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宗教多元主義の提唱者として知られる、
最も影響力のあるイギリスのキリスト教神学者、宗教哲学者のジョン・ヒック氏は、
驚くべきことに、どのような日本の仏教学者よりも、仏教の本質を捉えています。

多様な宗教の中に、絶対者の愛の現れを見る慧眼があればこそです。

氏の仏教的瞑想に関する論考です。




『仏教徒の瞑想の核心』という書物の中に詳細に記述されている瞑想方法は、
「サティパッターナ」、つまり「気づきの瞑想」として知られている。
その基本的な発想は何かに集中することで、
つまりそれ自体では意味を持たないような自らの呼吸に集中することで、
日常的に絶えず変化していく事柄に対する意識を空にし、そうすることによって、
通常では気づいていない偉大な実在へと意識を開いていく、というものである。
しかしながら、これは単に瞑想によって達成される特殊な瞬間なのではなく、
人生の多くの部分に浸透する心の状態なのだ。
その手順はとても単純である。
背中を伸ばして楽にすわり、日常の経験を超えた実在へと、
自らを開くように意識を集中させ、数回深呼吸をし、目を閉じ、
単に呼吸に対して―なるべくならば横隔膜で―吸ったり吐いたりすることに注意する。
心は何度も何度もその集中からさまよい出ていくが、
そうしたいという気持ちがあるかぎり続けて、呼吸に戻っていく。
ときには、しばらく後に、何の努力をしなくても、
自然と心が呼吸に集中したままでいられるような、第二段階に到達する。
そして無限に続けることができるかのように感じる。
私は一度、といっても、これまでたった一度だけの経験ではあるが、
意識の新しい形態、あるいは次元への驚くべき躍進と思えることを経験した。
私はその第二段階に達していたのだ。
そして目を開いたとき、世界は二つの点でまったく異なっていた。
通常、私はここにいて、周りの環境はそこにあり、私から離れているのであるが、
そのときはそのような区別がなかったのだ。
そして、もっと重要なことには、私がその部分となっている世界の総体は親しみ深く、
温和で、素晴らしく、恐れたり、悩んだりすることなど何もありえなかったのだ。
それは存在というものについての深い喜びの状態だった。
これはほんの短い時間、おそらく二分間も続かなかったであろう。
しかし私は、そのような心の状態の中で長い間生活し、
あるいは存在し続ける人にとっては、深い静穏が存在するということ、
そして仏教の教えの中心でもある利他的慈悲、つまり他者への共感と他者への共鳴、
自我中心的でない慈悲がまったく自然なものになる、ということを理解することができる。
ほんのわずかでもこのことを味わうことができたのは、大変意義深かった。
また、そのニルヴァーナの状態のほかに、
瞑想により、言葉では言い表わせないような高揚の時や、深い喜びの時もある。
瞑想によって理解できることの一つは、
私たちの精神生活がどれほど複雑で多次元的なものであるかということだ。


「ジョン・ヒック自伝」




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2009.04.23 神の法則
仏陀の説く法は、神の顕現そのものです。

「仏法」とか「空」とかは、単なる唯物論やこの世的なる法則などではありません。

それは、神の愛、神の法則の別名であります。




神は自分の意志をもって意識的に人間を処罰し給うことはない。
神は愛であるから、人間に完全な自由を与えたのである。
しかし、神は愛であるから、人間が悪しくなることを好み給わない。
しかし善くなるように「強制する」ことは、人間を機械化することになるから、
人間を「善しか出来ない」という様には、型に嵌め給わなかったのである。
神は、人間を「自由にならしめたい」と同時に、
「自由意志で善ならしめたい」との願いを実現するために、
人間自身で、自分の想念や行為が、
善であるか悪であるかを検針することが出来るメートルとして「法則」をつくり給うたのである。
そして法則に逆えば、悪い結果が出、
法則に遵えば、善き結果が出るという事実によって、
人間は自己反省をし、自由意志によって、
善なる想念及び行動を起し、自然に向上することができるようになっている。
そして更に、人間が自由意志によって、
神から導きを受けようと思えば、
神の智慧を授かることになっているのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.04.15 神を知る
神は、遠くにあらず。

