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2011.03.21 西洋のタブー
人はしばしば、次のように反論する。

「もし、みんなが、輪廻転生するのなら、
どうして、誰も前世のことを覚えていないのか」と。

それに対する明快な答えは、
「多くの人が覚えている!」ということだ。

言うまでもないが、
西洋では、
そうした記憶があると主張する子供は、
大人から叱られるので、
考えていることを秘密にするようになる。

それでも、
十分な根拠のある事例が、
いくつも公表されているのだ。

スワミ・クリヤナンダ「道」




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2010.10.28 神聖な秩序
現代のキリスト教の教義が言うように、
もし、もう死んだ無数の人間一人一人の誕生毎に、
新しい魂がつくられたならば、
そうして、もし、輪廻というものがないならば、
肉体から離脱した「聖霊」のための余地を、
用意することは本当に困難となるだろうし、
また、苦しみの起源と原因を説明することもできない。
オカルト教義についての無知と、
宗教教育に見せかけた虚偽の概念の押しつけこそ、
ものごとのいわゆる「神聖な秩序」に反対する立場として、
唯物主義と無神論をつくり出してきたのである。


H・P・ブラヴァツキー「シークレット・ドクトリン」





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2009.05.08 不死の魂
永久に動き続けるものは不死であるため、
すべての魂は不死である。
すべての人間の魂は、
誕生の法則により、
永遠の真実を見つめ続けてきた。
そうでなければ今の肉体を得ることはなかったはずだ。
それでも現在の状態と過去の姿を、
関連づけられることは容易ではない。


プラトン




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2009.04.25 再生の観念
イギリスの生命科学者・動物学者であるライアル・ワトソン氏による輪廻転生の考察です。

再生の観念は、世界共通なのです。




近代の深層心理学では、
人間精神の奥深くに人類の叡知の源泉が隠されていると信じられている。
ユングは、「再生の観念は、生命を肯定する人類の原初的な行為のひとつとして、
考えられるべきであり、こうした肯定行為には、
その基礎となる精神的、心霊的な出来事があったはずである」としている。
プラトンの対話篇の中で、ソクラテスは、
教育はひとりの人間から別の人間へもたらされるものではなく、
すでに存在する何かを引き出すものだと指摘している。
彼が引き出そうとしたのは、
われわれが催眠術で得るような、名前とか日付といった瑣末な情報ではなく、
「霊魂がその悠久の旅のあいだに培った叡知の痕跡」だった。

生まれ変わりの観念は、ヒンズー教、ジャイナ教、シク教、仏教、道教、儒教、
ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教、アニミズム、ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教、フリーメイソン団、神智学派等、数多くの信仰に見られる。
西欧哲学からざっと拾っても、
ヒュームや、カント、ショーペンハウエルらの著述に、
反復発生や霊魂移体や転生といった用語に姿を変えて登場している。
たったひとつの観念が、これほど広汎な文化的支持を得ている例はほかに存在しない。
だからこそ無意味な観念がこれほど長きにわたって持続したのだ、
という議論も成り立つだろうが、
あまりに多種多様な文化的なつながりのない起源をもつこの信仰に、
まったくなんの基礎的、生物学的有効性がないとは、私にはどうしても信じられないのだ。


「ロミオ・エラー」




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もしも、科学と哲学が、
「輪廻転生」という古い理論をふたたびとりあげて、
それを現代の宗教的および科学的な考え方に合うようにつくり直し、
もう一度それを、人類の信仰の広大な大洋に、
進水させる光景を見ることになるとしたら、
大変奇妙なことになるであろう。
しかし、人類のものの考え方の歴史では、
これよりももっと奇異な事柄さえ起こってきたのである。


ジェームス・フリーマン・クラーク(ユ二テアリアン派牧師)




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2009.04.02 神のまばたき
この世での生活は、長い長い転生の過程のなかでは、ほんの一瞬です。

