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宗教は公のものだ。

宗教はすべての人々の幸福のためにある。

だからこそ、宗教法人は税金が免除されている。

宗教の源は仏神にある。

仏神とは、人間を超えたるもの。

我々の親でもある。

だから当然、世界の大半の国家では宗教が中心軸をなしている。

無神論唯物論国家(共産主義国家)においては、宗教は弾圧されている。

その信念体系から見れば、神秘主義(オカルト)である宗教は、アヘンなのだから当然だ。

しかし、宗教を尊重しない国は必ず滅びる運命にある。

日本は昔、宗教国として繁栄していたが、
敗戦を境に、宗教を敵視するようになってしまった。

今や、ある種の宗教者(仏教徒)や教育者や知識人が、
熱心に無神論(ニヒリズム)を喧伝し、宗教を攻撃している。

悪魔の所業である。

そのせいで、我が国では、宗教が大いに誤解されている。

宗教は国家の背骨と成らなければならない。




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日本にもようやくまともな宗教政党が誕生することになる。

ここまでくれば、勝ったも同然である。

もうすでに、そのマニフェストは大きな仕事をしている。

その存在は、マスコミや既存政党や国民への啓蒙となった。

正しい宗教というものは存在するのだ。

神は決して人類を見捨てることはない。




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2009.07.29 宗教の本義
唯物論者は、
肉体的欲望や自我の克服、人間性の変革など不可能だと考えます。

しかし、人間の本質が霊であることを認めるならば、これが可能だと納得出来るはずです。

霊性の開発、魂の向上こそが宗教の本義であり、そのための修行が瞑想なのです。


瞑想は、
人間という存在を通じ、
その肉体、精神、魂を活動させる中心や源から、
自然な経路に沿って創造的な力がわきあがり、
行き渡るのを妨げている自我というものを、
すべて空にすることである。


エドガー・ケイシー




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2009.05.29 宗教の本質
歴史上においては、つねに宗教が主役でありました。

そして、今、再び宗教の時代が到来しようとしています。

宗教は、本来素晴らしいものなのです。




「宗教」という言葉の意味は何でしょう。
それは絆であり、結ぶこと、
すなわち、完全者と不完全者との、永遠のものと一時的なものとの、
無限のものと有限のものとの、普遍のものと個々のものとの、結びつきではないでしょうか。
宗教の本質とは、生きた善と真理と正義に対する愛―すなわち、
人間を超える善と真理と正義に対する崇敬や称賛や信頼や共感です。
宗教における根本的な事実とは、全能なる愛と知の霊の存在だと思われます。
それが根本的事実だという理由は、それによって他のすべてが説明されるからです。
ここで、四つの言葉について説明しておかなければなりません。
それらはいずれも大いなる誤認の危険にさらされ、現に大いなる誤解を受けてきました。
すなわち、全能、霊、愛、知の四つです。
全能とは、その本性と意志に矛盾しないすべてのことをもたらす力です。
霊とは、意識を有する存在の中に宿る生きた意思や感情や目的です。
愛とは、他者の最大かつ最高の幸福を、自らの満足として求める感情です。
知とは、その満足を獲得する手だてとなる意思です。


フローレンス・ナイチンゲール「真理の探究」




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2009.05.27 真理と事実
いかなる霊感による真の教理も、
充分に確定された歴史や科学のあらゆる事実と、
合致しなければならない。
同一の事実が、
信仰という光を当てて見る宗教の世界では真であり、
証明や実験を媒体として見る科学の世界では真でない、
などということはあり得ない。


広教会派ベンジャミン・ジャウエット




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2009.05.18 神仏の願い
宇宙には巨大なエネルギーや力が存在しています。

