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2010.06.22 進化の事実
植物らしきものが地表に現われはじめたのは、今から二十七億年ぐらい前です。
最初は苔類、カビ類からはじまって、次第にシダ類に近いものが発生してきたのです。
こうした新たな植物が発生する前段階として、霊的世界の中で、
新種の植物のイメージが形成されて、その理念型、目的意識が、
天下って現実の植物の形状に異変が起きてきたというのが、進化論の真相なのです。
つまり進化論を認めるにあたって、
「適者生存」とか「自然淘汰」の説をそのまま受け入れるのは正しい態度ではなく、
進化の事実が、一つの合目的性を持っていることを正当に認めなければならないのです。
合目的性を持って進化があったということは、とりもなおさず、霊的世界の中に、
進化を裏付ける実質の形成、霊的実相の形成があったと考えるべきなのです。
つまり、シダ類が発生するためには、
霊的世界において、シダが霊生命として既に創造されていたのです。
このことは動物においても同じです。
偶然にある動物がアライグマになったり、キリンになったりはしないのです。
高木の葉を食べるために、適者生存の法則、あるいは自然洵汰の法則が働いて、
背が五メートルもあるキリンが出現したというならば、一体どういう法則が働いて、
アライグマは食べ物を川の水で洗って食するようになったのでしょうか。
土がついたままのくだものを食べたアライグマの一匹が胃けいれんを起こしたので、
他のアライグマの仲間が寄り集まって、今後は必ずなま物を食べる時には、
川の水で洗うということを決議でもしたのでしょうか。
そうではないのです。
やはりそれぞれの動物を創造するに際して、
霊界において新種の霊的生命体の創造がなされているのです。
つまり一群の霊的エネルギー体に一定の魂の性質、傾向というものを刻印したのです。
キリンを創るときには、魂に、背が高くて、気高くて、
おとなしい、といったイメージを刻印するのです。
アライグマを創るときには、
きちょう面で清潔というイメージが霊的性質として与えられているのです。
ライオンを創るときには、力強く、
勇気があって王者の風格があるというイメージを霊の性質として与えてあるのです。
ヘビを創るときには、残忍で、陰湿で、
執念深いという魂の傾向を霊的にイメージしているのです。
キツネを創るときには、軽妙で、ずる賢いというイメージを霊的に刻印しました。
ネコは女性のイメージで創られた家畜です。
つまり、性格的には、陰性で優美です。
イヌはこの反対に、男性のイメージで創られた家畜です。
つまり、陽性で、働きもので、ちょっと荒けずりなところがあります。
こうしてみると、それぞれの動物には、いくつかの魂の傾向があり、
しかも、人間社会を見ると、
それぞれの動物の魂の傾向と似た性格が見つかることに気づきます。
つまり、キリンに似た性格の人、ライオンに似た人、
ヘビに似た人、キツネに似た人、などが居ることに気づきます。
こうした事実の背景には、実は二つの創造と進化の原理が働いているのです。
一つは、神は、魂の性質というものを類型化する意図でもって、
幾種類もの動物を創ったということ。
そして進化した動物とそうでない動物があるように見えるという事実でもって、
魂の傾向にも、高下の序列があるということを示そうとされたのだということ。
もう一つは、様々な魂の傾向のある動物を創ることによって、
人間に反省の機会と万物の霊長であることの自覚を与えられようとしたこと。
つまり、神の意図された魂の進化の類型化の呈示をされるとともに、
魂の教育の場を設定されたのです。
わかりやすく言うならば、それぞれの動物は、
違う魂の傾向を持った動物と共存することにより、
他の動物と自分との比較が容易になり、自分の魂の学習がしやすくなったのです。
