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2009.04.16 EGO
本当にエゴはやっかいだ。

エゴの仕事は、己と神仏を分離させること。

だから、エゴ(EGO)は、Edging God Outともいわれる。


自己啓発もよいが、エゴが肥大する。

自己卑下もまた、エゴのなせるわざ。


エゴはいう。

「負けたくない」「自分は悪くない」「私が一番だ」「自分のものだ」「私を見て」
「あれだけしてやったのに」「あいつのせいだ」「私をみくびるな」「絶対に許さない」
「自分には生きる価値はない」「誰も分かってくれない」「どうせ私は」「もう駄目だ死にたい」

何故、みんな自分が可愛いだけなのに、こんなことになるの?

それは、本当の意味で、自分と他人と神仏を愛していないから。

「愛」だけが、エゴを溶かす魔法。




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現代人は、「科学」という名の唯物論を信奉し、
合理的に説明のつかないものを排除する傾向があります。

外部の現象を五感を通して得た知識だけが、科学的真実だというわけです。

しかし、昔の人々は、自らの内なる声にも注意を払っていました。
また、霊能者やシャーマン、修行僧達の言説を、大いに尊重してきました。

実際には、そのような内的知が、伝統文化の基盤となっているのです。




古代の人々の間では、ヴィジョンすなわち洞察力は、
非常に重要な機能だと考えられていました。
予言者ないしは神託僧は、常に共同体の重要な一員でありました。
直感的な洞察ないしは体験は、知識の源として、神々からのお告げとして、
また、予言者が特別な力をもつ証拠として考えられていたのです。

古代ギリシア人やローマ人にとっては、
理性的な知識(分析的、論理的な推論)と直感的な知識とは共に有効なものであったのです。
事実、直感は特別なものと信じられていて、
理性的な結論よりも上位におかれることもしばしばでありました。

プラトンに流れを発する観念論哲学は、
直感を信頼できる知識の根源である、との考えにもとづいているのです。
知ることのできるのは心的推論のみであり、
それゆえ、真実とは本質的に精神的なもの、
すなわち心的なものだ、と観念論は主張しているのです。

アリストテレスは、思考とはイメージから成り立っているのだ、と考えていました。
そのイメージが、内部の知識を表にあらわす情緒を喚起する力をもっている。
直感的に推論することは、最初に浮かんだ原理を図式的に示すことだ、
とアリストテレスは述べています。
アリストテレスは直感を、理解の跳躍であり、
他の知的な手段によっては到達不可能な、
大きな概念を把握することができる基本的に知的なプロセスである、と定義しています。

仏陀は、究極的な真理や知恵の根源は、理性ではなく、直感であると説いています。
そこから、禅の瞑想では、物を識別する意識的な心が静められてはじめて、
直感的な心が開放され、瞑想するものが真理や知恵を求められるようになる、
という考えが生まれたのです。

東洋哲学では、精神の成長過程にあって発展をとげる心的機能とは直感である、
と考えられているのです。
中国や日本の瞑想家たち―中国の禅宗、日本の禅―では、率直な探求を強調しています。
その完全なる指図を受けることによって、
合理的な話し方による説明をものともしないような経験や洞察力が目覚めるのです。
仏教の僧侶にとっては、このような目覚め(悟り)が内的真理や知恵の啓示なのです。

ヒンドゥー教徒にあっては、直感的洞察は、
瞑想や修練をつんだ精神のコントロールを通して得られるとされています。
直感は通常、普遍的な宇宙の問題を明らかにするのであって、
具体的な問題を解き明かすわけではありません。
直感的な経験は精神性や美学と密接に結びついています。
ヒンドゥー教徒が実践するヨガの目的のひとつは、直感の系統的訓練なのです。
直感は意識の一段高い次元であって、しっかりとした信頼にあたいする機能と考えられており、
その高い次元から幅広い情報がえられる、というのです。

心理学者カール・ユングは、知的機能における直感の役割に注意を向けています。
彼は、情報は、二つの方法、ひとつは五感をとおして外部から、
もうひとつは直感を通して心の中から受け取られると言っています。


ドリス・J・シャルクロス/ドロシー・A・シスク「ひらめきの心理学」




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最近になって、ようやく西洋でも正当な評価をされ始めた仏教ですが、
一昔前は、西洋知識人によって、
キリスト教との差異を鮮明にするために、無神宗教や虚無思想だと喧伝されていました。

