2009.04.24
信念の波動
量子物理学の発見によって、
我々は、現実とは何かをめぐっての認識を変えざるをえなくなってきました。
「信念が現実を創る」ということが、新たな時代の常識となりつつあるのです。
リアリティ革命は、静かに進行しているように思えるが、
それがわたしたちの生活にもたらす変容は過去に類を見ないものである。
というのも、これまで当然と考えられていた理論に疑問を投げかけただけではなく、
宇宙の成り立ちや宇宙のなかのわたしたちの役割について、
過去300年間わたしたちが信じてきた「事実」に欠陥があることを暴露したからである。
わたしたちが信じてきた「事実」は、次の二つの前提に基づいていた。
しかし、それは偽りであることが証明されたのだ。
偽りの前提の一つは、
「物と物の間にある空間は空っぽである」というものだ。
それが真実ではないことを新しい発見は告げている。
もう一つの偽りの前提は、
「感情や信念といったわたしたちの内的経験は、
身体を超えた世界になんの影響も及ぼさない』というものである。
これもまた間違っていることが証明された。
最先端の学術専門誌に発表された従来のパラダイムを破壊する実験は、
かつて空っぽの空間と見なされていたところが、
知的なエネルギーに満たされており、
わたしたちはその知的なエネルギーの場にひたっていることを明らかにしている。
さらにこの場が、心臓を基盤とするわたしたちの感情や信念に反応する、
―自らを構成しなおす―ことを、ほかの発見が明らかにしている。
これこそすべてを変える革命なのだ。
1687年、アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』を発表し、
彼の物理の「法則」が正式に認められて以来、わたしたちは間違った、
あるいは不完全な情報に基づいて自分の能力や限界を判断してきた。
あのとき以来、大半の科学は、
わたしたちを壮大な宇宙の営みから切り離された、とるに足らない存在と見なしてきた。
それがわたしたちを、人生と現実の方程式から締め出してきたのだ!
今回の革命が画期的なのは、
あなたやわたしが今、この瞬間にしていることに、その革命が全面的に負っているからだ。
わたしたちは自分自身や世界とは何かを、
個人や集団として、意識的無意識的に、絶えず選択している。
そのような信念の結果が、日常的な現実となってわたしたちを取り巻いているのだ。
新しい発見は、個人的な健康や人間関係から世界戦争や平和まで、
わたしたちの人生の現実は、万物をこしらえている量子的素材を形作る、
「信念の波動」にほかならないことをほのめかしている。
すべては、わたしたちが、自分自身や自分の世界、
自分の可能性や限界をどう思っているかにかかわっているのだ。
グレッグ・ブレイデン「宇宙のマニュアル」
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我々は、現実とは何かをめぐっての認識を変えざるをえなくなってきました。
「信念が現実を創る」ということが、新たな時代の常識となりつつあるのです。
リアリティ革命は、静かに進行しているように思えるが、
それがわたしたちの生活にもたらす変容は過去に類を見ないものである。
というのも、これまで当然と考えられていた理論に疑問を投げかけただけではなく、
宇宙の成り立ちや宇宙のなかのわたしたちの役割について、
過去300年間わたしたちが信じてきた「事実」に欠陥があることを暴露したからである。
わたしたちが信じてきた「事実」は、次の二つの前提に基づいていた。
しかし、それは偽りであることが証明されたのだ。
偽りの前提の一つは、
「物と物の間にある空間は空っぽである」というものだ。
それが真実ではないことを新しい発見は告げている。
もう一つの偽りの前提は、
「感情や信念といったわたしたちの内的経験は、
身体を超えた世界になんの影響も及ぼさない』というものである。
これもまた間違っていることが証明された。
最先端の学術専門誌に発表された従来のパラダイムを破壊する実験は、
かつて空っぽの空間と見なされていたところが、
知的なエネルギーに満たされており、
わたしたちはその知的なエネルギーの場にひたっていることを明らかにしている。
さらにこの場が、心臓を基盤とするわたしたちの感情や信念に反応する、
―自らを構成しなおす―ことを、ほかの発見が明らかにしている。
これこそすべてを変える革命なのだ。
1687年、アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』を発表し、
彼の物理の「法則」が正式に認められて以来、わたしたちは間違った、
あるいは不完全な情報に基づいて自分の能力や限界を判断してきた。
あのとき以来、大半の科学は、
わたしたちを壮大な宇宙の営みから切り離された、とるに足らない存在と見なしてきた。
それがわたしたちを、人生と現実の方程式から締め出してきたのだ!
今回の革命が画期的なのは、
あなたやわたしが今、この瞬間にしていることに、その革命が全面的に負っているからだ。
わたしたちは自分自身や世界とは何かを、
個人や集団として、意識的無意識的に、絶えず選択している。
そのような信念の結果が、日常的な現実となってわたしたちを取り巻いているのだ。
新しい発見は、個人的な健康や人間関係から世界戦争や平和まで、
わたしたちの人生の現実は、万物をこしらえている量子的素材を形作る、
「信念の波動」にほかならないことをほのめかしている。
すべては、わたしたちが、自分自身や自分の世界、
自分の可能性や限界をどう思っているかにかかわっているのだ。
グレッグ・ブレイデン「宇宙のマニュアル」



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2009.04.19
生命の神秘
そろそろわたしたちも、
こう認める潮時ではないのだろうか―生命は、
科学者たちのたゆみない努力にもかかわらず、
本質的に神秘的なものであることに変わりなく、
それを真に意味あるかたちで理解するまでには、
まだ多くの意外な発見が待ち受けている、と。
わたしは、日々の科学的探究の地道な一歩一歩に、
驚異の念(センス・オブ・ワンダー)と興奮をおぼえつづける、
こういうアプローチが好きなのである。
驚異的な事実の次なる開示をわたしは心待ちにしている…。
わたしたちが悩んだり、糸口を突ついたり、
ときには理解しようとするあまりに、
対象を壊してしまうということ自体、
わたしたちの意識が成長しつつあることの証しである。
歩みは依然、遅々としたままだが、
着実に真理に近づいているようだ。
わたしたちが長く緊張を解いているような折には、
世界が自身を開示しはじめ、
この織物全体の本質とパターンについて、
ほのかな手がかりを見せてくれることがある。
そんなときにかいま見えるその姿は、
まさに心奪われるものである。
ライアル・ワトソン
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こう認める潮時ではないのだろうか―生命は、
科学者たちのたゆみない努力にもかかわらず、
本質的に神秘的なものであることに変わりなく、
それを真に意味あるかたちで理解するまでには、
まだ多くの意外な発見が待ち受けている、と。
わたしは、日々の科学的探究の地道な一歩一歩に、
驚異の念(センス・オブ・ワンダー)と興奮をおぼえつづける、
こういうアプローチが好きなのである。
驚異的な事実の次なる開示をわたしは心待ちにしている…。
わたしたちが悩んだり、糸口を突ついたり、
ときには理解しようとするあまりに、
対象を壊してしまうということ自体、
わたしたちの意識が成長しつつあることの証しである。
歩みは依然、遅々としたままだが、
着実に真理に近づいているようだ。
わたしたちが長く緊張を解いているような折には、
世界が自身を開示しはじめ、
この織物全体の本質とパターンについて、
ほのかな手がかりを見せてくれることがある。
そんなときにかいま見えるその姿は、
まさに心奪われるものである。
ライアル・ワトソン



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2009.04.17
エネルギーの不滅
死後生は、宗教的問題ではなく、科学的事実です。
ロケットやミサイルを発明し、戦後の宇宙開発時代の立役者となった、
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の晩年の言葉です。
科学は、どんなものでも、
跡かたもなく消失することはあり得ない、ということを発見しました。
自然は、消滅ということを知らないのです。
自然が知っているすべてのことは、変形!なのです。