今、ここに、自己のうちにある。




神に感謝せよ。
感謝の想念及び感謝の言葉は、ただそれだけでも心を平和にし、
ホルモンの平衡を調節し、血液の循環を順当にし、
健康を増進し、病気の恢復を速める効果があるのであります。
しかし、神に感謝すると言っても、神とは如何なるものかということを知らなかったら、
その感謝が的をはずれたものになり、その効果が少いということになるのであります。
人類はずっと長い間、神を、天上にいて絶対権威をもち、我々を見張っていて、
善人に褒賞を与え、悪人を地獄におとす裁判官のように考えて来たのであります。
また仏教でも真宗に於いては十万億土の彼方に極楽浄土があり、
その浄土の主人公が阿弥陀仏だなどと考えた信徒が多かったのであります。
しかし、神も阿弥陀仏も決してそのような遠方にいられる神仏ではなく、
ただあなたの中に今、ここに坐し給うのであります。

自己の実相、即ち「ほんとうのすがた」が神であるのであります。
『出エジプト記』に於いて、モーゼが神に対してその名をたずねたときに、
神はその名を“I am”であると答えたと記されております。
英語をちょっとでも習った人なら誰でも知っている通り、
“アイ・アム”とは「私は・・・である」ということであり、
“アイ・アム・シック”と言えば「私は病気です」であり、
“アイ・アム・ヘルスィ”と言えば「私は健康である」ということであります。
人間が「私は何々である」というところのものになる本源力「私は(アイ・アム)」が、
自分の中に宿っているのです。
その「私は」が神であり、一切のものを言葉により、想念によって造るのであります。
宇宙に満つる普遍の無碍光の「アイ・アム」が我々に宿って、
我々の「内在の神(本当の私)」となっているのであります。
仏教的にいえば無碍光如来が自己のうちに生きているのです。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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神に到るまでの中間的存在なくして、宗教は成り立ちません。

祈りは彼らを媒介として叶えられます。




心の雑音を避けよ。
純粋に神の放送に心の耳を傾けよ。
聖書は「心の清きものは神を見ることを得ん」と教えていられるのである。
「心の清きもの」とは「心の雑音」のないものである。
世俗的な利欲の観念や、肉体的享楽の不純な欲情の無きものである。
せめて、祈る時だけでも、
そのような世俗的及び物質的・肉体的な欲情をことごとく払拭して、
心を清くして、純粋に心を神に振り向けた者とならなければならないのである。
自分の力で心を純粋になし得えないときに、
心の雑音を濾過する媒介として、高級霊又は天使を必要とするのである。
即ち、キリスト教に於いてはイエス・キリストが「心の雑音」を濾過する媒介となり、
仏教に於いては阿弥陀仏とか観世音菩薩とかが「心の雑音」を濾過する媒介となるのである。
人間自身は未だ修養が足らず、「心の雑音」が始終に起るのであるけれども、
神に自分の祈りが達する途中に於いて、
観世音菩薩の慈悲により「心の雑音」が除去されて、
神の霊的放送と純粋に波長が合うようになり、
神の与えたまうた善き恵みのみが現象世界に肉眼に見えるように実現してくるのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.03.25 魂の親
私たちには、肉体の親だけではなく、魂の親がいます。

