僧侶のたくらみ

仏教とニューエイジの対話を推進するべく、 こっそりと活動中

神はダルマ

あらためて今日は、

仏陀の説く法こそが、神の光なのだという認識を持ちました。

神を、教えという形で、示してくださっているのが仏陀なのです。

神を、目で見ようとしても、五感で感じようとしても、想像してみても無駄なのでした。

仏陀の説く法に従い生きることが、神の下に生きることです。

仏法を行じることで、神を知ることになるのです。


神仏の光がさしてこないのは、愚僧の側が蓋をしていたからなのでした。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

パラダイムシフト

「神は死んだ」と叫ばれた、20世紀は、
退廃的、虚無的、デカダンスな生き方がもてはやされ、

近年は、健全、ポジティブ、スピリチュアル、LOHASな生き方が求められています。

この風潮は、人間本来のあり方に戻りつつある兆しだと言えるでしょう。

もはや、人々を堕落させ、悲観的にさせる哲学や思想は流行りません。

20世紀は、科学技術は高度に発達しましたが、
思想信条においては、退歩して逆行現象を示しているのです。



パラダイムシフトを起こしましょう。

それは、人口の一定の割合を超えると起こります。

宇宙は、愛や無限のエネルギーで満たされていて、
人間には、永遠の生命や無限の可能性が与えられている、
ということが、常識となるのです。

人々に意識変革が起こると、地球もまた輝きに包まれ、愛の星となるでしょう。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

信仰の哲学者

セーレン・キルケゴールは、19世紀のデンマークの哲学者です。

コペンハーゲン大学神学部に入学、牧師への道を志しますが、
しだいに、哲学に興味が移り、ソクラテス、ゲーテ、ヘーゲルなどの研究を行います。

彼は、宗教的苦悩の解決を哲学的真理に求めますが、
ヘーゲル哲学などの理念や概念によるのではなく、
実存する個々の人間の苦悩の解決のための哲学を模索したのです。

42才の若さで急逝するまで、公職につくことなく著述活動に専念し、
膨大な著作を遺しました。彼は、生涯独身でありました。

その著書には、
世俗的領域にかかわる美的著書と、
信仰の問題にかかわる宗教的著書とに分類されますが、
彼の本意は宗教的著書にありました。

彼の思想は、
人間は、美的実存・倫理的実存・宗教的実存という三段階にわたって成長し、
宗教的実存に至って初めて安楽がおとずれ、自分の魂と神は接することが出来る、
というものでした。

ハイデッガー、ヤスパース、サルトルなどの、後の実存哲学者に影響を与えています。


彼は、キリスト教の信仰形態を批判しましたが、
真摯に神を信じたキリスト者であったのです。




一切の抽象物は神の前には全然存在しない。
ただ個体的な人間のみが、ただ個体的な罪人のみが、
キリストにおいてある神の前に生きているのである。
しかも神はよく全体に心をくばることができる。
だいたい神は雀の世話までもすることができるのである。
神は一般に秩序の友である。
そしてこの目的のために神自身はあらゆる場所に、
あらゆる瞬間に現在しているのである。
神は偏在者である。
神の概念は、人間の概念のようなものではない。神の概念は一切を包括する。
また別の意味では神はいかなる概念をももっていない。
神は略語の助けを借りる必要がない。
神は現実そのもの、すなわち一切の固体を把握している。


「死に至る病」




キルケゴール哲学と仏教の類似性がよく指摘されますが、
彼の過去世は、インドの大乗仏教唯識派の大成者、無着だったのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。 

