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血液循環説を最初に唱えたことでも有名な、
神学者・医学者・人文学者のミカエル・セルヴェトゥスは、
独創的な三位一体説を唱えて、教会勢力から異端とされ、
同時期の宗教改革者ジャン・カルバンによって火刑に処せられています。

セルヴェトゥスの名誉が回復されるには、400年という長い歳月を必要としました。

しかし現在では、彼の説はニューソート思想の源流であったとも評価されています。

その三位一体説とはこのようなものです。




宇宙―コスモス―は、
そのうちで諸人格ないし諸部分への分割が不可能である全在の神、
すなわち普遍的で遍在的な神として認められるべきである。
神は単一である。
神はあらゆる存在と同一である。
しかしこの広大な実在は、
それ自身を三つの面のうえに、三つの顕現によって、三つの位相において表現する。
父として、神は宇宙の実体を構成し、
聖言ないし子として、全宇宙を通じて発現するエネルギーすなわち創造力を構成し、
そして聖霊として、
それなしではどんな生命もその充実を探求しえない、光ないし照明を構成する。
根本的に、このすべては善であり慈悲深い。
この三つの位相は完全なものとして宇宙に存在する。
すなわち、この三つの位相は、生気に満ちたものであれ生気のないものであれ、
宇宙内のあらゆる生きもののうちに、歩き、飛び、泳ぎ、這うあらゆる生物のうちに、
あらゆる木、花、灌木のうちに、事実、あらゆる砂粒のうちにさえ存在する。
人間がその本性を得ているのは、すべての存在を活性化するこの「中心の力」からである。
宇宙とそのうちにあるいっさいのものは神であり、
そこにあるすべてのものは、
この神々しい源泉の表現であるがゆえに、人間もまた神聖である。




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2009.03.14 愛の教え
愛の大家であるイエスさまの「山上の垂訓」の前には、頭を垂れるしかありません。

本当の愛とは、かくも厳しいものなのです。




心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人たちは幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。
大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の予言者たちも、同じように迫害されたのである。

あなたがたも聞いているとおり、
「目には目を、歯には歯を」と命じられている。
しかしわたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、いっしょに2ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。
あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

あなたがたも聞いているとおり、
「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかしわたしは言っておく。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなた方の天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはならない。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きなのだ。
まことに、あなたがたに告ぐ。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのだ。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。
そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはならない。
彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのだ。
だから、彼らのまねをしてはならない。
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
「天におられるわたしたちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を許してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を許しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

もし人の過ちを許すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお許しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたはなおさらのことではないか。
信仰の薄い者たちよ。
だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤では量り与えられる。
あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、「あなたの目のおがくずを取らせてください」と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。
神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

求めなさい、そうすれば、与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門をたたきなさい、そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つかり、門をたたく者は開かれる。
あなたがたのだれが、パンをほしがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚をほしがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。

狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。

偽預言者を警戒しなさい。
彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である。
あなたがたはその実で彼らを見分ける。
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
すべて良い木には良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

わたしに向かって「主よ、主よ」というものが皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

かの日には、大勢の者がわたしに、
「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、
御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか!」と言うであろう。
そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。
「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」





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2009.03.06 ロゴス
ロゴスには、「言葉」という意味の他に、
「宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法」、
という意味があります。

宗教的には、ロゴスは創造神と同一であり、
また、神の言葉として顕現した摂理です。

宇宙創造の最初にあったのは、「かくあれ」という作り手の想いです。

そして、その想いは、愛なのです。


初めロゴスありき。
ロゴスは神と共にあった。
ロゴスは神であった。
このロゴスは初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
このロゴスには命があった。
そしてこの命は人を照らす光であった。
光は闇の中に輝いている。
そして、闇はこれに勝たなかった。


「ヨハネによる福音書」




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2008.12.24 愛は不滅
憎しみを捨て、愛をとれ。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛しあいなさい。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
また、隣人を自分のように愛しなさい。

わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである。



2000年以上たってなお、
世の光であり、道であり、真理であり、命であるイエス様の愛は生き続けています。

メリークリスマス。




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2008.11.27 イエスと瞑想
瞑想は何の為に行うのか、どういう意義があるのか、
という問いに現代の唯脳論的立場からは、答えることは出来ません。

ヨガも禅定もメディテーションも霊的成長には不可欠な行です。

仏教でもキリスト教でも、それは同じことなのです。




キリスト教徒であっても、神に達したいと願う探求者であれば、
仏教徒とほとんど変わるところはありません。
どちらも、その人自身の意識へと導かれています。
しかし、イエスの置かれている文化的背景は、
ブッダの場合のような瞑想の伝統ではありませんでした。
イエスは、祈り、信仰、認識を強調しました。
聖書の中には、イエスが弟子たちを瞑想の実践に導いた証拠はありません。
ユダヤ教の伝統と調和するのは、むしろ礼拝の方でした。
しかし、イエスを「伝統的人間」というふうに描いてしまうと、イエスがたびたび、
「神がどこにいるか知っている」と言う者たちを叱責しているのを無視することになります。
イエスの見るところ、
「神がどこにいるかは神秘であって、知的に考えているだけでは知り得ない」のです。
これは「悟り」と調和します。
悟りとは、単に内面的でも外面的でもなく、その両方であるような変容のことです。
こうした変容においては、現実を「こちら」と「あちら」に分かつ境界線は曖昧となり、
ぼやけ、最終的には消滅します。
現実が二元性から統一性へと変わるのです。
これが起こると、内面的事象と外的事象との関係が根本的に変化します。
結局のところ、奇跡とは精神の意図に従属させられた外界にほかなりません。
イエスを導師(グル)の同類と見なすことは可能でしょうか?
この見方には、確かに心を動かすものがあります。
内的変容に関する最も詳細な知識はインドに生まれ、
イエスの何千年も前まで遡る歴史を有しているからです。
イエスの思想とヴェーダの伝統を関連づける研究もあります。
また、イエスがインドを訪れていた、
あるいはインドの商人と接触をもっていた可能性を指摘する見解もたくさん存在します。
内面生活についてのイエスの教えははっきりしません。
福音書記者はこの領域に広大な空白を残しました。
彼らと初期教会の教父たちのおかげで、そのあとキリスト教は、
自己変容より礼拝を、瞑想より祈りを、内面的成長より信仰を重視することになりました。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。
イエスはこう明言します。
「普通の人が天の国に入るためには、ある種の内面的な大変革が生じる必要がある」と。


ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」




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2008.11.25 神への道
西洋文化はイエスの教えを規範としてきました。

その愛の精神は、普遍性がある故に、
現在でも、キリスト教徒は全世界に20億人いるといわれています。

仏教徒はどうして、人間イエスを正当に評価することが出来ないのでしょう。

神への道は、悟りへの道であり、神にとっては西洋も東洋もないのです。




二つのヴァージョンのイエス―大ざっぱにしかわからない歴史的人物と、
抽象的な神学的創作物―は、わたしにとって悲しむべき性格のものです。
なぜなら、それらはある大切なものを奪ってしまっているとわたしは思うからです。
その大事なものとは、人々に「神の意識」への到達の仕方を教えたイエスです。
自ら述べていたように、
イエスが本当にひとりの救い主であった可能性をわたしは指摘したいと思います。
唯一の救い主、唯一無二の神の子ではありません。
むしろイエスは、最高レベルの悟りを体現したのでした。
彼はそれを述べ、それを教え、それを将来の世代に伝えることに、
成年後の短い人生を費やしたのでした。
イエスは、人々に「神の意識」への道を示すことによって、世界を救おうとしたのです。

