僧侶のたくらみ

仏教とニューエイジの対話を推進するべく、 こっそりと活動中

カルトについて

カルト教団。

悩ましい問題です。

どれが、カルトで、どれが正しい教団なのか?

判断するのは簡単です。

その信者が、どんな活動や言動をしているのか、を見ればいいのです。

はっきり言えば、ほとんどがカルトです。

しかも、伝統教団ですら、カルト化しています。

魔の手に落ちたということです。

それほど人間は、地上の毒に侵されやすいのです。

唯物論が科学的正義とされる現代においては、なおさらなのです。




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宗教と平和

アメリカのスピリチュアルリーダーで医師のチョプラ博士は、
平和のために、このような提案をしています。


宗教は、暴力の責任は人間の心にあるということを明確にすべきである。

宗教は、異教徒を神に断罪されるべき罪人とみなすのをやめるべきである。

宗教は、戦争を擁護することを一切やめるべきである。

宗教は、みずからの教えが神への唯一絶対の道だと主張することをやめるべきである。

宗教は、傲りを捨て、権成を主張することをやめるべきである。

宗教は、密かな欲望や権力欲を捨てるべきである。

宗教は、再び愛に最高の価値を与える道を見いださなければならない。




既存宗教が偏狭であって、
スピリチュアルな真実を受け入れるのを拒んでいることが、
平和実現の妨げとなっています。

日本の仏教者もよくよく反省する必要があります。

仏教は神を認めない宗教だ、という主張も、
エゴにもとづく優越感の裏返しであり、立派な他宗教に対する攻撃です。




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宗教の時代

「21世紀は宗教の時代になる」と言ったのは、
大歴史家トインビー博士でありました。

歴史は「神」の物語であると結論づけた博士の予言はみごとに的中しています。

まさに、宗教の時代の到来です。

19世紀後半から20世紀にかけて、一時的に「神」は死んだと信じられましたが、
21世紀には、この「神」がニューエイジ思想として復活を遂げました。

科学も、「神」を征服することを諦め、「神」に屈服しはじめているようです。

21世紀が宗教の時代に成るのは確実ですが、
その負の側面、すなわち宗教間紛争を克服するのが大きな課題です。

現在、地球規模での宗教改革が切望されています。




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これからの宗教

現代においては、
高度化した仕事を営む上で役立つ、生きた宗教が要請されています。

古い宗教では、あの世のことや心の平安だけを説いていれば良かったのですが、
文明の大発展にともない、この世での幸福理論を説く必要が出てきました。

アメリカンドリームは、
メイフラワー号に乗った新教徒たちから始まったのです。
ここに、神の意思が表れています。

V・ピールやシュラーは、牧師さんですが、
人は日々考えている通りになるといって、
信仰と仕事の成功を結びつけて教えを説きました。

ニューソートは、意識が現実を創り出すといって、
この世での成功や発展繁栄、富について教えました。

その流れが、現在の引き寄せの法則やニューエイジ思想に繋がっています。

アメリカでの流行は、日本に遅れてやってくるので、
これからの宗教には、そういう要素が求められるのは必然です。

現在の僧侶は、あの世のことも説かなければ、
この世での実践的な幸福の方法も説いてません。

これでは、日本仏教が衰退するのも無理はありません。

宗教は、時代の要請に対応していかなければならないのです。

これからのキーワードはこうです。


内なる声に従う

直観的なひらめきを大切にする

奇跡の日常性を感じる

祈りや瞑想の時間を持つ

神や宇宙を信頼する

絶えず感謝を持ち続ける

自分の夢や可能性を信じる

肯定的なことに焦点を当てる

自分が望むビジョンを思い描く





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信仰は人を強くする

宗教(神)を信じる人は、知性が足りないのでしょうか?

弱い人間なのでしょうか?

