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2011.06.17 神人合一
人間は、一つの大いなる奇跡であり、
尊崇と称賛に値する存在なのだ。
なぜなら彼は、
あたかも、彼自身、一柱の神でもあるかの如くに、
神の本性へと参入するからである。
彼は、神霊たちと類縁の関係にあり、
自分が、彼らと同じ起源から出ていることを知っている。
彼は、人間にしか属さないような、
彼自身の本性を軽蔑する。
なぜなら、彼は、
彼の希望を、自身のもう一つの部分、
神性の宿るその部分に、賭けているからである。


「ヘルメス文書」




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2010.10.26 宗教は一つ
時代の転換期に生じたことをとおして、
諸宗教の一致、人類への霊的告知が一つであることが理解できる。
伝統に固執せずに、
実際に仏陀が語ったことを傾聴することによって、
仏陀の本質を知ることができる。
紀元前6世紀から5世紀にかけて、
仏陀はベナレスで教えを説いた。
けれども、それ以後、仏陀は黙していたのではない。
肉体を持つことはなくとも、
仏陀の応身をとおして霊感を与え、語り続けた。
宗教は一つなのである。
私たちはそれぞれの宗教を、
人類の進化の経過のなかの正しい位置において考察し、
それぞれの宗教のなかに、死んだものではなく、
生きたものを探求しなければならない。
すべては、発展しつづけるのである。


ルドルフ・シュタイナー「神仏と人間」




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2010.05.12 太古の真理
19世紀に、ブラヴァツキー夫人を中心として神智学協会が設立されました。

「神智学」は、秘教的な思想哲学体系で、
全ての宗教や思想、哲学、科学、芸術などの根底にある普遍的真理を追求する教えです。
それゆえ、神智学は「秘教的仏教」と呼ばれることもあります。

神智学の最も信頼すべき基本的書物「シークレット・ドクトリン」。
この書物について、筆者(HPB)は、このように言及しています。



 
これらの真理は断じて、啓示としてもたらされたものではないし、
筆者は、世界の歴史の中で、今はじめて、
公けにされた神秘的伝承の啓示者であると主張もしない。
この著作の中にあるものは、
アジアの偉大な宗教や太古のヨーロッパの宗教の聖典に表されているが、
象形文字や象徴のヴェールにかくされて、
これまで気づかれないままに散在していた何千巻にも及ぶものから得ている。
今、しようとしていることは、最古の教義を集めて、
一つの調和のとれた一貫した全体としてまとめることである。

本書は秘密の教義の全貌を伝えるものではないことは説明するまでもないが、
どんなに断片的で不完全であっても、本書に含まれている教えは、
ヒンズー教やゾロアスター教のものではないし、
カルデアの宗教やエジプトの宗教、
また仏教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教のいずれに属するものでもない。
秘密の教え(シークレット・ドクトリン)はこれらすべてのエッセンスである。
様々な宗教体系はもともとそこから湧き出で、
あらゆる秘儀や教義もそこから生まれ発達し具体化してきた。
いま、本書を通して、それらすべてはその起源に戻され、再統合されようとしている。

この著作の目的は次のように言うことができよう。
つまり、万物の存在は偶発的なものではなく、必然の結果であると証明すること、
宇宙体系においての人間の正しい位置を明らかにすること、
さらに、あらゆる宗教の基礎である太古の真理を忘却から救い、
その基本的統一性を発見すること、
最後に、これまで近代科学が取りあげなかった大自然の側面を示すことである。





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2010.02.18 国家と宗教
宗教なしに、国家にいかにして秩序を保てることができようか? 
社会は、富の不平等を伴わずには存在しえない。
そして富の不平等は、宗教なしには保っていかれない。
ある人間が飢えのために、
たらふく食べている人間のそばで死ぬとするとき、
彼にこう言ってあげられる権威者がそこにいなければ、
そうした差を彼として受け容れることは不可能である。
「神がこうのぞまれているのです。
この世には貧しい者も富める者もいなければなりません。
しかしつぎには、永遠のなかで配分はまた別のものになるでしょう。」
私がヴァンデの反乱を終らせたのは、
私自身がカトリック教徒になってである。
エジプトに身を落着けたのは、
私自身がイスラム教徒になってである。
イタリアで人心を獲得したのは、
私自身が教皇至上権主義者となってである。
もしユダヤの民を治めるとするなら、
私はソロモンの神殿を再建するであろう。
天国は、あらゆる人間の魂が、
さまざまな道を通ってたどりつく至高の場である。
それぞれの宗派が、それぞれの特別の道をもっている。