ブッダの言葉に「わたしを見る者はわたしの教えを見る」というのがあります。
同じことがイエスにも言えました。
彼は「キリストの意識」の内に生きていました。
彼の教えは、自分自身の「自覚」から直接発せられていたのです。
イエスはわたしたちに、悟りへの道を示すことができました。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ、5・48)

悟りと意識の開発とは、キリスト教の概念ではなく、
東洋の概念であると考えられています。
インドでは、大勢のグルや霊的指導者が、
一般の人々に悟りにいたる方法を教えようとしてきました。
しかし、霊性を東洋と西洋に分かつのは偏狭な地方根性にほかなりません。
インド人は、外からやって来て古代のヴェーダの教えの最良の部分をかすめ取り、
ヨーガを週末のエクササイズ教室に変えてしまうよそ者を軽蔑します。
西洋人は、外からやって来てイエスを神の唯一の子と見なさず、
ブッダやムハンマドと同類の教師と称するよそ者を軽蔑します。
ひとたび教条的なカトリック教やヒンドゥー教の枠の外に出ると、
両者に重大な欠陥があることがわかります。
意識は普遍的です。
「神の意識」というものがあるとすれば、それから排除される人はひとりもありません。
同じように、「神の意識」の独占を図ることはできません。
イエスが最高の悟りに到達していたとしても、
なぜ彼はこの点に関して唯一無二の存在でなければならないのでしょうか? 
ブッダもイエスと同列にあるかもしれません(何億もの信者がそのように信じています)。
明らかに、イエスは自分自身について地方根性的な見方をしていませんでした。
ひとりのユダヤ人であり、ひとりの教師ではありましたが、
彼は自分を普遍的な観点からとらえていました。
実際、彼は、自らの出現を世界史における最も重要な出来事―その意義は、
人類の時間ではなく、神の時間においてのみ評価され得る―と見なしておりました。
イエスは時間を超越して思考しました。
そして二千年ののち、彼は自ら意図したとおりに、わたしたちの同時代人として存在しています。


ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」




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2008.11.06 説教について
神学部を卒業し、由緒ある大教会の牧師として説教を重ねてきたエマソンは、
「立派な牧師となるためには、牧師という職を辞さなければならない」として、
わずか三年半の在任期間で牧師職を辞めてしまいます。

しかし、その後も超絶主義者として、説教を続け、
「アメリカのルネサンス」とも言われる精神改革を成し遂げます。

エマソンは、牧師を辞任してからも、説教壇上の人でありました。

そのエマソンは、
自らも卒業したハーバード大学神学部の最上級生に、何と「説教」について説教しています。

この説教は、後に大変な論争を呼びました。

説教は、仏教でも大切な伝道行為であり、
愚僧も説教をしますが、これを読むと自分の説教が恥かしくなります。


奇蹟によって人を改心させようとすることは、魂の冒涜である。
真の改心をして、真のキリストとなることは、現在でもいつの時代でも、
美しい感情を受け入れることによってなさるべきである。
一般の人びとにとり、世界は、イエスのために存在しているように思われる。
そして彼らは、まだイエスの教えの意味を十分にのみ込んでいないので、
自分に、あるいは自分のなかの神に、立ち帰ることによって、
初めて永遠に成長してゆくことができるということがわかっていない。
何かを与えられることは、低い恩恵である。
自分で何かをする力を与えられることは、高い恩恵である。
魂に対する神の賜は、自分を誇り他を圧倒する、排他的な神聖さではなくして、
やさしい生来の善良な心、われわれが持っているような善良な心であり、
神の賜は、このわれわれの善良な心を持ち、成長するように、
励ますものであるということが、すべての人びとにわかる時が近づいている。
説教の俗悪な調子がいかに不法なものであるかは、
説教によって冒涜される魂にとってはもちろん、イエスにとっても歴然とした事実である。
説教者たちは、彼らがイエスの福音を喜ばしくないものとし、
イエスから、その美しい頭髪を刈り取り、天国の特質を奪い取っていることがわかっていない。