それはとんでも無い誤解です。

歴史上、最も知的で、勇気ある人物は皆、信仰を持っていました。

釈迦やイエスをはじめ人類の進歩に貢献した方々がたくさん存在します。

信仰は、人を強くするのです。

目に見えない崇高な価値観を理解できるのは人間に与えられた特権です。

自分の「命」、以上に大切なものを持てる人は最強なのです。

その人の残した愛は、時空を越えて生き続け、他の存在をも生かし続けるのですから。




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生きる指針

私たちは、生きる指針がなければ、迷ってしまいます。

それを与えてくれるのは、霊界から降ろされる神の教えである宗教です。

戦後、学校やマスコミは、これを伝えてきませんでした。

その教えが無かったわけでなく、わざと隠したのです。

それだけではなく、それを嘲笑しました。

大人は、財産や地位、名誉、学歴以外に大切なことを教えませんでした。

その結果、現代人は自我が肥大してしまいました。

個人主義の時代になり、他のために生きることは、はやらなくなりました。

しかしすべての苦しみは、自分が自分がという意識から来るのです。

真理では、自分と他人という区別などなく、自他は一体です。

それゆえ、自分だけが幸せになる、ということはありえません。

また、他人の存在が無ければ、幸せも感じられません。

いつの時代にも、神の望まれる生き方が、
生きる指針として、法として、宗教として示されているのです。

宗教に共通する教えは、愛や慈悲の精神です。

やはり、愛に生きることが、人間の最大の幸福なのです。




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宗教擁護論

宗教はよく批判されるように、そんなに危険なものなのでしょうか?

カルト教団による様々な事件、
霊感詐欺、宗教テロなどが実際に起きているにしても、それは特例であります。

カルトや霊感商法にしても、当事者は純粋に信じている場合も多いのです。

宗教の大半は、善を勧め、人を愛するように説き、
魂の永遠性を納得させ、世界中で多くの人々を救っています。

また、悪いことをすれば、死後悪い所にいかなければならない、
ということが安全弁となり、宗教を信じている人は、そう悪いことはしません。

むしろ、宗教は、楽しく、希望を与えてくれるものであります。


宗教を悪くいう人は、信仰を持っていないことが多いのです。

それでは、
宗教批判を信条とする共産主義はどれほどの害悪をなしてきたでしょうか?

神を否定し、人間の魂を否定し、人間を機械と同じに扱うため、
魂を腐らせてきただけでなく、世界中で億単位の人々を虐殺してきました。

どちらが危険な思想なのでしょうか?

神を否定するということは、人間の尊厳をも否定することと同じです。

その証拠に、
宗教心の大切さは、共産主義国以外では、どの国の憲法にもかかれています。

崇高なる神を信じ、魂の向上を望んで、
その教えにしたがって善く生きようとすることの、どこが間違っているのでしょうか?

宗教心を持つことや神を信じることが悪であるかのように言われるほど、
本来の立場が逆転してしまっているのが現状なのです。

この世界に神秘や不思議は無いと見るか、
人知を超える何かが存在すると見るか、
それは、各人の自由であります。

しかし、諸学問や文化・芸術の根源は宗教にあります。

また、神を信じるということは、事実の確認にすぎないのです。




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誤解される宗教

環境問題が地球的課題となり、そんななかで、
宗教性をもつディープエコロジーやLOHASなどの思想も出てまいりました。

一昔前には、無神論者達が、
環境破壊の原因を意図的に一神教に結びつける風潮がありました。

つまり、聖書にある自然に対する人間優位の思想が、
人間中心主義をまねき、一神教である西洋文明が広がったことで、
環境破壊が進んだのだ、という論調です。

しかし、これは正しくありません。

実は、聖書には、
人だけが優れた生き物ではないこと、
他の生き物と共に生きよと神が命じたこと、
他の生き物を治めよということ、が説かれているのです。

その証拠に、一神教のヨーロッパの国々は、皆エコロジー先進国です。

基本的に宗教は、共生や調和を目指すものであって、
決して自然破壊を認めるようなものではありません。

むしろ、自然破壊を促進したのは、
他ならぬその無神論者達であるのです。

宗教を非科学的であるとして排撃した20世紀に、
ものすごい勢いで、環境破壊が進んでいったのです。




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時代の要請

現代には、西田哲学のような、仏も神も包括した思想が求められています。

いままでの西洋哲学や学問は、
ユダヤ・キリスト教的伝統のなかでおこなわれてきました。

西洋の発展が、一神論絶対主義の追い風となって、
学問的にも、アミニズムや汎神論、多神論的宗教は程度の低いものとされたのです。

宗教者たちは、ともすれば自分の信じる宗教だけが真であり、
それ以外の伝統は偽であると想定しがちであります。

しかし、それは明かに任意的なものであって、誤った認識です。

これからは、グローバル化にともなって、
世界宗教は、無限なる神的実在に対する知覚と応答を具象化したものである」、
という多元主義的な見方が必要とされてくると思われます。