また人間は人間で、ライオンを見てはどう猛さとは何かを、
キツネを見ては狡猾さとは何かを、ウサギを見ては臆病さを、
カメを見ては、ノロマであることを、ヘビを見ては陰湿さを、
イヌを見ては忠実さとは何かを、それぞれ勉強する機会を与えられ、
自分自身の心のあり方を反省する機会が与えられているのです。
こうしてみると、動物たちの魂も転生輪廻している以上、
段々にその魂の傾向が変わってゆくことがあるのではないか、
と思いつかれる方もいると思います。
そこで、そのことについて更に話を続けましょう。
人間の転生について語られた書物は多くありますが、
動物も含めての転生について真実を述べた「定説」とでもいうべきものは見当たらないので、
転生の秘密についての、真実を述べたいと思います。
様々な動物が地上に出現するにあたって、
霊的生命体としての種の創造が先立ってあったことは既に述べたとおりです。
そこで多くの人の疑問は、霊として新種が創られたのは納得がいくが、
地上の肉体としてはどうなのかということでしょう。
ある日忽然と地上に肉体としてのキリンやシマウマが降って湧いたように出現したのか。
それとも、既にいた動物の体内に、新たな霊生命が宿って、
その動物が段々に新種の動物に変わっていったのかということです。
この問いに対しては、実は三種類の答えがあるのです。
そしてその三種類とも真実なのです。
まず第一は、人類の起源は、
三億六千万年前に他の惑星から肉体を持ってやってきました。
この時点で、人類の移住のときに、
いくつかの代表的な動物とか植物とかを地球に持ってきたことも事実なのです。
ノアの方舟の伝説の中には、大洪水の際に、
ノアが一つがいの動物を連れて逃げたことが語られていますが、
同じようなことがあったのです。
ですから現在いる動物たちの一部は、
人類が地球に移住してきた時に連れてきた動物の子孫なのです。
第二は、地球自体を新たな生物誕生の揺籃として、
そこで進化の事実があったということを述べておきます。
たとえば、ネズミならネズミとして長年転生を繰り返しているうちに、
そのうちの一部が霊的に進化してきて、
もはやネズミの体内に宿ることによってはこれ以上の進化が望めなくなったとき、
霊界において、こうした一群の魂に対して、
今度はウサギという新種の動物を地上に創るという天命が賦与されることがあるのです。
こうした魂が母ネズミの体内に宿って一群となって地上に出てくると、
ネズミにしてはややおとなしくて、敏捷で、
少し耳の長い新種の肉体が多数地上に出てくるのです。
こうしてウサギになりかかったネズミが一団となって地上に出て、
そのうち共同生活を始めるのです。
やがて、何世代か繰り返すうちに、もはやネズミではなく、
完全なウサギの肉体へと変わってゆきます。
このようにして出現した動物もあります。
第三の場合がまさしく神による創造にあたる場合です。
他の惑星から連れてきた動物は、哺乳類の先祖にあたる高級動物が多かったのですが、
地球で新たに創造された動物としては、両棲類、爬虫類の多くがそうです。
また魚類もそうです。
地球という惑星の環境は、七割が海という水中心の星であるため、
水に関係する多くの生物の誕生が必要とされたのです。
異星から持ってきた哺乳動物を変じて魚にするわけにもいかないので、
新たな生物を創ることになりました。
そこで高級諾神霊の協議の結果、まず海中に魚を一種創って、
それを第二の場合のように霊的に変化させて、
多種類の魚をやがては創り出そうということになりました。
そこでこの時、霊体の物質化現象を行なったのです。
原型になる魚が一種類選ばれ、アジならアジをまず創ったのです。
これは、たとえば幽霊を見たとか、金粉が降ったとか、物品引き寄せで真珠が出たとか、
色々な話がありますが、霊体というのは、一つの生命の波動なのですが、
この波動の振幅数を小さくしていくと、やがてエーテル状となり、