戦後、西洋文明に圧倒された日本でも、その論調に追従する知識人が多かったのです。

しかし、分析心理学者の創始者であるユングは、
そのような風潮のなかでも、仏教を正しく理解していた数少ない人物の一人です。

彼は、あくまでも精神医学者としての立場で語っていますが、その洞察は宗教者そのものです。




インドはアジア的な北方と太平洋的な南方の間に、
すなわちチベットとセイロンの中間に位置している。
北はヒマラヤの麓、南はアダムズ橋でインドは唐突に断ち切られる。
そして、一方の端ではモンゴルの世界が、
他方の端では南洋諸島のパラダイスが始まるのである。
セイロンもインドと奇妙に異なる点ではチベットと変らない。
おもしろいのは両方の端に「象の道」が見られることで、
これはパーリ語経典では「ブッダの教え」のことを言う。
なぜインドは、おのれの偉大な光明たるブッダの救いの道、
あの哲学と神の仕事の一体化をなくしたのだろう。
人類がもはや啓示と精神的修行の高みに踏みとどまっていられないのは、周知の事実である。
ブッダは時ならぬ歴史の闖入者であって、
歴史のプロセスをひっくり返したが、やがては歴史に負かされたのだ。
インドの宗教はヒンドゥー教の本殿かパゴダのようなものである。
神々は蟻さながらに、つぎつぎと、
基部に彫られた象の背から、塔の頂をかたどる抽象的な蓮の花へとよじのぼる。
時がたつにつれて、神は哲学的な概念になった。
ブッダという全世界の精神的先達は、悟りを開いた人間は、
その神に対してさえ教師であり救済者であると言い、その実を示そうとした。
だだし、西洋の啓蒙思想お好みの、神の愚かな否定者とは何の関係もない。
これは明らかに、いささか手に余ることだった。
当時のインドの精神は、神を人間の心理状態に依らしむるほど、
神を意識に統合するような段階には、ほど遠かったからである。
ブッダがどうしてこのような洞察に達し、
しかも自身が精神的な自我肥大に陥らないですんだのかは、奇蹟というほかない。
ブッダは神を徐々に観念に変えるという、
時代をあまりに先駆けた試みによって歴史のプロセスを乱した。
真の天才というものは、たいていこういうふうに時代に割り込み、かき乱すものである。
そのときどきの今の世界に、永遠の世界から語りかけるからだ。
そしてまさしくそれゆえに、彼はまさにその時代にとっては誤ったことを語ることになる。
永遠の真理は、歴史の与えられた瞬間にとっては、どの瞬間にあっても真ではないからだ。
観念への変成は、いったん休止ののち、ふたたび始まることになる。
この天才が永遠の貯蔵庫からもたらした、
今のところまるで役に立たないものを消化吸収するには、時を待たねばならない。
それにもかかわらず、天才はその時代にとっての治療者なのだ。
なぜなら彼が永遠の真理について明かすところはすべて、治癒をもたらすからである。
しかし、観念への変成というはるかな目標こそ、ブッダの意図したところにほかならない。
ただそこに至るには、一世代はおろか十世代をもってしてもむりである。
もっと長い間、いずれにせよ、何千年という時間がいるのはたしかである。
それは人間の意識の極度の発達にかかっているからで、
それがないと変成は実現されようがない。
そのことをただ信じるしかない。
ブッダの弟子もキリストの弟子も明らかにそうした。
信者がつねにそうするように、信仰こそすべてだと考えて。
信仰は、うたがいもなく偉大なものである。

ブッダはインドの生活と宗教から消え去ってしまった。
インドがその祖師の魂に恩を忘れているわけではない。
古代哲学への関心は、めざましい復活を見せている。
カルカッタやベナレスの大学には優れた哲学科も設けられている。
ただもっぱら力がそそがれているのは、
古代のヒンドゥー哲学と厖大なサンスクリット文学なのである。
パーリ語経典は、どうやら正しく視野に収まっていない。
ブッダは単に哲学だけを説いたのではない。
彼は人間に挑戦しているのだ!
これがたとえ、「最も遠い道」であっても、結局正しい道なのである。
天才の神にも似た性急さは、小人を悩ませ、気も動転させるだろう。
だがほんの何世代かの後には、小人はまたしても単純に数の力で盛り返してしまう。
そして、どうやらそれで一向さしつかえないようなのだ。