仏教者も、後ろ向きな姿勢をあらためなければなりません。

「○○聖人はこういってます。」
「仏教の教義では、魂の存在を認めません。」

というようなことを誰も望んでいないのです。

人々は、どうすれば幸せになれるかが知りたいのです。

仏教者は、新しい思想哲学を打ち出さなければいけません。

宗教は、時代の要請に応じて、進歩発展していくものなのです。




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宗教教育の再開

2006年末に改正された教育基本法の第15条には、

宗教に関する寛容の態度、
宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、
教育上尊重されなければならない。


とあります。

これを受けて学習指導要領が改訂され、
そこには、中学の社会科で、
政治及び宗教に関する教育を行うものとする
と明示されています。

全面実施は、2012年度からですが、
来年度から、先行実施される予定だそうです。

いよいよ、日本でも宗教教育が始まろうとしているのです。

日本の末来が明るくなりますように。




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宗教者の欺瞞

日本には、成功者を悪く言って嫉妬するカルチャーがあります。

そして、善いことをして成功しても、正当な評価をしないことも多いです。

しかし、圧倒的な善のエネルギーを発信している人は、

少々の批判や、嫉妬、嘲笑、妨害などにはびくともしません。

何故でしょうか?

悪は、善には勝てないからです。

善は、神そのものだからです。

愛は、全てを包摂するからです。


だれもが本心では分かっているのです。

何故、未だに釈迦やキリストやマホメッドが尊敬されているのでしょうか?

五萬といる宗教者達に問いたいのです。

あなたは彼等以上の人格者なのですか?




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宗教の力

宗教には、力があります。

宗教は、単なる教義や、建築物や組織のことではありません。

宗教は、今、ここに働く、現実的なる神の愛の顕れなのです。

宗教は、先端科学よりも深遠な真実を教えます。

心を扱う学問に数字は通用しません。

また、愛は数字では表せません。

善・正義・勇気・慈悲などの最も大切な徳目は、みな目に見えないものです。

霊界や魂の存在も、数学的証明にはなじみません。

夢の世界を考えれば、
それを証明しようということがいかに困難なことであるかが分かります。

しかし、近年、精神も波動であることが解ってきました。

この波動が謎を解く鍵になりそうです。

宗教は誤解されてきましたが、
これからは、宗教と科学の逆転現象が起きてくるでしょう。

それが、本来の姿なのです。

中世には、世界は神の創造の産物であると、
実際上すべての人が信じていたのです。

神に不可能は無い故に、信仰や祈りの力は絶大なのです。

だから、宗教には、現実や人間を根本から変える力があるのです。

仏教は信仰無き宗教、神秘無き宗教である」と喧伝する勢力には注意が必要です。

それは、形を変えた唯物論者、無神論者が生き残ろうとしている姿なのです。




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事実の確認

「宗教心や信仰心が大切なのは分かるけど、どうしてもそれが持てない。」
という方は多いようです。

これには、いろんな理由があるようですが、
「現実世界を見る限り、神がいるようには思えない、
神がいるのなら、こんなに悲惨で残酷な世界にはしないはずだ。」

「目に見えない死後の世界などに期待を寄せるのは、弱い人間の現実逃避だ。」
とよく言われます。

日本の場合は、学校でも宗教について教えてくれませんし、
唯物論が常識とされているので、どうしても懐疑的になるのはしかたがありません。

しかし、人間には、どこかに求める気持ちや、信じたいという気持ちがあります。
もっと崇高なもののために生きてみたいという思いが、
どこからともなく、湧いてくるものです。

人間には自由意志が与えられているので、もちろん強制はできませんが、
神やあの世の証明の為に、宗教はあるのです。

太古の昔より、多くの覚者達が神やあの世の実在をうったえ続けてきました。

世界中のあらゆる地域で、あらゆる時代に、神やあの世は信仰されています。

いまだかつて、神やあの世は存在しないことの証明に成功した人はいません。
こう言うと、「無いものを無いという証明は不可能」と言われそうですが、
無いことを主張する人に証明責任が生じるのは当然のことです。