更には、物質化してくるのです。
イエス様が魚やパンを空中から引き出したりした奇蹟が聖書に書かれていますが、
ああしたことも実際に可能なのです。
この霊体の物質化の法則を使って高級神霊たちが例えば、
アジならアジという魚の創造をしました。
また両棲類として典型的なカエルとかイモリのたぐいも物質化現象で創りました。
爬虫類としてはヘビ、トカゲのたぐいを創造しました。
トカゲが転生の過程で巨大化していってワニになったのです。
こうして三種類の方法で地球上に様々な生物が創られたのです。
そして幼い魂たちは、やはり何億年も魂の学習をしてきているのです。
ネズミからウサギヘ、ウサギからネコヘと進化していった魂もあれば、
ライオンからオオカミヘ、オオカミからヒツジヘ、
ヒツジからイヌヘと進化していった魂もあるのです。
それでは動物から人間へ、人間から動物へという転生が果たしてあったのでしょうか。
人間が万物の霊長であることは誰しも認めることでしよう。
そしてある種の家畜たちは、人間と一緒に生活していますが、
彼らにも基本的な感情があるため、人間になりたいと思っている動物は意外と多いのです。
しかしその逆に、動物に生まれ変わりたいという人間はおそらく一人もいないことでしよう。
輪廻転生の目的が、永遠の進化であるならば、動物として最高度に進化した魂は、
もはや人間として生まれ変わる以外には進化の方法がないようにも思われます。
ではサルは人間になるか。
ネコは人間になるのか。
そしてイヌはどうなのか。
真実を語れば人間に生まれ変わる可能性はあるのです。
しかしその可能性は非常に限られており、
イヌの世界で国民栄誉賞をもらうぐらいの確率でしかありません。
「名犬ラッシー」のように人命を救助したような名犬とか、
「忠犬ハチ公」のように、忠節という人間的感情を貫いた犬が、
六次元神界の諸天善神の中の、
稲荷大明神と呼ばれている動物を指導している光の天使の許可を得たとき、
初めて人間に生まれ変わることができるのです。
この時の彼らの喜びようは大変なものです。
しかし残忍性を発揮して犯罪者になってしまい、
一回で人間を失敗してもとの動物にかえされることも多いのです。
逆に人間が動物として生まれることはあるのか。
これも真実を言えばあるといわざるをえません。
あの世の地獄界にも、いわゆる畜生道、動物界というところがあります。
人間として生きていた時、動物のように欲望のままに生きた人間が、
あげくの果てに行く地獄です。
この地獄に堕ちた人間は、その心性に最も近い動物の姿をしています。
人をだまし続けてきた人間はキツネのような姿に。
あるいは嫉妬に身を焦がしてきた人は、ヘビのような姿に。
情欲のままに衝動的に生きてきた人間はたとえばイヌのような姿に、
それぞれ変化してゆくのです。
彼らがこの地獄で反省をして、もう一度天上界に還ってこれたらよいのですが、
五百年、千年と動物界にいるうちに、心がまったくその動物そのものになり切ってしまい、
もはや人間には戻れなくなってしまう人もいます。
こうした人が人間としての悟りを得ることができず、動物としての最低限度の悟りを得た時、
今度地上に生まれたくば、動物として出るしかないのです。
こうした魂は、基本的には人間としての感情を持っているために、
妙に人間のようにテレビを見るネコとか、妙に人間のように抱きついてくるイヌだとか、
算数のできるウマだとかになって出てくるのです。
しかしこうした転生はやはり例外中の例外であり、人間はやはり人間。
動物はやはり動物と割り切って考えておいてもよいでしょう。
一時期人間の魂が二年や三年動物の体内に宿ることがあったにしても、
それは彼らに人間として生まれることがどれだけ幸せかを教えるためであり、
永遠の転生の過程をとらえてみたなら、
やはり魂としては進化しつつあるといってよいのです。
頂点に立つ人間としての自覚を私たちは大切にしていきましょう。