PageTop

四摂法

仏教では、人々に愛を施す際に、
具体的にどのようにすれば良いのか、ということが説かれます。

人々を救済しようと思っても、相手をこちら側に向けさせなければなりません。
相手が喜んで、集まってくるようであらなければならないのです。

そこで、考案されたのが、四摂法というものです。

摂というのは、摂取する、取り込むという意味であり、
人々を仏道に引き入れて、幸福へと導くためなのです。


一、布施  
物資や金銭、食べ物などを施す。法を説いて、喜びを施す。

二、愛語  
愛情のこもった優しい言葉をかける。 

三、利行  
体、言葉、心を用いて、相手の利益になるような善行をする。

四、同事  
相手の悩み、感情、心を理解し、自分のこととして対応する。
  


このような愛行によって、自分もまた幸福になるのです。
愛の行為は、自分と他人が一体となっていく道なのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

仏教と霊魂

西洋流唯物論を取り入れた無我解釈を施し進歩的な宗教だとアピールした日本仏教。

いまや時代遅れの文化遺産となりつつある。

仏教界から発信される有益な情報は、皆無。

僧侶は、読経職人、墓管理人とさえ呼ばれている。

時代の趨勢とはいえ、悲しいことである。

仏教界は閉じた社会になってしまった。

仏教界最大のボトルネックは、霊魂問題。

プライドなど捨て、スピリチュアル路線にシフトしよう!

愚僧も精進します。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

群盲の比喩

お釈迦さまは、間違った見解を持つものが、
法(神)についてあれこれ推測しても真理に到達することはない、
ということを、「群盲象を撫でる」という例え話で明らかにされています。




その時、釈尊は、比丘たちに言われた。

昔々、鏡面という名の王がいた。
ある時、生まれながらの盲人たちを一箇所に集めて、告げた、
「お前たち、生れながらの盲人よ。象が分かるか」
すると、答えた、
「大王よ。私には見分けもつかず、存じてもおりません」
王は再度告げた、
「お前たちは、それがどのようなものかを知りたいか」
答えた、
「知りたいと思います」
そこで、王はただちに侍者に命じて、象を引いて来させ、
盲人たちに、自分の手で象を撫でさせた。
その中には、象を撫でようとして鼻を探り当てた者がいたが、王は、
「これが象なのだ」と言った。
また象を撫でようとしてその牙を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその耳を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその頭を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその背を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその腹を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその腿を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてそのふくらはぎを探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその足跡を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその尾を探り当てた者もいたが、
王はすべて、
「これが象なのだ」と言った。
さて、鏡面王は、その象を退け、盲人にたずねた、
「象はどのようであったか」
その盲人たちのうち、象の鼻を探り当てた者は、「象は曲がった轅のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の牙を探り当てた者は、「象は杵のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の耳を探り当てた者は、「象は箕のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の頭を探り当てた者は、「象は鼎のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の背を探り当てた者は、「象は小山のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の腹を探り当てた者は、「象は壁ようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の腿を探り当てた者は、「象は木のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象のふくらはぎを探り当てた者は、「象は柱のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の足跡を探り当てた者は、「象は臼のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の尾を探り当てた者は、「象は組みひものようでした」と言った。
そして、それぞれ言い争い、互いに議論しあい、こちらがこうだと言えば、
あちらがそうでないと言い、やむことなくあれこれ言って、ついにとっ組み合いになった。
すると、王はこれを見て、喜び大笑いした。
それから、王はすぐさま偈を説いた。

「盲人たちが群がって、ここで言い争いをしている。
象自身はもともと一つの体なのに、
思い描いたものが多様なので、議論が起こったのだ」


仏が比丘に告げられた。

「仏道以外の異端者たちも、やはりこれと同様なのである。
苦諦を理解せず、集諦・滅諦・道諦を理解しないで、
それぞれ多様な誤った見解を起こし、互いに議論しあっている。
自分を正しいと思い込むから、言い争いを起こすのである。」


長阿含経典「世記経」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

地湧の菩薩

宮沢賢治は、敬虔な仏教徒でありました。

優れた詩や童話作品などで、親しまれる宮沢賢治ですが、
その人生や信仰についてはあまり知られていません。

彼は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学、
自然科学を学びます。そのころに、「法華経」と出会い、
日蓮宗の信者となって熱心な宗教活動を行うようになります。
東京に出て、日蓮主義の「国柱会」にも参加しています。

