2009.02.22
神の正義
人生が本当に一度きりであるならば、「神も仏もあるものか」と嘆かざるをえません。
しかし、転生の教義は、我々に未来への希望を与えてくれます。
あらゆる霊はみずからの完成をめざす。
神は、霊たちに肉体の生を送らせる試練によって、
完成に近づく方法を与える。
正義なる神は、霊たちが最初の試練でできなかった、
あるいは成し遂げられなかったことを、
新たな生において成し遂げる機会を与える。
転生の教義、すなわち、
人間に何度も人生を繰り返させることを認める教義だけが、
道徳的に劣る条件のもとに置かれた人間に対して、
神が行う正義を考えるとき、我々に唯一納得できるものである。
この転生の教義だけが、我々に未来を納得させ、
我々にしっかりとした希望をもたせてくれる唯一のものだ。
それというのも、この教義だけが、我々の過ちを、
新たな試練によってつぐなう方法を我々に与えるからだ。
アラン・カルデック「霊媒の書」
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しかし、転生の教義は、我々に未来への希望を与えてくれます。
あらゆる霊はみずからの完成をめざす。
神は、霊たちに肉体の生を送らせる試練によって、
完成に近づく方法を与える。
正義なる神は、霊たちが最初の試練でできなかった、
あるいは成し遂げられなかったことを、
新たな生において成し遂げる機会を与える。
転生の教義、すなわち、
人間に何度も人生を繰り返させることを認める教義だけが、
道徳的に劣る条件のもとに置かれた人間に対して、
神が行う正義を考えるとき、我々に唯一納得できるものである。
この転生の教義だけが、我々に未来を納得させ、
我々にしっかりとした希望をもたせてくれる唯一のものだ。
それというのも、この教義だけが、我々の過ちを、
新たな試練によってつぐなう方法を我々に与えるからだ。
アラン・カルデック「霊媒の書」



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2009.01.19
未来に向かって
輪廻転生は、巧妙な「神仕組み」です。
それは、神による罰でも、定められた不幸な運命を強いるものでもありません。
私達は、自らの力、自由意志によって、未来を切り開いていかなければなりません。
「永遠は私のもの」なのです。
シュタイナー思想の研究者であり仏教の密教僧でもある西川隆範氏の解説です。
人間は死んだら終わりなのか、それとも死後の人生があるのか、
あるいは輪廻して来世があるのか。
そのそれぞれで、現世の方針が多少なりとも変わってくるのではないでしょうか。
日本に住む私たちには、「生まれ変わり」という考え方は身近かなものです。
地獄・餓鬼・蓄生・阿修羅・人・天の六道を輪廻する、
あるいは欲界・色界・無色界の三界を輪廻する、と仏教は説いてきました。
釈迦(ゴータマ仏陀)は悟りを開いた夜、
まず生きものが輪廻するさまを見、ついで自分の前世を思い出していったと言います。
それから、因縁を洞察して悟ったというのです。
つまり、悟りを開く前に前世の想起がなされたことになります。
今日の科学では前世・来世があるかないか、証明も否定もできませんが、
ここでは輪廻転生がありうるという立場で話を進めてみます。
よく指摘されることですが、たしかに輪廻思想・業思想は、
不幸な人々に現状を肯定させるために用いられることがありました。
いま不運なのは前世の報いなのだから諦めなさい、という説明です。
しかし、業(カルマ)という考え方は、過去から現在を説明すると同時に、
現在から未来を築く積極的な考え方です。
前世を認識することによって今の状況の原因を解明すると同時に、
今の生き方が未来を作っていくと考えます。
現世しかない場合、
生まれた環境や巡り合うことがらが人によって違うので、運命の不公平を感じてしまいます。
今の状態には原因があるわけですから、その原因を知ることによって対策を検討できます。
前世が分かれば今どのように生きていくといいのか、その方向が見えてきます。
どこをどう改善すればよりよい未来が開かれるか、
それを発見するのがカルマ探究の眼目です。
ただ、前世を知るにふさわしい時期というものがあります。
前世を知ると、その前世に束縛されて今を自由に生きられない、という事態も起こります。
たとえば自分が前世で立派な人物だった場合、
いまの自分も偉い人間のように思い込むことがあります。
あるいは、いま自分が親しくしている人が、前世で自分に酷いことをしたのが分かると、
愛情・友情に微妙な影が落ちるかもしれません。
ですから、普段から修養を心がけている人が、
前世を知ってもそのような影響を受けない強い心魂になり、
前世を知ることが現世のためにプラスになる場合、前世が分かる機会がやってくるはずです。
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それは、神による罰でも、定められた不幸な運命を強いるものでもありません。