しばらく、このことについて考えてみて下さい。
いったんこのことを考えてみれば、
人生についてのあなたの考え方も、もうこれまでと同じではなくなるでしょう。
もし神が、宇宙の中の最もささやかでつまらない部分に対してまで、
この根本原理を適用されているとすれば、
神が、その被造物の中の傑作である人間の霊魂に対しても、
この原理を適用されている、と仮定しても、何の不都合もありますまい。
私は、その通りだと考えています。
科学がこれまで私に教えてくれたすべてのこと、
―そして今もなお教えつづけているすべてのこと―は、
私たちの霊的存在が死後もつづくという私の信仰を強めてくれました。
何ものも、跡かたもなしに消え失せることはありません。
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ロケットやミサイルを発明し、戦後の宇宙開発時代の立役者となった、
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の晩年の言葉です。
科学は、どんなものでも、
跡かたもなく消失することはあり得ない、ということを発見しました。
自然は、消滅ということを知らないのです。
自然が知っているすべてのことは、変形!なのです。
しばらく、このことについて考えてみて下さい。
いったんこのことを考えてみれば、
人生についてのあなたの考え方も、もうこれまでと同じではなくなるでしょう。
もし神が、宇宙の中の最もささやかでつまらない部分に対してまで、
この根本原理を適用されているとすれば、
神が、その被造物の中の傑作である人間の霊魂に対しても、
この原理を適用されている、と仮定しても、何の不都合もありますまい。
私は、その通りだと考えています。
科学がこれまで私に教えてくれたすべてのこと、
―そして今もなお教えつづけているすべてのこと―は、
私たちの霊的存在が死後もつづくという私の信仰を強めてくれました。
何ものも、跡かたもなしに消え失せることはありません。



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2009.04.14
霊魂の証明
昔から伝えられているあらゆる文献の中には、
霊魂の存在や死後の生について証明した説明がたくさんあります。
未だに、懐疑主義者はこれらを無視し続けています。
その証拠は、探せばいくらでも見つかるのです。
歴史家のフィックスはこうのべている。
「現在知られているすべての人種において、
信仰の最も古い形は、祖先崇拝すなわち死者の霊との接触である。
アフリカ、中国、日本、またヨーロッパ人種もアメリカ・ィンディアンも同様である。」
アレンは、彼の著書『文明の歴史』に、次のようにのべている。
「世界中の未開民族は、霊魂の不滅と霊界の存在を信じているようだ。
未開人は、来世をこの世のつづきと考えている。
また、自分のすぐ近くに神秘な力をもった第二の自分が存在していることを認めている。
この世での愛と憎しみは、霊界に伝えられる。」
孔子はこう言っている。
「死んだ人のことを悲しむな。故人は、愛情深い、忠実な友なのだ。
彼らはいつも私たちのそばにいる。」
ソクラテス、ヘロドトス、ソフォクレス、エウリピデス、プラトン、アリストテレス、
ホラティウス、ヴェルギリウス、プルタルコス、ヨセフス、ティロのマキシマスなど、
古代ギリシアやローマの文筆家たちは、
霊魂の存在をよく知られた事実として、くりかえしてのべている。
キケロは、「空はどこも人間でいっぱいなのではないか。
そこにまします神も、もとはといえば、この地上におられ、天にのぼられたのだ」と書いている。
原始キリスト教が霊魂の存在を認めていたことは、
聖アントニウス、教父テルトゥリアヌス、オリゲネス、
また彼らと同時代の人たちの著作にのべられている。
聖書は、霊魂の存在についてのべた話でいっぱいです。
「私たちは、このように多くの証人に雲のごとく取りかこまれている」(ヘブル書12章1節)。
「愛する者よ。すべての霊のいうことを信ずるな。
その霊が神より出たものかどうか、たしかめよ」(ヨハネの手紙第一、4章1節)。
「全うされた義人の魂」(ヘブル書12章23節)。
「われわれは肉の身体でまき散らされ、霊の身体でよみがえるのである。
最初にあったのは霊の身体でなく肉の身体であった。
その後に霊の身体が来るのである」(コリント人への第一の手紙、15章44・46節)。
聖書からは、この他にも、同じような言葉をいくらでも引用できる。
スウェーデンボルクは、この問題について何冊もの本を書いた。
またサムエル・ジョンソン博士は「私は霊の存在を信じない。
信じないどころか、これまであまりにも多くの霊を見すぎたから」と述べている。
シェークスピア、ミルトン、ワーズワース、テニソン、ロングフェロー、
その他多くの詩人たちが、その詩の中に、霊魂の存続についての深い理解を示している。
その他、クルックス教授、アルフレッド・ウォレス、オリヴァー・ロッジ卿、
アーサー・コーナン・ドイル卿、R・J・キャンベル師、副僧正コリー、ニュートン師、サベージ師、
W・T・ステッド、カミール、フラマリオン、バラグック博士、ジャネット博士、リシェ博士、
ロンブローゾ、ホジソン博士、I・K・フンク博士、ジェームズ教授、ヒスロップ教授、
キャリントン博士など、近代の科学者、哲学者、牧師、医師、
その他の研究者の信頼しうる研究については、一般にもよく知られている。
『心霊現象の法則』の著者トムソン・J・ハドソン博士は、
「今日では、心霊現象を否定する者は懐疑主義者とよばれるにも値いしない。
彼らは単に無知であるにすぎない」と書いている。
ニューヨーク市の聖使徒パウロ・カトリック教会の教区牧師であるジョージ・M・サール博士は、
こう語っている。「霊魂の存在は、この問題について調査してきた科学者たちも、
広く認めていることである。これを迷信や妄想だという人は、もはや時代おくれである。」
イエズス会士のG・G・フランコは『カトリック市民社会』の中で、次のようにのべている。
「現代では、心霊的事実が現実に存在することを否定する者は、だれもいない。
もしいるとすれば、それは、地上に足をもって生きていながら、
脳だけは月の世界で暮しているような、ごく少数の者だけである。」
「心霊現象は、感覚を通してとらえることのできる外界の事実なのであって、
誰にでも容易にみることができるものなのだ。
この事実は、多くの学識があり信頼のおける人たちによって承認されている。
既に実証された事実についてこれ以上議論するのは、
全く無用なことだし、馬鹿げたことでもある。
この事実は、理性ある人びとからもたしかなこととされている。」
カール・ウィックランド「迷えるスピリットとの対話」
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霊魂の存在や死後の生について証明した説明がたくさんあります。
未だに、懐疑主義者はこれらを無視し続けています。
その証拠は、探せばいくらでも見つかるのです。
歴史家のフィックスはこうのべている。
「現在知られているすべての人種において、
信仰の最も古い形は、祖先崇拝すなわち死者の霊との接触である。
アフリカ、中国、日本、またヨーロッパ人種もアメリカ・ィンディアンも同様である。」
アレンは、彼の著書『文明の歴史』に、次のようにのべている。
「世界中の未開民族は、霊魂の不滅と霊界の存在を信じているようだ。
未開人は、来世をこの世のつづきと考えている。
また、自分のすぐ近くに神秘な力をもった第二の自分が存在していることを認めている。
この世での愛と憎しみは、霊界に伝えられる。」
孔子はこう言っている。
「死んだ人のことを悲しむな。故人は、愛情深い、忠実な友なのだ。
彼らはいつも私たちのそばにいる。」
ソクラテス、ヘロドトス、ソフォクレス、エウリピデス、プラトン、アリストテレス、
ホラティウス、ヴェルギリウス、プルタルコス、ヨセフス、ティロのマキシマスなど、
古代ギリシアやローマの文筆家たちは、
霊魂の存在をよく知られた事実として、くりかえしてのべている。
キケロは、「空はどこも人間でいっぱいなのではないか。
そこにまします神も、もとはといえば、この地上におられ、天にのぼられたのだ」と書いている。
原始キリスト教が霊魂の存在を認めていたことは、
聖アントニウス、教父テルトゥリアヌス、オリゲネス、
また彼らと同時代の人たちの著作にのべられている。
聖書は、霊魂の存在についてのべた話でいっぱいです。
「私たちは、このように多くの証人に雲のごとく取りかこまれている」(ヘブル書12章1節)。
「愛する者よ。すべての霊のいうことを信ずるな。
その霊が神より出たものかどうか、たしかめよ」(ヨハネの手紙第一、4章1節)。
「全うされた義人の魂」(ヘブル書12章23節)。