神やあの世は、100%存在します。
真実はあるかないか、のどちらかしかありえません。
これは曖昧な問題ではないのです。

宗教心や信仰心を持つのは、困難なことではありません。

事実の確認であり、事実を受け入れるだけなのです。




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神人隔絶型宗教と神人合一型宗教

宗教には、神人隔絶型と神人合一型があります。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は神人隔絶型の宗教と言われます。

これらの宗教では、
神と人間の間には、最初から圧倒的な差異が存在し、
人間は神によってのみ救われるのですが、決して神となることは許されません。

一方の、神人合一型の宗教は、
神は万物に宿り、神と人間は一体であり、
人間は、神近き存在となっていくこと出来る、と説きます。

汎神論、神秘主義、グノーシスなどもこれにあたります。

仏教でも、仏と成るために修行をするのであって、
内なる仏性を開発して悟りの階梯を昇っていく道が説かれています。

誰でも仏陀となる可能性があるということは、大変な希望であり喜びです。


神人隔絶型の宗教では、
人間の罪が強調され、神は罰を与える存在であり、畏れの対象です。

神人合一型の宗教では、
人間を肯定的にとらえ、神は育み共に歩んでくださる存在です。

どちらが、神の真意に近いのでしょうか?

慈悲深い神は、
自分の子供達が、無限に成長していくのを望まれるはずです。

実際に、私達は永遠の霊的進化の過程で、
神仏近き存在へとなっていくことが可能なのです。

精進いたしましょう。




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国民の宗教意識

国民の宗教観調査に関するニュースです。

この調査結果をみる限り、
特定の宗教団体を信じる人は減少ぎみですが、
神秘を肯定する人は約6割、魂の存在を認める人は5割以上にも達しています。
日本も、ニューエイジ的傾向を示しはじめました。
もはや唯物論者は少数派です。僧侶はどちら側に属するべきなのでしょうか?




宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査

5月29日23時41分配信 読売新聞

読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、
何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、
信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、
「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、
薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、
「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」
という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、
人知を超えた何ものかに対する敬虔さを大切に考える傾向が強いようだ。

調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、
「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%−がこれに続いた。




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愛の実践

人々は宗教の重要性に気づきはじめています。

無神論が知的で、かっこがいい、と思われた時代は終わりました。

最近は、あまりにも辛く悲しい出来事が増えてきています。

目にみえぬもの、宗教的価値観をないがしろにしてきた結果です。

すべては、人間の自我我欲から生じます。

だから、正しい宗教では無私と無我の精神が説かれます。

この世には、もっと優しさや愛が必要です。

地球を救うのは、愛しかありません。

そのためには、神仏の愛を知る必要があります。

信仰を第一の価値観とする世界が実現されなければいけません。

人々は、愛に飢えています。

愛の実践に生きる人こそが、最もかっこいいのです。




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消滅した世界宗教

マニ教は、現代では忘れられた宗教です。

3世紀のペルシャで、
マニが24歳の時に啓示を受けて開教されました。

マニは自らを、「キリストの後継者」、「神の使い」と呼び、
諸宗教を統合した新しい教えを布教、伝道しました。

しかし、当時の国教であったゾロアスター教を奉じる人々から、
嫉妬や脅威による迫害を受け、
生きたまま皮をはがされるという残虐な手段により処刑されています。

マニ教は、かつては、スペインから中国にかけて広がりをみせていましたが、
現在では、幻の世界宗教となってしまいました。


マニは、天上界からの啓示を受け、
自らが救世主であることを自覚していました。

現存する著作「ケルンのマニ写本」でこう言っています。

私は、光の天使たちと、非常に強い諸力によって守られていた。
彼らは光彩を放つイエスから、私の世話をするよう命じられていた。
私は彼らから、さまざまな光景やしるしを見せられた。
それらはかすかでごく短い間しか続かなかったが、
私が可能な限り知ることができるようにしてくれた。
ときおり稲妻の閃きのように彼がやって来た。