大川隆法「生命と科学」




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大紀元日本より

コピペ
誰が進化論の信仰を維持しようとするのか? 
実は、今日多くの理性ある科学者が、
進化論は証明できない信仰であることを既に認めた。
しかし、進化論に取って代わる理論が現れて来なければ、
現在のまま進化論を維持するしかなく、
自分の名誉を傷つけられてしまう危険に陥るのだ。
多くの科学者は、進化論研究に何十年も努めたが、
研究が進めば進むほど、進化論の誤りを発見した。

その中で、ニュートンとアインシュタインのように、
最終的に悟りに至り、宗教の中から答えを探そうとした科学者も少なくない。
更に、ニュージーランドの遺伝学者ミッシェルデントンが、
彼の『危機が現れた理論・進化論』の著作の中で、
「ダーウィンの進化論は20世紀最大の嘘だ」と、進化論をはっきり否定した。

進化論は生物学を完全に間違った方向へ導いただけではなく、
心理学、倫理学及び哲学など多くの領域、
更に厳しく言えば人類文明の発展を間違った方向へ導いた。

進化論が人類文明にもたらした潜在的な災難は大きい。

1).人々に宗教や道徳的善悪観を詐欺と認識させ、
   精神的なよりどころや道徳的制約を破壊する。

2).弱肉強食、適者が生き残るような選択論、
   競争の中であらゆる手段を利用して自己を発展させることなどを人々に教える。

3).反伝統、反正統的な変異は更なる進化、
   更なる良い結果をもたらすと人々を信じさせようとする。

4).人間は動物の後裔であり、人間の本性は動物本能に由来すると人々を信じさせる。
   欲望は人間の最も本質的な本性であり、
   それは進化によって得られた最も良い本性であると西洋の心理学は更に考える。
   それはほかでもなく、科学上、物質主義の横溢や倫理の堕落に対する制限を解き放った。

このような宣伝は既に社会のあらゆる側面に満ち、
現代社会の全てに浸透し、潜在的に人類の道徳の堕落を促進させた。




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無神論的世界解釈ではもう科学が成りたたなくなってきています。

しかし、無神論(唯物論)にとってダーウィニズムが、最後の砦となって踏ん張っているのです。




有神論的な世界解釈に立たなければ、
科学はどうしてもうまく立ち行かず、どうしても道を誤るのである。
もともと唯物還元主義というものが原理的に、
排除、敵対、闘争、憎しみといったものを特徴とするものである。
ところがこの現実世界は原理的に、
有機的調和、融和、相互浸透、そして最も根源的に「愛」を本質的な特徴としている。
「生存競争」「歯と蹴爪を血に染めた自然」(アルフレッド・テニソン)というのは、
自然の一面ではあっても本質ではない。
生命という「愛」を原理とするものを、
物的な排除の原理(偶然の変異に働きかける自然選択)で捉えるダーウィニズムが、
本質的に狂っており、これを奉ずるダーウィニストたちが、
敵対・排除を原理として行動するのは、むしろ自然であることの道理がよく理解されるであろう。


渡辺久義「ダーウィニズム150年の偽装」




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2009.11.06 ID論の台頭
いつの時代でも、新しい理論は弾圧を受けるものです。
しかし科学史は、真理の為に果敢に戦う人々によって塗りかえられてきました。
日本におけるID論の論客、渡辺久義氏のこの文章は痛快かつ重大、深刻な問題提起です。

我が国でも、これからはこの問題をスルーすることは不可能であります。




今学界を二分して起こっているのは論争でなく、はっきりと戦争である。
それは邪馬台国がどこにあったかとか、
日本が侵略国家であったかなかったか、などという類いの論争ではない。
そういった次元をはるかに超えた、歴史的な血みどろの思想闘争である。
それは我々が魂を悪魔に売り渡すか売り渡さないか、
人間として生きる「すべての望みを棄てる(ニヒリズム)」か、棄てないかのかかった戦争である。