「現在と未来」




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意識は、脳細胞を超えて無限宇宙に広がっています。

人間は、本来、物質に還元することの出来ない多次元的な存在なのです。

トランスパーソナル心理学においても、このことは認識されています。




高次意識とは何なのか。
ウィルバーは、あらためて確認する。
発達心理学によれば、人の発達はすべて同じ論理を持っている。
単純で基礎的なものから、より複雑で包括的なものへ。
順に、前のレベルを組み込む仕方で、より包括的になり、よりいっそうの度合いを高めてゆく。
この点については、
ピアジェも、コールバーグも、マズローも、エリクソンも、レビンガーも異論はないだろう。
では、その発達のプロセスを最後の最後まで進めていったら、どこに至り着くか。
意識が到達し得る、最高の統一段階とは、どのような状態なのか。
より高次、最も高次の、発達段階の本質は、いかなるものか。
「人類の最も発達した心においては、いかなる形の統一が、現れるのか」。
ウィルバーは、それを問題にする。
そして、その問自体は、さして不自然でもない。
人間の本性を、病理から見るのでなく、むしろ完成された姿において見る必要は、
すでに、マズローも、エリクソンも、繰り返していたことである。
問題は、しかし、その先である。
ウィルバーは、その最高の姿を、「神秘家や聖者」に見る。
最も統合の度合いの高いパーソナリティは、「真正な神秘家や聖者の中に」現れている。
そう「仮定する」のである。そして、言う。
こうした高次意識のレベルについては、
ヒンドウー教、仏教、キリスト教、イスラム教を問わず、
偉大な神秘思想家たちが多くの証言を残しており、
しかも、「その到達点に関して、驚くほどの一致を見せている」。
つまり、最も統合の度合いの高い意識は、
「スピリチュアル(精神的・霊的)な」人物の中に見ることができるというのである。

高次意識(トランスパーソナル)段階の区分は、
「微細(サトル)」、「元因(コーザル)」、「究極」。
古代インドの思想には、
「鞘」を意味する「コーシャ」という言葉があって、いわば「身体」に相当する。
人間の体は、いくつかの異なる「コーシャ」の重ね合わせから成り立っているという。
ごく普通に「身体」と呼ばれているのは、その最も粗い、物質的な「コーシャ」にすぎない。
それとはまるでレベルの異なる、もっと「微細な」コーシャが、実は重ね合わさっている。
「オーバーヘッドプロジェクター」の透明な用紙に、
まず、ほとんど透明な白色で人の身体を描く。
次に、ごく淡い色で身体を描いて、上に重ねる。
三枚目に、さらに濃い色で身体を描いてその上に重ね、
最後に、真っ黒に塗りつぶした身体を描いて、一番上におく。
ここで、スイッチを入れると、スクリーンには、真っ黒の身体だけが、映し出される。
よもや、その下に、薄い何枚もの身体が潜んでいるとは気づかない。
まさに、私たちの日常は、この状態。
目に見えるのは、真っ黒な粗い身体(コーシャ)だけであって、
それが唯一の身体であると思いこんでいる。
これを「グロス体」と呼ぶ。
さて、この真っ黒の身体の用紙を静かに取り去ると、少し濃い色の身体が見えてくる。
いわば、それが「微細(サトル)体」。
それは、生命力や意志といったエネルギーの身体である。
さらに、これを取り去ると、ごく淡い色の身体が現れる。
それが「元因(コーザル)体」で、深い瞑想状態では誰もが体験する、
すべての身体の基礎(元因・コーザル)である。
唯識思想でいう「アーラヤ識」は、この領域に相当するという。
そして、最後に、それすらも取り去ると、
透明に近い、独立した形の見えにくい状態が現れる。
自己と世界との間に境界のない、最も統合の度合いの高い、究極の状態。
アートマン即ブラフマン。
そして、意識は、発達するにしたがって、粗い身体(コーシャ)の制約から、
ますます解放されてゆき、より微細な身体(コーシャ)と同一化する。
「意識が微細化すると、はるかに直接的に事物と接触するようになる」。
そして、こうしたプロセスを歩みつくした神秘家や聖者たちは、
最終的に、最も微細な制約からも自由になって、まったく直接的に事物と接触する。
溶け込むように世界とひとつになり、もはや、意識と世界との境界すらない。
梵我一如の究極の統一性に達する。
それが、意識の到達し得る、最高の統一状態。
発達プロセスを最大限進めた、「最も高次」の姿ということである。
そして、その最高の境地から振り返ってみれば、何のことはない、
実は発達の初めから、この究極の統一性は、常に既に、存在している。
ただ、見えなくなっていただけ。
意識が、本来自分が「それ」であるところの、真実の姿を見失っているだけ。
梵我一如のリアリティが、
粗いコーシャによってかき消されてしまっていただけ、ということになる。
実は、まさに今この時、意識の最も深いレベルにおいては、
意識と実在との境のない、究極の統一状態が存在している。
発達の最後の最後に現れるはずの、究極の統一状態が、
実は、すべての段階において、その最も深いレベルに、常に既にある。


西平直「魂のライフサイクル」



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超心理学という科学分野があります。

この分野は、物理学で認識されない非物質を研究対象とする、
という意味において疑似科学であるとよく批判されています。

もっとも、
人間心理を扱う心理学そのものも、科学と認めたがらない現状があります。

超心理学が科学である、ということはどういうことでしょうか?

