる情報ばかりを求めていれば、
けっして高い霊界に辿り着くことはできない。
死に際して、霊魂は死にもしなければ、どこか遠い場所に飛び去るのでもない。
死を通して、霊魂は新しい生命を開始し、新しい状態に入るのである。
母の胎から生まれ出た赤子は新しい状態に入ることによって新生命を開始するが、
赤ん坊の生きている世界あるいは場所そのものは変わらないように、
肉体を脱ぎ捨てる霊魂ははるかによい霊的状態に入るが、
それが生きている世界は同じままである。
母の胎内にいる赤ん坊も、体の中にある霊魂も、
未来の状況については知らずにいる。目から隠されているからだ。
生まれ出た赤ん坊は自分の元いた子宮をみることはできない。
体から出た霊魂もまた、幾つか例外はあっても、自分の元いた物質界をみることはない。
霊魂は常に霊界の中に生き、
物質界は霊界に包み込まれた粗雑な物質にすぎないからである。
子が臍の緒を断ち切ることによって母親の子宮から分離するように、
霊魂は銀の紐を切ることによって体から自由になる。
子にとっての母の子宮、魂にとっての肉体は、末来への準備の場所である。
魂は体から離れて、真の運命と完成を得られる神の御前に移る。
人の霊が体内に留まっているのは、卵の殻の中にいる雛に似ている。
あらゆる種類の実と花、川や山々のある広大な世界が外にあり、母鳥もそこにいて、
殻から抜け出せばそれがすべてみえるのだと、
中にいる雛に教えることができたとしても、
雛はそれを理解もしないし信じることもできないであろう。
今や使うばかりになっている翼と目でもってその世界をみ、
飛ぶことができるのだと教えてやっても、
雛が実際に殻から出てくるまでは、それを信じることも証拠立てることもできない。
それと同じように、この殻のような肉体を超えてみることができず、
弱々しい翼のような彼らの思いも、頭脳という狭い限界を超えることができないために、
来世についても、神の存在についても確信できずにいる者が多い。
彼らの弱い目は、神を愛する者のために神がお備えくださった永遠の、
消えることなき宝を発見することができない。
この永遠の生命を得るのに必要なことは、この体に留まっているうちに、
雛が母鳥から受けとるあの生命を与えてくれる熱を、
信仰によって聖霊から受けとることである。
さもなければ、死と永遠の損失をみる危険がある。



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2008.05.10
平和の祈り
焦らず、前に一歩一歩進もう。
何事にも喜べず、感謝など出来ない時もある。
感動や発見もなく、ただ時間だけが過ぎてしまうような日もある。
自分にはこれ以上、愛を与えることなど出来ないと嘆息することもある。
時には、不幸な現象が重なり、少しだけ神を疑ってしまうこともある。
そんな時は、内なる光を強く灯そう。
そして、神に祈ろう。
神よ、わたしを、
あなたの平和を実らせるために、用いてください。
わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、
また、争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。
わたしたちは、
自分を与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。
「平和の祈り」聖フランシスコ
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何事にも喜べず、感謝など出来ない時もある。
感動や発見もなく、ただ時間だけが過ぎてしまうような日もある。
自分にはこれ以上、愛を与えることなど出来ないと嘆息することもある。
時には、不幸な現象が重なり、少しだけ神を疑ってしまうこともある。
そんな時は、内なる光を強く灯そう。
そして、神に祈ろう。
神よ、わたしを、
あなたの平和を実らせるために、用いてください。
わたしが、憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、
また、争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。
神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。
わたしたちは、
自分を与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。
「平和の祈り」聖フランシスコ



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2008.05.05
全託の精神
前出のライファー氏の教えです。
人間にとって最も必要なことは自分自身を素直にすることです。
赤ん坊のように素直な心になってから、
神への全的降伏が『譲り渡し』の形で現れて来るのです。
その状態になって始めて、真に無我全托と言い得るのです。
人間はその時、白紙の状態になります。
虚栄心も、自己欺嚇も、見せかけの心も、
すべてこうした暗い、つぎはぎの心は無くなってしまうのです。
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人間にとって最も必要なことは自分自身を素直にすることです。
赤ん坊のように素直な心になってから、
神への全的降伏が『譲り渡し』の形で現れて来るのです。
その状態になって始めて、真に無我全托と言い得るのです。
人間はその時、白紙の状態になります。
虚栄心も、自己欺嚇も、見せかけの心も、
すべてこうした暗い、つぎはぎの心は無くなってしまうのです。