私達は、自らの力、自由意志によって、未来を切り開いていかなければなりません。
「永遠は私のもの」なのです。
シュタイナー思想の研究者であり仏教の密教僧でもある西川隆範氏の解説です。
人間は死んだら終わりなのか、それとも死後の人生があるのか、
あるいは輪廻して来世があるのか。
そのそれぞれで、現世の方針が多少なりとも変わってくるのではないでしょうか。
日本に住む私たちには、「生まれ変わり」という考え方は身近かなものです。
地獄・餓鬼・蓄生・阿修羅・人・天の六道を輪廻する、
あるいは欲界・色界・無色界の三界を輪廻する、と仏教は説いてきました。
釈迦(ゴータマ仏陀)は悟りを開いた夜、
まず生きものが輪廻するさまを見、ついで自分の前世を思い出していったと言います。
それから、因縁を洞察して悟ったというのです。
つまり、悟りを開く前に前世の想起がなされたことになります。
今日の科学では前世・来世があるかないか、証明も否定もできませんが、
ここでは輪廻転生がありうるという立場で話を進めてみます。
よく指摘されることですが、たしかに輪廻思想・業思想は、
不幸な人々に現状を肯定させるために用いられることがありました。
いま不運なのは前世の報いなのだから諦めなさい、という説明です。
しかし、業(カルマ)という考え方は、過去から現在を説明すると同時に、
現在から未来を築く積極的な考え方です。
前世を認識することによって今の状況の原因を解明すると同時に、
今の生き方が未来を作っていくと考えます。
現世しかない場合、
生まれた環境や巡り合うことがらが人によって違うので、運命の不公平を感じてしまいます。
今の状態には原因があるわけですから、その原因を知ることによって対策を検討できます。
前世が分かれば今どのように生きていくといいのか、その方向が見えてきます。
どこをどう改善すればよりよい未来が開かれるか、
それを発見するのがカルマ探究の眼目です。
ただ、前世を知るにふさわしい時期というものがあります。
前世を知ると、その前世に束縛されて今を自由に生きられない、という事態も起こります。
たとえば自分が前世で立派な人物だった場合、
いまの自分も偉い人間のように思い込むことがあります。
あるいは、いま自分が親しくしている人が、前世で自分に酷いことをしたのが分かると、
愛情・友情に微妙な影が落ちるかもしれません。
ですから、普段から修養を心がけている人が、
前世を知ってもそのような影響を受けない強い心魂になり、
前世を知ることが現世のためにプラスになる場合、前世が分かる機会がやってくるはずです。



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2009.01.11
人生は廻る
私はどこから来て、どこに帰るのだろう。
永遠の問い。
このなかに、全ての答えがある。
人間は、実際に、自分の運命を生み出している。
人生は一度きりではない。
もし、私たちが人生の現象に立ち向かい、
生きた観察から得られる思想に、
その細部まで躊躇なく従うならば、
私たちは、論理によってだけでも、
輸廻の観念や運命の法則にたどり着くことができる。
霊的な眼の開かれた者にとって、
過去の生は、書物を読むのと同様、直接体験される現実である。
こうした真理は、生き生きと観察する理性を持つかぎり、
誰にとっても明らかである。
ルドルフ・シュタイナー「神智学」
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永遠の問い。
このなかに、全ての答えがある。
人間は、実際に、自分の運命を生み出している。
人生は一度きりではない。
もし、私たちが人生の現象に立ち向かい、
生きた観察から得られる思想に、
その細部まで躊躇なく従うならば、
私たちは、論理によってだけでも、
輸廻の観念や運命の法則にたどり着くことができる。
霊的な眼の開かれた者にとって、
過去の生は、書物を読むのと同様、直接体験される現実である。
こうした真理は、生き生きと観察する理性を持つかぎり、
誰にとっても明らかである。
ルドルフ・シュタイナー「神智学」



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2009.01.05
仏教学者と輪廻
「仏教は、輪廻からの解脱を目的とするものであるので、
解脱した存在であるところの阿羅漢以上のレベルになると再び生まれてくることは無い。」
これは、日本の仏教学者に顕著な言説です。
と、いうことは、「輪廻転生」という現象自体は認めている、ということなのでしょうか?
覚者だけは無に帰し、凡夫だけが輪廻転生をする、ということなのでしょうか?
それとも、
そもそも輪廻転生などというオカルト的なことはありえない、という立場なのでしょうか?
仏教聖者の菩薩は、
「カルマ的な輪廻を離れて、自らの意思で衆生救済の為に、この世に生まれてくる」、
という大乗仏教の精神は、全てフィクションだと言うのでしょうか?