私のこと、私は誰なのか。
私と不可分の双子の兄弟は何者なのか、高きところの父が何者か。
彼から切り離された私がどのように、彼の目的に沿って送り出されたか。
私がこの道具である肉体をまとい、
この忌まわしい肉に包まれて迷い道へと導かれる前に、
父から何を命じられ、どのような助言を受けたのか。
また、私の魂に関しては、これはすべての世界の魂として存在するのだが、
それが何であり、どのようにして生まれたのか。
さらに、私は彼から、無限の高みと底知れない深みを見せられた。
世間から隠され、誰一人見たり聞いたりすることを許されない神秘を見せられた。
彼は私にすべてを見せてくれた。



マニの言及が記録されている「シャープーラカーン」には、こうあります。

神の使徒たちはいつの時代にも絶えることなく、
霊の叡智や業を運んできた。
ある時代には、ブッダという使徒としてインドの国々を訪れた。
別の時代には、ゾロアスターとしてペルシャの地を、
また別の時代にはイエスとして西の地を訪れた。
その後、この最後の時代にこの啓示が下り、
私という預言者、真の神の使徒であるマニが、バベルの地に到来した。



マニは、世界宗教を創設するという使命をもった大如来であり、
前世では、ゾロアスター教の開祖でもあったのです。

自らの前世を開祖と崇める人々によって処刑されるとは、
何という歴史の皮肉でしょうか。
いつの時代でも、人間は、救世主の存在に気づかず、愚かな行為を繰り返しています。




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希望の光

邪教は数限りなく存在します。

しかし、神は人類を見捨てるようなことはしません。

正しい宗教は、存在するのです。

ニューエイジ運動もその一環です。

よく目を凝らせば、世界的な霊性復興のうねりが見えてきます。

全人類救済の為に本気で立ち上がっている団体があります。

一見同じようなことを言っていても、その違いは明確に分かります。

その教えを奉じる人々が実際に幸福になっているかどうか?

その教えを奉じる人々が無私の精神を持ち、愛溢れる人格者となっているかどうか?

その教えを奉じる人々が伝道に熱意を持っているかどうか?

神の使命を帯びた人々は、闇の中で強烈な光を放つのです。

仏法僧の三宝に帰依し、無我に生きている人々が、人類の希望の光なのです。

よもやその光に破られる闇とはならぬよう、愚僧も精進します。




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ラマナ・マハルシの教え

ガンジーやユングも尊崇していたといわれる、
インドの20世紀の聖者ラマナ・マハルシの言葉です。



人間の真性質は幸福です。幸福は真の自我に植えつけられた天性です。
幸福を求めるのは、真の自我を無意識的に求めているのです。
真の自我は亡びるものではありません。
だからそれを見出した人は、終りなき幸福を見出します。


すべての思想の初一歩は、各人の心の中に在る原始的思想で、我という思想です。
この思想が生れて来た後、さまざまな思想がおこって来ます。
心の中に最初の個人的代名詞「我」というものがおこって来た後、
第二の個人的代名詞「汝」というものが生れて来ます。
「我」というものの糸を知的に辿っていくと、その源泉に戻れば、
「汝」という思想も、「我」という思想も消えてしまいます。これは経験されることです。


私という感覚は肉体や脳髄の人間にこびりついています。
人が初めて、真の自我を知ると、
自己の存在の深い根底から何ものかが盛り上って来て、その人を促えます。
その何ものかは心の背後にあって、永遠無限神聖なものです。
ある人はそれを天国といい、ある人はそれを魂といい、
またある者はそれを涅槃といいます。
どういう名称だろうと、お好み次第につけてよいのです。
これが起って来ると、人間は自我を失ったのではなくて、自我を発見したのです。


人は、真我の質問に出発しなければ、
不安懐疑が、一生涯彼につきまとうことになります。
世の中には様々と知識を集める大知力の人達がいます。
この人達に人間の神秘を説くことが出来るか、
自己に打ち勝っているか聞いて御覧なさい。
彼等は恥入って頭を垂れてしまいます。
自分が何ものであるかということを知らないで、
様々な事を知ろうとしても何の役にも立ちません。
人々は真我の探求を避けて、何を計画しても無駄です。