我々はこれまで唯物論文化の中に育ち、
唯物論教育をしか受けてこなかったために、問題の深刻さに気付かなかった。
これが当たり前と思っていた。
しかしここ数年、世界の見通しは次第に明らかになりつつある。
世界を覆っていた雲は晴れつつある。

唯物論あるいはその核としてのダーウィニズムとは、本当は何だったのか? 
我々の科学とは何だったのか? 
宗教とはそもそも何だったのか? 
これらはすべて、ここ数年の間のID運動と、
それをきっかけにして起こった思いがけぬパニックによって、明らかになってきた。
これまでの執拗な進化―創造論争で本当に争われていたのは何か? 
科学を防衛することだったのか、宗教を防衛することだったのか? 
そうではなく問題は、無神論科学・道徳に対する有神論科学・道徳の対立だったのである。

これは宇宙と人間のまったく相容れぬ二つの解釈である。
スティーヴン・ジェイ・グールドの棲み分け提案(科学と宗教は別領域で生きるべき)に、
フィリップ・ジョンソンが反発して言ったように、「人は二人の主人に仕えることはできない」。
どちらかがより根源的な土台でなければならない。
宇宙と人間は我々を超えたものから生まれたか
我々以下の物質から生まれたか、のどちらかでなければならない。


「ダーウィニズム150年の偽装」




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アメリカでは、ダーウィンの進化論を信じる人は、4割に満たないようです。

代わって台頭してきたのが、インテリジェント・デザインという科学理論。

この「ID理論」も、ついに日本上陸です。




進化論が追い詰められた状態にあることは明らかだ。
そして、事態は時間の経過とともに深刻化している。
ここまで追い詰められてしまった原因は、
何よりも進化論が科学的仮説としてあまりにも穴が多いこと、
科学であるにもかかわらずデータではなく推論をもとに構築されていること、
さらには唯一のデータとなるべき化石標本も完全ではないことに尽きる。

ID理論と進化論の対決が、全米各地で法廷までもちこまれ、
大統領選における大きな争点になったこともあって、
科学的だった問題に政治色が加味された。
進化論が解決しなければならないのは、
科学的正当性や政治的色合いを帯びた問題だけではない。
進化論にとってもっともとらえどころのない、そして最大の敵は、モラルの問題かもしれない。
進化論は純然たる科学であり、モラルや文化、そして社会的規範とは無関係であり、
何の影響も与えないといいきるだろう。
ところが、実際はそうではないのだ。
進化論が科学であり、それ以外の何物でもないというならば、
150年前に『種の起源』の初版が出版されたとき、
「ダーウィンのブルドッグ」との異名をもつ動物学者トーマス・ハクスレーと、
サミュエル・ウィルバーフォース大主教が、
イギリス学術協会で大喧嘩を繰り広げることはなかったはずだ。

進化論は、人類でさえ偶然の結果進化した種にすぎず、
地球に生息するほかの種と比べてなんら優位性はないという事実を暗示する。
人間は哺乳類の一部にすぎず、命の価値もさほど変わりはない。
人間の命の重みが、ほかの哺乳動物と変わらないという考え方が、
まさに進化論とモラルのあいだに横たわる問題なのだ。

進化論が、生きる姿勢とモラルにも影響をもたらす事実をあえて指摘する人もいる。
社会ダーウィン主義という言葉がある。
ダーウィンの進化論に影響され、19世紀に生まれた社会理論で、
社会秩序は、
既存の生活条件に最適な人間の自然洵汰によって、生み出されるという考え方だ。
社会ダーウイン主義では、
人間の行動すべてが自然洵汰のさいに有利な立場にあるための伏線であるとされるのだ。
互恵関係的な愛他主義を説明することはできるが、
無償の愛情から生じた行為は枠組みから出てしまうため、定義も解釈も不可能となる。

進化論の不備な点は、以下のような言葉で語られている。
「偶然を大きな要素としてとらえるダーウィン進化論は、
科学的データをもとにした理論モデルで説明しようとすると矛盾が起き、
みずからの理論で身動きがとれなくなってしまうようなところがある。
こうした状況を打破するためには、
偶然を知的存在の介在と定義せざるをえないのだ。」