そもそも、仏教各宗派の開祖は、皆、前世からの仏縁を語っていないでしょうか?
原始仏典にある如来の転生の秘密を、あえて無視しているのでしょうか?
仏陀の過去七仏は?弥勒の転生物語は?仏弟子への授記譚は?転輪聖王の伝説は?
他宗でも、キリストやメシアの再臨を待ち望むという信仰がありますが、
これはまさしく、「輪廻転生」以外の何ものでもないのではないでしょうか?
よもや、日本の仏教学者は、単なる西洋かぶれの唯物論哲学の見地から、
「輪廻転生」という事象を否定したいがために語っている、ということはありますまいな?
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解脱した存在であるところの阿羅漢以上のレベルになると再び生まれてくることは無い。」
これは、日本の仏教学者に顕著な言説です。
と、いうことは、「輪廻転生」という現象自体は認めている、ということなのでしょうか?
覚者だけは無に帰し、凡夫だけが輪廻転生をする、ということなのでしょうか?
それとも、
そもそも輪廻転生などというオカルト的なことはありえない、という立場なのでしょうか?
仏教聖者の菩薩は、
「カルマ的な輪廻を離れて、自らの意思で衆生救済の為に、この世に生まれてくる」、
という大乗仏教の精神は、全てフィクションだと言うのでしょうか?
そもそも、仏教各宗派の開祖は、皆、前世からの仏縁を語っていないでしょうか?
原始仏典にある如来の転生の秘密を、あえて無視しているのでしょうか?
仏陀の過去七仏は?弥勒の転生物語は?仏弟子への授記譚は?転輪聖王の伝説は?
他宗でも、キリストやメシアの再臨を待ち望むという信仰がありますが、
これはまさしく、「輪廻転生」以外の何ものでもないのではないでしょうか?
よもや、日本の仏教学者は、単なる西洋かぶれの唯物論哲学の見地から、
「輪廻転生」という事象を否定したいがために語っている、ということはありますまいな?



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2008.11.01
偉大なる仕組
輪廻は普遍の法則。
あらゆる生命は輪廻する。
惑星もこの宇宙さえも輪廻する。
正しい宗教には、輪廻の教義がある。
輪廻は、あらゆる問題に解決をあたえる。
神の不在を嘆くか、
この神の偉大なる仕組を見抜けるか。
生の秘密は輪廻にある。
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あらゆる生命は輪廻する。
惑星もこの宇宙さえも輪廻する。
正しい宗教には、輪廻の教義がある。
輪廻は、あらゆる問題に解決をあたえる。
神の不在を嘆くか、
この神の偉大なる仕組を見抜けるか。
生の秘密は輪廻にある。



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2008.09.25
何度もチャレンジ
わたしたちの本質は、霊としての存在です。
そして、肉体の死をもって人生が終わるわけでは無いのはもちろん、
人生修行の為、何度も地上(他惑星も)に生まれては、「神仏」へと近づいているのです。
輪廻転生は、人類に希望を与える最も大切な思想です。
個性は、自らの課題でもあって、
今を如何に生きるか、ということが来世をも決定することになるのです。
まさに、自己責任の原則が厳密に適用されています。
どんな境涯でも学びの場だし、
なにより自分自身で選んで生まれてきているのですから。
人にはそれぞれ、魂の歩んできた道のりがあります。
それは、正当に評価されねばなりません。
神の仕組みは、どこまでも公平です。
失敗しても、何度でもやり直しが出来る。
永遠のいのちが与えられている、ということがどれほどの奇跡でしょうか?
