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最近、よくスピリチュアリティという言葉を耳にしますが、

一体、スピリチュアリティとは何なのでしょうか?

また、それと、宗教との関係はどのようなものなのでしょうか?




スピリチュアリティに対する新しいアプローチを構想する上で重要なことは、
偉大な宗教伝統(キリスト教・ユダヤ教・イスラーム教・
ヒンドゥー教・仏教・シャーマニズム)の叡智を継承するということです。
それは、それらの伝統の最も高貴な、最も意識的な、
最も倫理的な要素を継承するものである必要があるのです。
宗教伝統について詳細に検討すると、あなたは次のことに気づくことになります。
多様な伝統の間には、膨大な数の差異が存在するが、
またそこには、少数の共通事項も存在する―ということです。
世界に存在する宗教のほとんどすべてが同意する少数の合意事項―それは、
きっと人間の本質に関する非常に重要なことに違いありません―少なくとも、
それは、たとえば医療関係者が合意する人間の肉体に関する少数の合意事項と、
同等の重要性をもつものということができるでしょう。
それらの合意事項とはどのようなものなのでしょうか?
神を知ろうとする人類の歴史的な試みの中に、
くりかえしあらわれる特徴があるとすれば、それはどのような重要性をもつのでしょうか?
(また、こうした人類の試みの歴史は、朦朧とした状態に停滞し続ける人類に、
手を差しのべようとする神の試みの歴史でもあります。)

それらの特徴が示峻するのは―少なくとも、私たちが認識している範囲においては―、
この宇宙にスピリチュアルなパターンといえるものが息づいているということです。
そして、そうしたパターンは、人類が、その感情と知性を駆使して、
宇宙の高貴な次元を感得しようとするとき、驚異的な規則性をもって現れるということです。
このことは、人間というものが、
スピリチュアルな現実を感得することができるように造られていることを意味するはずです。
つまり、人間という生物そのものが、そうした深層的なスピリチュアルなパターンを、
感得することができるように創造されているということです。

碓かに、各宗教は、独自の形態でそうした人類の構造を表現しますので、
そこには差異が存在するのも事実です。
しかし、そうした表面的な差異の背後に存在する深層的なパターンを認識することは、
統合的なスピリチュアリティというものを垣間見ることにほかならないのです。
このことは、適切な実践にとりくむことを通して、
人間がそうした宇宙のパターンを感得できる可能性を内包しているということを意味します。
こうした感得能力は、どの偉大な宗教の実践を通しても開発することのできるものです。
それはある一つの宗教が独占するものではないのです。
私たちは、キリスト教徒でありながら、仏教徒でありながら、
あるいは、ニュー・エイジ思想を信奉しながら、シャーマニズムの実践者でありながら、
統合的なスピリチュアリティを感得することができるのです。
それは、あなたが既に実践しているとりくみに付けくわえられるべきものです。
そのときに、ただ一つ否定されるべきものがあるとすれば、
それは自らの道が神聖なるものに至るための唯一の正しい道であるという信念だけです。

それでは、ほとんどの偉大な宗教的伝統を特徴づける、
共通事項(スビリチュアリティの普遍的な傾向)とはどのようなものでしょうか? 
大多数の伝統は次のことについて合意をしています。

1.スピリット―それは多様な名称で呼ばれています―は、存在する。
  それは善であり、真であり、美であり、そして、愛である。

2.スピリットは外部に存在するものであり、また、内部に存在するものである。
  つまり、それは、開かれた感情と知性に内的に開示されるものである。

3.ほとんどの人々は、内なるスピリットに気づいていない。
  というのも、私たちは「離別」と「罪」と「二元性」の世界に生きているからである。
  つまり、私たちは、幻影の、失墜した、断片化された状態に生きているのである。

4.こうした離別状態(幻影・罪・不調和にとらわれた状態)を脱出する方法が存在する。
  解放に至る道が存在するのである。

5.そうした道を歩むとき、最終的には、私たちは覚醒と再生と救済と悟りに至ることができる。
  それは、スピリットとの究極的な融合であり、究極的な救済である。

6.この究極的な解放は、幻影と罪と苦悩の滅却と超越を意味する。
  そして、宇宙のあらゆる生きとし生けるものに対する、
  慈愛と勇気と奉仕と行動と慈悲と共感、として表現されることになる。


ケン・ウィルバー「インテグラル・ライフ」




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2010.07.02 宗教の公益性
宗教法人への課税などは、宗教の公益性を無視した暴挙です。