それを神仏と呼んでいるのです。




子は親を忘れても、親は子を忘れることはない。
常に慈愛の心をもって親は子を看守っていて下さるのである。
肉体の親は、自分から離れた距離のところにいらっしゃるかも知れないが、
魂の親様は、自分の内に宿っていられるのである。
そして、「自分の内に宿る神」が、「本当の自分」なのである。
親様と自分とは一体なのである。
だからキリストは「父と子とは一体なり」と喝破されたのである。
また曰く「天の父われに宿りて御業をなさしめ給う」と。
「天の父」が、我が「内在の神」である。
それが「内在の仏性」である。
「一切衆生悉く仏性有り」であり、その仏性が、自分の実相であり、
信心を起すのは、「罪の子」が信心するのでもなければ、愚禿の凡夫が信心するのでもない。
仏性が動き出して信心となり、仏性を成就して成仏するのである。
「大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」と親鸞聖人は喝破せられた。
われみずからにて念仏するにあらず、
天の父(仏性)われに宿りて念仏の御業を成さしめ給うのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.03.18 神と仏性
誰もが仏性を持つということは、人間は「神の子」ということです。

この事実を信ずることが、信仰です。




「神」は自己の魂の奥底に内在したまう「より高き自我」であり、「本当の自分」なのである。
肉体は自己の魂の被服として魂の外側に、
その現象的顕現の道具又は役者として外在する「より低き自我」である。
「より低き自我」なる肉体の自分は、
肉体的本能に引きずられ快楽を追求して盲目的に突進し、
ついに自他を破壊するような愚かなこともやりかねない。
「より低き自我」なる肉体の自分は、
「より高き自我」なる「本当の自分」なる神に導きを受けることによって、
その盲目状態から開眼せられ、正しき安全なる道を歩むことができるようになるのである。
「肉体の自我」は常に、「より高き自我」(神)に振向き、
その導きを受けるようにしなければならない。
神は常に肉体の自我を導きたく願っていられるのだけれども、
肉体の方が独走して神に振向かないのである。
どんな問題についても、神に振向きさえすれば、神は喜んで導き給うのである。

内在する「より高き自我」を仏教では「仏性」と言うのである。
「仏性」は単なる抽象的存在ではなく、我々に内在し、
常に私たちの行動をよりよき方向に導こうとして、
待ちかまえているところの生きた存在なのである。
私たちが仏性に対して振り向き、どんな方面のことにせよ、
よき導きを受けようと思うならば、常によき導きを与えたまうのである。
神は至大にして至小、極大にして極微であるから、
如何なる墳末な問題といえども、
真心をもって尋ねかければ、如何なる事柄でも答えたまわないことはないのである。
静かに眼を瞑じ、神の全智にして全能なることを念じ、
この「問題について神は最も善き導きを与え給う」と念ずれば、よいのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.03.08 精神革命
宗教の目的は、
自己犠牲や自己満足ではなく、真の幸福のためにあります。

信仰して不幸になるような宗教は、邪教です。

神仏は、この世とあの世、両方での幸せを望んでおられます。




現世利益を嫌う宗教もあるけれども、
人間は、過去・現在・未来を通じて生活する「生命」であるから、
未来世において幸福が得られるくらいならば、
今世においても幸福が得られなければならないのである。
何故なら、人間の環境は、人間の心の「客観的展開」であるからである。
もし、あなたが、ある宗教に入って幸福が得られなかったり、
入信前よりも、家庭に事業に健康に精神状態に、
何らかの善き変化が起こらないとしたならば、
あなたの信仰には、どこか間違ったところがあるのである。
必ずしも、その宗教が間違っているとは限らない。
その宗教からの受取り方が間違っているのかも知れない。
あなたの理解が足りないのかも知れない。
多分、あなたの心に革命が起こっていないのであろう。
信仰を得るということは、
その人にとって、精神革命が起こることなのである。
精神革命が起これば、生活革命が必ず起こる。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.03.01 神の心
真理はシンプルです。