それは、
その研究対象である霊や超能力などの実在が有り得るという前提に立つということです。

そのような非物質、異次元世界を科学の探求対象としていることを認めるということになります。

しかし、超心理学は、すでに米国では科学と認定されています。

そして、近年では、
医学や生物学、物理学などの周辺科学との融合も見られはじめているのです。

どちらにせよ、
絶対に実在しないものは、科学の研究対象にも成り得ないという唯物論者にとっては、
この超心理学の扱いいかんによって、最後の砦が崩壊してしまうのです。


WIRD NEWSより抜粋

霊魂の存在に関する学術的研究

アリゾナ大学の心理学研究所は、「動的情報エネルギーシステム」や、
「意識は生き残るという仮説」の研究に時間を費やしている。
一方でバージニア大学の心臓専門医たちは、
心臓病患者が手術中に「超常的な世界」に入るかどうかを研究している。
さらに同大学の精神科医は、
世界中から「輪廻」と考えられる事例の記録をまとめている。
わかりやすく言うと、
米国でもトップレベルにある2つの大学の教授や医師たちが、
魂や臨死体験、霊魂の生まれ変わりについて研究しているのだ。

税金の一部―そしていくばくかの民間の支援―が、
現代の科学では説明できない世界の研究に向けられている。
たとえばアリゾナ大学では、
『ヒューマン・エネルギー・システム研究所』という無難な名前の施設で、
研究者が霊能者を介して死者にさかんに質問を行なっている。
この研究所の年間予算は約50万ドル。
研究所ではこのほか、「エネルギーヒーリング」や、
「手かざし療法」といったテーマにも取り組んでいる。

バージニア大学の『パーソナリティー研究部門』も、来世に関する研究の拠点だ。
ここでは臨死体験の研究を行なっており、さらに、
前世について語る子供たちの話をまとめている研究者もいる。






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2008.07.26 瞑想心理学
イタリアの精神科医ロベルト・アサジョーリは、
20世紀初頭にサイコシンセシスを創始しました。

これは、
近年発達してきたトランスパーソナル心理学の先駆けとなるもので、
統合心理学とも呼ばれています。

アサジョーリはこう述べています。

さらに広大な、より包括的な視点からは、
宇宙生命それ自体が多様性と単一性の間の戦い、
統合への努力と切望であるように見える。
神ととらえようが、宇宙的エネルギーととらえようが、
あらゆる生きものの上に、また中にはたらいている精神が、
すべての存在を(あるものはそう望み、また多くは盲目的で反抗的であるが)、
愛の絆で結び、統合して全世界を秩序、調和、美へと導いて、
至上の統合を―ゆっくり、静かに、しかし、力強く、抗しがたい力で―、
達成しようとしているような感じがするのである。


この文章からも分かるように、サイコシンセシスは、
宇宙(もしくは神)を信頼し、その働きを認めることが大前提にあるのです。
これは、昔からある宗教体験や神秘体験と同じものであって、
それを科学的文脈で語っているのです。

サイコシンセシスの特徴は、
曖昧であったユングの無意識領域を上位・中位・下位と区別して、
霊的存在としての高次の自己(トランスパーソナル・セルフ)を認め、
そのセルフをいかに健康的に成長させるかに主眼が置かれているところにあります。

そのために、サイコシンセシスでは、
ガイディングと呼ばれるワークを行います。
それは、東洋の伝統を取り入れたメディテーションです。

さまざまなエクセサイズが考案されていますが、
くつろいだ姿勢をとり、深呼吸して、
下記のような言葉について集中して、そのイメージを心に保持することによって、
セルフの内部に望ましい特性を育むのです。


美 創造性 永遠性 解放 同胞愛 感謝 調和 喜び 秩序 
真理 晴朗 静寂 全体性 知恵 共感 エネルギー 無限 
無執着 寛容 鑑識力 ユーモア 法悦 忍耐 革新 平安 
穏和 理解 責任 把握力 力 普遍 協力 善 賞賛 包容 
光 現実 信頼 奉仕 質素 逞しさ 勇気 情熱 自由 友愛
善意 驚異 受容性 愛 存在 信念 沈黙 統合 意思