真理はインド人にも欧州人にも同じことです。
俗悪生活に鈍している者には、この道を辿ることが難しいですが、
それでも人間はこの困難を克服しなければなりません。
瞑想裡に湧き出て来た活泉の流れは、善習慣により、
瞑想の実修によって持続されます。
その活泉に汲んで、自分の仕事も活動も出来るのです。
瞑想と外的活動の間には区別がありません。
「我は誰であるのか?」
人がこの問題を瞑想して、自分は肉体でもなく、頭でもなく、
欲望でもないことを知り始めたなら、
甚深な自己存在の根底から答えはおのずから出て来ます。
深遠な実現と調和して解って来るものです。





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天国に還る方法

私達は、地上に生れてきた以上は、
いつかは、この世を去っていなかければなりません。

誰も逃れることのできない宿命であります。

残念なことに、
あの世へは、財産やお金を持って帰ることはできません。

家族も友人も、何もかも置いていかねばならず、
持って帰れるのは心だけなのです。

あの世では、肩書き、地位、名誉は、全く通用しません。


それでは、あの世で通用する価値とは何でしょうか?

あの世は、多くの階層に分かれていますが、
地獄的世界と天国的世界は、はっきりと分かれています。

少なくとも、天国の入り口である5次元霊界に還るためのキーワードは、
他人の幸せを喜べるかどうか、ということなのです。

これは「黄金律」とよばれ、世界の宗教で共通して言われていることなのです。

キリストは、
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
と教えました。

旧約聖書にも、
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」とあります。

孔子は、
「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」と言いました。

お釈迦さまも、
「自分が愛しいように他の人もその通りなのだから、 他の人をも愛しむようにせよ。」
と繰り返し説かれました。


現代では、宗教は軽視されがちですが、
このように、宗教はあの世の価値観を教えるものなのです。




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宗教の危険性

現代の仏陀が、宗教の維持の難しさついて説かれています。
まれなることです。




宗教的なもののなかには、魔界のものの惑わし、地獄からの惑わしがありますので、
こうしたものの入る余地をなくすために、普通は一本に絞り込むのです。
一つに絞っておくと、ほかのものが入ってくる余地がなく、
間違った見解が出る余地がないということで、異端はどんどん排除していきます。
よいものを落としてしまうかもしれませんが、
地獄的なものが入り込む余地がないかたちで維持できるということです。
キリスト教などはそういう感じでしょう。
キリスト教のなかで、たとえばグノーシス派のような、
神秘的な部分を非常に重視するものなどは、
やはり高級霊からの宗教改革であったと私は思います。
イエスが生前に説きえなかった霊的世界について、
充分に補完しようとする動きだったのですが、やはり異端として消されてしまいました。
そういうことがあります。
ですから、一つに絞ることは、よし悪しの両方があります。
一方、多様なる価値観を受け入れた場合には、
確かにいろいろなものと仲よくやってはいけるのですが、
逆に、地獄からの迷わしのようなものが入ってきたとき、
それをはっきりチェックできるかどうかに不安があることは事実です。
そうした違ったものを付け足されていく余地があるわけです。





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儒教の宗教性

現代の中国では、再び、孔子がブームになっているそうです。

あの唯物論の国で、そのような需要があるということは、
人間には物質の豊かさだけではなく、心の幸福が必要だということを示しています。

儒教は宗教性が薄く、道徳思想や政治論として語られることが多いのですが、
孔子自身は、祖霊崇拝を肯定しており、天や神について知っている人でありました。
あえて「怪力乱神」は語らず、教育者に徹して、君子としての道を教えました。

それゆえ、孔子の説いた、「仁・義・礼・智・信」の徳目は、
時代を超え、堅実な人生の指針として普遍的でありえています。

孔子の言葉は、近代に通じる合理主義として解釈されがちでありますが、
彼は、はっきりと語っています。




祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす。
子曰く、「吾は祭りに与らざれば祭らざるが如し。」

孔子は、祖霊や神を祭る時には、
祖霊や神が目の前に居るかのように誠意をつくした。
孔子はこういわれた。
「私は、自らが祭らないと、物足りず、祭ったような気がしないのだ。」