ナポレオン・ボナパルト




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2009.12.13 神も仏も
真実は、歴史の深い闇に埋もれてしまっています。

しかし悲しいかな、どんな宗教であっても、
時代を経るにしたがって、
弟子たちや為政者たち、学者たちによって、
彼らの都合のいいように教えがねじ曲げられてしまうのです。




正統的ユダヤ教徒とキリスト教徒は、
一つの深い割れ目が人間を創造主から隔絶している、と主張する。
神は完全に他者なのである。
これに対して、ナグ・ハマディ文書を書いた若干のグノーシス主義者たちは、これを否定する。
自己認識は神認識である。
自己と神とは同一なのである。

第二に、ナグ・ハマディ文書の「生けるイエス」は、
迷妄と覚醒を語るが、新約聖書のイエスのごとく、罪と悔い改めを語りはしない。
またイエスは、われわれを罪から救うために来臨するのではなく、
人間に霊的知解への接近を拓く導師として来臨するのである。
しかし、弟子が、覚醒を達成すると、イエスはもはや霊的主として仕えることはない。
両者は対等に、同一にさえなる。           

第三に、正統的キリスト教徒は、イエスを、彼のみが主にして神の子であると信じている。
イエスは、彼が救済するために来臨した人間とは、永遠に峻別されているのである。
これに対して、グノーシス派の『トマス福音書』では、トマスがイエスを認めるやいなや、
イエスがトマスに、両者ともその存在を同じ源泉から授かった、と言っている。

このような教え―神性と人間の同一性、迷妄と覚醒に対する関心、
主としてではなく霊的導師としての創立者―には、
西洋的というよりも、むしろ東洋的な響きがあるのではないだろうか。
若干の学者たちが示唆しているように、
名前を代えたならば、『トマス福音書』で生けるイエスに帰されている言葉は、
「生ける仏陀」の言葉にふさわしいと言い得よう。

われわれが東洋の宗教とか西洋の宗教とか呼んでいるもの、
またわれわれが別個の流れをくんでいると思いがちなものは、
2000年の昔には明確に区別されていなかった。


エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」




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グノーシス主義(霊的な教えを説く異端的キリスト教)者は、こう問いかけます。

「われわれは何者であったか、また、何になったのか。
われわれはどこにいたのか、どこへ行こうとしているのか。
われわれは何から解き放たれているのか。
誕生とは何か、また、再生とは何か。」

驚くべきことに、グノーシスでは、仏教と同じように、その答えを自己の内面に求めるのです。




神とか、創造とか、
これに類似したことを捜し求めるのはやめなさい。
あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。
あなたがたのなかにあって、すべてのことを思う通りになし、
「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが身体よ」、
と言う者は誰であるかを知りなさい。
悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を知りなさい。

あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するならば、
あなたがた自身のなかに、彼を見出すであろう。


モノイモス




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2009.07.24 一体の法則
事象の背後にあるものを、宗教では神と呼び、科学では法則と呼びます。