素晴らしい論述がありますので、ここに全文をあげます。




「宗教団体が非課税措置を受けているのは、その活動が公益性をもつためである」、
というのは、現在の税法学や憲法学でも通説と言える考え方である。
つまり、公益性をもつ宗教法人の活動を政策的に保護するために、
国家が非課税措置を講ずると考えるのである。
宗教はいつの時代にも、人々に神仏の存在と教えを伝え、
天国と地獄の違いを説き、人々の魂を救済してきた。
宗教のもつ、こうした霊的な意義こそが宗教の公益性の核心部分だろう。

法律的にも、宗教非課税の理由として、さまざまなレベルの公益性が認められている。
まずは、本来の宗教活動があり、これに伴う公益性が認められている。
教義の流布、儀式行事の開催、信者の教化育成などが当てはまる。
この場合に想定されている公益性とは、
例えば、人々の道徳性を陶冶し、社会の安寧に寄与することなどである。
一方、さまざまな宗教が繁栄することによって、
民主主義の土壌となる価値多元社会・自由社会を形成することも期待されている。
アメリカなどにおいても、「具体的な救貧活動や篤志的活動のみならず、
社会の多元化に寄与する活動も公益活動に含まれる」という考え方が広く認められている。
それ以外にも、比較的理解されやすい公益性として、
学術や芸術の振興、福祉の増進、教育、環境保全など、 
一般に公益事業と認められている活動をしている場合が挙げられるだろう。

そもそも、奈良時代の悲田院や施薬院など、日本の社会福祉のはしりは仏教がもとである。
また、庶民の教育施設である寺子屋は中世の寺院内での教育が起源であり、
庶民の高い教育水準を維持することに貢献した。
現代でも、宗教の公益活動は盛んである。
伝統宗教であれ新宗教であれ、多くの団体が、
教育事業や医療事業、美術館運営などの文化事業に参加している。
災害時の救援活動や海外支援に力を入れる団体もある。
最近、宗教学の分野でも、
宗教による社会貢献活動に光をあてる研究が始まっており、その進展が期待されている。
これらの具体的な社会貢献活動は、いわば「目に見える」公益活動であり、
宗教以外の他の団体と重なる部分でもある。

以上が、宗教非課税の根拠として一般に広く認められている公益性の概念である。
国家の側としては、こうした高度な公益活動を尊重しているからこそ、
それらを課税対象外としているのである。
しかし、歴史を顧みるなら、宗教にはさらに高次元の公益性があると言うべきだろう。
それは、国家や世界に対して価値観を提示し、世の中を善導していくという公益性である。

例えば、仏教の祖である釈尊は、当時の国王や大臣たちに対して政治的な指導をしていた。
日本でも、聖徳太子は仏教を中心とした国造りを行った。
それによって、続く奈良時代にわが国は一気に文明先進国となった。
これらは、寛容で先進的な宗教が、政治の上位概念として国家を繁栄させた実例であり、
時代や地域を超えて、こうした事例は多い。
このような歴史的事実に学ぶならば、宗教が政治を指導し、ときには批判しながら、
国家や社会を導いていくという意味での公益性もまた認知されるべきだろう。

もちろん、宗教団体が非課税である根拠は、公益性のみに求められるのではない。
まず、宗教に特有の理由として「信教の自由」が挙げられる。
宗教活動に課税するとなれば、その活動は税務調査・査察の対象となり、
課税当局の日常的な監視下に置かれることになる。
課税権は警察権と並んで、国家の二大強権である。
このような事態は、
公権力が宗教活動に介入することを禁じた憲法上の「信教の自由」の侵害である。
宗教法人法でも、国家が徴税権力で宗教に介入することを戒めている。
また、宗教活動に対する非課税措置は、
課税の対象たる「利益」が存在しないことによる当然の措置であるとする考え方もある。
これは「課税ベース除外説」と呼ばれている。
他にも非課税措置を支持する論拠は多いが、識者がどの説を採るにせよ、
宗教法人に対する非課税措置は合憲であるというのは、学会の定説である。

世界的に見て、宗教に対する租税減免制度の歴史は古い。
その歴史を受けて、国教制度のイギリス、公認宗教制度のドイツ、
政教分離原則のアメリカやフランスにおいても、
現在、何らかのかたちで宗教団体に対する課税除外措置を行っている。
政教関係や租税制度がまったく異なるこうした国々でも、この点は一致しているのだ。
こうした事実からも、宗教に対する租税減免制度は、
高度な公益性を有する宗教を社会全体として尊重し、
それと同時に宗教(聖)への国家(俗)による介入は極小化するべきだという、
人類の智慧の表れだと考えるべきではないか。
宗教非課税の法的根拠として、さまざまな議論がなされているが、
それらも結局、こうした人類の「常識」あるいは「良識」を、
現代的な法律の言葉で再確認しているものだと言えるだろう。