東京から帰った後には、花巻農学校の教師となりますが、
その変わった授業が評価されず、教職を去ることとなります。

その後は、「羅須地人協会」と自ら名づけた小さな家で、
農業と芸術の一体化による新しい村づくり、農業指導に励みます。
その後も、石灰肥料を普及する指導員となって働きますが、
激務によって体調を崩し、37才という若さで、独身のままこの世を去ります。
遺言では、「法華経」を千部配るように言い残しました。

評価が高まって国民的作家となったのは、没後のことです。


あまり知られていませんが、宮沢賢治は霊能力者でもあったのです。
生前に知人に語ったことばが残されています。

「僕はもう何べんか早池峰山に登りました。
あの山には、御承知かも知れませんが早池峯の七不思議というのがありまして、
その一つに河原の坊という所があります。
早池峯の登山口で裾野をのぼりつめたところの岳川という、
岩をかむ清流の岸辺にありまして、言い伝えでは何でも何百年か以前に、
天台宗の大きな寺のあった跡で、修行僧も大勢集まっていて、
随分盛んなものだったということです。そこでは今も朝の小暗い黎明時に、
ひょっとするとしんしんと読経の声が聞えて来ると噂されております。
先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが、
ふと山の方から手に錫杖を突き鳴らし、
眉毛の長く白い見るからに清清しい高僧が下りて来ました。
その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが、
その御坊さんにあったのは、何でも七百年ばかり前のようでしたよ。」

「僕は妹のとし子が亡くなってから、いつも妹を思ってやすむ前には必ず読経し、
ずっと仏壇のそばに寝起きしているのだが、
この間いつものように一心に御経を読んでからやすむと、
枕辺にとし子の姿がありありと現れたので、
すぐ起きてまた御経を上げていると見えなくなった。
次の晩もやはり姿が見え、二晩だけであとは見えなかった。
人間というものは、死んでからまた別の姿になってどこかに生を受けるものらしい。」


「宮沢賢治」佐藤隆房著

宮沢賢治は、
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として、
無私の精神で他者への献身につとめた、菩薩でありました。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

奇蹟の時代

世界を救う為に、仏陀が現れている。

空前絶後の、世界規模の救済運動が起きている。

信じられる人は、幸いです。

現代の仏陀は、アメリカ人にも、英語で法を説く。

私は、イエスが「我が父」と呼んだ存在だと、

我を信ぜよ、そして、この法を広めよ、と。

奇蹟であります。

僧侶も、一刻も早く目覚めましょう。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

心の力

幸せは、見つけ出し、育むことが出来ます。

幸せとは、心の状態です。
外側の出来事をどう解釈し、内面でどのように受け止めるかによって決ります。

幸せは、あらゆる所に見つかります。
実は、身のまわりに良いものはたくさん溢れています。
それらに焦点をあて感謝すると、ますます幸せを呼び込むようになります。

あらゆる出来事が、幸福の種となります。
すべては魂の成長のため、と受け止めると、すべてが学びになります。
その経験を通して、心が鍛えられます。

心には、人生を変えるものすごい力があります。
幸・不幸をつくっているのも心です。
釈尊が繰り返し、『諸の事象は皆、心を先とし、心を主とし、心により生じる』
と、説かれたように、心こそがあらゆる問題を解決する力を持つのです。

私達は、幸福になるために生れてきたのだし、
その鍵は誰にでも、神様から心の力として与えられているのです。

愚僧もまた、皆様の幸せのために、精進します。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

合理主義の弊害

私達の世紀は知性の際立った時代でした。
いつのまにか、知らないものは存在しないという傲慢な態度が身についています。

科学で証明されえないものを信じる宗教者や神秘主義者は、
まるで危険人物か、知性が劣っているかのような扱いです。

しかしこの時代の風潮は、根拠のあるものではありません。

二十世紀最高の知性の一人、アインシュタインは、

わたしたちがもち得る最高の感情とは神秘的な感情だ。
そこにすべての芸術、すべての科学的事実の芽がある、
真の宗教的な感情の核心だ。
その意味で、そしてその意味においてのみ、
私は自分を非常に宗教的な人間だと思っている。


