僧侶のたくらみ

仏教とニューエイジの対話を推進するべく、 こっそりと活動中

ホワイトヘッドの神

イギリスの哲学者、数学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、
近代自然科学への深い造詣をもち、
その哲学は難解でありますが、20世紀最高峰ともいわれます。

ホワイトヘッドは晩年、「神」について語っています。




神は世界の内に存在するのであって、どこか別の場所にいるのではありません。
我々の中で、我々のまわりで、常に創造を続けているのです。
この創造主は、エーテル、水、大地、人間の心など、生きている物質にも、
ふつう無生物と言われている物質にも、あまねく存在しています。
しかし、その創造は、一つの持続的な過程であり、「その過程自体が現実」なのです。
なぜなら、到着したかと思えば、ただちにまた新たな旅が始まるのですから。
人間は、この創造的過程に関わっているかぎりにおいて、
神聖なるもの、つまり神とともにあるのです。
そして、この共同作業によって、人間は不滅になり、また、
個人が肉体の死を超えて生き残るかどうかという疑問もなくなってきて、
そんなことはつまらないことだという境地にいたれるのです。
宇宙の中で神とともに創造するという人間の真の運命こそが、
人間に尊厳と崇高さをもたらしてくれる源なのです。


「ホワイトヘッドとの対話」



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仏教と成功哲学

仏教の今後の展開としては、
健康志向のポジティブ心理学や成功哲学とリンクしていくべきです。

これはすでに、キリスト教の宣教師が取り入れています。

仏教というと厭世的で線香臭いので、
成功哲学とは全く結びつかないように思われるかもしれません。

しかし実は、成功哲学の元をたどれば、仏教にたどり着くのです。


近代の欧米人によって、仏教哲学が注目されました。

「原因と結果の法則」、「人間の本性は霊(仏性)であるという思想」、
「心の健康、静寂への志向性」、「潜在意識を説明した唯識思想」、
「宇宙は生命であり、全ては心の現れとする唯心論」、

このような仏教思想が、
カントやヘーゲルなどのドイツ観念論哲学、
ベルグソンなどの生命主義、
エマソンを代表する米国のニューソート哲学、
マーフィーやカーネギーなどの成功哲学や人生成功論、
などに影響を与えたのです。


そもそも、お釈迦さまは、
プロの出家修行者以外の在家修行者には、
繁栄の法則や職業倫理を教えています。

また、

正当に獲得され、
人の為に惜しみなく使われる富は、
この世の豊かな恵みであり、
この世で賞賛を、天で喜びを見出すだろう。
それはまた適度に享受されるべきものである。
「増支部」