2008年5月29日発行の「ネイチャー」誌に、
マテルピスキス・アッテンボローイという古代魚の化石に関する記事が掲載された。
奇妙なのは、化石のなかに胎児とへその緒がみつかったことだ。
つまり、この魚は人間のように子宮のなかに子供を宿して育てていたらしい。
脊椎動物の胎児としては、最古の記録となる。
ダーウィン進化論においては、もっとも有利な形質が胎生であるとされている。
いうまでもないが、人間も胎生動物だ。
マテルピスキス・アッテンボローイの化石の発見により、
ごく低いが、人間の祖先が、
胎生古代魚である可能性も視野に入れなければならなくなったのかもしれない。
人間の机上の争いをよそに、自然は次々と疑問を投げかけてくる。


宇佐和通「インテリジェント・デザイン ID理論」




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2009.05.03 仏の子
仏とは何か?

人格大霊のことである。

神とは何か?

仏の説く法のことである。

世の知識人は、こんな簡単なことが分からないでいる。

唯物論は真理ではない。

ダーウィニズムも真理ではない。

宇宙は偶然にあるのでもない。

すべては、必然である。

すべては、仏によって存在を許されている。

霊界は実在し、人類は仏によって創られた万物の霊長である。

すなわち、われわれは永遠の命を持つ仏の子であるのだ。




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2009.02.08 宇宙の原理
教科書は、唯物史観とダーウィニズムに汚染されている。

それによると、宇宙にはホモ・サピエンスだけしか存在せず、

全ての事象は、「偶然」に帰することが出来、

文明の歴史は、たかだか3千年だそうである。

これを、信じるならば、いのちに大した意味など無い。

しかし、真実は開示された。

時間と空間は神の発明であった。

大宇宙は、「進歩と調和」という二大原理で運営されている。

広大な宇宙空間には、無数の友が存在する。

われわれもまた、地球圏を超えて輪廻転生するスペースブラザーの一員である。

そして、人類の歴史は、4億年にも及ぶという。

だからこそ、魂は叡智を保有しており、可能性は無限に広がっているのだ。




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キリスト教徒であろうと、仏教徒であろうとも、
大宇宙の法則からは、逃れることは出来ません。

目に見えぬ働きを考慮しないダーウィンの進化論は、
唯物論哲学の亜流であり、真理の一面しか捉えてはいないのです。




私達の地球という惑星の上には、
ちっぽけな細胞から、無数の異なった種類の生物が生まれている。
それらの生物を研究すると、見事に美しく進化発展する無数の細胞の組織があり、
細胞が組み合わされて、単純なものから複雑なものまでの、
素晴らしい進化と発展の段階を観察する事が出来る。
そして、細胞組織の組み合わせの複雑さの段階に応じて、
知性的な発達の段階もある事が観察されるのだ。
この様な事が、大自然界における神の知性以外に誰が行えるのだろう。
地球上において、人類は、この様な進化発展の頂点に達している生物であり、
全ての生物の意識(霊性)は、
やがて人類の意識や霊性にまで進化発展してゆく過程にあるものである。 
生命エネルギーの不滅さを考慮すれば、
全ての生物の生命は未来・来世へと続くものであり、その間に、
物質界へ輪廻転生しながら自己の意識の開発発展を行ってゆくものだ。
大自然界は大いなる意識の総合体系であり、様々な意識の発展の段階がある。
神は、この全てを総合し超越した意識の段階に存在するものである。
そして、全ての生命あるものは、色々な段階を経て意識の成長発展を遂げてゆくのだ。
肉眼では見えない事と言っても、この事は大自然界に事美存在し得ない事なのであろうか?
この様な思想は、20世紀では未だあまり一般的ではない。
しかし、現代の科学・学問の発達によって、目に見えない波動の存在、
光や音の周波数の存在、大自然界の諸法則、エネルギーなど驚くべき発見がなされている。
これらの研究が、精神的、霊的、生命的存在をやがて証明する事に繋がらないだろうか?
人間の五感を超越した事柄の存在を関知し、
高い次元の精神的存在があるという思想は、古来から考えられて来た。
この考えは、原始的種族の迷信や盲信としてではなく、
アリストテレス、プラトン、ピタゴラス、ネオプラトン主義者達を合むギリシャの多くの哲学者、
科学者達や神学的に真剣で優れた知識人達によって提唱されてきた。
哲学者のプルタークなどはこの様な考えこそ合理的なものだと実際に主張した。
近代に至っては、多くの科学者や思想家達がやはり、
その存在を信じたり、あるいは真剣に考慮したりしている。
十九世紀の著名な生物学者のトーマス・ハックスレー、
自然主義者のアルフレッド・ラッセル・ウォレス、心理学者のグスタフ・フェヒナー、
心理学者のウィリアム・ジェームスなどを含む多くの学者達である。