と言っています。

知性の先にあるもの、あらゆるものの根源は神なのです。

わが国では、いつのまにか、宗教が公教育から排除され、
崇高なるもの、聖なるものに対する畏怖の感情が持てなくなっています。

大人達は、何故生きるのか?何故いのちは尊いのか?
という問いに答えることが出来なくなりました。

悲しいかな、僧侶でさえも無神論者になってしまいました。


ユングはこの危機的状況に警告を発しています。

現代の人間は、自分の合理主義のせいで、
どれほど心理的な地下の世界に振り回されているかを理解していない。
迷信(あるいは当人がそう信じている)から自由にはなったが、
その途中で、危険なまでに自分のスピリチュアルな価値を失ってしまった。
モラルとスピリチュアルな伝統は分解し、
その代償として現代人は、世界的な方向性の喪失と解離を経験している。


スピリチュアルの浸透こそ急務なのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

宇宙意識

カナダの医師、リチャード・モーリス・バックは、
1901年に、精神世界の古典と言われる「宇宙意識」を著しました。

この本では、
自らの神秘体験に基づいた意識研究によって、
霊的知覚能力が高度に発達した段階である宇宙意識という概念が述べられています。

宇宙意識とは、通常の意識より高次な意識形態のことで、

仏陀、イエス、マホメット、プロティノス、ダンテ、パウロ、
フランシス・ベーコン、ヤコブ・ベーメ、バルザック、ホイットマン、

といった方々が覚醒した境地であるとされています。

バックは、
これらの人物は皆、同じ事実を発見したのであり、
同じ源からの啓示を受けて、同じ道を歩んでいる私達の先輩である、と認識しました。
そして、人類は皆、宇宙意識に向けて進化していくのであり、
時代を経るにしたがって、宇宙意識に到達する人数も増加するだろうと予測しています。

また、
「私は、ベーメの教えと、東洋の秘教や宗教書の中に書かれている、
東洋の賢者の教えを注意深く比較した結果、それらの深遠な意味の中に、
それらの間の最も驚くべき調和を見出している。
実際、仏陀、クリシュナ、キリストの宗教は、私には全く同じもののように思われる。」

という、哲学者ハルトマンの言葉を引いて、
複数の宗教を知っている人で偏見の無い人は、
偉大な信仰は同胞姉妹であることを認めている、と主張しています。


宗教に共通する霊性に目を向けた点や、
霊的進化を説く点などは、
ニューエイジ思想の先駆でもありました。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

十二部経

お釈迦さまは、
人々の霊的レベルや、時期の熟する程度に応じて、いろいろな教えを説かれました。
その教えは大まかに、十二の種類に分けられ、十二部経と呼ばれています。
小乗経も大乗経もこの中に、含有されているのです。