しかしながら、宗教的真実と科学的真実は同一でなければなりません。

「すべては一つ」というのは、単なる言葉だけの問題ではないのです。




ケイシーは、そのリーディングのなかで、一体ということをくりかえし述べている。 
一体化の法則を強調するとき、
彼は「永遠の哲学」として知られている言説をくりかえし引用している。
この言葉は、微積分法の案出者ゴットフリード・ライプニッツによって編み出され、
オルダス・ハックスレーの書いた同名の著書によって有名になった。
「永遠の哲学」は、すべての宗教の核となるメッセージであり、
この世に現れて目に映っている多種多様な、
すべてのものの背後にあるひとつの至上の存在、「汝を造りしもの」だ。
「永遠の哲学」によれば、すべての被造物はみな、たがいにつながりあっている。
みな別個のもののようにみえていても、実は、そこから離れているものなど何もない。
それぞれが、全体の一部なのだ。
たとえば、海洋の波はひとつひとつの「もの」として目に映るが、
ほんとうは、大海の一部だというように。
姿かたちがちがうさまざまなものの基底には、ひとつの事実だけがあり、
それが至上の存在なのだ。
そして、その存在は、目に見え、内在的であると同時に、
目には見えず、この世を超越したものでもある。
それを頭で理解しようとしても、混乱してしまうだけだろう。
「永遠の哲学」によれば、
意識と物質世界、または「内なる世界」と「外の世界」は同一のものだ。
至上の存在、あるいは神の王国は、あなたの外にも内にもある。
わたしたちは常識的に、人生は心と事象とで形づくられると考えているが、
心と事象は、同じひとつの現実の両面にすぎない。
現実は「あなた」なのだ。
あなたがその被造物であり、すべての統一体が人生なのだ。
せいぜい譲歩しても、「永遠の哲学」からすれば、
あなたが感覚で感じ取る以上のものが、この世界にはある。

統一体の原則は、ユダヤ教およびキリスト教の聖書にもみられ、
イエスは「第一の戒めはこれである。イスラエルよ、聞け、
われわれの主なる神はただひとりの主である。
心をつくし、精神をつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛せよ」と言っている。
第二にこうも言っている「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、
これより大事な戒めはほかにない」。
典型的には、「主はひとつ」という言業は、
創造主である神はひとり、という意味にとられている。
しかしそこには、すべての被造物はひとつであり、
その統一体が神であるという意味もあるのだ。
そして、神を天上にあるのではなく、際限なく大きな存在として想像し、
地球を含め、そこに住むすべてのものが、神の体を構成する原子だと思ってみよう。
「汝の隣人を自分と同様に愛せよ」という言葉は、
自分がしてほしいと思うことを他人にもすること、とふつうは捉えられている。
自分が愛されたければ、他人を愛しなさいというように。
尊重してほしければ、こちらも相手を尊重しなさいというように。
言いかえれば、他人を、自分がそうしてほしいと思うように扱いなさいということになる。
だが、これをもっと深く理解するとすれば、隣人とはすなわちあなたでもあるのだ。
創造が、ひとつの至高の存在によるものならば、すべてはその一部なのだから。

物理学者が、原子の内部を観察しはじめると、一連の発見が続々とあらわれた。
それは、わたしたちの、
世界や創造や意識と物質との関係に対する見方を一変させるようなものだった。
なかでも、近年のフリッチョフ・カプラの、
『タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』(工作合)などは、
その意味では際立っている。
この著書の題名には、東洋の形而上的な言葉が入っているが、それには十分な意味がある。
西洋の物理学が、
東洋の神秘主義のなかに述べられているような現実を発見したということだ。
そうした「万物一体」という事実に見合った内容の一部をこれから見てみよう。
まず第一に、原子下のレベルでは、「物」は、事実上ほとんど消滅してしまう。
「物」は確固としてあるのではなく、移ろいやすいエネルギーの集まりなのだ。
アインシュタインの有名な方程式E=mc²にも、
質量(物質)はエネルギーに等しいとし、そのなかでは、
事物が客観的に実在するという理論は、事実上、消滅する。
というより、エネルギーのパターンは、
エネルギーが、特定の場と状況で「事物」として合同する。
「事物」とされているのは、わたしたちが考えるような客観的なものではなく、
ひとつの波が立つことにすぎない。
立った波は静止しているように見えるが、
実際は、正反対の方向に向かうふたつの波が一体になっている。
「波」は名詞であり、物質を示唆しているが、実は過程なのだ。
このような現代物理学の発見のひとつは、
「事物」はエネルギーの波のパターンに分解できるということだ。
したがって、被造物、つまり現実は、事物の集まりだが、
じつはエネルギー・パターンのダンスであり、
さまざまにちがったパターンのエネルギーの集まりだという点では同じもので、
この地球上のあらゆるものはつながりあい、すべてのものが同一、
つまり、ただちがう形をとって動いているエネルギーなのだといえる。
そしてこれも、目に映る被造物の背後にある、
統一体とは何を意味するのかをイメージするひとつのきっかけになる。
神秘主義と、形而上的なエネルギーは、しばしば神という言葉と同じ意味なのだ。