人びとは啓示について、まるで神は死んでいるかのように、
ずっと昔に与えられて、もう終ってしまったものとして口にするようになっている。
説教者が、信仰を害うようなことをいえば、彼は息の根を止められてしまい、
もっとも優れた団体である教会は不確かな不明瞭な声しか聞かれないところとなる。
精神だけが、教えることができる。
神を冒涜する者、肉欲に耽る者、嘘をつく者、
奴隷のようなものは、誰も、教えることができない。
ただ、持っている者が、与えることができ、存在する者が、創造することができる。
魂が上より降り、魂がその人を通して語る人にして初めて、教えることができる。
勇気、憐憫、愛情、知恵は教える力を持つ。
あらゆる人は、これらの天使に向って、その扉をあけることができる。
そうすると天使たちは、彼に言葉の賜を持ってくるであろう。
しかし書物に教えられたり、宗教会議の手先となったり、流行に導かれたりするままに、
また利害の命ずるままに、語ろうと志す人は、饒舌を弄する。
彼を黙らせなくてはならない。

われわれの教会の飢饉に対して、
すべての思慮ある人びとは、こころのつぶやきを抑えかねている。
また道徳性を培うことによってのみ与えられる慰安と希望と尊厳とを、
奪われていることを、彼らは嘆いているが、怠惰の眠りより目覚め、
千篇一律の日常生活の騒音を打ち破って、このつぶやきと嘆きの声を、
世間の人びとにきかすべき時が来ている。
説教者のこの偉大な永遠の務めは、果されていない。
説教とは道徳心を、いかにして人生の義務に対して用いるべきかを語るものである。
どれだけの教会のなかで、どれだけの預言者によって、
人びとは自分が無限の「魂」であって天地が彼の心のなかに入って来て、
彼が永久に神の魂を飲むものであることを、教えられているであろうか。
どこで、今、説教の声が高鳴り、その調べにより私の心を楽園につれ行き、
そうしてこの説教が天国より出たものであることをあかしているであろうか。
昔、人びとを誘ってすべてのものを、
父母、家、国、妻子を捨てて従わしめたあの言葉は、どこに聞こえているのであろうか。
私はどこで、道徳性に関するこの厳かな法則が、私の耳一杯に告げられるのを聴き、
私の最上の活動と情熱とを捧げて、自分が高められるのを感ずることができようか。
真の信仰の試金石は、信仰の力が、自然の法則が手の運動を統御するように、
魂を魅了し、これを支配するか否かにある。
真の信仰は、侵し難い力をもっているために、
われわれは喜んで服従し、服従することを名誉と思う程である。
この信仰は日の出、日没の折の光、飛び交う雲、歌う小鳥、草花のいぶきと融和している。
しかし今の牧師のする安息日の礼拝は、自然の光彩を失っていて、美わしいものではない。
われわれは礼拝が終ると喜びを感ずる。
われわれは教会の席に腰かけていても、牧師とは無関係に、自分たちだけのもっとずっと良い、
聖い、美わしい礼拝をすることができるし、実際そういうことをやっている。