一、修多羅(しゅたら)・・・直接的に真理の中心教義が説かれたもの

二、祇夜(ぎや)・・・偈を重ねて、経の意義を補足し、強調したもの

三、受記(じゅき)・・・仏弟子の来世を予言したもの

四、伽陀(ぎゃた)・・・最初から偈、韻文で説かれたもの

五、優陀那(うだあな)・・・仏弟子の問いを受けずに、釈尊が自ら進んで説法したもの

六、尼陀那(にだあな)・・・経や律の由来や、因縁について説かれたもの

七、阿波陀那(あばだあな)・・・譬喩をもって説かれたもの

八、伊帝目多迦(いてもくたか)・・・仏弟子の過去世について説かれたもの

九、闍陀迦(じゃあたか)・・・釈尊の様々な生まれ変わりの詳細が説かれたもの

十、比佛略(びぶりゃ)・・・広大で平等な大乗の教えが説かれたもの

十一、阿浮陀達磨(あぶうだだるま)・・・奇蹟や神秘的な事象について説かれたもの

十二、優婆提舎(うばだいしゃ)・・・論議をつくして解説されたもの





クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

霊的なる教育者

明治45年に結成された思想界の統一運動である、
「帰一協会」の中心人物に成瀬仁蔵がいます。

彼は、この帰一教会の綱領を持って欧米に渡り、
多数の宗教者の賛同を得るなどして、東西宗教の相互理解を計ろうとしました。

この協会を通じて、国際的な精神運動を起こそうとしたのです。


成瀬仁蔵は、日本女子大学の創立者であり、
日本の女子高等教育の開拓者といわれます。

彼は、慶應義塾大学の福沢諭吉、同志社大学の新島襄とあわせて、
明治の三大教育者の一人とされていますが、あまり世に知られていません。

彼は、また牧師としての顔を持つ宗教者でもありました。

その信仰は、キリスト教のみにとらわれず、ニューソートや神智学にまで及んでいます。

日本女子大学の三綱領は、
「信念徹底」、「自発創生」、「共同奉仕」であり、

「宇宙に遍満するところの、微妙不可思議な至高至大の活力、
神聖な霊的生命という外に名づけようのない、実在の文化的発現たる人々の精神」
を前提として提唱された、宗教色の濃いものとなっています。


彼の講話録が残されていて、その思想がかいまみれます。

我々は引力、光、熱、電気、磁力等、フォース及びエーテルによって、
他の天体と密接な関係を結んでいるが、
宇宙の本体界における精神的関係を説明するためには、エーテルなどよりも、
なお一層微妙な仮説を立てなければならぬ。
つまり内在生命、精神的生命の本質は何であるかというと、
それを霊光(アストラル・ライト)と名づける。
アストラルとは、天ないし人間以上の世界を意味するのであるが、
その霊光の出来る原素は即ちライプニッツのいうモナドである。
モナドはあらゆる精神界の活動の本源であって、霊界はそのモナドの海洋なのである。
我々の精神の中にはこの霊光があって、肉体感覚によらない交通をすることが出来る。



このような教育者が日本にいたのは驚きです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

信じるということ

末来は明るいと信じよう。

日々、良くなるしかないのだ、と信じよう。

希望をもとう。

強い信念は実現します。

明るい思考は、明るいものを引き寄せます。

病気や不幸は、確かにあります。

しかし、神仏は、その人が耐えられない試練は与えないと信じよう。

また、私達は、どうしても自分に自信が持てず、自分を責めてしまうことがあります。

しかし、自己嫌悪や自虐は、仏に対する罪です。

何故なら、私達は皆、仏の子であり、仏性を宿した存在だからです。

自分もまた、神仏に愛されている存在なのです。

自分を愛そう。そして、自分を褒めることも大切です。

自分を愛せないのに、他人を愛することはできません。

自分と他人と神仏を信じよう。

例え、地球上にどれほどの悪や悲惨や不幸があるように見えても、

神仏は地獄の底をも支え、長い目で見守っておられるのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

如来蔵思想2

「若し苦集諦のところを知らざるありて、
『正法は常住あること無し、悉くこれ滅法なり』と言わん。
この因縁をもって、無量劫において生死に流転して諸の苦悩を受く。
もし能く法の常住不異なるを知らば、これを集を知ると名づけ、
集聖諦と名づく。もし人、かくの如く修習すること能わずんば、
これを名づけて、集と為す。集聖諦に非ず。」

「苦滅諦とは、もし多く空法を修習し学ぶことあれば、これを不善となす。
何をもっての故に。一切の法を滅するが故に。
一切法を滅するが故に、如来の真法蔵を壊るが故なり。
この修学をなすを、これを空を修すと名づく。
苦滅を修する者は一切の諸の外道に逆う。
もし空を修するを滅諦と言わば、
一切の外道もまた空法を修すれば、まさに滅諦あるべし。」