大自然界には進化発展の段階に応じて様々な精神的・霊的次元の段階が存在している。
それは、物質界が、惑星・衛星・恒星(太陽系)、
そして銀河系・大宇宙という段階的体系となっている事と同じである。
大自然界における段階的体系という事を受け入れるならば、二つの事柄が考えられるだろう。
一つは神が大自然界の段階的体系の全てを初めから創造されたのだという考えである。
もう一つは、進化発展の度合いの違いが、高低の段階を作ったという考えである。
多分両方とも正解だと言えるだろう。
いずれにせよ、次元の高い段階へと進んでゆく事は、
進化論とも全面的に一致しており、最も論理的筋の通った考えと言えるだろう。
確かに、全ての生物の霊は、この地上での生存の経験を通して、
自分をより完全なものにする為に、学び進化発展して自分の段階を高めてゆくのだ。
そして、全ての生命あるものの霊を高めて行くという神の計画に役立つようになってゆく。
全生物の生存とは、その為の進化発展の努力なのである。
たとえ弱肉強食が生存の掟であっても、生態学的に食物連鎖から見れば、
それは、この地球上で全生物が全体として生命現象を維持してゆく為の事なのだ。
それを、現代の人類は、科学学問という知識で判りながら、
環境破壊という事で地球上の全生物の絶滅をもたらす危機を招いている。
多分、キリストや釈迦などの偉大なる始祖達は、
自らの霊を次元の高い神性なる段階に高めた存在であり、
神より選ばれて肉体をもって地上へ現れ、人類を導く救世主であったのであろう。


ジナ・サーミナラ「神の理性」




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2008.10.22 DNAの謎
生命の謎の鍵を握るといわれる遺伝子。

しかし、
そのDNAの大部分が何をしているのかまだ分かっていない、
というのが科学者の本音のようです。

最新の研究では、
全体の97%にも及ぶ、無用の長物とされてきたジャンクDNAと言われる部分は、
実は、重要な役割りを果たしていて、そこには膨大なメッセージが保存されている、
ということが分かってきたようです。

それは、自然淘汰によってなされた仕業というには、
あまりにも、暗号的で奇跡的に精巧に出来上がっているのです。


DNA構造の発見者であるノーベル賞受賞者フランシス・クリックは、
晩年、偶然による自然淘汰説を否定し、
高度な地球外文明の知的生命体の手で操作された「生命の種」ともいうべきものが、
宇宙船によって運ばれてきたのだとする、
意図的パンスペルミア説(宇宙胚子説)を唱えています。

彼は、筋金入りの無神論者でした。

それゆえ、
自然発生的に生命が誕生するという可能性は殆ど無く、
むしろ、生命は事前に設計あるいは創造されているということに気付いた時、
それを、神や霊などの超自然的な原因に帰すことを許さなかったのです。