とも説かれているのです。


仏教の理想は、「この世」と「あの世」の両方での幸福です。

なぜか日本仏教は、「無」にばかりこだわっているようです。




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黙想の眼

いつからか科学と宗教は分離されてしまいました。

そのおかけで私達は、世界は乾いた平坦なものとしか見えなくなりました。

しかし、真実の世界は、慈愛に満ち、ホロン的な広がりを見せています。
それを認識するためには、霊性の開発が不可欠です。

そして、真実の世界が認知されていくためにも、
科学と宗教は統合されなければなりません。

霊性哲学の第一人者ケン・ウィルバーの主張です。




私たちが第一に見逃すことができないことは、
偉大な伝統の創始者はほぼ例外なく、
一連の深遠な霊的体験を経験していることである。
彼らの啓示、直接的神秘体験は紅海を割るとか、
豆の栽培法とかについての神話的宣言ではなく、
『神なるもの』(スピリット、空性、神性、絶対者)の直接的な理解であった。
その頂点における理解は、
個とスピリットの直接的合一ないし同一性に関わるものだった。
その合一とは知的な信念として頭でとらえるのではなく、
直接体験として生きられるべきものである。
それは、まごうことなき存在の「最高善」、
途方もない合一の中に没入している幸運この上ない魂に大いなる解放、
再生、改心、悟りをもたらす直接認識であり、
基盤、ゴール、源泉、世界全体の救いとしての合一である。
そうした霊性の先駆者が各々弟子たちに与えたのは、 
一連の神話的ないし教条的な信念ではなく、
「私のことを思い起こし、これをしなさい」という一連の実践、指示、手本であった。
「これをせよ」―指示―というのは、特定のタイプの黙想的祈り、
ヨーガについての広範な指示、特定の瞑想実践、実際の内面的例示である。
この神聖なる合一を知りたければ、これを行なわねばならない、ということである。
こうした指示によって、
弟子の中に進化の先駆者の霊的体験や霊的データが再現された。
その後の内面的実験の過程(数十年、時には数世紀を越える)で、
それらの指示やデータは頻繁に改良・洗練され、
初期的ないし予備的な手法やデータはより鋭敏な観察の下で精緻化された。
小乗仏教から大乗仏教への成長発展、
さらには大乗から壮麗な金剛乗への成長発展、
ハシディームとカバラによるユダヤ神秘主義の見事な成熟、
初期ヴェーダから並はずれたシャンカラ、
超える者なきラマナ・マハリシまでの偉大なヒンドゥーの開花、
プラトンからプロティノスまでの六世紀にわたる純化などは、
そうした多数の実例の一部である。
ところが、特定の霊的伝統がこうした実験的探究のプロセスを放棄した瞬間、
直接的証拠や経験、変容させる力を欠いた、
単なる教条や神話的宣言に硬直化し始めた。
そして、輝かしい霊的な光輝を放つ大いなる解放の中に、
自我を超越させるのではなく、不死をもくろむ孤立した自我を、
手を変え品を変え慰めるだけになった。
結論は明白だと思われる。
黙想の眼を捨て去れば、
宗教には理知の眼―宗教が近代哲学によって八つ裂きにされている領域―と、
肉の眼―宗教が近代科学によってさんざん笑いものにされている領域―、
しか残されていないのだ。
宗教に唯一固有のものが何かあるとすれば、それは黙想に他ならない。
このように、宗教特有の永続的で偉大な強みは、
それが核心において霊的経験の科学だということなのだ。


「科学と宗教の統合」




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プラトンの再来

プラトンの魂は、
臨済そして、ヘーゲルと転生していることは、すでに述べましたが、

ヘーゲルは、
ドイツ観念論哲学の大成者で、後に多大な影響を与えた大哲学者です。

彼は、
神学校で教育を受けましたが、牧師にはならず、
ギリシャ語、ラテン語、博物学、天文学、物理学などを修め、
哲学者としての道に進みます。

ヘーゲルは、
絶対精神といわれる神を認識し、
その視点から、あらゆる事象を語ることが出来ました。

知性という点では、人類を代表する一人であるそうです。

哲学は彼のところで頂点をむかえたと言えるのかもしれません。




哲学は理想を夢想するのではなく、
冷静な洞察をもたらさねばなりませんが、
その洞察とは、本当の善ないし普遍的な神の理性は、
自己を実現する力をももっている、という洞察です。
この善、この理性を、もっとも具体的にしめすのが神です。
世界を支配するのは神であり、
神の支配の内容、ないし、神の計画の実行が世界史なのです。
哲学はそれをとらえようとする。
神の計画を実行したものだけが現実であり、
それに反するものはいつわりの存在にすぎないからです。
神の理念はたんなる理想とはちがうので、
その純粋な光のなかに身をおけば、
世界が狂った、ばかげたものだとはとうてい思えなくなる。
哲学は神の理念の内容たる現実を認識し、
軽蔑にさらされた現実を正当化するものです。
理性とは、神の作品に耳かたむけることですから。

歴史に登場する民族がつぎつぎと交替するなかで、
世界史がそうした発展過程をたどリ、
そこで精神が現実に生成されていくこと―それこそが正真正銘の弁神論であり、
歴史のなかに神の存在することを証明する事実です。
理性的な洞察力だけが、聖霊と世界史の現実とを和解させうるし、
日々の歴史的事実が神なしにはおこりえないということ、のみならず、
歴史的事実がその本質からして神みずからの作品であることを認識するのです。


「歴史哲学講義」




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良心的なる哲学者

カール・ヤスパースは、20世紀のドイツの哲学者です。

始めは、ハイデルベルク大学で精神医学を教えていましたが、
後に、哲学に転じて、世界的な実存哲学者となりました。

ヤスパースは、
「哲学者は神が存在するかどうかに答えなければならない」、
として、神を「包括者」と呼び、その存在証明は難しいが、
信仰によって確認されうるとしています。