この世での生活では転生を信じていなかった西洋の科学者が、
死後、霊界から電子機器を通じて、輪廻転生の事実を伝えてきています。

ITC(電子機器による霊界通信)研究者はこう言います。




多くの宗教が転生について説いており、
これについて言及している書物も数多く存在します。 
そして霊界の研究仲間たちも会話のなかで、
進化における一過程として転生に触れています。
しかしながら、彼らは、転生について今や、
20世紀におけるさらに幅広いとらえ方をしています。
つまり、多次元から成る宇宙という枠組みのなかで、転生を考えているのです。
高次の世界における「光の存在」であり、
霊界の研究所の指導者であるテクニシャンは、
「転生は『霊的法則』である」と述べています。
しかし彼は、ここ地球および高次の世界の存在たちはすべて、
この法則を避けるためにしばらくの間「迂回」したり、
ときには拒否することもできる、
ただ永久にこの法則から逃れるれることはかなわないと補足しています。
霊界の科学者たちは、多くの惑星と銀河を持つ多次元宇宙について語り、
霊体でいるときには、わたしたちは宇宙の旅行者で、
他の多くの惑星を訪れたり、またそこに暮らしたりすることさえもできると述べています。
霊の進化は広大な宇宙を必要とするのです。
この概念がどんなに果てしなく大きいものかを考えてみてください! 
わたしたちの地球は、1OOO億もの星を持つ銀河系のなかの平均的な惑星で、
この銀河系はさらに1OOO億の他の銀河に囲まれているのです。
しばしばわたしたちは、実際には経験した覚えもないのに、
「生命は永遠である」などという霊的な概念をくり返し口にします。 
けれども、多くの信心深い人々にとって永遠の命というものは、
極度に単純化された結論となってしまっているのです。
わたしたちのなかには、死の瞬間に天国へと流され、
そこで神の国に暮らすのだと考えている人たちもいれば、
そこでは永遠に竪琴を弾き続けるのだと考える人さえいます。 
しかしここで常識を働かせてみれば、
みんながみんな竪琴を弾きたいと思っているわけではないし、
音楽に関心のない者にとっては、
そんな存在はとんでもなく退屈なものになるだろうことがわかるはずです。
わたしたちは死んでも生きている間となんら変わりはないのだと、
他界にいる研究仲間たちは言っています。 
わたしたちは死の瞬間に奇跡的に変わるわけではないのです。
わたしたちはアストラル体になっても、自分の思考、態度、願望を持ち続けます。 
常に神をたたえて神の国に暮らすことは、
率直に言えばほとんどの人たちにとって楽しいことではないでしょう。
実際、たいていの人たちは―その死後も―、
このような高尚な目標に対しての準備がまだできていません。
これはそのような可能性がないということではありません。
ただほとんどの人々は、その生命のすべてを神をあがめながら過ごすことを、
(とりあえずは)まったく望んでいないのです。
彼らが深く掘り下げたいと思っていることは、もっと別にあります。
そして多次元から成る宇宙のなかで、
いつか心から神に感謝して神の存在を享受できるほどに純粋になれるよう、
彼らは何回もの人生をかけてそのような探求心を満たし、飽き飽きするほど堪能するのです。
ここで問題となるのは、わたしたちが地球に暮らす間、
人生は果てしなく長いものに感じられるということです。
けれども、アストラル界には時間というものが存在しません。
そしてアストラル界に暮らす人々にとっては、
人間の一生とはかろうじて覚えているかどうかのつかの間の夢にすぎません。
そうです、あなたにとってこれだけ重要で、
あなたのエネルギーのすべてを費やしているこの人生は、
実は神のまばたきほどのものなのです。
ほとんどの教会の教義では、人生はひとつしかないと説かれています。
霊界の科学者は、これは真実であることを指摘していますが、ここには誤解があり、
この教えは地球でのひとつの人生だけを示すものと解釈されてしまっています。
ほんとうはそうではなく、霊の命は永遠で、
多くの次元におけるたくさんの惑星での数え切れない経験から成り、これらの経験を基に、
わたしたちは神のそばで生きるにふさわしい高次の存在へと進化していくのです。
霊が最後に天界の領城にたどり着いて、
そのエネルギーの源に戻るとき、その命は初めて成就されます。 
一方で、それはさらに高次のレベルにおける始まりにしかすぎないかもしれないのです!
宇宙が果てしないものならば、おそらく魂も果てしないものなのでしょう。
釈迦は、輪、つまり「生命の輪」である多次元世界について説きました。
人は物理的世界からアストラル界へ渡り、
その後もぬぐい去れない願望を達成するために地球に戻る。
もし「この輪からはずれたい」のなら、無欲でいなければならない。
つまり、あなたが地球上で得られるものをこれ以上何も望まないならば、
もう地球に戻ることもないということです。
あなたの願望こそが、あなたを地球に呼び戻すものなのです。