さて祭壇の火はくすぶり、ほとんど消えかかっているが、
これにふたたび火を点すために、できるかぎりのことをしようではないか。
現在教会に悪弊がみられることは、明らかなところである。
問題はわれら何をなすべきかということに帰着する。
私は正直にいうが、新しい儀式と形式とをもって、礼拝を工夫し、
これを打ち建てようとするあらゆる試みは、むだなように思われる。
信仰がわれわれを造るので、われわれが信仰をつくるのではない。
そして信仰は、信仰自体の形式をつくる。
むしろ諸君が、新しい生命の息吹きを、既存の形式に吹き込んだ方がよい。
諸君が一たび活発に動けば、これらの形式は、
諸君の思うままになり、新しいものとなるからである。
堕落した形式を救うものは、一も魂、二も魂、永遠に魂である。
徳の脈搏が一つ打てば、形式という法王国全体を引き上げて、活を与えることができる。
二つの非常な強みをキリスト教は、われわれに与えてくれた。
第一は安息日、すなわち全世界の祝祭であって、その光は哲学者の部屋にも、
骨折仕事をしている屋根裏部屋にも、監獄の独房にも、同じように喜び迎えられて輝く、
そしていたる所で、下劣な者に対してさえも、精神的なものの尊厳を暗示する。
安息日を永遠に寺院としておかなければならない。
新しい愛、新しい信仰、新しい見解がこれを再建し、
人類にとって最初は輝かしいものであったこれを、さらにそれ以上のものとするであろう。
第二は、説教という制度である。
説教とは、人間が多くの人に向ってする話で、
本質上すべての機関、すべての形式のうちで、もっとも人が意のままにできるものである。
今や、いたる所で、説教壇で、講義室で、家で、畑で、人びとに招かれるなり、
諸君自らその機会をつくるなりして、諸君の人生と良心とが教えるままに、真理を語って、
待ちこがれ、力の失せた人びとのこころを、
新しい希望と啓示とで、力づけることができるのである。
私は新しい「教師」が現われて、これらの輝かしい法則を徹底的に追求して、
その結果この法則が一貫していることを、その整然とした完全な恩恵を、
世界が魂の鏡であることを、引力の法則と心の純潔とが同一であることを理解し、
「義務」が「科学」や「美」や「喜ぴ」と一つのものであることを、示すのを待ち望んでいる。


「神学部講演」




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日本には、人口比率で6%のクリスチャンが存在するとされています。
わが国の首相も、数少ないクリスチャンの一人です。

クリスチャンであるということは、どういうことなのでしょうか?

神の存在や霊魂の不滅を信じるということです。

これは、目に見えぬ高次な価値を認め、
人間以上の偉大なる存在を希求しているということでもあります。

決して、ダーウィニスト、物質主義者などではないことを表明しているのであります。

このような表明は日本においては、
教科書やマスコミの常識との乖離が生じ、
非科学的というレッテルを貼られてしまいます。

しかし、世界の常識では、
神を信じない人間は、悪魔を信仰する者、教養の無い者としてみなされるのです。

アメリカには無神論者は4%しかいません。

トマス・モアの描いた理想郷としてのユートピア島では、
無神論者には市民権が無い、とされています。
そのユートピアでは、神を信じない人間は、危険犯として扱われるのです。

神を信じ、神を目指して生きることは、人間としてあたりまえのことなのです。




かつて道に迷えるイスラエルの民に真実をもたらし、
闇を払おうとした時と同じように、私はやって参りました。
私の言うことを聞いてください。 
私の言葉が過去においてそうしたように、
無神論者たちに、彼らの頭上には普遍の真実、
すなわち、草花を芽生えさせ、波をおこす善なる神、
偉大なる神が君臨しているのだということを教えなければなりません。
私は神の教義を示し、また、それを収穫する者として、
人類に散らばった善を束にまとめ、
「苦しむ者よ、私のところへおいでなさい」と申したのです。
しかし、恩知らずな人たちは、
私の父の君臨する国へつながる広くまっすぐ延びる道からはずれ、
険しい不信仰の小道に迷ってしまったのです。
私の父は、人類を全滅させようとしているのではありません。
父は、あなたたちが、生きる者も死ぬ者もお互いに助け合い、
救い合うことを望んでいるのです。
死ぬ者とは、肉体の死んでしまった者のことです。
なぜなら死は存在しないからです。
そして、地上にもはや存在していない者たちがこう叫ぶ声を聞いてください。
「祈り、信じなさい。死とは生き返ることです。
人生とは選択された試練なのです。
その試練の中であなたたちの耕す美徳というものが、
杉の木が伸びるように育ち、発展するのです。」