これらの言葉を見ているだけで、いい気分になりますね。




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これから新しくはじめてみたいことを40ぐらい書いて、
目立つところに張っておくと、
それを見るたびに生きる気力が湧いて来るとのことです。
あまりお金がかからないものなら、欲張ってもいいのです。

愚僧も少しだけリストアップしてみました・・・。


英語の勉強、スポーツ自転車、書道を習う、冒険、ヒーリング技法の修得、
HSに入会、速読術のマスター、ボランティア活動、電気自動車の購入、
詩作、音楽活動、新しい僧侶のスタイルを開発する、本を書く、料理を覚える、
自給自足生活、写真、資格試験にチャレンジ、手品、肉体の浄化、気功、
社交的になる、カウンセリングを学ぶ、文学を楽しむ、数学の勉強etc

夢はかなう・・・はず(・・?




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実験と最先端の統計学手法を用いて、
超常現象の実在を証明しようとしている超心理学ですが、

他の学術分野とも遜色のない研究体制が整っているにもかかわらず、
なぜか擬似科学として扱われることがあります。


超心理学への批判の傾向にはこのようなものがあるようです。


一、偏見による拒絶反応的な批判。

二、通常の現象として説明できる可能性がまったくないということを示すべき、
   という「オッカムのかみそり」などの哲学記号を用いた批判。

三、オカルト的な基盤をもっているという理由による批判。

四、「超常現象はない」という前提での、統計方法の正統性の否定。

五、通常科学と比較して、理論が確立されていないという批判。

六、トリックを用いても同じことが出来ることを示し、イカサマ仮説に信頼性を与える。

七、超常現象そのものに何の価値もない、というすりかえの批判。

八、正統的科学出版物への掲載拒否または、
   批判的なコメントによる掲載効果の打ち消し。


この分野では、物質主義との戦いがくりひろげられているのです。




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2008.06.05 内観法
内観法は心理療法として確立されていますが、
もともとは、古くからある浄土真宗の「身調べ」という求道法を、
その信者であった吉本伊信氏が、改良して考案したものです。

民間信仰として行われていた「身調べ」では、
徹底した自己反省、懺悔によって、
仏の光につつまれる法悦を得ることが、信者の身におきました。

どの宗教においても、「真の自己を知る」ための修行法があります。
真の自己は、永遠なるものであり、慈愛に包まれているという事実の発見です。


内観法では、
一人静かな場所で、座法を特定せずに、
生まれてから現在にかけて、過去の経験を想起することによって、
自分にかけられた愛の大きさに気づかされるという内的転換がおき、
真我に目覚めて自己変革が行われるのです。

内観をした人には、
その後の生活態度に劇的な変化が見受けられるということが報告されています。

内観が優れた心理療法として世界的にその効果が認知されているのは、
反省によって、心の曇りを取り去ることで、
神の光が差し込むという普遍的な原理が働くからなのです。




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現代のお坊さんの発言が、社会常識の枠を出ず、無味乾燥なのは、
いまだに、粒子の結合により世界が成り立つというニュートン物理学的思考で、
物質に根拠を求めているからです。

有限な脳細胞に答えを求めても、何も出てきません。

ですから、僧侶も、神としての法(ダルマ)に問うべきなのです。

神は、無限であり、智慧や愛の源泉でもあります。

そこには、くめども尽きぬ宝庫が存在するのですから、
活力のある思想や行動原理も生れてくることでしょう。

「仏教は神を認めない」という古い固定観念は捨てなければなりません。
仏教者の無知な発言が、我が国の無神論的傾向を増長させてさえいます。

すでに、パラダイムは転換しているのです。

心理学者アーノルド・ミンデルはこう言ってます。


20世紀の初め、心理学は個人の諸特性を個人の行動という観点から説明した。
人間は古典物理学で言う粒子のように、個別の存在として考察された。
結果、世界は個人の総和として理解された。
しかし家族の研究、カップルセラピー、共時性の存在、
ダブルシグナル、心身相関の現象を理解するためには、
個人心理理論をドリームボディとホログラムの理論で補う必要がある。
新たな理論は、宇宙の動きをホログラムとして描く。
つまり宇宙は、集合的な夢によってパターン化されており、
また、あなたと私、キッチンのレンジ、
外の木々などで構成された集合的な統一体として現れる。





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