ここで明白な疑問が出てきます。
「いったい、わたしはこれ以上何を望むのだろう?」
あなたは自分を地球に留まらせるものについて、気にせずにいられません。
転生においては自由意思というものが大きくからんできます。
霊界の指導者たちの多くは、転生はカルマ、
つまり「作用と反作用の法則」によって引き起こされると考えています。
もし他人を傷つければ、あなたは地球に戻り、
自分が他人にしたのと同じ苦しみを味わうことになります。
こういった状況に適切な言葉は「自業自得」です。
キリストが言ったことの多くはカルマの観点から解釈することができますが、
彼の言葉にも「善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」、
「不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう」というものがあります。
常に他人に親切であれという彼の教えは、カルマ的な意味から賢明なことであると言えます。
なぜなら、もしあなたが他人に対して良い行いしかしなければ、
自分にも良いことしか返ってはこないからです。
しかし、すべての転生がカルマに関連しているわけではありません。
霊界の指導者はこう述べています。
「転生のすべてが、過去世の償いを今世でするための過程といったわけではない。
あなたの周りの人々が過酷な運命にさらされたからといって、
彼らが過去の過ちの償いをしているのだとは必ずしも考えないでほしい。
決して裁かないこと!
もしかするとあなたはまちがっていて、
その誤った判断によって自分に重荷を課してしまうかもしれないのだ。
過去のカルマとは関係のない悲しみや病を抱えている人もいる。
彼らは自分自身の自由意思をもって、より早く自分の目的に到達するため、
または叡智と霊的成長を高めるために困難な道を自ら選んだのかもしれないのである。」
霊界の研究仲間たちが指摘するように、
転生とは霊的存在に対して強制されるものではありません。
これは、霊的存在が自分自身の知識や叡智を高めるために自ら進んで行うことなのです。



自分が抱く思考と行動が引き起こす結果から逃れる道はありません。
否定的な考えや行動からは、より良い世界に住むことを期待することはできません。
物理的な体が崩壊するとき、あなたの思考、感情、記憶を含むあなたのアストラル体は、
アストラル界に生きるために解き放たれます。
暗闇と苦痛に満ちた低次の世界に住むか、
美と愛にあふれた高次のアストラル界に住むか、
あるいはさらに上層の、
神に最も近い神聖な存在たちの世界に住むことになるかは、まったくあなたしだいです。
選ぶのはあなたです。
地球で過ごす一瞬一瞬が、ここで選択することすべてが、
あなたの死後の生活を決定するのです。


パット・クビス/マーク・メイシー「あの世の存在に活かされる生き方」




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2009.03.26 エルの物語
プラトンの『国家』の最終章では、
死後12日目に甦生した、エルという名の戦士が登場します。

驚く家族を前に、エルは臨死体験を報告します。

天界と地獄の中間のような場所に趣いたエルは、
そこで、生まれ変わりを許された魂たちが、自らの来世を決めさせられるところを見るのです。


エルの語ったところによれば、
どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは、
見ておくだけの値打ちのある光景であった。
それは、哀れみを覚えるような、
そして笑い出したくなるような、驚かされるような観物だったのである。
というのは、その選択は、まずたいていの場合、
前世における習慣によって左右されたからだ。
さて、すべての魂たちが生涯を選び終えると、
みなは、くじの順番に整列して、旅路をすすみ、忘却(レーテー)の野へとやって来た。
すでに夕方になって、魂たちは、放念(アメーレス)の河のほとりに宿営することになった。
すべての魂は、この水を決められた量だけ飲まなければならなかった。
それぞれの者は、飲んだとたんに、一切のことを忘れてしまった。

