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2008.04.28 宇宙意識
カナダの医師、リチャード・モーリス・バックは、
1901年に、精神世界の古典と言われる「宇宙意識」を著しました。

この本では、
自らの神秘体験に基づいた意識研究によって、
霊的知覚能力が高度に発達した段階である宇宙意識という概念が述べられています。

宇宙意識とは、通常の意識より高次な意識形態のことで、

仏陀、イエス、マホメット、プロティノス、ダンテ、パウロ、
フランシス・ベーコン、ヤコブ・ベーメ、バルザック、ホイットマン、

といった方々が覚醒した境地であるとされています。

バックは、
これらの人物は皆、同じ事実を発見したのであり、
同じ源からの啓示を受けて、同じ道を歩んでいる私達の先輩である、と認識しました。
そして、人類は皆、宇宙意識に向けて進化していくのであり、
時代を経るにしたがって、宇宙意識に到達する人数も増加するだろうと予測しています。

また、
「私は、ベーメの教えと、東洋の秘教や宗教書の中に書かれている、
東洋の賢者の教えを注意深く比較した結果、それらの深遠な意味の中に、
それらの間の最も驚くべき調和を見出している。
実際、仏陀、クリシュナ、キリストの宗教は、私には全く同じもののように思われる。」

という、哲学者ハルトマンの言葉を引いて、
複数の宗教を知っている人で偏見の無い人は、
偉大な信仰は同胞姉妹であることを認めている、と主張しています。


宗教に共通する霊性に目を向けた点や、
霊的進化を説く点などは、
ニューエイジ思想の先駆でもありました。




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2008.04.28 十二部経
お釈迦さまは、
人々の霊的レベルや、時期の熟する程度に応じて、いろいろな教えを説かれました。
その教えは大まかに、十二の種類に分けられ、十二部経と呼ばれています。
小乗経も大乗経もこの中に、含有されているのです。


一、修多羅(しゅたら)・・・直接的に真理の中心教義が説かれたもの

二、祇夜(ぎや)・・・偈を重ねて、経の意義を補足し、強調したもの

三、受記(じゅき)・・・仏弟子の来世を予言したもの

四、伽陀(ぎゃた)・・・最初から偈、韻文で説かれたもの

五、優陀那(うだあな)・・・仏弟子の問いを受けずに、釈尊が自ら進んで説法したもの

六、尼陀那(にだあな)・・・経や律の由来や、因縁について説かれたもの

七、阿波陀那(あばだあな)・・・譬喩をもって説かれたもの

八、伊帝目多迦(いてもくたか)・・・仏弟子の過去世について説かれたもの

九、闍陀迦(じゃあたか)・・・釈尊の様々な生まれ変わりの詳細が説かれたもの

十、比佛略(びぶりゃ)・・・広大で平等な大乗の教えが説かれたもの

十一、阿浮陀達磨(あぶうだだるま)・・・奇蹟や神秘的な事象について説かれたもの

十二、優婆提舎(うばだいしゃ)・・・論議をつくして解説されたもの





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明治45年に結成された思想界の統一運動である、
「帰一協会」の中心人物に成瀬仁蔵がいます。

彼は、この帰一教会の綱領を持って欧米に渡り、
多数の宗教者の賛同を得るなどして、東西宗教の相互理解を計ろうとしました。

この協会を通じて、国際的な精神運動を起こそうとしたのです。


成瀬仁蔵は、日本女子大学の創立者であり、
日本の女子高等教育の開拓者といわれます。

彼は、慶應義塾大学の福沢諭吉、同志社大学の新島襄とあわせて、
明治の三大教育者の一人とされていますが、あまり世に知られていません。

彼は、また牧師としての顔を持つ宗教者でもありました。

その信仰は、キリスト教のみにとらわれず、ニューソートや神智学にまで及んでいます。

日本女子大学の三綱領は、
「信念徹底」、「自発創生」、「共同奉仕」であり、

「宇宙に遍満するところの、微妙不可思議な至高至大の活力、
神聖な霊的生命という外に名づけようのない、実在の文化的発現たる人々の精神」
を前提として提唱された、宗教色の濃いものとなっています。


彼の講話録が残されていて、その思想がかいまみれます。

我々は引力、光、熱、電気、磁力等、フォース及びエーテルによって、
他の天体と密接な関係を結んでいるが、
宇宙の本体界における精神的関係を説明するためには、エーテルなどよりも、
なお一層微妙な仮説を立てなければならぬ。
つまり内在生命、精神的生命の本質は何であるかというと、
それを霊光(アストラル・ライト)と名づける。
アストラルとは、天ないし人間以上の世界を意味するのであるが、
その霊光の出来る原素は即ちライプニッツのいうモナドである。
モナドはあらゆる精神界の活動の本源であって、霊界はそのモナドの海洋なのである。
我々の精神の中にはこの霊光があって、肉体感覚によらない交通をすることが出来る。