結局、すべての宗教は、神の心を知れと教えているのです。




不平や心配や前途の不安などで、
自分の心の窓を鎖して、心の部屋の中を暗くしてはなりません。
先ず、あなたの心の窓をひらきなさい。
先ず、明るい気持におなりなさい。
神の本性は何よりもまず「光」ですから、
明るい心になったときに、あなたの心と、神の心との波長が合うことになるのです。
また、あなたはすべての人を愛しなさい。
憎しみや恨み心を捨てましょう。
神は愛でありますから、あなたが人を愛し、人に深切をつくす心を起したときに、
あなたの心が、神の心に波長が合うことになるのです。
すべて神らしい心を起したときに、
神の心に波長が合い、
神の国に存在する一切の善きもの、円満完全なるもの、好ましきもの、
裕かなるもの、美しきもの、健康なるものが、この世に実現して来るようになるのです。
これをイエスは、
「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」と教えたのであります。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.02.26 信仰のコード
信仰は、この世の法則を超越した光を一躍受け入れることです。

絶対に、唯物論とは両立しません。

宗教においては、信じることは、全ての始まりであり、終りでもあります。

信仰は、人を強くし、偉大な力を与えてくれるのです。




神は、いわば無限大の「光」であるから、
神の「光」をもって照らしながら仕事をするとき、
如何なる暗黒も吹き飛ばしてしまうことができるのである。
不可能と見えた難関が自然におのずから崩れ去ってしまったり、
先方の考えが一変したり、
時局が自然に好転したりして驚くべき好結果を見るのである。
しかし、そのためには堅い、くだけない、
途中で断じて切れない信仰の紐をもって、
自分自身が神とつながっている事が必要であるのである。
この「堅信」のコードをもってしっかりと神と繁っていないと、
風吹き雨ふり、雷鳴でも起ると、
停電したように真暗になってしまうおそれがあるのである。
発電所から直通の電線を適当につないで置けば、
いつでも必要な時にスイッチを入れれば光を得ることが出来るように、
「堅信」というしっかりした紐で神とつながって置けば、
いつ如何なる時にでも必要な導きの光を受けることができるのである。
吾々が解決に窮した問題に接したとき、神は吾々の光であり、
吾々がどうする事も出来ない難関にとじ込められたとき、
神は難関の扉をひらく、吾々の鍵であり力であるのである。


谷口雅春「希望を叶える365章」




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2009.02.18 真の自己信頼
結局、すべての宗教が教えるところは、
我々は「神の子」、「仏の子」であるということです。

この事実を受け入れることが、信仰です。

神仏の無限の力に不可能はありません。

つい、この世の現実に負けそうになりますが、この信仰こそが道を開く鍵なのです。

光明思想の大家、谷口雅春氏のお言葉です。




自己を信頼し得ない者は、何事も大成することはできないのである。
しかし、自己を信ずるとは、身長一メートル数十センチ、
体重数十キロの肉体より発するところの僅かなる力を信ずるのではないのである。
本当の自己信頼の底の底には、肉体の自己だけではなく、肉体の奥に存在するところの、
霊妙きわまりなき存在なる「霊的自我」―その「霊的自我」を信ずることによって、
「宇宙の霊的自我」―即ち「神」と共同体なる自己を発見し、
その自己を信ずるものでなければならないのである。
肉体に奥に宿るところの「霊的自我」を通して、私たちは「神」と一体となり、
神と協力することが出来、神の無限大の能力を、
自己を媒介として実現することができるのである。

「霊的自我」を自覚するとき、人間は「有限的存在」の自覚から、
「無限の存在」の自覚に置き換るのである。
それを「我の置換」といっている。
キリスト教ではコンヴァーション(廻心)又は―「新たに生れる」と言う。
心が一回転して、物質的肉体の自覚から、霊的自我への自覚へと振向くのである。
パウロの「もはや、我れ生くるに非ず、神の生命ここにあって生くるなり」、
の自覚を得るのである。
黒住宗忠教祖の「もはや、宗忠生くるに非ず、天照大御神の生命ここにあって生くるなり」、
の自覚を得るのである。
これを宗忠は「天命直受」と称した。
パウロにあっては「内在のキリスト」の発見である。
釈尊はこれを『涅槃経』に於いて「一切衆生、悉く仏性あり」と説き給い、
親鸞聖人は『涅槃経』の意を汲んで、
「大信心は仏性なり仏性即ち如来なり」と和讃の中で説いておられるのである。