「永遠の哲学」によれば、あなたは被造物のすべてであり、あなたの意識と現実もひとつだ。 
現代の物理学はまた、その次元での統一性も見出している。
その発見の発端になったのは、「ハイゼンベルクの不確定性原理」だ。
ハイゼンベルクの理論は、原子下レベルのものを「見る」には、
「輝く光」がなければならないという事実に言及している。
その光そのものが粒子の波であり、光の波が、
見ようとする対象の波をとらえ、光がはね返って見ている人の目に届くとき、
両方の波はぶつかり合い、動く。
観察者はその粒子を「見る」のだが、粒子は「見られる」ことによって動くのだ。
その結果として、観察者は見ている物の位置が正確に特定できなくなる。
この不確実性とは、観察者が、観察される物に影響を与えるということだ!
とすれば意識は、単なる目撃者でなく、意識されたものを変化させることになる。
物理学者がこの謎をさらに探っていくと、それはいっそう深まった。
というのは、意識そのものが与える影響が、
事実をつくる上で主要な役割を果たしているからだ。
アーサー・エディントン卿が述べたように、「世界の事物は、精神の事物」なのである。
経験とは、事物の観察の仕方なのだ。 
一部には、意識がつくり出すところを超える現実などないとまで言っている人もある。
神秘主義や形而上学にとってはなじみ深い、統一体の次元は、現代の、
原子より小さいレベルでの、最も急進的な研究結果によっても証明されてきたといえる。
ケイシーも、創造の業に関して、量子物理学による発見を予期していたかのような、
いくつかのイメージを提供していた。
特に彼は、原子のなかの「回転するカ」を基本的に重要なものと述べ、
その考えは、近代の物理学による発見に裏付けられている。
現代物理学は、意識と事象の統合の下敷きになっているものが、
特別な力学的性質をもっていることを発見した。
それは意識と事象のさまざまな側面には、はるかな距離を一瞬にして、
光のスピードより速く伝わるコミュニケーションがあるということだ。
そうした実験結果のなかには、原子より小さな粒子の回転、
つまりケイシーの言う「回転のカ」が内在するということも含まれている。
これまで見てきたように、観察という行為はその結果を左右する。
とすれば、粒子の回転は、観察者の姿勢によってちがってくる。
もしかすると、その回転は、どこを軸とすることもできるのかもしれない。
だが、観察者がひとつの軸を考えて選べば、回転はその軸を中心として観察され、
その選ばれた軸の周囲を、時計回りにも、また逆回りにも回転が起きる。
状況によっては、粒子は一対になって動き、しかも互いにちがう回りかたもする。
どんな軸が選ばれるにせよ、一対の粒子の一方は、
選ばれた軸の周囲で観測され、もう片方は、同じ軸の周囲を反対に回る場合もある。
アインシュタインは、互いに逆方向に回る粒子を切り離したらどうかと提案した。
何年かしてその実験が行われると、
ふたつの粒子のつながりは、遠く離れていても、すぐまた維持されることがわかった。
この、感覚を超えたある種のコミュニケーションは、
原子より小さな粒子の間にも存在するのだ! 
たいていの物理学者は、この驚くべき現象が、
根本的に、現実というものの神秘的なモデルだという事実を扱いかねている。

量子物理学は、「永遠の哲学」のなかで表現された統一性の謎に追いつこうとしている。
原子物理学が登場する以前には、
西欧人の頭のなかには、統一性の意味の確固とした見方は描かれていなかった。
しかしいまや、特殊な科学的発見にのっとって、
その想像力を確実なものにすることができるようになった。
なかには、量子物理学は、「永遠の哲学」を「証明」するものではないと警告するむきもある。
それでも、こうした研究結果は、
それまでの、世界に対する見方に確実に波紋をなげかけ、統一性の概念を、より身近で、
「神秘」よりもっと現実に根ざしたものにしていることはまちがいない。


ヘンリー・リード「エドガー・ケイシー超能力開発のすすめ」




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2009.07.08 信仰の本質
人間に内在する神性・仏性を信じること。