そして、その「包括者」とは、
「存在それ自身として考えられた場合は、神および世界と呼ばれ、
私たち自身であるものとしては、現存在・意識一般・精神・実存と呼ばれるのだ」、
と説明しています。

彼は、ニヒリズムからの脱出のために、
秩序ある哲学的な生活態度の重要性を説いたのでした。


彼の思想と仏教の親和性が指摘されることがありますが、
その前世は、単身でインドに渡り唐に仏典をもたらした僧、義浄だったのです。




私は包括者によって生き、かつよりよく生きることができるのですが、
私が内省においてこのような包括者を覚知するならば、
この内省は無限の活動において、また技術的装置へ心を奪われているときでも、
終日私をささえてくれる根本的気分として光を放つでしょう。
こうして「哲学すること」は生の学びであるとともに死の学びであります。
一義的・直接的に私たちに聞こえてくるような神の言葉でなくして、
むしろ事物の常に多義的な言葉としての暗号に耳を傾け、
しかも超越者(神)が存在することの確信をもって生きることであります。
そこからしてはじめて、この疑惑に包まれた現存在において、
人生が善となり、世界が美となり、現存在そのものが充実したものとなります。
哲学が死の学びであるとしたら、この死の能力こそまさに、
正しく生きることの条件であります。生の学びと死にうることとは同じことなのであります。


「哲学入門」



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信仰の哲学者

セーレン・キルケゴールは、19世紀のデンマークの哲学者です。

コペンハーゲン大学神学部に入学、牧師への道を志しますが、
しだいに、哲学に興味が移り、ソクラテス、ゲーテ、ヘーゲルなどの研究を行います。

彼は、宗教的苦悩の解決を哲学的真理に求めますが、
ヘーゲル哲学などの理念や概念によるのではなく、
実存する個々の人間の苦悩の解決のための哲学を模索したのです。

42才の若さで急逝するまで、公職につくことなく著述活動に専念し、
膨大な著作を遺しました。彼は、生涯独身でありました。

その著書には、
世俗的領域にかかわる美的著書と、
信仰の問題にかかわる宗教的著書とに分類されますが、
彼の本意は宗教的著書にありました。

彼の思想は、
人間は、美的実存・倫理的実存・宗教的実存という三段階にわたって成長し、
宗教的実存に至って初めて安楽がおとずれ、自分の魂と神は接することが出来る、
というものでした。

ハイデッガー、ヤスパース、サルトルなどの、後の実存哲学者に影響を与えています。


彼は、キリスト教の信仰形態を批判しましたが、
真摯に神を信じたキリスト者であったのです。




一切の抽象物は神の前には全然存在しない。
ただ個体的な人間のみが、ただ個体的な罪人のみが、
キリストにおいてある神の前に生きているのである。
しかも神はよく全体に心をくばることができる。
だいたい神は雀の世話までもすることができるのである。
神は一般に秩序の友である。
そしてこの目的のために神自身はあらゆる場所に、
あらゆる瞬間に現在しているのである。
神は偏在者である。
神の概念は、人間の概念のようなものではない。神の概念は一切を包括する。
また別の意味では神はいかなる概念をももっていない。
神は略語の助けを借りる必要がない。
神は現実そのもの、すなわち一切の固体を把握している。


「死に至る病」




キルケゴール哲学と仏教の類似性がよく指摘されますが、
彼の過去世は、インドの大乗仏教唯識派の大成者、無着だったのです。




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汎神論の祖

スピノザは、17世紀のオランダの哲学者です。

スピノザは、高等教育を受けておらず、
在野の哲学者として執筆活動に専念する生涯をおくりました。

大学の教授職に要請されますが、
思索の自由を選び、辞退しています。

彼は、レンズ磨きで生計をたてていたようです。


スピノザ哲学は、自然は神である、という汎神論が特徴で、
ユダヤ教や聖書の神概念を批判し、
人格神は人間の理解力に応じたものにすぎないとして、大変な物議をかもしました。