「われわれは肉の身体でまき散らされ、霊の身体でよみがえるのである。
最初にあったのは霊の身体でなく肉の身体であった。
その後に霊の身体が来るのである」(コリント人への第一の手紙、15章44・46節)。
聖書からは、この他にも、同じような言葉をいくらでも引用できる。
スウェーデンボルクは、この問題について何冊もの本を書いた。
またサムエル・ジョンソン博士は「私は霊の存在を信じない。
信じないどころか、これまであまりにも多くの霊を見すぎたから」と述べている。
シェークスピア、ミルトン、ワーズワース、テニソン、ロングフェロー、
その他多くの詩人たちが、その詩の中に、霊魂の存続についての深い理解を示している。
その他、クルックス教授、アルフレッド・ウォレス、オリヴァー・ロッジ卿、
アーサー・コーナン・ドイル卿、R・J・キャンベル師、副僧正コリー、ニュートン師、サベージ師、
W・T・ステッド、カミール、フラマリオン、バラグック博士、ジャネット博士、リシェ博士、
ロンブローゾ、ホジソン博士、I・K・フンク博士、ジェームズ教授、ヒスロップ教授、
キャリントン博士など、近代の科学者、哲学者、牧師、医師、
その他の研究者の信頼しうる研究については、一般にもよく知られている。
『心霊現象の法則』の著者トムソン・J・ハドソン博士は、
「今日では、心霊現象を否定する者は懐疑主義者とよばれるにも値いしない。
彼らは単に無知であるにすぎない」と書いている。
ニューヨーク市の聖使徒パウロ・カトリック教会の教区牧師であるジョージ・M・サール博士は、
こう語っている。「霊魂の存在は、この問題について調査してきた科学者たちも、
広く認めていることである。これを迷信や妄想だという人は、もはや時代おくれである。」
イエズス会士のG・G・フランコは『カトリック市民社会』の中で、次のようにのべている。
「現代では、心霊的事実が現実に存在することを否定する者は、だれもいない。
もしいるとすれば、それは、地上に足をもって生きていながら、
脳だけは月の世界で暮しているような、ごく少数の者だけである。」
「心霊現象は、感覚を通してとらえることのできる外界の事実なのであって、
誰にでも容易にみることができるものなのだ。
この事実は、多くの学識があり信頼のおける人たちによって承認されている。
既に実証された事実についてこれ以上議論するのは、
全く無用なことだし、馬鹿げたことでもある。
この事実は、理性ある人びとからもたしかなこととされている。」
カール・ウィックランド「迷えるスピリットとの対話」



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2009.04.04
ニューサイエンスの時代
時代は大きく変わろうとしています。
古い機械論的世界観、唯物論の崩壊とともに、
台頭してきたニューサイエンスは、あらゆる分野に影響を与え始めています。
これは、希望であり、とてつもない出来事なのです。
私たちは、私たちと世界が相互作用するにつれて、共進化する世界に住んでいる。
この世界は、絶えず変化し、固定することができない。
そして、私たちのあらゆる想像を超えた、とてつもなく興味深いものなのだ。
さまざまな分野の科学者たちは、
アイザック・ニュートンやルネ・デカルトなどの偉大な天才たちが、
17世紀に説いた機械論的世界観で、
世界がどう動くかを十分に説明できるのか、という問いを投げかけている。
この機械論的世界観は、
細部を研究することが全体を理解するカギであるという立場につながる。
ものごとは、文字どおりにしろ、比喩的にしろ、
解剖して(ビジネスの機能、学問分野、専門分野、人体のパーツをそうしてきたように)、
ばらばらに解体しても、大きな欠落なしにほぼ元に戻せる、
部分の働きを知れば知るほど、全体がよくわかる、という仮定だ。
ニュートン科学は、唯物論の立場でもある。
人の身体的感覚で感知できるものを重視して世界を理解しようとするのだ。
実在するものは、目に見え、明確な物質的形状を持つとされる。
物理学の歴史では、そして今もってそうだが、科学者たちは、物質の基本的な「構成要素」、
万物のもととなる物質的形状をこぞって探しつづけてきた。
ニューサイエンスとニュートン主義の決定的な違いの一つは、
ニューサイエンスが部分よりもホーリズム(全体論)を重視していることだ。
システムは、システム全体として理解し、ネットワーク内の関係に注目する。
この視点でシステムを見ると、単純な原因と結果に分解できない、
あるいは、孤立した一要因として部分を研究しても説明できない、
つながりや現象のまったく新しい風景が現われてくる。
私たちは、量子力学の世界観に目を見開き、一般的な概念による世界観から抜け出す。
科学者にとってさえ、まぎれもなく突飛なものだ。
量子の世界では、関係が、すべての決定権を握っている。
原子より小さい粒子が形状として観察できるのは、何かほかのものと関係があるときだけだ。
独立した「もの」としては存在しない。
基本的な「構成要素」はないのだ。
量子物理学は、奇妙だが魅惑的な世界を描いており、
ハイゼンベルクによれば、世界は、
「事象の複雑な固まりとして現われ、そこでは、異なる種類のつながりが、
互い違いになり、重なり合い、結びつき、それによって全体の質感が決まる」とされる。
かつて別個の存在だと考えられていたものの間にある、
この見えないつながりが、万物の基本的な構成要素なのだ。
ほかの分野、特に生物学では、機械論的モデルから、
もっと全体的でダイナミックなモデルヘの移行は、まだ始まったばかりだ。
分子生物学の分野と遺伝学の大半の研究で、伝統的な機械論的思考がいまだ主流だ。
だが今、機械的イメージから抜け出して、生物を生物として理解しようとする科学者が多い。
また、進化論、動物行動学、生態学、生理学の分野で、
支配的な理論の抜本的な再公式化が起きている。
同様の世界観の変化は、人の健康に関する分野でも現われてきた。
全人的治療では、体を個別のパーツの集合ではなく統合的なシステムとしてとらえる。
生物学者の中には、
個別のシステム(免疫系、内分泌系、神経系など)として考えていたものを、
それぞれの機能が全体として相互に依存している一つのシステムとしてとらえたほうが、
よく理解できるという立場をとる人たちもいる。
さらに、最も規模の大きいレベルでは、地球を全体として巨大な生命体と見る、
ジェームズ・ラブロックが最初に提唱したガイア理論がある。
地球は、自己制御システムであり、
生命の生存を可能にする環境をともにつくる相互依存システムである地球社会だ、
とする彼の仮説に支持が集まっている。
化学では、イリヤ・プリゴジンが、ある物質が、環境の変化に合わせて、
より高い秩序に自らを再組織化することを証明した業績(散逸構造の理論)を認められて、
1977年にノーベル賞を受賞した。
古い機械論的モデルにおいては、変化や障害はシステムに苦難をもたらすものだった。
混乱は、あらゆるシステムの宿命である衰退を加速するだけだとされていた。
しかし、プリゴジンの業績は、もっと希望のある新しい未来を示した。
彼は、開放系には、より高いレベルで自己を再組織化することによって、
変化や無秩序に対処する能力があることを証明したのだ。
生命体の機械論的モデルから抜け出して、もっと深く生命系のダイナミクスを観察すると、
不安定や無秩序や変化をまったく新しい視点で見る方法がおぼろげながらわかってくる。
ニューサイエンスのおかげで、私たちの自由と単純さへのあこがれが、
どの生命体にも共通するものだということを、私たちはよりはっきり悟りつつある。
科学者たちは今や多くの実例を使い、個体が自由な状態のまま、
複雑なコントロールではなく少数の公式や原理の繰り返しによって、
秩序や形態がつくられていくプロセスを説明している。
ニューサイエンスが描く世界は、科学の分野に限らず、
たくさんの分野で私たちの信念や認識を変化させている。
ニューサイエンスの考え方は、ほとんどすべての学問の分野に忍びこんでいる。
ほとんどの組織で私たちを悩ませている問題、
そして、どうやってその問題を私たちが検討しているか、
それを調べれば、科学の影響をうかがい知ることができる。
リーダーシップ、つまり、人が組織をつくり始めて以来、
私たちの興味を惹きつけてきた漠然とした現象は、
「関係」という側面から検討されているところだ。
倫理や道徳の問いは、もはやあいまいで宗教的な概念ではなく、
どの組織でも同僚や利害関係者、コミュニティとの関係でカギとなる要素だ。
個人のレベルでは、今やたくさんの作家が、
精神や魂、人生の目的との内面的な関係について書いている。
環境保護を訴える著作には、
私たちと私たちが暮らす環境のあらゆる生き物との間にだけ関係が存在するのではなく、
私たちと未来の世代の間にも関係が存在することが強調されている。