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2008.05.04
スター・デーリーの回心
かつて、アメリカにスター・デーリーという人物がいました。
極悪非道ぶりで有名で、因人となってからも二度も破獄を企てます。
そんな彼は、悔い改めの為に地下牢に吊るされることになります。
しかし、彼は赦しを請うことをせず、強情にも15日間も耐え続けるのです。
そして、気を失ってしまいます。
意識を取り戻した彼の前には、なんとキリストが立っているのです。
「彼は私の方へ近づいて来た。彼の唇は動いている。
しかし言葉はきこえない。彼は私の側に来た。
そして私を見下した。そして深く私の眼に見入ったのである。
それはまるで私の魂深く貫き通るような慈愛の眼であった。
自分は未だかつて人間の眼で、
彼の眼に輝いているような、そんな深い愛を見たことがなかった。
愛の虜となってわけもなく、
まったくそのところにひざまずいてしまった私をはじめて私は見出した。
私はこの夢の中のある神秘的な感覚によって、
私が『実在』の世界の中に浸されていることを知ったのである。
永遠に、久遠に、私の生命に力を与えているアルモノを私は見たのである。」
と後に語っています。
回心後の彼は、神の導きにより、ライファーという老囚人と出会うこととなります。
ライファーは、キリスト教の深い霊的意味を理解しており、
その言葉で多くの因人達を救っている、驚くべき人物です。
ライファーは言います。
愛のない説教は未だかつて一人の魂を救ったことはないし、
これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ。
人を愛するということは、人を知るということである。
人を知るということは彼を助け、癒すことが出来るということである。
このようにして神は、愛を通してその癒す力を働かせ給うのである。
愛は決して失敗しない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。
愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。
憎しみにみたされたる無神論者も、知識や智慧は持ち得るのであるが、
それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえもある意味では信仰をもち、不屈の信条をもっている。
しかし、それには真の癒しのカも、聖句を解釈する真の力もない。
真の宗教か否かの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂をもっているかどうかの問題である。
神の愛と人の愛とを持っているかどうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである。
スター・デーリーは、監獄の中で180度の転身を遂げ、神の使者となりました。
出獄後は、「愛は刑よりも強し」などの本を記し、講演活動で各地を飛び回ります。
昭和29年には、日本にも来て講演しています。
彼は、どのような罪を犯した人間でも、回心して神に愛されることが出来るのだ、
ということを身をもって証明したのです。
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極悪非道ぶりで有名で、因人となってからも二度も破獄を企てます。
そんな彼は、悔い改めの為に地下牢に吊るされることになります。
しかし、彼は赦しを請うことをせず、強情にも15日間も耐え続けるのです。
そして、気を失ってしまいます。
意識を取り戻した彼の前には、なんとキリストが立っているのです。
「彼は私の方へ近づいて来た。彼の唇は動いている。
しかし言葉はきこえない。彼は私の側に来た。
そして私を見下した。そして深く私の眼に見入ったのである。
それはまるで私の魂深く貫き通るような慈愛の眼であった。
自分は未だかつて人間の眼で、
彼の眼に輝いているような、そんな深い愛を見たことがなかった。
愛の虜となってわけもなく、
まったくそのところにひざまずいてしまった私をはじめて私は見出した。
私はこの夢の中のある神秘的な感覚によって、
私が『実在』の世界の中に浸されていることを知ったのである。
永遠に、久遠に、私の生命に力を与えているアルモノを私は見たのである。」
と後に語っています。
回心後の彼は、神の導きにより、ライファーという老囚人と出会うこととなります。
ライファーは、キリスト教の深い霊的意味を理解しており、
その言葉で多くの因人達を救っている、驚くべき人物です。
ライファーは言います。
愛のない説教は未だかつて一人の魂を救ったことはないし、
これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ。
人を愛するということは、人を知るということである。
人を知るということは彼を助け、癒すことが出来るということである。
このようにして神は、愛を通してその癒す力を働かせ給うのである。
愛は決して失敗しない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。
愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。
憎しみにみたされたる無神論者も、知識や智慧は持ち得るのであるが、
それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえもある意味では信仰をもち、不屈の信条をもっている。
しかし、それには真の癒しのカも、聖句を解釈する真の力もない。
真の宗教か否かの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂をもっているかどうかの問題である。
神の愛と人の愛とを持っているかどうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである。
スター・デーリーは、監獄の中で180度の転身を遂げ、神の使者となりました。
出獄後は、「愛は刑よりも強し」などの本を記し、講演活動で各地を飛び回ります。
昭和29年には、日本にも来て講演しています。
彼は、どのような罪を犯した人間でも、回心して神に愛されることが出来るのだ、
ということを身をもって証明したのです。



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2008.04.06
ニューエイジとの対話
伝統的なキリスト教界は、
ニューエイジに対しては警戒をしています。
しかし、ネットで調べていると、
キリスト教の牧師さんのなかに、
ニューエイジとの間の仲介に努めている宣教師さんがいるようです。
その方は、
「ニューエイジ運動は、教会で欠けているものに関する鏡である。
それは魂にだけでなく、全人的な幸せにも配慮するバランスの取れた霊性だ。」
と言っておられます。
僧侶も見習う必要がありまね。
私も精進いたします。
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ニューエイジに対しては警戒をしています。
しかし、ネットで調べていると、
キリスト教の牧師さんのなかに、
ニューエイジとの間の仲介に努めている宣教師さんがいるようです。
その方は、
「ニューエイジ運動は、教会で欠けているものに関する鏡である。
それは魂にだけでなく、全人的な幸せにも配慮するバランスの取れた霊性だ。」
と言っておられます。
僧侶も見習う必要がありまね。
私も精進いたします。



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