それを認めるぐらいであれば、
むしろ、他の惑星に住む生命体のせいにする方を選んだのです。

どちらにしろ、
偶然に分子の衝突が起きた結果、
たちどころに生命が生まれるという確率は、
ガラクタ置き場を台風が通過した後に、
ボーイングジェット機が組み立て上がる確率よりも、まだ低いのです。




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2008.09.04 仏教と進化論
本来、仏教を信仰することと、
ダーウィンの進化論を信じることが両立するはずはありません。

しかし、日本人の多くは仏教徒のはずなのですが、
世界水準では、進化論を信じる人の割合が非常に多い国だという調査結果が出ています。

この理由は、仏教国だからというよりも、
日本では、科学=唯物論=真実という誤った図式が常識となっているからです。

ダーウィンの進化論は、まさに唯物論信仰そのものです。


インテリジェント・デザインの日本の第一人者である、
京都大学名誉教授の渡辺久義氏はこう論じておられます。


数学者の岡潔という人は晩年かなり精力的に講演活動をしたようだが、
その一つにこんなことを言っている。

『東洋では自然を無生物だなどと思ってやしない。これは直観なんでしょうね。
老子の自然学というものは、自然を無生物だなどと思ってやしませんし、
日本の古事記だって国は神が生んだとして、
生物と無生物の間に区別 を置いていない。これが正しいでしょう。
これは直観でしょう。西洋人だけが無生物だと思うらしいですね。
欧米人は無生物から生物が生まれる、と、
無生物が生物を生む、つまり体が心を作るという風にしか思えない。
それから五感で分からないものはないとしか思えない。
この二つの非常な間違いを初めから持っているんですね。…身体だけ見ましても、
人の身体は非常に数多くの細胞から成っている。
その細胞の配列は実に精緻を極めたものです。単細胞がこんな生物、身体に進化した。
これ実に不思議ですね。
あなた方は、人が自分でここまで向上したんだと思いますか? 
そんなこと思えんでしょう。造化が向上させてくれたんだとしか思えないでしょう。
造化が単細胞を向上させて人の身体にまで持ってきたのです。
じゃあ、そうして一旦、人というものができてしまったら、
後は造化の手を離れて自分だけでやれるか。
振り返ってみますと、赤ん坊が生まれるとき、最初は胎内に単細胞として現れますね。
それが細胞分裂を起こして、そして人の身体になるんですね。
これは人が自分の力でやっているんでしょうか? 
そんなこと思える人いないでしょう。やっぱり造化にやってもらっている。
だから一旦、人になってのちも、絶えず造化によって人の五体を作ってもらっている。
こう考えた方がずっとよく分かるでしょう?』

「造化」という言葉は「造化の妙」という熟語としてしか使わなくなったが、
これは造物主の意味である。
岡潔は、こういう考え方が日本人には昔から当たり前のことで、
西洋から唯物主義という馬鹿な考えが入ってきてからおかしくなったのだと言う。
「物質から生命は出てこない」と、西田幾多郎も書き物の中で何回となく繰り返している。
これはむしろ当たり前のことである。西田が何度も念を押さなければならなかったのは、
唯物進化論のようなものがますます幅を利かせるようになっていく、
当時の雰囲気を感じていたからであろう。
唯物進化論が当たり前だと言う日本人が、
もし本当に心底からそう思っているとしたら、恥ずかしいことである。
「非科学的」なことを言いたくない、それはそれで分からないでもない。
自分だけ変わったことを言いたくないのが日本人の特徴でもある。
しかし、「本当に生命は物質から出てくると思うか」ともう一度念を押されて、
それでも「当然だ」と答える日本人が多いとしたら、私はこれは由々しい問題だと思う。


もはや神が存在するかどうかという問題は、科学的真実かどうかなのです。

仏教国だからとか、キリスト教国ではないから、というような次元の話ではありません。




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