動機づけ理論では、外的な報酬を利用することよりも、
人に大きなエネルギーを与える内発的な動機づけ要因が評価されるようになっている。
私たちは、組織という場でもコミュニティ、意味、尊厳、目的、
愛への深い願望に焦点を定め直すようになっている。
愛は仕事にはふさわしくない、組織に感情を持ち込むべきでない、
そう考えて自分を使い分けるのではなく、
人間らしくありたいという強い感情と向き合うようになり始めているのだ。
組織の、そして労働者を取り替えのきく歯車とみなす機械論的モデルを手放せば、
自分自身をもっと多面的に見られるようになり、人間の全体性を認められるようになり、
そして、うまくいけば、人間であることのすばらしい恩恵を尊重し、
最大限に活かせる組織を設計できるようになるだろう。
ビジョン、価値観、文化の影響は、組織の関心の大きな部分を占める。
人々は、理由ははっきりわからなくても、この三つには強い力があり、
組織の生命力に影響することを知っている。
激動の時代の真っ只中で連続性や調和を生み出す最良の方法は、
コントロールすることではなく、目には見えないが明白な力を利用することだと感じている。
現在、場―空間を占め、ふるまいに影響を与える目に見えないカ―の概念を、
研究対象としている科学者が多い。
組織のビジョンや価値観は、「場」のように作用する。
つまり目に見えないが、人のふるまいに影響する現実の力だ。
組織に対する考え方は、官僚主義の時代に隆盛だった機械論的産物から抜け出している。
もっと流動的で有機的な構造、境界がなくシームレスな組織が今、真剣に語られている。
私たちは、組織を全体システムとして認識し始めた。
「学習する組織」や「有機的な組織」を構築しており、
人間には自己組織化の能力があることに気づきつつある。
これらは、私たちの初めての旅、
現代の組織に必要な変化がこれからどんどん認識されていくことを予感させる旅なのだ。
組織は生きているシステムであり、
あらゆる生命体に共通する、適応し、成長する能力を持っている。
マーガレット・J・ウィートリー「リーダーシップとニューサイエンス」
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古い機械論的世界観、唯物論の崩壊とともに、
台頭してきたニューサイエンスは、あらゆる分野に影響を与え始めています。
これは、希望であり、とてつもない出来事なのです。
私たちは、私たちと世界が相互作用するにつれて、共進化する世界に住んでいる。
この世界は、絶えず変化し、固定することができない。
そして、私たちのあらゆる想像を超えた、とてつもなく興味深いものなのだ。
さまざまな分野の科学者たちは、
アイザック・ニュートンやルネ・デカルトなどの偉大な天才たちが、
17世紀に説いた機械論的世界観で、
世界がどう動くかを十分に説明できるのか、という問いを投げかけている。
この機械論的世界観は、
細部を研究することが全体を理解するカギであるという立場につながる。
ものごとは、文字どおりにしろ、比喩的にしろ、
解剖して(ビジネスの機能、学問分野、専門分野、人体のパーツをそうしてきたように)、
ばらばらに解体しても、大きな欠落なしにほぼ元に戻せる、
部分の働きを知れば知るほど、全体がよくわかる、という仮定だ。
ニュートン科学は、唯物論の立場でもある。
人の身体的感覚で感知できるものを重視して世界を理解しようとするのだ。
実在するものは、目に見え、明確な物質的形状を持つとされる。
物理学の歴史では、そして今もってそうだが、科学者たちは、物質の基本的な「構成要素」、
万物のもととなる物質的形状をこぞって探しつづけてきた。
ニューサイエンスとニュートン主義の決定的な違いの一つは、
ニューサイエンスが部分よりもホーリズム(全体論)を重視していることだ。
システムは、システム全体として理解し、ネットワーク内の関係に注目する。
この視点でシステムを見ると、単純な原因と結果に分解できない、
あるいは、孤立した一要因として部分を研究しても説明できない、
つながりや現象のまったく新しい風景が現われてくる。
私たちは、量子力学の世界観に目を見開き、一般的な概念による世界観から抜け出す。
科学者にとってさえ、まぎれもなく突飛なものだ。
量子の世界では、関係が、すべての決定権を握っている。
原子より小さい粒子が形状として観察できるのは、何かほかのものと関係があるときだけだ。
独立した「もの」としては存在しない。
基本的な「構成要素」はないのだ。
量子物理学は、奇妙だが魅惑的な世界を描いており、
ハイゼンベルクによれば、世界は、
「事象の複雑な固まりとして現われ、そこでは、異なる種類のつながりが、
互い違いになり、重なり合い、結びつき、それによって全体の質感が決まる」とされる。
かつて別個の存在だと考えられていたものの間にある、
この見えないつながりが、万物の基本的な構成要素なのだ。
ほかの分野、特に生物学では、機械論的モデルから、
もっと全体的でダイナミックなモデルヘの移行は、まだ始まったばかりだ。
分子生物学の分野と遺伝学の大半の研究で、伝統的な機械論的思考がいまだ主流だ。
だが今、機械的イメージから抜け出して、生物を生物として理解しようとする科学者が多い。
また、進化論、動物行動学、生態学、生理学の分野で、
支配的な理論の抜本的な再公式化が起きている。
同様の世界観の変化は、人の健康に関する分野でも現われてきた。
全人的治療では、体を個別のパーツの集合ではなく統合的なシステムとしてとらえる。
生物学者の中には、
個別のシステム(免疫系、内分泌系、神経系など)として考えていたものを、
それぞれの機能が全体として相互に依存している一つのシステムとしてとらえたほうが、
よく理解できるという立場をとる人たちもいる。
さらに、最も規模の大きいレベルでは、地球を全体として巨大な生命体と見る、
ジェームズ・ラブロックが最初に提唱したガイア理論がある。
地球は、自己制御システムであり、
生命の生存を可能にする環境をともにつくる相互依存システムである地球社会だ、
とする彼の仮説に支持が集まっている。
化学では、イリヤ・プリゴジンが、ある物質が、環境の変化に合わせて、
より高い秩序に自らを再組織化することを証明した業績(散逸構造の理論)を認められて、
1977年にノーベル賞を受賞した。
古い機械論的モデルにおいては、変化や障害はシステムに苦難をもたらすものだった。
混乱は、あらゆるシステムの宿命である衰退を加速するだけだとされていた。
しかし、プリゴジンの業績は、もっと希望のある新しい未来を示した。
彼は、開放系には、より高いレベルで自己を再組織化することによって、
変化や無秩序に対処する能力があることを証明したのだ。
生命体の機械論的モデルから抜け出して、もっと深く生命系のダイナミクスを観察すると、
不安定や無秩序や変化をまったく新しい視点で見る方法がおぼろげながらわかってくる。
ニューサイエンスのおかげで、私たちの自由と単純さへのあこがれが、
どの生命体にも共通するものだということを、私たちはよりはっきり悟りつつある。
科学者たちは今や多くの実例を使い、個体が自由な状態のまま、
複雑なコントロールではなく少数の公式や原理の繰り返しによって、
秩序や形態がつくられていくプロセスを説明している。
ニューサイエンスが描く世界は、科学の分野に限らず、
たくさんの分野で私たちの信念や認識を変化させている。
ニューサイエンスの考え方は、ほとんどすべての学問の分野に忍びこんでいる。
ほとんどの組織で私たちを悩ませている問題、
そして、どうやってその問題を私たちが検討しているか、
それを調べれば、科学の影響をうかがい知ることができる。
リーダーシップ、つまり、人が組織をつくり始めて以来、
私たちの興味を惹きつけてきた漠然とした現象は、
「関係」という側面から検討されているところだ。
倫理や道徳の問いは、もはやあいまいで宗教的な概念ではなく、
どの組織でも同僚や利害関係者、コミュニティとの関係でカギとなる要素だ。
個人のレベルでは、今やたくさんの作家が、
精神や魂、人生の目的との内面的な関係について書いている。
環境保護を訴える著作には、
私たちと私たちが暮らす環境のあらゆる生き物との間にだけ関係が存在するのではなく、
私たちと未来の世代の間にも関係が存在することが強調されている。
動機づけ理論では、外的な報酬を利用することよりも、
人に大きなエネルギーを与える内発的な動機づけ要因が評価されるようになっている。
私たちは、組織という場でもコミュニティ、意味、尊厳、目的、
愛への深い願望に焦点を定め直すようになっている。
愛は仕事にはふさわしくない、組織に感情を持ち込むべきでない、
そう考えて自分を使い分けるのではなく、
人間らしくありたいという強い感情と向き合うようになり始めているのだ。