当時は、神を批判するなどということは許されないことであり、
それほど、神の権威は絶大だったのです。

スピノザの思想は、

神は、独立して存在するのではなく、あらゆるものに内在している。

すべては、神の内にあり、神こそ唯一の実在である。

われわれもまた、無限の神の愛の内に包摂されている存在である。


というものです。

スピノザは汎神論の先駆者であり、
後のフィヒテやヘーゲル、ゲーテの思想などにも影響を与えています。

著書に「神学・政治論」、「国家論」、「エチカ」などがあります。

彼の思想は、どことなく、仏教にも似ているようですが、
それもそのはず、スピノザは過去世に、
釈迦十大弟子、多聞第一の阿難として生れているのです。




精神は身体と、自らがその観念であるところの身体と、合一することも出来るし、
また精神は神と、自らが存在するにも理解されるにも欠くことのできない神と、
合一することが出来る。

精神は、不変であり、かつ不変に止まるところの神と合一するのであるから、
精神もまた、不滅であらなければならない。


「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」



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エラン・ヴィタール

アンリ・ベルクソンは、
フランスを代表する哲学者であり、ノーベル文学賞受賞者です。

ベルクソンは、
意識は物質に還元することはできず、
物質とは独立して持続していくものだとして、
形而上的な意味合いの強い「生命の飛躍」という概念を唱えました。

生命は、大いなる意志の働きを受け創造的に進化するのだ、と。

そして、こうも言っています。
宇宙は神々を作るためのしくみである、と。

ベルクソンは、新プラトニズムから影響を受けていた神秘主義者でもあり、
晩年には神に帰依します。

ベルクソンの唱えた生命概念は、
唯物的な生命観が反省されはじめた現代において、ますます評価が高まっているのです。




心霊学は、それが確実だと思っているものと、
単に確からしいもの、あるいは、たかだか可能なものとを区別する。
しかし、心霊学が確実なものとして提供するものの一部しか取り上げないとしてさえも、
心霊学が、その探検に着手したばかりの未知の土地の広大さを、
推測するに足るだけのものは残る。
この未知の世界の微光が、我々のところまで達し、
肉体の目で見えるようになった、と仮定しよう。
たとえ口では何と言うにせよ、一般にただ自分の見るものと自分の触れるものだけを、
実存的だと認めることに慣れた人類のなかに、何という変化が生ずることだろう!
我々のところにこのようにしてもたらされる情報は、恐らくは、魂のうちの下級のもの、
最低段階の精神性に関するものでしかないだろう。
しかし、大部分の人々のうちに見いだされるように思われるが、
大抵の場合、言葉だけの抽象的な、効力のないままにとどまっている彼岸の信仰を、
働く生きた実在に変えるためには、それ以上のものは必要でないだろう。
こうした信仰がどの程度に大切であるかを知るためには、
ひとがどんなに快楽に飛びついているかを見れば充分である。
ひとは、もし快楽を何か虚無から逃れるためのもの、
死を嘲るひとつの手段、と見ていなければ、これほどまでに快楽に執着しないだろう。
実際、もし我々が永遠の生命を確信しているとすれば、絶対的に確信しているとすれば、
我々はもはや、そのほかのことは考え得ないだろう。快楽は歓喜の陰に消え去るだろう。


「道徳と宗教の二源泉」




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厭世の人

ショーペンハウアーは、
カントの弟子を自認していたドイツの哲学者です。

終生、釈尊を尊敬し、独特の厭世哲学をうちたてました。
彼は、生涯独身で、孤独な性格であったようです。

著書に、「自殺について」、「幸福論」、「読書について」、などがあります。

その思想は、
全世界は盲目的な意志のあらわれであるとし、
その盲目的な意志ゆえに、望み通りにはならない世界は苦しみである、
その苦しみからの解脱を、禁欲、自制、克己によってはからねばならない、
というものです。

まさに仏教にそっくりです。

一方で、ショーペンハウアーは、視霊論を著していています。

かつて生存した人と、
現に生きている人との間の区別は絶対的なものではなく、
両者のなかには、
ともに同一の生きんとする意志があらわれていることをはっきりさせるべきである。
これによって生者は黙想によって、
死者からの連絡として示される、
もろもろの記憶を明るみに出すことができるであろう。