それは単なる科学的な諸法則を遥かに超えたものであることは、誰もが認めるところです。

それをサムシング・グレート(神仏)と呼ぶ人もいます。

神仏の別名は、宇宙に実在する生命力。

すなわち神仏は事実上、宇宙の実体です。

神仏は、われわれに永遠の生命を賦与した存在であり、
全ての善きものの源泉であり、無限の愛であります。

その普遍的流入によって、
われわれは道徳的な善で満たされるのです。

悪は、自由意志の誤用です。

また、われわれは内なる神仏の一部を顕現すべく、無限の発展を遂げつつあります。

これらのすべてが真実であるならば、
その信仰者の平安、健康、幸福、成功および繁栄を目的とする一つの科学的な宗教が、
明らかに存在可能であります。




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2009.05.09 宗教立国へ
戦後日本では左翼政策によって宗教が悪者にされた。

代わって誤てる唯物論という思想が跋扈している。

おかげで、わが国においては宗教が大変誤解されている。

神仏を信じてこそ人間である。

本来、宗教は素晴らしいもの。

宗教は全ての学問や法律を超えたるもの。

宗教は人を善導する。

宗教は根本的に人を変革する。

宗教は人々に幸福をもたらす。

宗教を持つ国は強くなる。

宗教を持つ国は繁栄する。

宗教は民主主義の基礎である。

宗教立国こそが、日本の進むべき道である。




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科学によって裏付けられた宗教は、どのような意味を持ってくるのでしょうか?

心霊研究の大家、ジョージ・ミーク氏による素晴らしい考察です。




死後の生についての科学的研究によって、
さまざまの偉大な宗教的伝統の中心にある真理は正しい、ということが確認されました。
そういった伝統が「よりよい生のために」と教えている事柄に、
注意を払っても然るべきだと思います。

まず第一に、偉大な宗教はいずれも、黄金律(すぐれた根本原理)をもっています。
キリスト教では、「何事でも、他の人々からしてもらいたいとあなたが望むことを、
他の人びとに対して行いなさい」と言いますが、
他の宗教では、言い方は多少ちがっても、同じことを教えています。
ユダヤ教、仏教、道教、儒教、ジャイナ教、ゾロアスター教、イスラム教、ヒンズー教、
シーク教など、どの宗教ををとってみても、その道徳や自己の向上の道の中心には、
他者に接する態度について、キリスト教と同じ考え方がみられます。
他者への愛の心は、どの場合にも、幸福な生活の基礎になるものです。
この第一の点は、他者に対するときに私たちのとるべき態度を示す素朴な法則です。

第二は、私たちの創造主である神に対して、私たちのとるべき態度についての法則です。
神とは、一切である存在―言いかえれば、至るところに遍在し、
決して私たちを離れることのない存在―なのですから、
私たちは何も死を待たなくても、神の多くの住居について知ることができます。
つまり、私たちは、この地上で生きているあいだに、
同時に生きている多くの実在の次元を知ることができます。
あなたのアストラル体は、
あなたの肉体が眠っている間に旅をすることができるし、現にそうしているのです。
またある人びとは、瞑想の状態の中で、さまざまの世界や領域を訪ねていくことができます。
あなたは、あなたの肉体の死まで待つ必要はありません。
ただし、本当の悟りをひらいた人は、
最も低い世界から非常に高い世界まで、あらゆる存在の次元についてよく知っており、
そういう存在の諸段階が今ここに、私たちとともに現に存在していることを、よく知っています。
このような高い悟りの状態に至る人は、もちろん非常に少ないのです。
それはごく少数の賢者、視霊者、神秘家、予言者、聖者など、
肉体をもちながら宇宙的意識の高さにまで達した人たちに限られています。
彼らのいうところによれば、私たちの心や精神が自分中心の自我にとらわれず、
純粋に神に向けられれば、私たち―つまりあなたや私―でも、
そういう高い状態に至ることができるのです。
さらに彼らは、彼らの修行の経験にもとづいて、
神を求める人たちのために、いろいろの修行をつくり出してきました。
こういう霊的向上の方法は、準備のない初心者にも役立つとともに安全なものです。
そういう修行法は、日常生活でよい行いをすることを教える道徳的教えとはちがって、
人々が個人として智恵を深め、人格を向上させ、高い人生の価値を実現していく方法です。
こういう方法には、いろいろな修行のしかたがありますが、
その中の重要な部分として、必ず祈りや瞑想が含まれています。