この問題に詳しいある宗教評論家は本誌の取材に対し、
「週刊誌などで宗教課税論が出ていますが、
『非課税の意味するところは何か』という議論が無視されています。
宗教課税は法的にも困難であり、性急に進めるべきではないでしょう」と語った。
本誌6月号でも指摘したが、
宗教法人の宗教活動に対する課税は、文明国としての資質を問われる愚挙である。
財源不足を補う目的や党利党略などにとらわれるあまり普遍的な価値を見失い、
国家としての尊厳を損なうことがないよう切に祈るものである。


「The Liberty 8月号」




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子供に善悪を教えるということは、
健全に育てるための教育そのものであり、
そのためには、教育者のバックボーンに宗教がなければなりません。

ところが、わが国の戦後教育においては、
共産主義思想(マルクス唯物論)がベースに流れているため、
宗教は「アヘン」であるとされて、徹底的に排除されてきたのです。

おかげで、善悪の判断のつかない国民性が醸成されてしまいました。

現在の日本社会の歪みは、これに起因すると思われます。




【宗教教育について考える】

日本では、宗教教育は、以下の3つに区分されて議論される。

①宗教知識教育 :宗教に関する客観的知識を教える教育
②宗教的情操教育:(あらゆる宗教に共通とされる)普遍的な宗教的情操を養う教育
③宗派教育   :特定の宗教・宗派に基づく宣教色の強い教育

このうち①は公立学校でも実施可能だが、
③は公立学校では不可能であるというのが一般的な理解。
よく争点となるのは②であり、それがどんな内容であるか、
そしてそれを公立学校で行うことが可能かどうかについては識者の見解が分かれている。

しかし、以下の理由から、②も当然可能であると考えられる。

●憲法改正の帝国議会「宗教的情操教育に関する決議」(1946.8.15)
 →「宗教的情操の陶治を尊重」と謳われている。

●教育基本法
 →公立学校で禁じられるのは③の宗派教育だけであるということを明確にしている。

●1947年度版「学習指導要領 国語科編」
 →「宗教的情操を豊かにする」と記載されている。

●1947年度版「学習指導要領 社会科編」
 →宗教に好意的で、広い意味の宗教教育に熱心な内容。

グローバル化が進み、
様々な価値観や文化を持った人々の往来が活発になっている現在、
宗教に関する理解を高めて多文化への寛容の精神を身につけるためにも、
知識教育に当たるものは積極的に推進していくべきだろう。
宗教の内容に関する部分についても、
仏教・キリスト教・イスラム教などの世界宗教と呼べるもので共通に説かれており、
その結果、広く人類に共有されているような信念は、積極的に教えられて当然だ。
具体的には、神仏の存在、信仰心の大切さ、善悪の存在、
愛や慈悲の大切さ、反省や懺悔の価値などがそれに当たる。
その他、各宗教に共通とは言えなくとも、
普遍的価値を持つ自助努力(セルフヘルプ)の精神、
智慧の重視、発展の思想などは取り入れることが望ましいだろう。

幸福実現党 日本の未来について本気で考えるプロジェクト「政治のしくみ 超・入門」



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2010.04.10 最強の宗教
「宝島5月号」が「総力特集ニッポンの新宗教!」だったので、

ちょっと買って読んでみた。

もちろん、目当ては「幸福の科学」に関する記事。

創価よりも前の一番最初に載っていました。

どうせ・・と思ったが、

案外に、まともな記事だった。

世間の風潮は変わってきましたね。

最後のまとめの文章には、こうありました。

「大々的にバッシングされた90年代と違った形で活動を活発化させ、
なおかつメディアとの友好関係を模索する。
今後、宗教・政治・教育の各活動で実績を積んだ上で、
メディアとも友好関係を築けることになれば、
それはもはや最強の宗教団体と言ってもいいのではなかろうか。」

当然だと思います。




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宗教新聞に、昨今の日本の宗教学の不毛を嘆いた論説がありました。