このような教育者が日本にいたのは驚きです。




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末来は明るいと信じよう。

日々、良くなるしかないのだ、と信じよう。

希望をもとう。

強い信念は実現します。

明るい思考は、明るいものを引き寄せます。

病気や不幸は、確かにあります。

しかし、神仏は、その人が耐えられない試練は与えないと信じよう。

また、私達は、どうしても自分に自信が持てず、自分を責めてしまうことがあります。

しかし、自己嫌悪や自虐は、仏に対する罪です。

何故なら、私達は皆、仏の子であり、仏性を宿した存在だからです。

自分もまた、神仏に愛されている存在なのです。

自分を愛そう。そして、自分を褒めることも大切です。

自分を愛せないのに、他人を愛することはできません。

自分と他人と神仏を信じよう。

例え、地球上にどれほどの悪や悲惨や不幸があるように見えても、

神仏は地獄の底をも支え、長い目で見守っておられるのです。




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2008.04.27 如来蔵思想2
「若し苦集諦のところを知らざるありて、
『正法は常住あること無し、悉くこれ滅法なり』と言わん。
この因縁をもって、無量劫において生死に流転して諸の苦悩を受く。
もし能く法の常住不異なるを知らば、これを集を知ると名づけ、
集聖諦と名づく。もし人、かくの如く修習すること能わずんば、
これを名づけて、集と為す。集聖諦に非ず。」

「苦滅諦とは、もし多く空法を修習し学ぶことあれば、これを不善となす。
何をもっての故に。一切の法を滅するが故に。
一切法を滅するが故に、如来の真法蔵を壊るが故なり。
この修学をなすを、これを空を修すと名づく。
苦滅を修する者は一切の諸の外道に逆う。
もし空を修するを滅諦と言わば、
一切の外道もまた空法を修すれば、まさに滅諦あるべし。」

「もし説いて言うあらん。
『如来蔵あり、見るべからずと言えども、もし能く一切の煩悩を滅除すれば、
しかしてすなわち入ることを得ん』と。
もしこの心をおこす一念の因縁にて、諸法の中に自在を得ん。
もし如来の密蔵は無我空寂なりと修習するあらば、
かくの如きの人は無量世に於いて、生死の中に在って流転して苦を受く。
もしかくの如きの修をなさざるあらば、煩悩ありといえども、疾くよく滅除す。
何をもっての故に。如来の秘密蔵を知るによるが故なり。
これを苦滅聖諦と名づく。もし能くかくの如く滅を修習すれば、これ我が弟子なり。
もしかくの如き修をなすことあたわざることあらば、
これを修空と名づく。滅聖諦には非ず。」

「道聖諦とは、いわゆる仏法僧及び正解脱なり。諸の衆生あり。
転倒心にて仏法僧及び正解脱なし、生死流転、
なお幻化の如しと言い、この見を修習す。
この因縁をもって三有に輪転し、久しく大苦を受く。
もし能く発心して如来は常住無変なり、法僧解脱もまたかくの如しと見れば、
この一念に乗じて無量世に於いて自在の果報を意にしたがって得。」

[現代語訳]

「もし苦集諦の意味を知らない人がいて、
『正法というような常住なる存在は無い、ことごとく生滅し無常なのだ』
というならば、この因縁によって、その人は、長い間迷いの輪廻転生を重ねて、
さまざまな苦しみを受けることになります。
もし、実相(霊界)というのは常住で不変であり、
その上に幻のようなこの現象世界が顕れている、ということを知るならば、
これを集聖諦と名づけることが出来ます。
もし、このように世界を見ず、ただ愛欲葛藤の集まる世界だけを見ているのならば、
それは〈集〉を知っただけで、集聖諦とは言えないのです。」

「多くの空観を修し、学ぶだけでは、これは善なる行為にはなりません。
何故なら、この世の現象世界もあの世の実相も区別せず、
一切を空として滅し去ることになるからです。
如来の実相である真理の蔵、すなわち金剛不壊の仏性さえも、
空であるからとして、それを破壊してしまうからです。
一切を空として観ずることは、空を修すと言うのですが、
これを滅諦と言うのであれば、仏法以外を信仰する行者の空観も、
滅諦と言わなければなりません。
真に苦を滅する苦滅諦を修する者は、
一切の諸の外道の修法とは逆になるのです。」