それは即ち、私たちは、神仏によって創られた存在であることを信じるということです。

その事実には、宗教の違いは関係ありません。

神も仏も同じことなのです。

クリミアの天使、ナイチンゲールによる素晴らしい信仰告白です。




私たちの宗教信条は、こうです。
すなわち全能かつ永遠の愛と知と正義の霊が、明確な法則に従って、
愛と知と正義の恵みを亨受することのできる人間を存在させることで、
自らを現していると信じること、
そして人間は、自分自身の、またお互いの神性を発達させることが可能な存在であり、
その人間が生きている宇宙には、明確な法則に従って、
人間が自らの活動を通して、人類の幸福に向かって、
進歩することを保証する手段や誘因が与えられていると信じることです。

人間の本性の不完全から完全への発達に資するものは何であれ、
また無知から知への進歩に役立つものは何であれ、
すべてが、私たちが父なる神を知り、神を感じ、
私たち一人一人に内在する聖霊を豊かにする助けとなります。

苦しみや貧しさを耐え忍ぶものが、人間に内在する神の霊であること、
それは明らかではないでしょうか。
存在の法則に明示されているように、
神の霊は正義と知と善、愛と慈しみの霊であるということ以外に、
私たちは神の霊について、いったい何を知ることができるでしょうか。
あらゆる苦しみや貧しさは、これらの神の属性の反作用であり、
否定であり、制限に他ならないのではないでしょうか。

いやしくも人間と呼ばれる存在であるならば、
これらの神の属性を内に秘めていない存在はないこと、
それはおそらく立証できると思われます。
私たちが神について知っているすべて、知ることのできるすべてが、
程度の差こそあれ、多少なりとも人間のうちに存在することが確認できるのであれば、
人間が「肉において現れた」神であることは明らかではないでしょうか。
人間が充分な英知を獲得すれば、秩序ある生活と教育とによって、
どの人間にも内在するそのような神の属性を、おそらく呼び覚ますことができるでしょう。
実際、人間性が現にどこに存在しようとも、
神の属性の存在を証明する方向に向かっていることは、今や否定できないのです。
経験と意識が教えてくれること、
それは、自らの本性の一部ないしは、
いくつかの部分を発揮することによって私たちにもたらされるものは、
単に受動的な受け手として受け取るものよりも、貴重だということです。
あるいはむしろ、いかなる善なるものに対しても、
単に受動的な受け手であることは不可能であり、
それが私たち人間の本性だと言えるかもしれません。 
それならば、神の意志、すなわち善の意志とは、
神の意志によってもたらされた存在である人間にとって本来の善性であり、
それが生活の中で充分に発揮されることを、期待すべきではないでしょうか。
それこそが神の御心であることが、示されているのかもしれません。
神の意思が存在せしめたそのような存在が、
最善の性質、すなわち神自信の本性を有していること、
そして神の法則は、それらの善性が正義と慈愛と英知の信念として、
実践されるように働いていることを、私たちが想像できるのだ―こう仮定してみましょう。
そしてそれがまさしく事実であることは、立証可能だと思われます。

すでに発見されている物質界の法則を思い起こしてください。
個人あるいは集団としての人間が、自らを正しく保とうと、
何世代にもわたり懸命な探求を続けていることを思い起こしてくだい。
人間に内在する神性の実践によって、
現に存在する限界を拡大できる点を、誰が疑えるでしょうか。
これは単なる空想に過ぎないのでしょうか。
その確信は、経験によって裏づけられるのではないでしょうか。
ほとんど確かな目的も持たず、知らぬうちに制限されるような生活ではなく、
人間は個人として、また集団として、
生活に秩序をもたらすことを目指してきたという事実を思い起こしてください。
それは人間自らの本性をさらに向上させるため、
すなわち人間に内在する神性の限界を拡大するためなのです。
私たち人間が自分自身のため、また人類のために実践を積むことによって、
さらに一層神性に近づくであろうということを、疑うことができるでしょうか。