組織の、そして労働者を取り替えのきく歯車とみなす機械論的モデルを手放せば、
自分自身をもっと多面的に見られるようになり、人間の全体性を認められるようになり、
そして、うまくいけば、人間であることのすばらしい恩恵を尊重し、
最大限に活かせる組織を設計できるようになるだろう。
ビジョン、価値観、文化の影響は、組織の関心の大きな部分を占める。
人々は、理由ははっきりわからなくても、この三つには強い力があり、
組織の生命力に影響することを知っている。
激動の時代の真っ只中で連続性や調和を生み出す最良の方法は、
コントロールすることではなく、目には見えないが明白な力を利用することだと感じている。
現在、場―空間を占め、ふるまいに影響を与える目に見えないカ―の概念を、
研究対象としている科学者が多い。
組織のビジョンや価値観は、「場」のように作用する。
つまり目に見えないが、人のふるまいに影響する現実の力だ。
組織に対する考え方は、官僚主義の時代に隆盛だった機械論的産物から抜け出している。
もっと流動的で有機的な構造、境界がなくシームレスな組織が今、真剣に語られている。
私たちは、組織を全体システムとして認識し始めた。
「学習する組織」や「有機的な組織」を構築しており、
人間には自己組織化の能力があることに気づきつつある。
これらは、私たちの初めての旅、
現代の組織に必要な変化がこれからどんどん認識されていくことを予感させる旅なのだ。
組織は生きているシステムであり、
あらゆる生命体に共通する、適応し、成長する能力を持っている。
マーガレット・J・ウィートリー「リーダーシップとニューサイエンス」



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2009.03.28
新時代へ
コピペ
technobahn science
米海軍研究所、常温核融合現象の有力な証拠を確認
2009/3/26 16:45 - 米海軍研究所(US Narval Research Laboratory)は23日、
常温核融合反応の結果、生じたと見られる中性子を確認することに成功したことを発表した。
この追試実験を行ったのは、
米海軍スペース・アンド・ナーバル・ウォーフェアー・システムズ・センターの、
パメラ・モッシャーボスを中心とする化学研究グループ。
常温核融合は、
1989年に米ユタ大学のマーチン・フライシュマンとスタンリー・ポンスの2名の研究者によって、
行われた実験で初めて現象が確認されたと発表されたもの。
以降、世界中の研究者によって追試実験が行われてきたが、
これまで明確な常温核融合現象を確認することに成功した事例は存在してこなかった。
研究グループは過去に行われた追試で常温核融合現象の確認に失敗したのは、
常温核融合の結果、生じた中性子量は微量すぎて、
それらの実験で用いた放射線検出器では測定できなかったのではないかと考えた上で、
ごく微量の中性子でも測定可能なプラスチックを利用した、
固体飛跡検出器「CR-39」を実験に用いることを考案。
「CR-39」を使って追試実験の結果、
常温核融合の結果として生じたものと見られる中性子によって生じた、
トリプル・トラックスを検出器のプラスチック試料で確認することに成功したと述べている。
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technobahn science
米海軍研究所、常温核融合現象の有力な証拠を確認
2009/3/26 16:45 - 米海軍研究所(US Narval Research Laboratory)は23日、
常温核融合反応の結果、生じたと見られる中性子を確認することに成功したことを発表した。
この追試実験を行ったのは、
米海軍スペース・アンド・ナーバル・ウォーフェアー・システムズ・センターの、
パメラ・モッシャーボスを中心とする化学研究グループ。
常温核融合は、
1989年に米ユタ大学のマーチン・フライシュマンとスタンリー・ポンスの2名の研究者によって、
行われた実験で初めて現象が確認されたと発表されたもの。
以降、世界中の研究者によって追試実験が行われてきたが、
これまで明確な常温核融合現象を確認することに成功した事例は存在してこなかった。
研究グループは過去に行われた追試で常温核融合現象の確認に失敗したのは、
常温核融合の結果、生じた中性子量は微量すぎて、
それらの実験で用いた放射線検出器では測定できなかったのではないかと考えた上で、
ごく微量の中性子でも測定可能なプラスチックを利用した、
固体飛跡検出器「CR-39」を実験に用いることを考案。
「CR-39」を使って追試実験の結果、
常温核融合の結果として生じたものと見られる中性子によって生じた、
トリプル・トラックスを検出器のプラスチック試料で確認することに成功したと述べている。



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2009.03.26
ITC報告
「亡きアインシュタインやエジソンがもし、
あの世から我々にメッセージを送りたいと思ったなら、彼らは霊媒術を使うだろうか?
いや、天才科学者たちはやはり、
電話・TV・コンピュータなど先端技術を駆使して、
コミュニケーションを実現しようとするに違いない。
事実は小説より奇なり、と言うが、
ITC報告は、まさに電子機器によって、
死者と対話することが可能になった、という驚くべき現象が語られる。
いつの日か日本でもITC報告が聞かれる日を楽しみにしている。」
京都大学教授 カール・ベッカー
「わたしたちの意識は、
寿命がつきたときに消えてしまうためだけに生まれてくるのでしょうか?
それとも現在の『現実』を超えたところに、この世での努力を継続させたり、
さらに突きつめていくためのレベルやサイクルがあるのでしょうか?
そうだとしたら、現在のわたしたちの考えや行動は、
今という時間をはるかに超えて意味を持つことになります。
近代科学の出現は、18世紀の啓家の時代をもたらし、
どんな問題も理屈か科学的な方法で解決できるのだという信念を生み出しました。
ガリレオは教会の神父たちに、彼の望遠鏡をのぞかせ、
地球が太陽系の中心であると説く教会の教義をやみくもに信じるのではなく、
自分たちの五感を信じるようにと言いました。
残念なことに、このような経験主義的な証明方法、
つまり仮説を打ち立て、厳しい管理のもとに実験を行い、
偏りのない結果を導くという方法が広まるにつれ、
西洋ではこの流儀で証明できない経験は、
すべて疑ってしまうというものの見方が根づいてしまったのです。
それでも、科学やいわゆる合理的な考え方では、
説明できない体験をする人たちは常に存在しました。
キリスト教神秘主義者、イスラム教のスーフィー、
ネイティブアメリカンのシャーマンたちが経験し、
ユダヤ教のカバラに記されている神との神秘的な一体化は、
簡単に無視することはできないものです。
釈迦が弟子たちに向かって、
彼の教えに疑問を抱くことなくただそれを受け入れるのではなく、
自分たちの経験を信じるようにと説いたとき、
それは単に五感についてだけ言っているのではなく、
人間の内側の主観的な経験をも意味していたのです。
わたしたちの世俗的な生活の次元を超えたこのような内側での経験は、
奇談として伝えられ、最近まで従来の方法で検証することはできませんでした。
ITC研究者が行ってきた作業には、
物理学者トーマス・クーンが呼ぶところの、
『ニューパラダイム(ものごとをまったく新しい角度から見ること)』が必要とされます。
彼らが探究しているのは、
わたしたちが意識するこの世での命に縛られない、魂の超越性です。
心霊現象研究室は、
以前には手に入らなかったような精密な電子機器を使って得た調査結果を発表しています。」
パサデナ市立大学名誉教授 エルトン・デイヴィス
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あの世から我々にメッセージを送りたいと思ったなら、彼らは霊媒術を使うだろうか?
いや、天才科学者たちはやはり、
電話・TV・コンピュータなど先端技術を駆使して、
コミュニケーションを実現しようとするに違いない。
事実は小説より奇なり、と言うが、
ITC報告は、まさに電子機器によって、
死者と対話することが可能になった、という驚くべき現象が語られる。
いつの日か日本でもITC報告が聞かれる日を楽しみにしている。」
京都大学教授 カール・ベッカー
「わたしたちの意識は、
寿命がつきたときに消えてしまうためだけに生まれてくるのでしょうか?
それとも現在の『現実』を超えたところに、この世での努力を継続させたり、
さらに突きつめていくためのレベルやサイクルがあるのでしょうか?