神仏は、悪も失敗も退歩も許容し、
限りない慈愛でもって、一人ひとりに機会を与えておられるのです。
ゲーテ
人の魂は水に例えることができる。それは天から降り、天に戻って行く。
そしてまた地上に戻る。こうして永遠に行き来しているのである。
カール・ユング
人生は時に始まりも終わりもない一つの物語のように思えることがある。
自分が歴史の一部分で、前後のテキストを失った抜粋のような気がするときもある。
私は確かに前世紀にも生きていて、
その時出会った問題に答えを出すことができなかったような気がする。
つまり、その時に与えられた任務を十分に果たさなかったために、
もう一度生まれてこなくてはならなかったように思えるのである。
トルストイ
前世で自殺した男の今生での体験の物語を書いたとしたら、さぞかしおもしろかろう。
前世では直面した様々な問題に、彼は今生でも再び遭遇する。
そして、それらを解決しない限り、
そこから先へは進めないことに気づくまでの物語になろう。
過去の人生で行ったことが、現在の人生に方向性を与えているのだ。
アルバート・シュバイツアー
輪廻転生の考え方は現実をとてもうまく説明してくれる。
そのために、インドの思想は、ヨーロッパの思想家をなやましている困難な問題を、
楽々と乗り越えているのだ。
ウォルト・ホイットマン
さあ、と私の「魂」が言った。私の「肉体」のために歌を書こう。
わたしたちはひとつのものだ。
もしわたしが死んでから目には見えぬ姿で地上にもどり、
あるいは、遠く遙かなのちの世に、別の天体の住人となって、
大地の土壌、樹木、風、激浪のしらべに合わせつつ、
どこかの仲間たちの群れを相手に、
ふたたび歌い始める折でもあれば、
いつも嬉しげに微笑を湛えて歌い続け、
いつもなお永遠にその歌をわがものとしておけるよう。
―さらばまず、ことのはじめに、「魂」と「肉体」のために歌いつつ、
その歌にわたしはわが名をしるす。
ウィリアム・ワーズワース
この世に生まれてくることは、眠りと忘却に過ぎない。
肉体の中に宿り、我々の星である魂は、
はるかかなたから来て、
あらゆる場所にあらゆる姿で生まれる。
しかし、生まれる前のことを、完全に忘れているわけではない。
肉体の衣のうしろに、栄光の雲をたなびかせて、
我々は神のみもとの故郷より、やって来るのだ。
幼年期には天は我々のまわりにあるのだ。
ラルフ・ワルド・エマーソン
この世の秘密とは、すべてのものは死なないということだ。
しばらくの間、視界から消え失せても、あとで再び戻ってくる。
何ものも死なない。
人間は死ぬふりをするだけだ。
見せかけの葬儀、悲しげなとむらいに退屈して死者は別の姿をして、
元気はつらつ窓から外を覗いている。
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そして、肉体の死をもって人生が終わるわけでは無いのはもちろん、
人生修行の為、何度も地上(他惑星も)に生まれては、「神仏」へと近づいているのです。
輪廻転生は、人類に希望を与える最も大切な思想です。
個性は、自らの課題でもあって、
今を如何に生きるか、ということが来世をも決定することになるのです。
まさに、自己責任の原則が厳密に適用されています。
どんな境涯でも学びの場だし、
なにより自分自身で選んで生まれてきているのですから。
人にはそれぞれ、魂の歩んできた道のりがあります。
それは、正当に評価されねばなりません。
神の仕組みは、どこまでも公平です。
失敗しても、何度でもやり直しが出来る。
永遠のいのちが与えられている、ということがどれほどの奇跡でしょうか?
神仏は、悪も失敗も退歩も許容し、
限りない慈愛でもって、一人ひとりに機会を与えておられるのです。
ゲーテ
人の魂は水に例えることができる。それは天から降り、天に戻って行く。
そしてまた地上に戻る。こうして永遠に行き来しているのである。
カール・ユング
人生は時に始まりも終わりもない一つの物語のように思えることがある。
自分が歴史の一部分で、前後のテキストを失った抜粋のような気がするときもある。
私は確かに前世紀にも生きていて、
その時出会った問題に答えを出すことができなかったような気がする。
つまり、その時に与えられた任務を十分に果たさなかったために、
もう一度生まれてこなくてはならなかったように思えるのである。
トルストイ
前世で自殺した男の今生での体験の物語を書いたとしたら、さぞかしおもしろかろう。
前世では直面した様々な問題に、彼は今生でも再び遭遇する。
そして、それらを解決しない限り、
そこから先へは進めないことに気づくまでの物語になろう。
過去の人生で行ったことが、現在の人生に方向性を与えているのだ。
アルバート・シュバイツアー
輪廻転生の考え方は現実をとてもうまく説明してくれる。
そのために、インドの思想は、ヨーロッパの思想家をなやましている困難な問題を、
楽々と乗り越えているのだ。
ウォルト・ホイットマン
さあ、と私の「魂」が言った。私の「肉体」のために歌を書こう。
わたしたちはひとつのものだ。
もしわたしが死んでから目には見えぬ姿で地上にもどり、
あるいは、遠く遙かなのちの世に、別の天体の住人となって、
大地の土壌、樹木、風、激浪のしらべに合わせつつ、
どこかの仲間たちの群れを相手に、
ふたたび歌い始める折でもあれば、
いつも嬉しげに微笑を湛えて歌い続け、
いつもなお永遠にその歌をわがものとしておけるよう。