もしわれわれが、この物語を信じるならば、それはまたわれわれを救うことになるだろう。





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プラトンは、「パイドロス」において、
霊魂について、輪廻転生について、このように語っています。

仏教そっくりです。




霊魂は、
たとえいかなるものであるにせよ、
過ちに対する制約を受ける。
原則的にいえば、この過ちこそが、
肉体のなかに閉じ込められた、
天上的霊魂の転落にほかならない。

そして、アドラスティアの掟は、つぎのように定められている。
いかなる魂も、神の行進に随行することができて、
真実なる存在のうちの何かを観得したならば、
つぎの回遊のときまで禍いを逃れてあること。
そしてもし、その回遊の機会ごとに、
つねにそうすることができるならば、
いつまでも損なわれずにいること。
しかし、ひとたび魂が、
神に随行することができなくなって、
真実性を観そこなったならば、
そして、なんらかの不幸のため、
忘却と悪徳とにみたされて重圧を負い、
この重さによって翼を損失し、地上に墜ちた場合、
法は次のように定める。
すなわち、この魂は、
この世に生まれる最初の代においては、
いかなる動物のなかにも植えつけられることなく、
誠心誠意、知を愛し求めた者や、
熱情のなかに生を送ったもの以外の魂たちは、
最初の生涯を終えると、裁きにかけられ、裁かれてのち、
あるものは地下の世界にある仕置きの場におもむいて、
正当な罰をうけ、またあるものは、
司直の女神ディケにより、天上の場所にはこびあげられて、
人間の姿において送った生活の功により、
それにふさわしい生をそこで送る。
そして、千年目の年に、このどちらの魂も、
第二回目の生をくじ引きで選ぶためにやってきて、
それぞれが欲するような生を選ぶ。