一人一人の人間は全体の一部であり、
人類の、そして神の子の一部です。
人間は目標をめざす者、すなわち父なる神そのもの、父なる神がもつものを獲得する者です。
人間は神のうちに存在し、真理に近づき、真理を知る程度に応じて、神と一体となります。
人類の場合、一つの全体を構成するそれぞれの異なる部分が、
一つの目的に貢献しているのです。
人類は神が私たちに伝達する神性を通じた実践によって、
自分たちを聖なる者へと変革しようとしています。
人間は何一つできませんが、受け取ることだけはできるのです。
しかし実践を通じて、すなわち人間自身の本性を適切に働かせない限り、
何一つ受け取ることはできません。


「真理の探究」




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石頭ドグマ仏教徒は、
このようなキリスト者の意見もあるということを知るべきです。

宗教もグローバル時代に入ったのです。




キリスト教的信念は何百年にもわたって発展してきたが、
その発展は、西方教会では何百年もの間、
自分たち以外の人間は救いの箱舟の外にある者と見なす自己囲い込みの体系を、
強化・継続する形態においてであった。
四世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になって以来、
他宗教との接触は、対外的には十字軍において、
内向きには何世紀にも及ぶユダヤ人迫害においてというように、
ほとんどが敵対的なものだった。
そしてヨーロッパ諸帝国の時代には、被支配民の諸宗教は一般に野蛮な慣習として蔑まれ、
人々は、より高度な福音の救いの真理へと改宗すべきものとされた。
しかし十八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代以降、
特にその後期の百年ほどの西欧においては、
他の世界宗教の霊的深みと霊力への認識が増大し、
もはやキリスト教だけが唯一の真実の信仰であり、
唯一の救いの位置を占める宗教であるとは認め難いものになった。

このことは大規模な西欧への移民、とりわけインド亜大陸からの移民の結果、
二十世紀後半において深刻な問題となった。
バーミンガムを例にあげれば、パキスタンやバングラデシュ出身の親、
もしくは祖父母を持つムスリムが八万人もいるし、
またシーク教やヒンドゥー教の大きな共同体があり、
同様に小さいけれども長く定着したユダヤ人の共同体もある。
そして、現在では仏教徒、道教徒、さらにはバハイ教のグループもある。
こうした人々の比率は、キリスト教の習慣や信仰をもつ人ロ―もちろん、
大半は名ばかりのキリスト教徒だが―よりも大きいので、それだけの人々が、
毎週キリスト教ではない種々の礼拝場所へ礼拝出席することが、十分に可能なのだ。

私たちが他の信仰に生きる市民仲間と知り合うとき、
―また日常生活のあらゆる場面で、彼らと遭遇するとき―わけても個人的に隣人、
同僚、子どもと同じ学校の保護者として知るとき、
彼らがこの町の一般的なキリスト教徒に比べて、別に不親切でもなければ、
家族や共同体内で心遣いが乏しいわけでもないし、
子どもの教育のために骨惜しみをするわけでもないし、
援助を必要としている隣人たちに手を差し伸べないわけでもないし、
法を守らないわけでも、よき市民でないわけでも、
自分たちの宗教習慣に不忠実なものでもないことに気づかされる。
どの民族、どの宗教にも、ほぼ同じような割合で、良い人間と悪い人間の両方がいる。
そして白人よりも黒人や褐色人のほうに失業率が高いのは事実であるが、
それでもドラッグや犯罪に身を持ち崩した若者たちをたくさん抱えて、
だれもが皆、深刻な社会問題に直面している。
しかし、一般にキリスト教徒のほうが、非キリスト教徒に比べて道徳的に優れているとか、
精神的、霊的に優れているようには思えない。

それぞれの信仰には聖人と呼ばれる稀有な個人が、
多かれ少なかれ、同程度に輩出しているように思われる。
聖人に関する統計数字はないが、これまでのところから言えることは、
宗教的信仰をより平易なものにしてくれるようなこの種のきわだった個人は、 
ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、シーク教、仏教などにおいても、
キリスト教内と同様に無数に存在するように思われるということだ。