―さらばまず、ことのはじめに、「魂」と「肉体」のために歌いつつ、
その歌にわたしはわが名をしるす。
ウィリアム・ワーズワース
この世に生まれてくることは、眠りと忘却に過ぎない。
肉体の中に宿り、我々の星である魂は、
はるかかなたから来て、
あらゆる場所にあらゆる姿で生まれる。
しかし、生まれる前のことを、完全に忘れているわけではない。
肉体の衣のうしろに、栄光の雲をたなびかせて、
我々は神のみもとの故郷より、やって来るのだ。
幼年期には天は我々のまわりにあるのだ。
ラルフ・ワルド・エマーソン
この世の秘密とは、すべてのものは死なないということだ。
しばらくの間、視界から消え失せても、あとで再び戻ってくる。
何ものも死なない。
人間は死ぬふりをするだけだ。
見せかけの葬儀、悲しげなとむらいに退屈して死者は別の姿をして、
元気はつらつ窓から外を覗いている。



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2008.07.24
魂の永遠性
哲学者のケン・ウィルバー氏は、
西洋人ですが、輪廻転生についてこのように肯定的に論じています。
生まれ変わりの教義は、
世界中の神秘主義的宗教のほぼすべてになんらかの形で見出される。
キリスト教でさえ、かつてはその教義を認めていたのだが、
おもに政治的な理由によって四世紀に破棄されてしまったのである。
しかし今日でも、キリスト教神秘主義者の多くはその観念を認めている。
神学者のジョン・ヒックが主著『死と永遠の生』で指摘しているように、
なんらかの生まれ変わりが起こることは、
キリスト教を含めた世界の諸宗教の合意事項なのである。
イアン・スティーブンソン教授やその他の人たちによって記録されているように、
二、三の特殊な記憶が逃れることはあるかもしれない。
だが、そうした記憶は原則というより例外であろう。
転生するのは心ではなく魂のほうなのだ。
魂の絶対的存在を否定する仏教でさえ、魂が相対的ないし因習的な性質をもち、
その相対的・因習的に存在する魂が転生することを認めている。
「死を超えて生きるもの」
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西洋人ですが、輪廻転生についてこのように肯定的に論じています。
生まれ変わりの教義は、
世界中の神秘主義的宗教のほぼすべてになんらかの形で見出される。
キリスト教でさえ、かつてはその教義を認めていたのだが、
おもに政治的な理由によって四世紀に破棄されてしまったのである。
しかし今日でも、キリスト教神秘主義者の多くはその観念を認めている。
神学者のジョン・ヒックが主著『死と永遠の生』で指摘しているように、
なんらかの生まれ変わりが起こることは、
キリスト教を含めた世界の諸宗教の合意事項なのである。
イアン・スティーブンソン教授やその他の人たちによって記録されているように、
二、三の特殊な記憶が逃れることはあるかもしれない。
だが、そうした記憶は原則というより例外であろう。
転生するのは心ではなく魂のほうなのだ。
魂の絶対的存在を否定する仏教でさえ、魂が相対的ないし因習的な性質をもち、
その相対的・因習的に存在する魂が転生することを認めている。
「死を超えて生きるもの」



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2008.06.06
輪廻転生の意義
輪廻転生は、人類にとって最も重要な思想です。
そこには、私達の本質である魂が、
幾多の生涯を繰り返し成長していく神秘が隠されています。
この思想を受け入れることで、人生の意味は大きく変わってきます。
アメリカの心理学者ジナ・サーミナラ氏が、素晴らしい考察をおこなっています。
心霊主義団体やその出版物を、
もう少し雅量のある態度で時間をかけじっくりと研究するならば、
次に示すような幾つかの重要な価値を見いだすこともできよう。
一、超能力によって超感覚的知識の有効性を認識すること。
まさに科学はこの方向へ向かっているのである。
二、人生の精神的真実と目標を認識すること。
心理学においては、たぶんこのことが最大の盲点であり欠陥であろう。
三、一見異なるように見える宗教、哲学、物理学、
心理学、超心理学を根元的に結ぶ一体感。
四、一国の一文化の倫理、道徳ではなく、グローバル(世界的)な合目的の哲学。
五、未確認ではあるが、大宇宙と人間性に関して計り知れないほど重要な、
新知識を導き出す可能性ある多くの情報。
もし、心理学者が特に輪廻転生論に注目するならば、
さらに次のような価値を見いだすだろう。
一、同性愛、多重人格、狐つきによる精神異常などの、
人間の精神生活における説明しがたい現象に対する解答。
二、人間の苦悩や限界に対する根本的原因。
三、個人差の原因に対する洞察。
四、肉体と精神の関係に対する深い理解。
五、潜在意識の原動力に対する重要な手がかり。
『考えることを学び、愛することを学ぶべし。』
これこそ私には実践的輪廻転生論者の哲学大要のように思えるのである。
愛の質を高め、理知能力を増すことは、
両方とも意識的に発展させる必要があることである。
そのためにわれわれは、多くの生まれ変わり、
出で変わりの生涯を持っているのだと私は信じている。
悲しみ、敗北感、失敗などを通し、すこしずつわれわれは、
洞察力や思いやりの両面を開発させているのである。