そうだとしたら、現在のわたしたちの考えや行動は、
今という時間をはるかに超えて意味を持つことになります。
近代科学の出現は、18世紀の啓家の時代をもたらし、
どんな問題も理屈か科学的な方法で解決できるのだという信念を生み出しました。
ガリレオは教会の神父たちに、彼の望遠鏡をのぞかせ、
地球が太陽系の中心であると説く教会の教義をやみくもに信じるのではなく、
自分たちの五感を信じるようにと言いました。
残念なことに、このような経験主義的な証明方法、
つまり仮説を打ち立て、厳しい管理のもとに実験を行い、
偏りのない結果を導くという方法が広まるにつれ、
西洋ではこの流儀で証明できない経験は、
すべて疑ってしまうというものの見方が根づいてしまったのです。
それでも、科学やいわゆる合理的な考え方では、
説明できない体験をする人たちは常に存在しました。
キリスト教神秘主義者、イスラム教のスーフィー、
ネイティブアメリカンのシャーマンたちが経験し、
ユダヤ教のカバラに記されている神との神秘的な一体化は、
簡単に無視することはできないものです。
釈迦が弟子たちに向かって、
彼の教えに疑問を抱くことなくただそれを受け入れるのではなく、
自分たちの経験を信じるようにと説いたとき、
それは単に五感についてだけ言っているのではなく、
人間の内側の主観的な経験をも意味していたのです。
わたしたちの世俗的な生活の次元を超えたこのような内側での経験は、
奇談として伝えられ、最近まで従来の方法で検証することはできませんでした。
ITC研究者が行ってきた作業には、
物理学者トーマス・クーンが呼ぶところの、
『ニューパラダイム(ものごとをまったく新しい角度から見ること)』が必要とされます。
彼らが探究しているのは、
わたしたちが意識するこの世での命に縛られない、魂の超越性です。
心霊現象研究室は、
以前には手に入らなかったような精密な電子機器を使って得た調査結果を発表しています。」
パサデナ市立大学名誉教授 エルトン・デイヴィス



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2009.03.22
霊科学の進展
エジソンは最晩年には、
死後の世界の実在を確信し、オカルト研究に没頭、霊界通信機の発明を試みました。
「もしもわたしたちの人格が死後も存在するならば、
この地球で得た記憶、知性、その他の能力や知識が、
そこに保持されると考えるのはまったく論理的で科学的なことです。
それゆえに、わたしたちが死と呼ぶものの後にも人格が存在するとしたら、
この世を去った人たちが、
ここに残された人たちとの通信を望むだろうと結論づけるのも妥当なことです。
わたしとしては、
来世におけるわたしたちの人格が物事に影響をおよぼすことができると信じたいのです。
そのため、もしこの推論が正しければ、あの世で生きている人格によって影響を受ける、
つまり動かされたり操作されるほどに精巧な機器を開発することができたなら、
その暁には何かが録音されるはずです。」(サイエンティフィック・アメリカン誌インタビュー)
それから、100年後。
世界各地で霊界通信の研究は進められ、
ITC(Instrumental Transcommunication)研究では、霊との交信にほぼ成功しています。
死後の世界の実在が明らかにされるのは、もはや時間の問題です。
近い将来、霊科学の進展によって、宗教は事実となります。
その時、宗教は、信じる信じないの世界ではなくなるのです。
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死後の世界の実在を確信し、オカルト研究に没頭、霊界通信機の発明を試みました。
「もしもわたしたちの人格が死後も存在するならば、
この地球で得た記憶、知性、その他の能力や知識が、
そこに保持されると考えるのはまったく論理的で科学的なことです。
それゆえに、わたしたちが死と呼ぶものの後にも人格が存在するとしたら、
この世を去った人たちが、
ここに残された人たちとの通信を望むだろうと結論づけるのも妥当なことです。
わたしとしては、
来世におけるわたしたちの人格が物事に影響をおよぼすことができると信じたいのです。
そのため、もしこの推論が正しければ、あの世で生きている人格によって影響を受ける、
つまり動かされたり操作されるほどに精巧な機器を開発することができたなら、
その暁には何かが録音されるはずです。」(サイエンティフィック・アメリカン誌インタビュー)
それから、100年後。
世界各地で霊界通信の研究は進められ、
ITC(Instrumental Transcommunication)研究では、霊との交信にほぼ成功しています。
死後の世界の実在が明らかにされるのは、もはや時間の問題です。
近い将来、霊科学の進展によって、宗教は事実となります。
その時、宗教は、信じる信じないの世界ではなくなるのです。



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2009.02.24
ゼロ・ポイント・フィールド
科学ジャーナリストのリン・マクタガート氏は、
きたるべき新時代の到来を予見しています。
彼女によると、科学者たちは、
・人類は、主として化学物質と遺伝情報によって駆動される生存機械である。
・脳は分離独立した器官であり意識の座である。
これもまた概して、
化学作用―細胞とDNAの暗号とのコミュニケーション―によって駆動される。
・人間は本質的に周りの世界とは切り離された存在であり、そのこころは肉体と分離している。
時間と空間は有限で普遍的な秩序である。
なにものも光速度より速くは移動できない。
という古い考えを捨て、
・この世のコミュニケーションは目に見えるニュートンの世界ではなく、
原子内のウェルナー・ハイゼンベルクの世界で起きていた。
・細胞とDNAは周波数を通じてコミュニケーションしていた。
・脳は世界を知覚し、その記録を独自の波動として記録していた。
・本質的にあらゆるものを記録する媒体である基本構造がこの宇宙を支えており、
あらゆるものがたがいに交信する手段を提供している。
・人間はその環境とは不可分である。
生き物の意識は分離独立した実体ではない。
そして、生き物は自分以外の世界に秩序を与える。
・人間の意識には、他人を癒したり、世界を癒したり、ある意味では、
私たちがそれにこうあってほしいと思う姿に変える、という信じられない力がある。
という新しい事実を受け入れ始めている、というのです。
この変化の兆しは、すでに現われています。
私たちはいま、ある革命の夜明けの時代にいる。
それは、アインシュタインの相対性理論と同じくらい、根源的で斬新な革命である。
科学の最先端領域では、この世界がどのように成り立ち、
また私たち自身がどのような存在であるかについて、
これまで信じられてきた土台に根底から疑問を投げかける新たな考えが浮上している。
宗教がつねに信奉してきた考え、すなわち、
人間はたんなる肉と骨のかたまりをはるかに超えた並はずれた存在である、
という考えをうまく説明する発見が次々になされているのだ。
この新しい科学は、その根源において、
過去の科学者たちを何百年も悩ませてきた疑問に答えを出している。
それはつきつめれば、奇跡を科学しているのである。
世界中のあちこちにぽつぽつと散らばっていた少数の科学者たちは、
量子物理学を機械的に当てはめることだけでは満足していなかった。
彼らは、未解決のままになっていた大きな疑問の多くにもっとすっきりした答えを求めていた。
量子物理学の先駆者たちが歩みをやめた地点から再出発し、
新たに研究と実験を重ねながら、さらに深い地点へと探索の旅を進めていたのだ。
量子物理学のいくつかの方程式で、
つねに差し引きゼロとして無視されてきた項について、改めて考えた人たちもいた。
それは、ゼロ・ポイント・フィールド―モノとモノのあいだの空間における微小な振動の海―、
を示していた。
もし、物質のもっとも基本的な性質に、このゼロ・ポイント・フィールドを含めて考えるなら、
私たちの宇宙の奥底に存在するのは、
モネルギーに満ちた海―ひとつの巨大な量子場―だ、と彼らは理解した。
もしこれが本当なら、あらゆるものは、目に見えないクモの巣のように、
それ以外のあらゆるものと結びついていることになる。
彼らはまた、私たちが同一の基本素材でつくられていることを発見した。
人間を含む命ある存在は、もっとも基本的な水準において、
この無尽蔵のエネルギーの海とのあいだでつねに情報を交換しつづけている、
量子エネルギーのかたまりである。
生き物は弱い放射線を出しており、これが生命のプロセスにおいて一番重要な点だった。
細胞間のコミュニケーションから、複雑に入り組んだDNAの支配に至るまで、
生命に関する情報は、あらゆる場面で、量子レベルにおける情報交換を通して中継されていた。
物質世界の法則群からきわめて遠くに位置すると考えられる「別のもの」、
すなわち私たちのこころでさえ、量子プロセスにしたがって動いていたのだ。
思考すること、感じること、さらにはもっと高度な認知機能は、
私たちの脳やからだ全体で同時に脈打っている量子情報と関係していた。
人間に知覚が生じるのは、
脳の原子内粒子と量子エネルギーの海とが相互作用を起こした結果だった。
私たちは文字通り、私たちを取り巻く宇宙と共鳴していた。
こうした発見は常識外れであり、異端の考えであった。
彼らはほんの一撃で、生物学と物理学のもっとも基本的な法則の多くに疑問をつきつけていた。
彼らが発見したらしきものは、細胞間のコミュニケーションから世界の知覚に至るまで、
まさに、私たちの世界におけるあらゆる情報処理と情報交換の鍵にほかならなかった。
彼らは、人間の形態と生き物の意識に関する、