「もし誰でもあれ、
『人間は、如来蔵といって、内部に如来を蔵しているのであって、
それは肉眼では見えないが、もしよく努めて一切の煩悩を滅し除くならば、
その如来蔵に達して、その秘密の蔵を開くことが出来るのだ』
という心をおこすならば、その因縁によって、その人は、
どのような世界にあっても自由自在の境地を得ることが出来ます。
ところがもし、如来の秘密の蔵とは、結局、無我であって、
虚無であるということ修行するのならば、このような人は、
実相の仏性を否定することになるので、迷いの輪廻転生を繰り返し、
苦しみを受けることになります。
もしこのような外道の修行をせずに、如来の秘密の蔵を開いて、
仏性は永遠不滅であることを知るならば、
たとえ煩悩があっても、それはすみやかに滅してしまうのです。
これこそ苦滅聖諦と名づけるものであって、
このような滅諦を修行する者が、私の仏弟子であるが、
このように修せず、もし単に空を修するだけならば、
それは修空と名づけるものであって、滅聖諦ではありません。」

「道聖諦とは、苦を滅する悟りに入る神聖な道であり、
仏法僧の三宝と、それを縁とする正しい解脱のことであります。
しかしながら、人々は、有るものを無いとする逆さまの心を起こして、
仏法僧も正解脱も、虚しく消え去るもので、生死流転する我々の姿も、
結局、夢や幻のようなものにすぎない、といって空観の修行をします。
この真理を知らないという因縁によって、
欲界・色界・無色界の迷いの世界を流転して、
長い間、大いなる苦しみを受けることになります。
しかしながら、如来は常住であって変化しない金剛不壊の存在であり、
仏法僧や正解脱も、また常住不変の実相のあらわれであるということを知るならば、
この一念に乗じて、永世の世代を通じて、
思うがままに、自在無碍の果報を得ることが出来るのです。」


「涅槃経」




このように、お釈迦さまは、
聖なる悟りの方法である、苦集滅道の四聖諦を説かれたのでした。




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2008.04.27 如来蔵思想1
お釈迦さまの最後の法が説かれている「大乗涅槃経」には、

人間は、如来蔵という如来の種子を宿していること、
また人間には、金剛不壊の仏性があるということ、
このことを知らないで、単に無我や空法を修行することの危険性が説かれています。

無我や空ということに捉われて、
永遠の魂、真我をも否定してしまうと、単なる虚無主義になってしまうのです。

如来という語は、釈尊自身のことであると同時に、
私達すべての人間の実相を指しているのです。

ここは非常に大切なところなのです。




佛、また迦葉に告げたまわく、
「言う所の苦とは、苦聖諦と名づけず。何をもっての故に。
もし、苦聖諦と言わば、一切の畜生及び地獄の衆生、まさに聖諦あるべし。
善男子、もしまた、人ありて、如来の甚深の境界、常住不変、
微密法身を知らずして、『これ食身、これ法身に非ず』という。
如来の道徳、威力を知らず、これをなづけて苦となす。何をもっての故に。
不知をもっての故に。法を非法と見、非法を法と見る。
まさに知るべし、この人は必ず悪趣に堕し、
生死に輪転し、諸結を増長し、多く苦悩を受けん。
もし能く、如来常住変異あること無きを知り、或いは常住の二字、音声を聞くありて、
もし人たび耳を経ばすなわち天上に生ぜん。
後、解脱の時、すなわち能く如来常住にして変易あること無きを證知す。
すでに、證知しおわりてこの言をなさく、
『我、往昔においてかつてこの義を聞く。今解脱を得てまさにすなわち證知す。
我、本際において不知をもっての故に、生死に流転して周廻きわまりなし。
今日に始めてすなわち真智を得』と。
もしかくの如く知らば、真にこれ苦を修す、利益する所多し。
もし知らざる者はまた勤修すといえども、利益する所なし。
これを苦を知るとなづけ、苦聖諦と名づく。
もし、人かくの如く修習することあたわざれば、
これを名づけて苦となす。苦聖諦に非ず。」

[現代語訳]

お釈迦さまは、弟子の迦葉に言われました。
「世間で言うところの〈苦〉というのは苦聖諦と名づけるものではありません。
その〈苦〉を苦聖諦だと言うならば、
畜生界や地獄界で苦しみを受けている者が、苦聖諦を得たということになります。
善男子よ、誰もが皆、内なる仏性が輝いていることや、
常住不変で霊妙な法身がそなわっていることを知らないで、
肉眼で見えるこの身体だけを見て、
『如来といえども、食べ物の成分によって出来た物質の体にすぎない』などと言うのです。
また、如来の高徳や神通力を知らずに、これを単なる苦しみに満ちた身体だ言います。
こう言うのは、無智によるものです。何故ならば、
存在するものを存在しないと見て、非存在のものを存在すると見ているからです。
これらの人は、本来存在しない肉体に執着をつくり、地獄界などの悪い境界に流転し、
煩悩を増長させ、多くの苦しみを受けることになってしまいます。
しかし、如来の実相が常住であって、不滅の魂であることを知ること、
如来常住の常住の二字を音声によって聞くこと、によって大きな功徳があるのです。
常住の二字が耳を通過するだけでも、その人は天上界に帰れるほどです。
そして、その後悟りを得て、いよいよ如来が常住で不滅であることを知り、
無常ではなかったと、知ることになります。
そして、その人はこう言うのです。
『私は昔、如来常住の真理を聞いたことがありましたが、
今解脱を得て、まさに如来常住の真理を体得しました。
私は今までこの現象界にあって、無智のせいで、
迷いの輪廻転生の中で苦しみを受けてきましたが、
今こそ真の智慧を得ることができました』と。
こうして、無常にして苦なる境涯を越えて、如来常住の悟りに入ることができるならば、
これこそ、苦諦を修行したことになるのであり、利益も多いのです。
このことを本当の〈苦〉を知るとなづけ、苦聖諦と言うのです。
魂の不滅を悟る道程としての〈苦〉があらわれていることを知らない者は、
どのように〈苦〉を感じても、何の利益もないのです。
このような苦しみは、ただの〈苦〉であって、苦聖諦と言うべきではありません。」