個人的なものから宇宙的なものへ、自己愛から他者への愛へ、
感情的愛から崇高な愛へ、無限に広がる同心円の中で、
われわれの愛の本質は拡大しており、それにつれ、
われわれの理解力も増大するのである。
最終的には英知と呼ばれる愛と知性の完全な平均調和安定なのである。
これこそ、われわれの多くの生涯と多くの愛の目的であると私は確信するのである。
「MANY LIVES,MANY LOVES」
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そこには、私達の本質である魂が、
幾多の生涯を繰り返し成長していく神秘が隠されています。
この思想を受け入れることで、人生の意味は大きく変わってきます。
アメリカの心理学者ジナ・サーミナラ氏が、素晴らしい考察をおこなっています。
心霊主義団体やその出版物を、
もう少し雅量のある態度で時間をかけじっくりと研究するならば、
次に示すような幾つかの重要な価値を見いだすこともできよう。
一、超能力によって超感覚的知識の有効性を認識すること。
まさに科学はこの方向へ向かっているのである。
二、人生の精神的真実と目標を認識すること。
心理学においては、たぶんこのことが最大の盲点であり欠陥であろう。
三、一見異なるように見える宗教、哲学、物理学、
心理学、超心理学を根元的に結ぶ一体感。
四、一国の一文化の倫理、道徳ではなく、グローバル(世界的)な合目的の哲学。
五、未確認ではあるが、大宇宙と人間性に関して計り知れないほど重要な、
新知識を導き出す可能性ある多くの情報。
もし、心理学者が特に輪廻転生論に注目するならば、
さらに次のような価値を見いだすだろう。
一、同性愛、多重人格、狐つきによる精神異常などの、
人間の精神生活における説明しがたい現象に対する解答。
二、人間の苦悩や限界に対する根本的原因。
三、個人差の原因に対する洞察。
四、肉体と精神の関係に対する深い理解。
五、潜在意識の原動力に対する重要な手がかり。
『考えることを学び、愛することを学ぶべし。』
これこそ私には実践的輪廻転生論者の哲学大要のように思えるのである。
愛の質を高め、理知能力を増すことは、
両方とも意識的に発展させる必要があることである。
そのためにわれわれは、多くの生まれ変わり、
出で変わりの生涯を持っているのだと私は信じている。
悲しみ、敗北感、失敗などを通し、すこしずつわれわれは、
洞察力や思いやりの両面を開発させているのである。
個人的なものから宇宙的なものへ、自己愛から他者への愛へ、
感情的愛から崇高な愛へ、無限に広がる同心円の中で、
われわれの愛の本質は拡大しており、それにつれ、
われわれの理解力も増大するのである。
最終的には英知と呼ばれる愛と知性の完全な平均調和安定なのである。
これこそ、われわれの多くの生涯と多くの愛の目的であると私は確信するのである。
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2008.05.24
因果応報
輪廻転生は、仏教教義において中核をなす重要な概念です。
にもかかわらず、これを否定する仏教徒は数多くいます。
例えば、インドの新仏教徒運動で知られるアンベードカル博士は、
輪廻転生は、カースト制度を温存する原因になっているとして、
仏教からこれを意図的に排除しました。
日本においても、
輪廻転生の教義は、差別を助長するものであるとして、
これを排撃しようとする動きもあります。
アンベードカル博士は、その著書「ブッダとそのダンマ」でこのように言っています。
「前世カルマ説は、全くもってバラモン教義そのものである。
現世に影響をおよぼす前世のカルマは、バラモンの霊魂説と全く合致するが、
ブッダの非霊魂説とは全然一致しない。
これは、仏教をヒンズー教と同じものにしようと考えた何者かか、
仏教とはいかなるものかをまるで知らない者によって、持ちこまれたものである。」
「前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は、正に邪悪なものである。
このような教義を作り上げた目的は何であったのか。
考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が、
貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。」
このような主張は、日本でもよく聞かれるものです。
仏教者は、こうした意見に対してきちんと反論していくことが今後の課題です。
因果応報は、宇宙の法則であるという事実は曲げられません。
原因があれば必ず結果があります。
私達人間においても、今世のみで、その法則が完結するということはありません。
輪廻転生をかたよってとらえると運命論的になり、努力の放棄や諦めの理論にもなります。
しかし、本来の輪廻転生は、
自分の人生に自らが責任を持ち、末来を切り開いていくためのものです。
生れによって幸・不幸が決るのではなく、行為によって幸福になれる、
という視点を忘れてはいけません。
私達は、何度も、
地上のいろいろな環境下に生れては、魂修行を繰り返している存在です。
この永遠のいのちを与えられているという事実は、
大いなる神の恩寵以外のなにものでもありません。
新進の仏教学者、宮元啓一氏は、大変説得力のある主張をされています。
インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されてきた。
しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動のなかで、
輪廻説は急速に旗色を悪くしていった。
科学(サイエンス)は、経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、
死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することがない。
したがって、科学的な死生観などあるはずもないのに、多くの人々は、
輪廻説は非科学的な迷信だという。科学的か否かという基準で死生観を論ずるなど、
これこそまさに迷信にほかならない。しかしそれにしても、輪廻説は人気がなく、
そのような迷信を仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが信じたはずがない、
いや、輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったのだ、
と主張する仏教学者や僧侶や熱心な仏教信者が多いのには、
いささか驚かされるところもある。これでは僧侶は仕事がしにくいであろうに。
また、輪廻の六道からの一種の抜け道ともいうべき極楽往生も、極楽の存在を、
同じような理由で信じない人が多い昨今、とんと人気がなく、
浄土教系宗門の僧侶たちにとって悩みの種である。
倫理は、人に、未来を視野に置いて、為すべきことは何かを考えさせる。
因果応報というと、それぞれの人の今の境涯を、過去の因によって、
いわゆる宿命論的に決定づけ、支配者、社会的強者による弱者への差別を、
固定化することに用いられることが、わが国の歴史にもあった。
しかし、倫理への動機づけであるはずの因果論は、
過去の行いが現在を規定するという場面で用いられるのはやはり誤りで、
現在のわが実存が、自由に未来をみずからの力によって切り開く、
という文脈で用いられるのが本来である。
倫理の視野は常に未来にあるから、したがって、
倫理はわれわれの短いこの世での人生だけでは完結しない。
倫理は、生を超え、死の向こう側をも志向し、ゆえに死生観に深く関わる。
世界で数ある死生観のうち、輪廻説は、倫理的、
論理的にきわめて多様で緻密に出来ている。
一部の仏教学者や僧侶たちが主張したがるように、
現代の仏教においてパラダイムの転換が必要だというならば、
それは、輪廻説という枠を否定することではなく、
輪廻説の枠の内をいかに巧みに解釈改変をするかに腐心することである。
知性のある人ならば、汚れた盥の水といっしょに赤子を流すような愚を犯してはならない。
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にもかかわらず、これを否定する仏教徒は数多くいます。
例えば、インドの新仏教徒運動で知られるアンベードカル博士は、
輪廻転生は、カースト制度を温存する原因になっているとして、
仏教からこれを意図的に排除しました。
日本においても、
輪廻転生の教義は、差別を助長するものであるとして、
これを排撃しようとする動きもあります。
アンベードカル博士は、その著書「ブッダとそのダンマ」でこのように言っています。
「前世カルマ説は、全くもってバラモン教義そのものである。
現世に影響をおよぼす前世のカルマは、バラモンの霊魂説と全く合致するが、
ブッダの非霊魂説とは全然一致しない。
これは、仏教をヒンズー教と同じものにしようと考えた何者かか、
仏教とはいかなるものかをまるで知らない者によって、持ちこまれたものである。」
「前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は、正に邪悪なものである。
このような教義を作り上げた目的は何であったのか。
考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が、
貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。」
このような主張は、日本でもよく聞かれるものです。
仏教者は、こうした意見に対してきちんと反論していくことが今後の課題です。
因果応報は、宇宙の法則であるという事実は曲げられません。
原因があれば必ず結果があります。
私達人間においても、今世のみで、その法則が完結するということはありません。
輪廻転生をかたよってとらえると運命論的になり、努力の放棄や諦めの理論にもなります。
しかし、本来の輪廻転生は、
自分の人生に自らが責任を持ち、末来を切り開いていくためのものです。
生れによって幸・不幸が決るのではなく、行為によって幸福になれる、
という視点を忘れてはいけません。
私達は、何度も、
地上のいろいろな環境下に生れては、魂修行を繰り返している存在です。
この永遠のいのちを与えられているという事実は、
大いなる神の恩寵以外のなにものでもありません。
新進の仏教学者、宮元啓一氏は、大変説得力のある主張をされています。
インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されてきた。
しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動のなかで、
輪廻説は急速に旗色を悪くしていった。