「もし説いて言うあらん。
『如来蔵あり、見るべからずと言えども、もし能く一切の煩悩を滅除すれば、
しかしてすなわち入ることを得ん』と。
もしこの心をおこす一念の因縁にて、諸法の中に自在を得ん。
もし如来の密蔵は無我空寂なりと修習するあらば、
かくの如きの人は無量世に於いて、生死の中に在って流転して苦を受く。
もしかくの如きの修をなさざるあらば、煩悩ありといえども、疾くよく滅除す。
何をもっての故に。如来の秘密蔵を知るによるが故なり。
これを苦滅聖諦と名づく。もし能くかくの如く滅を修習すれば、これ我が弟子なり。
もしかくの如き修をなすことあたわざることあらば、
これを修空と名づく。滅聖諦には非ず。」

「道聖諦とは、いわゆる仏法僧及び正解脱なり。諸の衆生あり。
転倒心にて仏法僧及び正解脱なし、生死流転、
なお幻化の如しと言い、この見を修習す。
この因縁をもって三有に輪転し、久しく大苦を受く。
もし能く発心して如来は常住無変なり、法僧解脱もまたかくの如しと見れば、
この一念に乗じて無量世に於いて自在の果報を意にしたがって得。」

[現代語訳]

「もし苦集諦の意味を知らない人がいて、
『正法というような常住なる存在は無い、ことごとく生滅し無常なのだ』
というならば、この因縁によって、その人は、長い間迷いの輪廻転生を重ねて、
さまざまな苦しみを受けることになります。
もし、実相(霊界)というのは常住で不変であり、
その上に幻のようなこの現象世界が顕れている、ということを知るならば、
これを集聖諦と名づけることが出来ます。
もし、このように世界を見ず、ただ愛欲葛藤の集まる世界だけを見ているのならば、
それは〈集〉を知っただけで、集聖諦とは言えないのです。」

「多くの空観を修し、学ぶだけでは、これは善なる行為にはなりません。
何故なら、この世の現象世界もあの世の実相も区別せず、
一切を空として滅し去ることになるからです。
如来の実相である真理の蔵、すなわち金剛不壊の仏性さえも、
空であるからとして、それを破壊してしまうからです。
一切を空として観ずることは、空を修すと言うのですが、
これを滅諦と言うのであれば、仏法以外を信仰する行者の空観も、
滅諦と言わなければなりません。
真に苦を滅する苦滅諦を修する者は、
一切の諸の外道の修法とは逆になるのです。」

「もし誰でもあれ、
『人間は、如来蔵といって、内部に如来を蔵しているのであって、
それは肉眼では見えないが、もしよく努めて一切の煩悩を滅し除くならば、
その如来蔵に達して、その秘密の蔵を開くことが出来るのだ』
という心をおこすならば、その因縁によって、その人は、
どのような世界にあっても自由自在の境地を得ることが出来ます。
ところがもし、如来の秘密の蔵とは、結局、無我であって、
虚無であるということ修行するのならば、このような人は、
実相の仏性を否定することになるので、迷いの輪廻転生を繰り返し、
苦しみを受けることになります。
もしこのような外道の修行をせずに、如来の秘密の蔵を開いて、
仏性は永遠不滅であることを知るならば、
たとえ煩悩があっても、それはすみやかに滅してしまうのです。
これこそ苦滅聖諦と名づけるものであって、
このような滅諦を修行する者が、私の仏弟子であるが、
このように修せず、もし単に空を修するだけならば、
それは修空と名づけるものであって、滅聖諦ではありません。」

「道聖諦とは、苦を滅する悟りに入る神聖な道であり、
仏法僧の三宝と、それを縁とする正しい解脱のことであります。
しかしながら、人々は、有るものを無いとする逆さまの心を起こして、
仏法僧も正解脱も、虚しく消え去るもので、生死流転する我々の姿も、
結局、夢や幻のようなものにすぎない、といって空観の修行をします。
この真理を知らないという因縁によって、
欲界・色界・無色界の迷いの世界を流転して、
長い間、大いなる苦しみを受けることになります。
しかしながら、如来は常住であって変化しない金剛不壊の存在であり、
仏法僧や正解脱も、また常住不変の実相のあらわれであるということを知るならば、
この一念に乗じて、永世の世代を通じて、
思うがままに、自在無碍の果報を得ることが出来るのです。」