希望を実現するには、
先ず宇宙普遍の大生命なる無量寿、無碍光の神(又は仏)なる本体を信ずること。
その大生命が岐れて我らに流れ入りて、
個人たる自分の「真の自我」として自己に宿っていることを信ずること。
更に宇宙普通の大生命と、
自分の「真の自我」とが互に一体であって交通しているものであることを信ずることである。
そこから真の自己信頼の堅信が得られて来るのである。
神又は阿弥陀仏を遠く遥かなる天上にのみましますとか、
西方極楽浄土にましますとか考えて、神または仏を、
自分から遠き距離にいます処の、手の届きがたきものだと考えてはならないのである。
そのような考えは自己を神(又は仏)から引き離して、
孤独の感じを潜在意識の中に醸成することになるのである。
神の自己信頼は、わが内に神がいますという一体感に目覚めるほかはないのである。
まことにも神は、わが内にいますのである。

神と自分とを結び合わす導管に栓をなすものは、
不安、恐怖、取越苦労の想念感情である。
これらの想念感情は恰もゴムのパイプを固く縛ることによって、
そのパイプの孔を塞いでしまうように、自分の生命を固く縛って、
神からの啓示を来なくさせてしまうのである。
どんな偉大な力が内部に宿っているにしても、
その人の生命の出口を固く縛って動けなくしてしまうならば、
その人はどうすることもできなくなるのである。
恐怖を去れ、不安を去れ、取越苦労を去れ、
それが、実相・内在の神に通ずる導管を塞ぐ汚物を清掃することになるのである。
この恐怖・不安・取越苦労の汚物を清掃除去するものが「信仰」なのである。
キリストは大浪で船が覆えろうとしているのを恐怖して叫んでいる弟子たちに、
「信仰うすき者よ」と言っているし、病気治しに失敗して帰って来た弟子に対しても、
「信仰うすき者よ」と叱咤しているのである。
そして、
「もし芥子種ほどの信だにあらば、この山に動いて入れと言うと雖も必ずならん」、
と言っているのである。

山をも動かす信仰は如何にして得られるであろうか。
それは「新たに生れる」ことによってである。
換言すれば、この「肉体の自我」の否定によってである。
キリストは「人新たに生れずば神の国を見ること能わず」と言っている。
「肉体」を自分の本体だと思っている限りに於いて、「肉体」の能力は有限であるから、
巨大なる問題に面したとき、恐怖・不安を感ずることはやむを得ないのである。
そこにキリストの言ったような、
「われみずからにては何事をも為し得ず」と言う「肉体の自我」の否定が起るのである。
しかし単に「肉体の自我」を否定しただけであるなら、
それは単なる消極的な退嬰に過ぎないのである。
その「否定」は、次なる「大肯定」―「天の父われにいまして御業を成さしめ給うなり」、
の自覚を得る基盤とならなければならないのである。
即ち「肉体の自分」を否定し、「天の父の内在」の肯定である。
これが「新たに生れる」であり、「新我の設定」であり「我の置換」である。

神を信ずること、神の善にして、無限の智慧・愛・生命・供給・歓喜・調和を信ずること。
その神が自己の内に宿っていることを信ずること。
自己の「内なる神」と「普遍なる神」との一体を信ずること。
「普遍の神」と「内在の神」とが一体であるがゆえに、
自己の欲することを神に対して呼びかければ、
「普遍の神」はその欲する事物を成就するために、
必要なるあらゆる要素を集めて、引寄せて下さることを信ずること。
以上のことを信じて祈るとき、
自己の正しき願いは、何事でも成就しないということはないのである。
正しき願いとは、その願いが「愛」に背かない願いであることである。
即ちその願いの成就によって、他の人の願いが妨げられたり、
他の人が損をしたり迷惑したりすることのない願いの事である。





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