しかし、伝統的なキリスト教の信念体系が真実である場合に、
これが私たちの期待する内容なのだろうか。
この体系によれば、
イエスは受肉した神(すなわち、子なる神、三位一体の第二位格)であるから、
世界の諸宗教の中で、キリスト教だけが神自身によって基礎づけられたものであり、
それゆえ、事実上キリスト教が、
他のどの宗教よりも優れているにちがいないということになる。
またキリスト教徒として、私たちは神と親密な関係にあり、
教会の聖礼典を通して神との十全的な接触を持ち、
キリストの体である教会の会員として、私たちの内には聖霊が宿り、
キリストに在って他の人々には与えられていない、
神自身の直接的な知恵に与っているということになる。
もしそうであるならば、このすべての結果としての聖霊の実―それを聖パウロは、
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乗和、節制」として挙げている―は、 
一般のキリスト教徒の生活において、一般の非キリスト教徒たち以上に、
より明白であるべきではないだろうか。
しかし実状はそうとはかぎらない。

そこで私には、偉大な世界信仰はそれぞれ異なりはしても、
私たちの理解する範囲内で言えば、生来の自我中心性から、
神・超越者・究極者・実在者中心への新たな方向への変革、
あるいは互いの価値と愛を認める人間存在への救済的変革をもたらす、
同等の効果の脈絡内にあると考えるほうが、より合理的であるように思えるのだ。
この場合、究極者を思考し経験する仕方の相違は、
人間の在り方の相違、つまり地上の偉大なる文化の相違を反映している。
このことは同様に、究極的実在そのものと、
その異なる状況において形成される人間の精神性によってさまざまにイメージ化された、
実在との間の、相違のことでもある。

しかしこのような見解を、キリスト教徒が持てるだろうか。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしによらなければ誰も父のもとへは行けない」「わたしと父はひとつである」、
「わたしを見たものは父を見たのである」と述べたのではなかったか。
それへの回答は、ほぼまちがいなく「否」である。
これらの言葉は、歴史のイエスによる言葉ではなく、
イエスの死後六、七十年経ってから、ヨハネ福音書の記者により、
その時代までに展開されてきた教会の信仰を表現するものとして、
イエスの口の中に注ぎ込まれたものなのだ。
神の受肉はイエス自身によっては主張されなかったこと、
そのような神格化は教会によって次第に進められてきたことは、
今日では新約学者たちの大多数による合意事項である。
より初期の弟子たちの理解では、
イエスは「彼を通して神が行った力あるわざと、
不思議なわざと、あかしの奇蹟とによって神があかしをされた人」だった。
そこにはまた、イエスは神ではないが神の属性を備えていたこと、
人間ではないが人間の属性を備えていたこと、
の両方を密接に結びつけようと試みる重要な「未回答の問い」がある。

一世代前に比べれば、今日のほうがはるかに広く受け入れられてはいるものの、
前述の全内容については、当然のことながら、教会内ではかなりの異論がある。
全教派の指導者たちは、
信仰を異にする人々に対して友好的かつ寛容な態度を取る一方で、
なお押しつけられれば、通常はキリスト教の独自な優位性を強調し、これを保持する。
しかし教会外には、宗教についての本当の問いに純粋な興味を抱く人々はたくさんいる。
そういう人々は、教会やそのドグマを振りかざす石頭からはまったく相手にされず、
しばしば反発すら受けている。
けれども、そのような人々による他宗教への気づきから、
逆に新しい魅力のある可能性の範囲が拓かれていく。

諸教会が、聖書は文化的条件に基づいた人間の一連の著作である、
という含意を受け入れるのに、二、三世代を要した。
私たちはいま、キリスト教における自分の宗教経験と、
人類による宗教経験とが連続したものであるということを、グローバルに認めなくてはならない。
キリスト教が他の宗教と並ぶ一つの真正な宗教であり、
受肉、三位一体、贖罪という教理のどれも、
イエス自身が実際に教えたものではないということを、
諸教会が受け入れるには、おそらくさらに一、二世代の期間を必要とするだろう。

もちろん同様な挑戦は、他のどの宗教伝統も受けている。
私たちは皆、イスラーム神秘主義の詩人ルーミーの、
「ランプは違えど、光は同じ。光は彼方から来たる」という言葉の意味を、
十分に理解できる者とならなくてはならない。


ジョン・ヒック「ジョンヒック自伝」




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引き続きまして、
神学者ジョン・ヒック氏による、仏教における再生の概念に関する論考です。