この場合、なぜ霊能の開発を目的としないで、祈りや瞑想を重くみるのでしょうか。
たとえば、深いトランス状態に入ることのできる霊媒になるよりも、
人格の霊的向上を重くみるのはなぜなのでしょうか。
私は、多くの国々で、良き友人として長いあいだ私の研究を助けてくれた、
霊媒や霊能者の人たちに、大きな敬意と愛情をもっています。
しかしそれにもかかわらず、霊能の開発を目的とすることには、
限界があり、また欠点があるといわなければなりません。
霊能や超能力は、決して、
人間のたましいの向上に代わるような価値あるものではありません。
過去三千年の間、たましいの伝統を守り、説きつづけてきた人々は、
このことをはっきり認識しています。
彼らは、霊能にとらわれることの危険をよく知っています。
ですから彼らは、さまざまの超能力は、
神と結ばれた目ざめた意識をほんとうに開くためには妨げになるものであって、
それを追い求めてはいけない、と弟子たちをいましめています。
さまざまな超能力は、人の目をひくことが多く、また魅力のあるものですけれども、
しかし、ほんとうにたましいの満足を与えてくれるものではありません。
大事なことは、何よりもまず、神に対して自分をひらくということです。
これを誤りますと、超能力を追求することは、
しばしば、自我の欲を大きくさせ、力を追い求めることになってしまいます。

これに対して祈りと瞑想は、自我をすてる役に立ちます。
つまり、まわりのものを支配して一種の「名誉」を得ようとする、
小さくあわれな自分というものをなくしていくために効果があります。
このようにして自我のカラが消えていくにつれて、
神の光と愛がますますはっきりと輝くようになり、
個人的なものは、個人をこえたものになっていきます。
そこには、超越と無我の境地があり、
人類との、またあらゆる存在との調和にみちた無限の抱擁があります。
日常の経験とは全くちがったこのような「別世界」の体験は、
祈りと瞑想をつづけていくことによって、
一時的に経験される超越的な状態といったものではなくなり、
次第に、日常生活の中での自覚と結びついてきます。
そのとき、さまざまの存在の次元は、まさしく、
今ここ、に存在する唯一の「大いなる実在」のさまざまな相を明らかにするものとなります。

自分の現在の肉体を脱ざすてる時を待たずとも、
あなたは、アストラル界や、それよりも高い次元にある知恵を、
毎日の生活にとり入れることができるようになります。
たましいの向上によって達せられる共同体、
特にそのすぐれた実例をとってみますと、
そこには多くの聖者や清らかな心の人たちの集まりが見出されます。
これは決して偶然によるものではありません。
彼らが人びとの尊敬を受けてきた理由は、
次のようなところにあります…彼らのもつ慈しみの心、献身、人をはげます智恵のことば、
世間に対する奉仕、生死を越えた態度、彼らのもっているおだやかな心、
多くの人が、打ちのめされてしまうか、
心配でじっとしていられなくなるような状況におかれても、決して心の平和を失わない態度・・・。
彼らのもっている秘密は、何だったのでしょう。
彼らはそれぞれその人なりに、一定の歴史的伝統にもとづいたやり方で、
「自分を投げすてよ、そして神をあらしめよ、そのとき汝は受け入れられるであろう」、
という教えが真理であることを発見したのです。
ふつうみられる狭い自己中心的態度に代って、
無限なるものについての感受性があらわれ、
個人的なものから個人を超えたものに変わっているのです。