生物学上のもっとも奥深い疑問の一部に答をもたらした。
もしかすると、生命そのものの真の鍵も、
このいわゆる「空」間に存在しているのかもしれなかった。
さらに根本的には、彼らが提供した証拠は、私たちすべてが、その存在の基盤において、
たがいにも、世界とも結びついていることを示していた。
彼らは科学的な実験を通じて、
宇宙全体を流れる生命力のようなもの―これまで集合意識とか、
神学者によってスピリットとか呼ばれてきたもの―が存在する可能性を示してきた。
これまで何世紀も人類が信じてはいたものの、確固たる証拠がないか、
適切な説明が困難だった領域、たとえば代替医療の有効性から、
はては来世への祈りに至るまで、種々のことがらに有望な説明を与えてくれたのだ。
それは、ある意味で、宗教の科学であった。
ニュートンやダーウィンの世界観と異なり、そうした考えは元気を与えてくれる。
そこには、秩序や制御という含みがあり、私たちを力づけてくれる。
私たちは自然が生んだたんなる偶然の産物ではないのだ。
この世界には目的と統一が存在し、その中に私たちの場所があり、
そして私たちは世界に対して重要な貢献をしている。
私たちの行為や思考は無視できないものであり、実のところ、
この世界を形成するために不可欠だったのだ。
人間はばらばらに切り離された存在ではなく、私たちと彼らという区別は意味がない。
私たちはもはや―外側から宇宙を覗き込んでいるような―宇宙の周辺にある存在ではない。
私たちは本来の場所を取り戻し、宇宙の中心へと戻ることができるのだ。
来るべき科学革命は、あらゆる意味で二元論の終焉を告げていた。
神を破壊するのでなく、科学は初めて―より高次の集合的意識の存在を示すことによって―、
神の存在を証明しようとしていた。
もはや、科学の真実と宗教の真実という、二つの真実は必要ない。
そこにあるのは、統一されたただひとつの世界観だけのはずだ。
科学思考におけるこの革命は、私たちが楽観的感覚を取り戻す希望も与えてくれた。
それは主として科学が信奉する世界観に由来する20世紀の無味乾燥な哲学が、
私たちの感覚からはぎとってしまった感覚だった。
私たちは、そっけない宇宙に浮かぶ孤独な惑星の上で、
望みのない人生を送っている孤立した存在ではなかったのだ。
私たちはけっしてひとりではない。
つねに、もっと大きな全体の一部なのだった。
私たちは今も、これまでもずっと、ものごとの中心にいたのだ。
ものごとはばらばらに分離することはない。
その中心がしっかり支えてくれているし、支えているのは私たち自身である。
私たちには、自分自身、愛する人たち、さらには私たちの社会までも癒す力があり、
それは自分で考えているよりはるかに強力なものである。
私たちひとりひとりには、
人生の運命を改善する能カ―それとともに偉大な集団としてのカ―が備わっている。
私たちの人生は、あらゆる意味で、私たちの手の中にあったのだ。
「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」
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きたるべき新時代の到来を予見しています。
彼女によると、科学者たちは、
・人類は、主として化学物質と遺伝情報によって駆動される生存機械である。
・脳は分離独立した器官であり意識の座である。
これもまた概して、
化学作用―細胞とDNAの暗号とのコミュニケーション―によって駆動される。
・人間は本質的に周りの世界とは切り離された存在であり、そのこころは肉体と分離している。
時間と空間は有限で普遍的な秩序である。
なにものも光速度より速くは移動できない。
という古い考えを捨て、
・この世のコミュニケーションは目に見えるニュートンの世界ではなく、
原子内のウェルナー・ハイゼンベルクの世界で起きていた。
・細胞とDNAは周波数を通じてコミュニケーションしていた。
・脳は世界を知覚し、その記録を独自の波動として記録していた。
・本質的にあらゆるものを記録する媒体である基本構造がこの宇宙を支えており、
あらゆるものがたがいに交信する手段を提供している。
・人間はその環境とは不可分である。
生き物の意識は分離独立した実体ではない。
そして、生き物は自分以外の世界に秩序を与える。
・人間の意識には、他人を癒したり、世界を癒したり、ある意味では、
私たちがそれにこうあってほしいと思う姿に変える、という信じられない力がある。
という新しい事実を受け入れ始めている、というのです。
この変化の兆しは、すでに現われています。
私たちはいま、ある革命の夜明けの時代にいる。
それは、アインシュタインの相対性理論と同じくらい、根源的で斬新な革命である。
科学の最先端領域では、この世界がどのように成り立ち、
また私たち自身がどのような存在であるかについて、
これまで信じられてきた土台に根底から疑問を投げかける新たな考えが浮上している。
宗教がつねに信奉してきた考え、すなわち、
人間はたんなる肉と骨のかたまりをはるかに超えた並はずれた存在である、
という考えをうまく説明する発見が次々になされているのだ。
この新しい科学は、その根源において、
過去の科学者たちを何百年も悩ませてきた疑問に答えを出している。
それはつきつめれば、奇跡を科学しているのである。
世界中のあちこちにぽつぽつと散らばっていた少数の科学者たちは、
量子物理学を機械的に当てはめることだけでは満足していなかった。
彼らは、未解決のままになっていた大きな疑問の多くにもっとすっきりした答えを求めていた。
量子物理学の先駆者たちが歩みをやめた地点から再出発し、
新たに研究と実験を重ねながら、さらに深い地点へと探索の旅を進めていたのだ。
量子物理学のいくつかの方程式で、
つねに差し引きゼロとして無視されてきた項について、改めて考えた人たちもいた。
それは、ゼロ・ポイント・フィールド―モノとモノのあいだの空間における微小な振動の海―、
を示していた。
もし、物質のもっとも基本的な性質に、このゼロ・ポイント・フィールドを含めて考えるなら、
私たちの宇宙の奥底に存在するのは、
モネルギーに満ちた海―ひとつの巨大な量子場―だ、と彼らは理解した。
もしこれが本当なら、あらゆるものは、目に見えないクモの巣のように、
それ以外のあらゆるものと結びついていることになる。
彼らはまた、私たちが同一の基本素材でつくられていることを発見した。
人間を含む命ある存在は、もっとも基本的な水準において、
この無尽蔵のエネルギーの海とのあいだでつねに情報を交換しつづけている、
量子エネルギーのかたまりである。
生き物は弱い放射線を出しており、これが生命のプロセスにおいて一番重要な点だった。
細胞間のコミュニケーションから、複雑に入り組んだDNAの支配に至るまで、
生命に関する情報は、あらゆる場面で、量子レベルにおける情報交換を通して中継されていた。
物質世界の法則群からきわめて遠くに位置すると考えられる「別のもの」、
すなわち私たちのこころでさえ、量子プロセスにしたがって動いていたのだ。
思考すること、感じること、さらにはもっと高度な認知機能は、
私たちの脳やからだ全体で同時に脈打っている量子情報と関係していた。
人間に知覚が生じるのは、
脳の原子内粒子と量子エネルギーの海とが相互作用を起こした結果だった。
私たちは文字通り、私たちを取り巻く宇宙と共鳴していた。
こうした発見は常識外れであり、異端の考えであった。
彼らはほんの一撃で、生物学と物理学のもっとも基本的な法則の多くに疑問をつきつけていた。
彼らが発見したらしきものは、細胞間のコミュニケーションから世界の知覚に至るまで、
まさに、私たちの世界におけるあらゆる情報処理と情報交換の鍵にほかならなかった。
彼らは、人間の形態と生き物の意識に関する、
生物学上のもっとも奥深い疑問の一部に答をもたらした。
もしかすると、生命そのものの真の鍵も、
このいわゆる「空」間に存在しているのかもしれなかった。
さらに根本的には、彼らが提供した証拠は、私たちすべてが、その存在の基盤において、
たがいにも、世界とも結びついていることを示していた。
彼らは科学的な実験を通じて、
宇宙全体を流れる生命力のようなもの―これまで集合意識とか、
神学者によってスピリットとか呼ばれてきたもの―が存在する可能性を示してきた。
これまで何世紀も人類が信じてはいたものの、確固たる証拠がないか、
適切な説明が困難だった領域、たとえば代替医療の有効性から、
はては来世への祈りに至るまで、種々のことがらに有望な説明を与えてくれたのだ。
それは、ある意味で、宗教の科学であった。
ニュートンやダーウィンの世界観と異なり、そうした考えは元気を与えてくれる。
そこには、秩序や制御という含みがあり、私たちを力づけてくれる。
私たちは自然が生んだたんなる偶然の産物ではないのだ。
この世界には目的と統一が存在し、その中に私たちの場所があり、
そして私たちは世界に対して重要な貢献をしている。
私たちの行為や思考は無視できないものであり、実のところ、
この世界を形成するために不可欠だったのだ。
人間はばらばらに切り離された存在ではなく、私たちと彼らという区別は意味がない。
私たちはもはや―外側から宇宙を覗き込んでいるような―宇宙の周辺にある存在ではない。
私たちは本来の場所を取り戻し、宇宙の中心へと戻ることができるのだ。
来るべき科学革命は、あらゆる意味で二元論の終焉を告げていた。
神を破壊するのでなく、科学は初めて―より高次の集合的意識の存在を示すことによって―、
神の存在を証明しようとしていた。
もはや、科学の真実と宗教の真実という、二つの真実は必要ない。
そこにあるのは、統一されたただひとつの世界観だけのはずだ。
科学思考におけるこの革命は、私たちが楽観的感覚を取り戻す希望も与えてくれた。