各人の意志は固体化のいかなる制限によっても妨げられることなく、
したがって直接遠方から他人の意志に作用するばかりか、
他人の生体にも作用する。


「視霊とこれに関連するものについての研究」

尚、ショーペンハウアーの過去世は、
ストイックの語源ともなったストア派のセネカであったようです。




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近代哲学の祖

近代哲学の祖デカルトは、
精神と肉体を二元論的に分離して、人間を機械に貶めた、と言われますが、

魂と、脳の松果線との連結作用を主張していることからもわかるように、
霊魂を否定していたわけではありせん。

理性を重視し、科学と宗教を分離したのです。

デカルトは、占星術や魔術を学んでいました。
もちろん、霊魂も神も信じていたのです。

このように言っています。

霊魂の不滅ということは身体の不滅とはまったく別個の性質のもので、
身体の死と共に当然死んでしまうように出来ていないことだけは証明できるのです。
このことが宗教を確立するために必要なものの一切です。


デカルトの過去世は、老荘思想の荘子であり、また西行法師としても生まれています。




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妖怪博士

井上円了博士は、真宗大谷派慈光寺で生まれました。
京都東本願寺の学校から、東京大学へ入学し哲学を学びました。

その後は、哲学を基盤にして、仏教を究明するとともに、
哲学思想を広めることが、世の利益になると信じて、
哲学館(後の東洋大学)を設立して、その普及に努めました。

博士の建設した哲学堂には、ソクラテス、カント、孔子、釈迦
の四聖が祀られています。


博士は、仏教哲学者以外に、妖怪博士という異名を持ち、
お化けや妖怪などにまつわる話を、日本中調査して研究しました。

そのおかげで、迷信や俗信を排斥しようとした
合理主義者だと思われていますが、

科学で解明できない妖怪を「真怪」として認めていたり、
仏教思想に根拠をおく霊魂不滅論を唱えているのです。


道徳上、人に満足を与えるには、
霊魂不滅説によって、
善悪の応報は死後必ずくるものと確信させることが肝要であります。
諺にも『善悪もし報いなくんば乾坤必ず私あらん』とあって、
われわれは天地の正理の存在する限りは、
善悪には必ずその報いがあると信じて、
その賞罰を死後永遠に期するものであります。
そして、天地の正理は宇宙の正理であり、
宇宙の正理は善悪応報の規則であって、
その規則はまったく霊魂不滅に基づくものであるから、
われわれの安心は霊魂不滅説によらなければ、
達することができないことは明らかであります。


「霊魂不滅論」



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ヘーゲルの仏教観

仏教を一見したところ、
人間が、神を虚無として思い描くなどということは驚くべきことかもしれない。
さぞや奇怪至極に思われることであろう。

けれども、もう少しじっくりと考えてみるならば、
これはただ、神がいかなる限定も受けない、
無限定なものであることを意味するにすぎない。

神にふさわしいような具体的な限定などありえない。
神は無限なのである。

『われわれは神についてはなにひとつ知りえず、
なにも認識しえないし、神のいかなる表象も思い描くことはできない』

と言う場合、これは神がわれわれにとって、
虚無であるということを示す穏やかな表現なのである。


ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル



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永遠の西田哲学

西田幾多郎は日本人としては唯一人、「哲学学者」ではなく、哲学者でありました。
自らの思索と、理論で、純粋経験や絶対矛盾の自己同一を語りました。
西洋哲学を超越せんとして、東洋的思想をもって合一を計りました。

あまりにも宗教的すぎて、哲学ではない、という批判もあったようです。

その影響は、今でも京都学派といわれ、神秘主義的傾向を残しています。

彼は、また、神を自らの言葉で語れる人でもあったのです。

彼の言葉を見てみましょう。

神とはこの宇宙の根本をいうのである。
宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である。外は日月星辰の運行より、
内は人心の機敏に至るまで悉く神の表現でないものはない。
我々はこれらの物の根底において一々神の霊光を拝することができるのである。

凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生まれてきたというように、
我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を
完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、
永遠の発展を成すということができるのである(ロイスの霊魂不滅論を看よ)。

学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教というものはこの作用の極致である。
学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、
宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
インドのヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、
キリスト教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。
各自その特色はないではないが、その本質においては同一である。


「善の研究」

西田幾多郎の過去世は、「万学の祖」といわれる哲学者アリストテレスであり、
その後は、禅の公案集「無門関」を記した無門慧開として生まれました。




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