真実を学ぶ者よ、お互いに愛し合いなさい。
これが最初の教えです。
自分を教育しなさい。
これが第二の教えです。
すべての真実がキリストの教えの中に存在します。
キリスト教の中に根づいてしまった誤りは、
すべて人類が生み出したものなのです。
ですから、あなたたちがなにも存在しないと考えていた墓の向こうから、
あなたたちに向かって訴えてくるのです。
「兄弟たちよ、何事も消滅するものはないのです。
イエス・キリストはすべての悪に打ち勝ったのです。
あなたたちは、不信仰に打ち勝たねばならないのです」と。

真実の霊より




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2008.09.17 信仰の力
プロテスタントのノーマン・ビンセント・ピール牧師は、
信仰と成功哲学を結びつけて、現代のビジネス社会にも役に立つ教えを説きました。

その急進的な教えは、当初は物議をかもしましたが、
結局、その著書は全世界で2000万部を超えるベストセラーとなり、
「アメリカの良心」と呼ばれるほど、最も有名な説教師となりました。

実際、信仰には驚くべき力があるのです。


私も、信仰と社会的成功の間には関係がない、
という考え方にとらわれていた時代があった。
信仰はビジネスとは無縁であり、
道徳や社会活動などにしか関係ないものと決めつけていた。
しかし今では、そういう考え方は神の力を制限し、
人間の成長を抑えつけるものだと分かった。
私たちは原子エネルギーのことや、
宇宙に巨大なエネルギーが存在していることを知っている。
それと同じものが人間の心にも存在するのだ。
潜在的な力を持つという点では、人間の心よりもすばらしいものはない。
実際に自分の能力を解放できるようになると、何の不足も感じる必要がないほど、
創造的なアイデアがあなたの心にあることを知るだろう。
神の力によって湧き出してくる力を適切に使えば、
あなたは何についても必ず成功するはずだ。
そしてこの力は、あらゆる敗北感を一掃し、
あらゆる困難な状況から人を引き上げる力を持っている。
また、あなたが実際に信じて心に描くどんなことでも、
祈って実際に努力するどんなことでも実現することができる。
だから、心を深く見つめなさい。そこには驚くべき奇跡が存在している。
現実がどうあっても、あなたはその状況を改善できる。
第一に、心を平静にし、心の奥底から力が湧き出るようにしなさい。
神があなたを助けてくださっていることを信じなさい。成功した姿を心に描きなさい。
神の原理が心の中で働くことができるよう、
生活を信仰的な基盤の上に築き直しなさい。
心の中に、失敗ではなく成功のイメージをずっと持ち続けなさい。
これを実行すれば、あなたの心の中から独創的なアイデアが、
自由に湧き出してくるだろう。これはすばらしい法則だ。
あなたの生活はもちろん、どんな人の生活も変えることのできる法則だ。
現在あなたが直面している困難がどのようなものであれ、
新しい考えが湧き出すと、あなた自身も変わっていくだろう―繰り返すが、
たとえどんな困難に直面していようとも。


「積極的考え方の力」




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20世紀を代表する神学者といわれるドイツのルドルフ・カール・ブルトマンは、
実存主義哲学の影響を受け、聖書の記述から超自然的事象を排除し、
実存的に解釈する、非神話化といわれる方法論を提唱しました。

ようするに、懐疑主義であり、科学的合理主義の立場であります。

当時は「神は死んだ」ということが、盛んに叫ばれていた時代でした。

キリスト者ですら、神や奇跡を信じることが難しい時代風潮であったのです。


超自然を疑いだすと、
究極的にはイエスの神性や、神そのものの存在をも疑うようになっていきます。

事実、ブルトマン学派の急進的な一部では、神の存在も肯定しません。

さすがに、
現在では、これを支持する学者は少数ですが、当時は、一世を風靡したようです。

このブルトマンの非神話化は、仏教学にも大きな影響を与えました。

宗教の非神話化により、伝統宗教は死に瀕し、
その代償作用として、ニューエイジの勃興があるのです。




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