それは主として科学が信奉する世界観に由来する20世紀の無味乾燥な哲学が、
私たちの感覚からはぎとってしまった感覚だった。
私たちは、そっけない宇宙に浮かぶ孤独な惑星の上で、
望みのない人生を送っている孤立した存在ではなかったのだ。
私たちはけっしてひとりではない。
つねに、もっと大きな全体の一部なのだった。
私たちは今も、これまでもずっと、ものごとの中心にいたのだ。
ものごとはばらばらに分離することはない。
その中心がしっかり支えてくれているし、支えているのは私たち自身である。
私たちには、自分自身、愛する人たち、さらには私たちの社会までも癒す力があり、
それは自分で考えているよりはるかに強力なものである。
私たちひとりひとりには、
人生の運命を改善する能カ―それとともに偉大な集団としてのカ―が備わっている。
私たちの人生は、あらゆる意味で、私たちの手の中にあったのだ。
「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」



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2009.02.21
心霊科学
今日、科学と非科学の境界線が揺らいでいます。
諸学問間の垣根も取り去られはじめています。
宗教と科学に関しても、
全く別物で交わることのないもの、という考えは古くなりつつあります。
この課題を提示する有力な光源である近代欧米の「心霊科学」について、
京都大学大学院の稲垣直樹教授は、このように論じています。
知の営為は、それがどんなに普遍的なものと見えようとも、
あるいは、それを当事者がどんなに普遍的なものと確信しようとも、
その時代、ないしは時代と地域に限定されたある種の知の様式、
パラダイムに則って、そのパラダイムの範囲内でしか行われない。
現代の知的営為が過去と比べてはるかに重要で、
はるかに進んだフロンティアと映ろうとも、百年後、三百年後には、
それは過去のほとんどナンセンスな営みとも思われかねないだろう。
それぞれの時代と地域の価値観に規定されながら人間は思考し行動する以外になく、
そのようなパラダイムとの動的な関係においてこそ、
人間の営為はもっとも本質的で真正な姿を現す。
「近代」という壮大なマクロ・パラダイムのなかにいまも我々はいる。
そうした「近代」が成立したのは、
十八世紀終盤から十九世紀初頭のヨーロッパにおいてであった。
さしあたり、一つのことだけを問題にしよう。
それはいまも我々が執拗に信奉してやまない「科学主義」あるいは、
それが昂じた「科学万能主義」と呼ばれるものである。
いまだに我々は科学的であること、科学的に思考することに最大限の価値を見いだす。
我々の日常の思考は科学的であることを求められ、非科学的であることは悪とされる。
このような科学信仰が台頭した、それどころか、
科学そのものが今日に近い意味で成立したのが十九世紀ヨーロッパにおいてであり、
たかだか百五十年か二百年前のことなのである。
科学の伸張は宗教の退潮と表裏一体の関係にあった。
ヨーロッパのコンテクストでいう宗教とは当然ながらキリスト教であった。
フランス革命期のキリスト教排斥運動から始まり、
フランスでは、世俗の権力である近代国民国家が、
教会権力から社会の支配権を奪う闘争が十九世紀全体の百年間を通して続いた。
二十世紀に入り、一九〇五年の政教分離法公布によって、
政治社会制度のすべてが宗教から独立する旨の宣言がなされた。
政教分離法は、「教会と国家の分離の法律」であり、
この法律の最大のターゲットはカトリック教会であった。
これが科学史上のより大きな潮流に包含されることも明白である。
歴史家ハーバート・バターフィールドは、
ヨーロッパ十七世紀に起こった「科学革命」によって近代科学の方法が確立したとした。
これを、科学史家・村上陽一郎は十七世紀から十九世紀を経て現代に至る、
キリスト教から近代科学へのヘゲモニーの移行と捉え、
「聖俗革命」と命名したのは周知のとおりである。
フランス十九世紀において、産業革命の進行やブルジョアジーの価値観の浸透、
さらに何よりも近代国家機構の整備・充実とともに、
いよいよカトリック教会は社会を支配する力を弱める。
そして、その本来の領域であるはずの、
現実を超えた世界、死後の世界についても、
教会は信を失い、その表象を支えきれなくなる。
こうしたカトリック教会に替わって、超越世界の表象を支えることを期待されたのが、
事もあろうに科学―当時、現実世界の支配権を獲得しつつあった科学であった。
「科学主義」は科学に取りいれられないものがその存在を否定され、
排斥されるという今日的な意味を持つ以前に、
あらゆる事象が科学に取りこめるという意味を持ったのである。
これが「心霊科学」が成立した背景である。
これが科学として通用していたところに、
当時のパラダイムの特殊性があることは言うまでもない。
「心霊科学」は二つの柱から成りたっていた。
一つは「霊」との交信により、
死後の世界についての情報と認識を「科学的に」得ようとした「霊界通信」。
もう一つは超常現象を、
それへの「心霊」の関与を前提として「科学的に」分析しようとした「心霊研究」であった。
これは当時としては「科学」の最先端、すなわち「科学のフロンテイア」であった。
そして、そのフロンティアは宗教と踵を接するどころか、
宗教のなかに深々と食い込んでいたのである。
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諸学問間の垣根も取り去られはじめています。
宗教と科学に関しても、
全く別物で交わることのないもの、という考えは古くなりつつあります。
この課題を提示する有力な光源である近代欧米の「心霊科学」について、
京都大学大学院の稲垣直樹教授は、このように論じています。
知の営為は、それがどんなに普遍的なものと見えようとも、
あるいは、それを当事者がどんなに普遍的なものと確信しようとも、
その時代、ないしは時代と地域に限定されたある種の知の様式、
パラダイムに則って、そのパラダイムの範囲内でしか行われない。
現代の知的営為が過去と比べてはるかに重要で、
はるかに進んだフロンティアと映ろうとも、百年後、三百年後には、
それは過去のほとんどナンセンスな営みとも思われかねないだろう。
それぞれの時代と地域の価値観に規定されながら人間は思考し行動する以外になく、
そのようなパラダイムとの動的な関係においてこそ、
人間の営為はもっとも本質的で真正な姿を現す。
「近代」という壮大なマクロ・パラダイムのなかにいまも我々はいる。
そうした「近代」が成立したのは、
十八世紀終盤から十九世紀初頭のヨーロッパにおいてであった。
さしあたり、一つのことだけを問題にしよう。
それはいまも我々が執拗に信奉してやまない「科学主義」あるいは、
それが昂じた「科学万能主義」と呼ばれるものである。
いまだに我々は科学的であること、科学的に思考することに最大限の価値を見いだす。
我々の日常の思考は科学的であることを求められ、非科学的であることは悪とされる。
このような科学信仰が台頭した、それどころか、
科学そのものが今日に近い意味で成立したのが十九世紀ヨーロッパにおいてであり、
たかだか百五十年か二百年前のことなのである。
科学の伸張は宗教の退潮と表裏一体の関係にあった。
ヨーロッパのコンテクストでいう宗教とは当然ながらキリスト教であった。
フランス革命期のキリスト教排斥運動から始まり、
フランスでは、世俗の権力である近代国民国家が、
教会権力から社会の支配権を奪う闘争が十九世紀全体の百年間を通して続いた。
二十世紀に入り、一九〇五年の政教分離法公布によって、
政治社会制度のすべてが宗教から独立する旨の宣言がなされた。
政教分離法は、「教会と国家の分離の法律」であり、
この法律の最大のターゲットはカトリック教会であった。
これが科学史上のより大きな潮流に包含されることも明白である。
歴史家ハーバート・バターフィールドは、
ヨーロッパ十七世紀に起こった「科学革命」によって近代科学の方法が確立したとした。
これを、科学史家・村上陽一郎は十七世紀から十九世紀を経て現代に至る、
キリスト教から近代科学へのヘゲモニーの移行と捉え、
「聖俗革命」と命名したのは周知のとおりである。
フランス十九世紀において、産業革命の進行やブルジョアジーの価値観の浸透、
さらに何よりも近代国家機構の整備・充実とともに、
いよいよカトリック教会は社会を支配する力を弱める。
そして、その本来の領域であるはずの、
現実を超えた世界、死後の世界についても、
教会は信を失い、その表象を支えきれなくなる。
こうしたカトリック教会に替わって、超越世界の表象を支えることを期待されたのが、
事もあろうに科学―当時、現実世界の支配権を獲得しつつあった科学であった。
「科学主義」は科学に取りいれられないものがその存在を否定され、
排斥されるという今日的な意味を持つ以前に、
あらゆる事象が科学に取りこめるという意味を持ったのである。
これが「心霊科学」が成立した背景である。
これが科学として通用していたところに、
当時のパラダイムの特殊性があることは言うまでもない。
「心霊科学」は二つの柱から成りたっていた。
一つは「霊」との交信により、
死後の世界についての情報と認識を「科学的に」得ようとした「霊界通信」。
もう一つは超常現象を、
それへの「心霊」の関与を前提として「科学的に」分析しようとした「心霊研究」であった。
これは当時としては「科学」の最先端、すなわち「科学のフロンテイア」であった。
そして、そのフロンティアは宗教と踵を接するどころか、
宗教のなかに深々と食い込んでいたのである。



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