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今日生れてはじめて、ニコニコ動画にコメントしました。

しかし、タイミングを間違えてしまいました。

ニコニコ動画はタイミングが命ですね。(何の話をしているのでしょうか?)


今日感じたこと ― 娯楽や芸術は、ゆとりがなければ楽しめない。




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哲学や思想、古い宗教が、袋小路に陥っている現在、

今後可能性があるのはスピリチュアルであり、

実際に今一番元気で、輝きを放っているのが、この分野です。

何故なら、
あらゆる分野に結びつき、それぞれに新たな生命を与えることが出来るからです。

科学と霊性、宗教と霊性、哲学と霊性、政治経済と霊性、医学と霊性。

スピリチュアル批判をするのは、もはや時代遅れだといえます。

ニューエイジ時代に突入です。


僧侶も乗り遅れないようにしましょう。




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姉崎正治は、
東京帝国大学宗教学の初代教授であり、日本宗教学の祖ともいわれます。
 
姉崎氏は、宗教学者というだけではなく、
貴族院議員、国際連盟委員等でも活躍しました。

また、
明治維新を支えた国民精神の衰退を危惧して結成された、
「帰一協会」の中心的存在として、国民教化にあたります。

この協会は、実業家渋沢栄一氏の支援を受けて、
国民道徳を養う何らかの新宗教を模索するために、
指導的な知識人、宗教家、財界人などを集めて結成された研究団体でありました。

ここで彼は、人間を超越する偉大なものの存在を信じ、
それに対する畏敬の念に、万教の帰一を探ろうとしました。

彼の主張は、

人間心霊の無盡なる価値を発揮する、

人類生活の感応結合に依って、人性の醇化を成就する、

一切生存の根底に神霊あるを信じ、人心人生に於ける神霊の開発を人生の帰趣とする、

個人各自の心霊が、不朽の生命を存し、無盡の価値を蓄へて居る事を信ずる、


というものです。

彼はまた、仏教徒でもありました。
弟子には、増谷文雄、岸本英夫らがいます。


現代の宗教学者は、宗教を信じない立場で宗教を分析するのに対し、
宗教学の祖は、確固たる信仰を持ち、そして国民教化に尽力したのです。




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2008.04.26 汎神論の祖
スピノザは、17世紀のオランダの哲学者です。

スピノザは、高等教育を受けておらず、
在野の哲学者として執筆活動に専念する生涯をおくりました。

大学の教授職に要請されますが、
思索の自由を選び、辞退しています。

彼は、レンズ磨きで生計をたてていたようです。


スピノザ哲学は、自然は神である、という汎神論が特徴で、
ユダヤ教や聖書の神概念を批判し、
人格神は人間の理解力に応じたものにすぎないとして、大変な物議をかもしました。

当時は、神を批判するなどということは許されないことであり、
それほど、神の権威は絶大だったのです。

スピノザの思想は、

神は、独立して存在するのではなく、あらゆるものに内在している。

すべては、神の内にあり、神こそ唯一の実在である。

われわれもまた、無限の神の愛の内に包摂されている存在である。


というものです。

スピノザは汎神論の先駆者であり、
後のフィヒテやヘーゲル、ゲーテの思想などにも影響を与えています。

著書に「神学・政治論」、「国家論」、「エチカ」などがあります。

彼の思想は、どことなく、仏教にも似ているようですが、
それもそのはず、スピノザは過去世に、
釈迦十大弟子、多聞第一の阿難として生れているのです。




精神は身体と、自らがその観念であるところの身体と、合一することも出来るし、
また精神は神と、自らが存在するにも理解されるにも欠くことのできない神と、
合一することが出来る。

精神は、不変であり、かつ不変に止まるところの神と合一するのであるから、
精神もまた、不滅であらなければならない。


「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」



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