科学(サイエンス)は、経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、
死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することがない。
したがって、科学的な死生観などあるはずもないのに、多くの人々は、
輪廻説は非科学的な迷信だという。科学的か否かという基準で死生観を論ずるなど、
これこそまさに迷信にほかならない。しかしそれにしても、輪廻説は人気がなく、
そのような迷信を仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが信じたはずがない、
いや、輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったのだ、
と主張する仏教学者や僧侶や熱心な仏教信者が多いのには、
いささか驚かされるところもある。これでは僧侶は仕事がしにくいであろうに。
また、輪廻の六道からの一種の抜け道ともいうべき極楽往生も、極楽の存在を、
同じような理由で信じない人が多い昨今、とんと人気がなく、
浄土教系宗門の僧侶たちにとって悩みの種である。
倫理は、人に、未来を視野に置いて、為すべきことは何かを考えさせる。
因果応報というと、それぞれの人の今の境涯を、過去の因によって、
いわゆる宿命論的に決定づけ、支配者、社会的強者による弱者への差別を、
固定化することに用いられることが、わが国の歴史にもあった。
しかし、倫理への動機づけであるはずの因果論は、
過去の行いが現在を規定するという場面で用いられるのはやはり誤りで、
現在のわが実存が、自由に未来をみずからの力によって切り開く、
という文脈で用いられるのが本来である。
倫理の視野は常に未来にあるから、したがって、
倫理はわれわれの短いこの世での人生だけでは完結しない。
倫理は、生を超え、死の向こう側をも志向し、ゆえに死生観に深く関わる。
世界で数ある死生観のうち、輪廻説は、倫理的、
論理的にきわめて多様で緻密に出来ている。
一部の仏教学者や僧侶たちが主張したがるように、
現代の仏教においてパラダイムの転換が必要だというならば、
それは、輪廻説という枠を否定することではなく、
輪廻説の枠の内をいかに巧みに解釈改変をするかに腐心することである。
知性のある人ならば、汚れた盥の水といっしょに赤子を流すような愚を犯してはならない。



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2008.04.18
輪廻転生の仕組み
輪廻転生の仕組みはどうなっているのでしょうか。
よく言われるように、
来世に、動物に生れ変わるということはありません。
それは、例外中の例外であって、人間は人間として転生するようです。
また、49日が経てば、次の母胎に宿るといわれますが、
これは、あの世へ旅立つまでの期間だと考えられます。
死んでから、次の肉体に宿るまでを、
仏教では中有と呼びます。
世親著の「倶舎論」にはこうあります。
此の中有の身は同類のみ相見る。
若し極浄の天眼を修得すること有ればまたよく見ることを得。
諸々の生得の眼は皆観ること能わず、微細なるをもっての故に。
虚空を凌ぐこと自在なり。
ようするに中有は霊体だということですね。
仏教でも、この霊界にいる期間については諸説あり、
実際は、その人の境涯によって個人差があります。
スピリチュアリズムなどでは、
平均すると、次に生まれ変わるまでの期間は300年程度と言われています。
数百年霊界にいると、
霊的進化に行き詰まりを感じるようになり、
また新たな経験をするため、前回とは違った環境の地上に生れることを決断するのです。
また、人間の魂は、
単体ではなく類魂(グループソウル)を形成しているため、
グループ内で順番に地上に生れては、経験を共有しているのです。
不思議なことであります。
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よく言われるように、
来世に、動物に生れ変わるということはありません。
それは、例外中の例外であって、人間は人間として転生するようです。
また、49日が経てば、次の母胎に宿るといわれますが、
これは、あの世へ旅立つまでの期間だと考えられます。
死んでから、次の肉体に宿るまでを、
仏教では中有と呼びます。
世親著の「倶舎論」にはこうあります。
此の中有の身は同類のみ相見る。
若し極浄の天眼を修得すること有ればまたよく見ることを得。
諸々の生得の眼は皆観ること能わず、微細なるをもっての故に。
虚空を凌ぐこと自在なり。
ようするに中有は霊体だということですね。
仏教でも、この霊界にいる期間については諸説あり、
実際は、その人の境涯によって個人差があります。
スピリチュアリズムなどでは、
平均すると、次に生まれ変わるまでの期間は300年程度と言われています。
数百年霊界にいると、
霊的進化に行き詰まりを感じるようになり、
また新たな経験をするため、前回とは違った環境の地上に生れることを決断するのです。
また、人間の魂は、
単体ではなく類魂(グループソウル)を形成しているため、
グループ内で順番に地上に生れては、経験を共有しているのです。
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