このような生命観が常識となる日は近いと思われます。




幅広いテーマの中で、私は主として仏教における再生信仰を、
西洋のどの哲学者にも負けないくらい真剣に扱った。
この扱いの中で、私は永遠の天国あるいは地獄という、
キリスト教の標準的な教義を批判した。
その理由は、死を前にして、ほとんどの場合、
私たちはまだ永遠の天国(あるいは煉獄を経て天国)に入る準備もなければ、
永遠の地獄あるいは消滅の定めを受けることにも値しないからだ。
私たちには道徳的、霊的な、さらなる成長あるいは発展―それは、
伝統的な煉獄の教義によっては認められていない―を必要としている。
そして、このような発展は、この生命において起こる。
とはいっても、生と死によって境界を設けられた生命の枠組みがあるため、
その発展の生起には程度があるが。
これらの境界という圧力は、同じ生命を無限に展望するのとは違って、
この世界における私たちの時間に、切迫した意味を与えてくれる。
なすべきことはなさねばならない。
このようにして、さらなる有限の生の中に持続した前進があると言えるのだ。
私の最終的な結論では、仏教における再生の概念には、
かなりの真実が含まれているということだ。
このことは、現在の意識的自我の間の区別によるところが大きい。
この自我は不死ではない。
これはより深い実在、根底にある心的構造、気質的あるいはカルマ的持続音に対して、 
一時的で変化しつづける表現形態にほかならない。
そしてこの持続音は、現在の自我の活動に影響を与え、かつ影響を受けるもので、
永遠の究極的実在との統一に向けた漸進的発展を反映し、
新しい意識を伴った人格において、何度も繰り返し表現されるのだ。
こうした再生は、この世界内のものではないかもしれない。
なぜなら、多くの宇宙内、あるいはその下位に属する宇宙内に、
多くの世界があるかもしれないからだ。
しかし、多くの生命は、目に見えない記憶の連続性―それは通常は意識されないが、
生命の系列のアイデンティティを構成している―によって結びつけられている。
私が『第五次元』の中で提起した方法を、ここで繰り返して言うならば、
私たちが断片的で非常に不完全な自我に固執するかぎり、
それ(自我)が死に近づいているということは最悪の知らせであり、
私たちはその知らせを脳裏から消し去るために腐心するだろう。
しかし、もしお互いが長い創造的プロセスにおける現在の瞬間として自分自身を見、
そのプロセスの価値を信じることができるならば、
恐れや怒りを持たずに、自らの死ぬべき運命を受け入れることができるし、
また自分の寿命を精一杯生きようとすることができるだろう。
というのも、私たちが行うすべてのことは、積極的にも消極的にも、
現在私たちの中で具現化している計画を継続する、将来の自我に寄与しているからだ。
私たちはリレーの走者のようなものだ。
たいまつは私たちに手渡され、ほんの短い間ではあるが、
全体の計画は私たちに依拠している。
したがって、生命は切迫した意味を持ってくる。
私たちは死後も続く世界に対してのみならず、
霊魂すなわちジーヴァ、
あるいはカルマの連鎖といった基本的な性格傾向―これは私たちが受け継ぎ、
現在も絶えず微妙な形で善なるものへと、あるいは悪なるものへと変化させつつある―を、
次々と具現化する私たち自身の将来の自我にも、独特な何かで寄与しているのである。
ちなみに言えば、私は、カルマの持続音の中に生命の全系列の記憶が存在しており、
この記憶の閃光がときどき現在の意識に漏れ出てくることは、
おそらくありうると思っている。
けれども催眠術にかかって前世の生命に復帰するという話や、
前世の生命の記憶に目覚めたという話には、それほど感銘を受けない。
しかし教会の信徒を含め、約七割の人々が、
ある種の再生を信じると告白しているという報告があるように、
より単純かつ通俗的な形での再生を信じることは、驚くほど現代の西洋社会に広がっている。
多くの場合、人々はおそらく仏教の複雑な観念とは異なり、
現在の自我がそのまま再び生きるという、より通俗的な発想をしているように思われる。
人々が伝統的なキリスト教の信仰に本当らしくない点を見出し、
すべての偉大な世界宗教に見出される基本的な宇宙的楽観論を共有し、
ある種の再生というものに最も本当らしい可能性を見出しているのではないか、
と私は想像している。


「ジョン・ヒック自伝」




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