愚僧はその内容にまったく賛同いたします。

この問題は、学会が、唯物論を超克できるかにかかっています。
宗教を正当に評価、分析、伝達するためには、
霊的世界への理解がなければまず不可能なのです。




政治や経済の面で、国際社会の中での日本の位置が、
激しく変化しつつあることは、盛んに論じられ、報道されている。
だが文化の面の変化については、まだまだ議論も進んでおらず、
あまり報道もされていない重要な事柄が多い。
宗教に関わる世界の人々の認識の変化はそうした事柄の一つだ。
国際社会を見ると、冷戦終結以後、
とりわけ二十一世紀に入って宗教の重要性への認識が日に日に高まり、
広い分野の人々が宗教について論じる機会が増えている。
例えば、世俗化が進んだとされる西洋諸国の世界的に著名な哲学者、
政治学者、社会学者らが宗教についての論著を刊行して、注目されるようになっている。
ユルゲン・ハーバーマス他『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』、
マルセル・ゴーシェ『民主主義と宗教』、
チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』等は邦訳が刊行されているが、
ほかにも邦訳が待望される書物が目白押しだ。
日本の市民の宗教への関心も大きく、芸術や娯楽の領域で宗教の人気は高い。
世界的な名声を持つ作家の村上春樹の新作『1Q84』は宗教が素材だし、
死者を送る儀礼を素材とした映画「おくりびと」はアカデミー賞外国語映画賞を取った。
宮崎駿のアニメ作品にはスピリチュアルなテーマがたくさん盛り込まれている。
宗教と関連が深い日本の芸術・娯楽文化は国際的な注目を集めているのだ。
だが日本の宗教界そのもの、
また宗教に関わる学術や知的発信力ということになると、
やや悲観的にならざるを得ない。
第二次世界大戦後の日本は、
宗教に関わる学術の面でも世界的な水準の学術的成果を多量に生み出し、
とりわけアジア宗教の研究においても一級の地位を保ってきた。
イスラーム研究の井筒俊彦や仏教研究の中村元など、
世界的に知られた学者が少なくなかった。
「固有信仰」に強い関心を持った柳田国男のような民俗学者の仕事は、
今でもくみつくせない知的価値を持っている。
今後、日本の知的世界が、宗教に関わってこのような発信力を持ち続けるのは容易ではない。
一つには、哲学、政治学、社会学などの近接分野の学界が、
相変わらず西洋からの輸入学問の傾向が強く、
アジアや日本の文化や思想を踏まえた学術の形成が進まないということがある。
これらの分野で、日本の宗教や思想について論じて、
世界的な意義ある業績を生み出すことができる人がどれだけいるだろうか。
他方、宗教研究、宗教思想研究はといえば、内向きで狭く限定的な論題を取り上げるばかりで、
たこつぼに閉塞していく傾向があり、
専門分化による視野狭窄はむしろ強まっているかもしれない。
宗教にとっては、あれこれと抽象的に論ずるよりも、何よりも現場で生き抜く力が必要であり、
一人一人の切実な思いを尊び共鳴する感受性と行動力こそが必要だ。
その意味では、知的に洗練された議論や高度の学術は、
一義的に重要なものではないという主張はもっともだ。
だが、長期的な底力という点では知的構築力発信力もやはり無視はできない。
民主党政権による事業仕分けは学術予算縮減をもたらし、
特に若手研究者の育成を控える方向が打ち出されようとしている。
宗教研究は人文系の中でも支援を受けにくい領域だが、
この分野の学術の今後の弱体化が大いに懸念される。
宗教をめぐり、市民に深い内容を分かりやすく解き明かす知的柔軟性、
また、国際社会で世界の論者たちと充分に論じ合い、
発信していくたくましい学術力の育成に目を向けたいものだ。

中外日報社説「宗教に関わる分野で知的発信力の育成を」




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戦後日本には、宗教に対するアレルギーが根強く残っています。
しかし21世紀に入ってから、
宗教の重要性への認識が日に日に高まってきています。

宗教は、本来、すばらしいものです。
宗教は、人間の行動原理です。
宗教なくして、人は生きていくことはできないのです。




宗教のない人間など絶対に存在しない。
宗教は人間にとって最大の関心事です。
さらに言えば、宗教を持たない人間などは考えられないということになります。
私たちは、自分の能力以上のものを望んだり、
この世が与えてくれる以上のものを望んだりするという不思議な存在ですが、
何とかしてこの矛盾を、行動はともかく、
少なくとも頭からは取り除くために何かをしなくてはなりません。
あの人は「無宗教だ」というのをよく耳にすることがありますが、
それはその人が特定の教義を信じていない、というだけのことです。
自分を導く教団を持っていないというだけです。
あるいは、木製や金属製の神の像、
または心の中の像を崇拝していないというだけのことであって、
そういう人たちにも信仰心はあります。
そういう人たちは、自分にある不可解なものを、
それが何であれ自分なりの方法で押し込めているだけなのです。
その方法はたとえば、「強欲の神」への信仰であったり、「お神酒」であったりするのです。
また眠気をさそったり、気分を落ち着かせたりする方法によってということもあります。
人の信仰は、その人自身の人生を説明するものです。
この争いの多い世の中で健康的に生きるためには、
人生に何らかの説明を加えるということが絶対に必要です。