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輪廻転生の神話は、西洋の人々をも魅了して止みません。

神学教義に反するキリスト教圏でさえ、それを受け入れる人は増えています。




やがて、行きつけの小さな書店の前に立っている自分を見出す。
それは古びた建物であり、内に包蔵するのも、同様に古びた書物である。
持主は奇妙な男、前世紀の生きた遺物である。
このあくせくした時代は、ほとんどかれを必要としないが、
かれもまた同様に、この時代を必要としてはいない。
珍しい、人に知られていないことに詳しく、珍書や古書のみを扱っている。
学問のわき道や、道を外れた事柄については、
書物が与え得る限りの並々ならぬ知識をわがものとしている。
私は時おり、ぶらりとこの古い店にやって来て、
かれとそれらのことを話し合うのがすきなのだ。
私は店に入ってかれに挨拶をする。
しばらくの間、子牛の皮で製本された書物の黄ばんだページをめくったり、
色あせた折りたたみ本を近々とのぞき込んだりしている。 
一冊の古びた書物が私の注意を惹く。
ちょっと面白そうに思われるので、私はそれをもっと注意深く調べる。
眼鏡をかけた店の主人は私の関心に眼をとめ、
例によって、その書物の主題―輪廻―についての議論である、
と自分が想像しているものをやり始める。
老人はいつもの通り議論をひとり占めにする。
かれはこの本の著者よりも詳しく、
その馴みの無い学説の賛否両論について知っている様子で、長々としゃべる。
このことについて述べている諸々の古典に精通しているのだ。
突然、私は、店の向うの隅に、一人の男の動く気配をきき、ふりかえって、
やや高価な書物のおいてある奥の小部屋を隠す暗がりから、 
一個の背の高い人影が現れるのを見る。
見なれぬ人はインド人だ。
かれは貴族らしい身のこなしでわれわれの方に歩いて来、店の主人と向き合う。
「わが友よ」と、かれは静かに言う、
「邪魔することを許して下さい。
君が話していた問題には、私も非常に興味を持っているものだから、
君の言うことを聞かずにはいられなかったのです。
いま君は、人間はこの世にくり返し生まれ変って来るものだというこの思想を、
最初に述べている古典の著者たちの言葉を引用しておられる。
あの哲学的なギリシア人や賢明なアフリカ人や、
初期のキリスト教の神父たちの中の心の深い人々は、
この学説をよく理解していた、ということは私も認めます。
しかし、この思想は、ほんとうはどこで生まれたのだと君は思いますか?」
かれは一瞬、間をおくけれど、返事を待ってはいない。
「こう言うことを許して下さい。」とかれは微笑しつつ続ける、
「古代世界において転生説を最初に認めたのは誰か、
ということになると、インドに行かなければなりません。
それは遠い古代においてすでに、私の国の人々の間では主要な教義だったのです。」
かれの少しばかり教訓的な感じのするこの宣言は、
カウンターの向うにいる老いた紳士には気にいらない。
実際、それに対する強硬な反論が提出される。
「どうしてそんなことがあり得ましょう―キリスト教以前の時代、
東地中海の諸都市が文化と文明の中心として栄えていた時に? 
古代の最高の知性は、
アテネやアレキサンドリヤを含むこの地域に生きていたのではありませんか。
ですからたしかに、彼らの思想が南方にまた東方に伝えられて、
ついにインドに達したのでしょう。」と、懐疑的な発言が出る。
インド人は寛大に微笑する。
「そうではなかったのです。
実際に起ったのは、君の主張とは全く反対の事実だったのです。」
「まあ!あなたは、進歩的な西洋が、
その哲学を遅れている東洋から受けなければならなかった、
とまじめにおっしゃるのですか。
そんなことはあり得ませんよ!」と本屋の主人は忠告する。
「なぜあり得ないのですか。
君のアプレイウスをもう一度読んでご覧なさい。
わが友よ、そして、
ピタゴラスがインドに来てバラモンたちの教えを受けた経緯をお学びなさい。
それから、かれがヨーロッパに帰った後に、輪廻の学説を教えはじめたことに注目なさい。
これはほんの一例にすぎません。
私は他の例も知っています。
遅れた東洋という君の言葉をきくと可笑しくなりますよ。
幾千年の昔、
君たちの国の人々などは、まだそんな問題があるということさえも知らなかった頃に、
われわれの国の賢者たちは、最も深遠な問題を思索していたのです。」
かれはプツリと話をとめ、われわれをじっと見つめて、
自分の言葉が相手の心に落着くのを待っている。
本屋の主人は少々困惑しているらしい。
私は、この老人がこんなに黙り込んだり、
これほどはっきりと他者の知的権威に感銘を受けたことを見せたのを、かつて見たことがない。


ポール・ブラントン「秘められたインド」




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2009.02.26 永遠の魂修行
この世での誕生は、あの世での死です。

あの世での滞在において収穫が逓減してくると、人は、この世に生まれてきます。

そして、この世での新たな経験、人格を携えて、またあの世に還っていきます。

死があるのは無慈悲なようですが、交互の生活は、最も効率のよい魂修行となるのです。

このように巧妙な神仕組が輪廻転生であります。




私たちは、地上生活の期間における人間の成長のもう一つの末端になる誕生について、
もっと認識を持たなければいけません。
私たちは、次の事実を私たちの意識に取り入れる必要があります。
すなわち、人間は、死と新しい誕生のあいだの長い期間を発達し続けており、
この発達の過程で、ついに精神的世界にとって、いわば死ぬべき時点に達する、
つまり精神的世界で生き続けるには、
これまでとは別の存在様式に移行しなければならない時点に達するという事実であります。
この別の存在様式を、
人間は、物質的なものとエーテル体とで自分自身を包むことによって手に入れます。
物質なものとエーテル体とをまとうことによって、
人間が手に入れるものは、
人間が精神的世界のなかでそのまま発達し続けていたならば、
決して得ることができないようなものなのです。
したがって、私たちは、誕生した子どもを肉体的な目で眺めるのは別によいとしても、
子どもは一つの継続でもある、ということを意識したいと思います。


ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」




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