子の疾、病なり、子路祈らんと請う。
子曰く、「諸ありや。」
子路答えて曰く、「之あり。誄に曰く、『爾を上下の神祇に祈る』と。」
子曰く、「丘の祈ること久し。」

孔子の病気が重くなったので、弟子の子路は、祈ろうとして許しを願った。
孔子は、「祈る道理はあるのか。」と聞かれました。
子路は答えた。
「あります。古い言葉に、『なんじを天地の神々に祈る』とあります。」
孔子はこういわれた。
「それならば、私は久しく祈りをしているので、今更、改めて祈る必要はない。」


子曰く、「我を知ること莫きかな。」
子貢曰く、「何為れぞ其れ、子を知ること莫きや。」
子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か。」

孔子はこう嘆かれた、「この世には私を本当に知る者はいない。」
弟子の子貢は聞いた、「どうして、師のような偉大な方を知る者がいないのでしょうか。」
孔子はこういわれた。
「不運であっても天を恨むことなく、人から用いられずとも人のせいにせず、
皆と同じ立場に下って地道に学問を極めてきた。
私は、自らを高し、としていないから人からは知られていないが、
天のみが、私を知っているのだ。」





孔子は大如来であり、あの古代エジプトの最高神オシリスの再臨でありました。




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霊的なる教育者

明治45年に結成された思想界の統一運動である、
「帰一協会」の中心人物に成瀬仁蔵がいます。

彼は、この帰一教会の綱領を持って欧米に渡り、
多数の宗教者の賛同を得るなどして、東西宗教の相互理解を計ろうとしました。

この協会を通じて、国際的な精神運動を起こそうとしたのです。


成瀬仁蔵は、日本女子大学の創立者であり、
日本の女子高等教育の開拓者といわれます。

彼は、慶應義塾大学の福沢諭吉、同志社大学の新島襄とあわせて、
明治の三大教育者の一人とされていますが、あまり世に知られていません。

彼は、また牧師としての顔を持つ宗教者でもありました。

その信仰は、キリスト教のみにとらわれず、ニューソートや神智学にまで及んでいます。

日本女子大学の三綱領は、
「信念徹底」、「自発創生」、「共同奉仕」であり、

「宇宙に遍満するところの、微妙不可思議な至高至大の活力、
神聖な霊的生命という外に名づけようのない、実在の文化的発現たる人々の精神」
を前提として提唱された、宗教色の濃いものとなっています。


彼の講話録が残されていて、その思想がかいまみれます。

我々は引力、光、熱、電気、磁力等、フォース及びエーテルによって、
他の天体と密接な関係を結んでいるが、
宇宙の本体界における精神的関係を説明するためには、エーテルなどよりも、
なお一層微妙な仮説を立てなければならぬ。
つまり内在生命、精神的生命の本質は何であるかというと、
それを霊光(アストラル・ライト)と名づける。
アストラルとは、天ないし人間以上の世界を意味するのであるが、
その霊光の出来る原素は即ちライプニッツのいうモナドである。
モナドはあらゆる精神界の活動の本源であって、霊界はそのモナドの海洋なのである。
我々の精神の中にはこの霊光があって、肉体感覚によらない交通をすることが出来る。



このような教育者が日本にいたのは驚きです。




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瞑想について

宗教では、何の為に瞑想を行うのでしょうか。

瞑想は、単なるリラックス法ではありません。

瞑想の本来の目的は、
この世の波動から離れて、霊的世界との交流をはかるためにするものです。

しかし、あくまでも高次な世界への参入であって、
低次な世界とのコンタクトではありません。

ですから、アルコールが入っていたり、心が乱れていたりする状態では、
高次な世界との交流はできません。

やはり、ここでも波長同通の法則が働きます。

心の波長を調えて、平和で静寂なものにしていくと、
温かいものを感じたり、何らかのインスピレーションがあったり、
高次な世界からの光を受けて幸福感が得られる、ことがあるのです。

ですから、瞑想には、作法も方法も無数にあります。

しかし、形や作法よりも、
神仏を信じきることと、心の波長を調えることが、最も重要なのです。


瞑想によって、

霊的な充電がなされ、日常生活の活力が得られます。

内面の智慧が開発され、この世的な能力が向上します。

心身の健康が増進され、人間関係が良好になります。

霊的能力が備わります。

認識力が上がり、悩みや問題を解決していくことが出来ます。



瞑想の効果には、はかりしれないものがあるのです。




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ゴールデンルール

画像貼り付けテストを兼ねまして、ネットで見つけたものです。


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