それから、死というきわめて重要な問題があります。
貧しい人には希望であり、金持ちにとっては恐怖である死、それこそが最大の問題です。
死のあるところには、宗教がなくてはなりません。
宗教は人間の弱さを示す確かなしるしということになるのかもしれませんが、
同時に私たちの尊い誕生と私たちの内にある永遠不滅のしるしでもあります。
死んでも死なないこと―これはアダムの子孫がみな、手に入れたがっていたものです。
信仰心が強いことでも知られているヘブライ人やインド人と同様に、
日本人も切望しているものです。
「千代に八千代に」生きたいと思うと、死に対する考えは二重の苦しみとなりました。
ただこの苦しみは、死ぬことによって私たちはより住みやすい世界にいざなわれるのだ、
と信じることで和らげることが出来ました。
神道では天国にある神々の住むところに、仏教では蓮の咲く天国に導かれるのです。
私たちが死を恐れていたのは、臆病だったからではありません。
この美しい国に愛着があったからです。
私たちは、運命と義務によって自分が生を受けたこの愛する土地から去るとき、
自分の身を任せるために宗教が必要だったのです。

鎌倉仏教時代の100年は、
インドの宗教が日本において新生した改革期だと言うことができます。
これほど光輝に照らされた時代はそれ以降はありませんでした。
そして私たちは今でも、当時の信念で語られた教えにすがっているのです。
そして、ここ日本でも他の地と同様、
宗教に情熱を燃やすということが迷信とともに消えてしまいました。
私たちは、宗教は非科学的だと言われることを恐れて、憶病な生き物となっているのです。
つまり、目に見えるものだけを基盤にして行動してしまうのです。
人が、今の時代ほど知識はないが誠実だった頃、
また、他人と群がっていなくても、
それぞれが独立して生きていた頃のように、行動することはあまりなくなってしまいました。
天と地は、私たちにもっと気高く行動するように、
そしてもっと大きな犠牲を払うよう求めています。
私たちは、外見だけの信仰を自慢していることを恥じなくてはなりません。
そして無知の気楽さの中にひたっていてはなりません。


内村鑑三「代表的日本人」




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2010.01.27 宗教と科学
宗教と科学の間には、けっして真の対立はありえない。
真面目で思慮深い人ならだれもが認識していると思うが、
もし人間が有しているすべての力を、
完全なるバランスと調和のなかでともに作用させるには、
みずからの本性にある宗教的な要素を認識し、
それを開拓しなければならない。
また実際、すべての時代の偉大な思想家が、
たとえその宗教的な感覚を公けにしなかったとしても、
きわめて宗教的な人間であったことは、けっして偶然ではなかった。
理解と意志の協力から、
哲学のもっとも上質な所産が、つまり倫理的な所産が生じるのだ。
科学は人生の道徳的価値を高めるものである。
なぜなら科学は、真実に対する愛と、畏敬の念を深めるからだ。
真実に対する愛は、
この心と物質の世界をより正確に理解しようとする、
絶えざる努力のなかに現われており、
また畏敬の念は、知識が前進するたびに、
われわれがみずからの存在の神秘と向かい合うことになるからだ。


マックス・プランク




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やってしまったようです。

コピペ
小沢氏「キリスト教は独善的」 仏教は称賛

民主党の小沢一郎幹事長は10日、
和歌山県高野町で全日本仏教会の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。
この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。
キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。
イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。
国政に影響力を持つ与党の実力者による批判発言だけに、波紋を広げる可能性がある。
一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。
仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。

2009/11/10 20:56 【共同通信】




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2009.11.04 真の宗教
宗教と科学は相反するかに考えられるが、
かえって科学的精神は、
宗教によって基礎付けられるということができる。
真の宗教の立場は、
どこまでも自己の独断を棄てて、
真に物そのものとなって考え、
物そのものとなって行なうことでなければならない。


西田幾多郎




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初調査結果、キター!


1位  神社本庁 68,053,757人

2位  幸福の科学 11,000,000人

3位  創価学会 8,270,000人

4位  浄土真宗本願寺派 6,940,967人

5位  浄土宗 6,060,900人

6位  立正佼成会 4,288,466人

7位  高野山真言宗 4,108,500人

8位  日蓮宗 3,853,592人

9位  天理教 1,635,486人

10位 霊友会 1,577,086人

('09週刊ダイヤモンド調べ)



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