ここに描いた輝かしい虹は、
それぞれの人間の人生というものが、はるかなる未来に向って、
私たちの心を精神的にまた霊的に向上させていく旅である、ということを考えさせてくれます。
さらにまた、個人的な充足感、感動、幸福、愛、完成、
そして肉体の苦悩とその限界からの自由を、
未来に向かってひろげていく人生になるということを、私たちに知らせています。
今、あなたは、あなたが既に永遠の中に生きている、ということを知らなければなりません。
あなたは死にません。
あなたは永遠に生きています。
けれども、あなたの人生がもつ性質は、
この世であれあの世であれ、ひとえにあなた自身によってきまるのです。


「死後の世界と魂の成長」




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2009.03.21 真実の宗教
今、

宗教を否定する人だけが中心の時代が終わり、

宗教の違いがわかる時代が来ようとしている。

では、どれが正しく、どれが正しくない宗教なのか。

正しい宗教を身につけるためには、

「身」―健全で調和のとれた生活をしているか?

「口」―よく言葉を選び、言葉を調えているか?

「意」―自分の意志をコントロールできるか?

という三密の考え方が大事である。

今こそ真実の宗教のあり方を知らねばならない。





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近年の比較宗教学では、
世界宗教における相違点よりも、むしろ類似点が指摘されています。

そして、その視野はスピリチュアルにまで向けられているのです。

新進の比較宗教学者の藤原聖子氏はこのようにいわれます。




「天国はある」という人の割合が多いアメリカでも、
ごく一般的な天国イメージは、みな白い服でフワフワと浮いていて、
ハープなどを優雅に奏でている程度のものと聞きます。
どうやら天使像と混ざってしまっているようです。
それだけに、
「イスラムの殉教者はこのような天国を信じているのだ」と聞くと驚きもひとしおなのでしょう。
三大宗教はそれぞれ違うと思い込みもあるようです―日本人は、
一神教と仏教の違いを強調しがちですし、
キリスト教徒は保守的な人ほど、
仏教のみならずイスラムともキリスト教は違うといいがちです。
しかし、キリスト教や仏教にも宴会的天国は無縁ではないことがわかりました。
さらに重要なのは、民族宗教・民間信仰に比べれば、
三大宗教の他界観は共通性の方が大きいということでした。
救済のゴールである来世(あの世)で人間はどのように過ごすのかというのは、
三大宗教では大きな関心事であり、その説明は時とともに詳細化していきました。
また、天国に行ける条件、地獄の苦しみは、
それぞれの宗教の拡大に伴い、緩やかになるという傾向も見られました。
それらの天国・地獄観は近代化とともに変化してきました。
民主主義的価値観を自明のものとする眼には、
キリスト教やイスラムの伝統的天国観に含まれている、
「王様」モチーフはとくに違和感があるでしょう。
つまり、王である神に謁見を許されることや、
自分が王様のように大量の召使を抱えて、
豪邸に暮らすことを幸せとしていることに対してです。
仏教の極楽についても、「湯船につかって『あー、極楽、極楽』」が一般人の感覚でしょう。
「極楽では勉強するんですよ」などと言ったら、
「え?別に解脱したくないので、極楽は結構です」と言われかねません。
そのようなわけで、伝統的な宗教に代わり、
自分探しの「スピリチュアル」が台頭していきました。
仏教では、10年ほど前に「チベット死者の書」が話題になりましたが、
これはスピリチュアル・ブームの方の動きでした。
「チベット死者の書」とは、チベット仏教で臨終に際して読まれる経典ですが、
死後の意識の状態を表す奇書として、
日本より先に欧米のニューエイジ文化の中でもてはやされていたのです。
ゲームやアニメには、天使や悪魔の居場所として、
「天国」「地獄」よりも「天界」「魔界」といった言葉の方がよく使われているとしたら、
それはこの、伝統的三大宗教からスピリチュアルヘという変化を反映しているといえるでしょう。
死んだ後に人間が行く、あるいは終末に立ち現れる世界ではなく、
同時進行し、人間社会にしばしば口を開く異界というわけです。


「三大宗教 天国・地獄 QUEST」




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