「涅槃経」




このように、お釈迦さまは、
聖なる悟りの方法である、苦集滅道の四聖諦を説かれたのでした。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

如来蔵思想1

お釈迦さまの最後の法が説かれている「大乗涅槃経」には、

人間は、如来蔵という如来の種子を宿していること、
また人間には、金剛不壊の仏性があるということ、
このことを知らないで、単に無我や空法を修行することの危険性が説かれています。

無我や空ということに捉われて、
永遠の魂、真我をも否定してしまうと、単なる虚無主義になってしまうのです。

如来という語は、釈尊自身のことであると同時に、
私達すべての人間の実相を指しているのです。

ここは非常に大切なところなのです。




佛、また迦葉に告げたまわく、
「言う所の苦とは、苦聖諦と名づけず。何をもっての故に。
もし、苦聖諦と言わば、一切の畜生及び地獄の衆生、まさに聖諦あるべし。
善男子、もしまた、人ありて、如来の甚深の境界、常住不変、
微密法身を知らずして、『これ食身、これ法身に非ず』という。
如来の道徳、威力を知らず、これをなづけて苦となす。何をもっての故に。
不知をもっての故に。法を非法と見、非法を法と見る。
まさに知るべし、この人は必ず悪趣に堕し、
生死に輪転し、諸結を増長し、多く苦悩を受けん。
もし能く、如来常住変異あること無きを知り、或いは常住の二字、音声を聞くありて、
もし人たび耳を経ばすなわち天上に生ぜん。
後、解脱の時、すなわち能く如来常住にして変易あること無きを證知す。
すでに、證知しおわりてこの言をなさく、
『我、往昔においてかつてこの義を聞く。今解脱を得てまさにすなわち證知す。
我、本際において不知をもっての故に、生死に流転して周廻きわまりなし。
今日に始めてすなわち真智を得』と。
もしかくの如く知らば、真にこれ苦を修す、利益する所多し。
もし知らざる者はまた勤修すといえども、利益する所なし。
これを苦を知るとなづけ、苦聖諦と名づく。
もし、人かくの如く修習することあたわざれば、
これを名づけて苦となす。苦聖諦に非ず。」

[現代語訳]

お釈迦さまは、弟子の迦葉に言われました。
「世間で言うところの〈苦〉というのは苦聖諦と名づけるものではありません。
その〈苦〉を苦聖諦だと言うならば、
畜生界や地獄界で苦しみを受けている者が、苦聖諦を得たということになります。
善男子よ、誰もが皆、内なる仏性が輝いていることや、
常住不変で霊妙な法身がそなわっていることを知らないで、
肉眼で見えるこの身体だけを見て、
『如来といえども、食べ物の成分によって出来た物質の体にすぎない』などと言うのです。
また、如来の高徳や神通力を知らずに、これを単なる苦しみに満ちた身体だ言います。
こう言うのは、無智によるものです。何故ならば、
存在するものを存在しないと見て、非存在のものを存在すると見ているからです。
これらの人は、本来存在しない肉体に執着をつくり、地獄界などの悪い境界に流転し、
煩悩を増長させ、多くの苦しみを受けることになってしまいます。
しかし、如来の実相が常住であって、不滅の魂であることを知ること、
如来常住の常住の二字を音声によって聞くこと、によって大きな功徳があるのです。
常住の二字が耳を通過するだけでも、その人は天上界に帰れるほどです。
そして、その後悟りを得て、いよいよ如来が常住で不滅であることを知り、
無常ではなかったと、知ることになります。
そして、その人はこう言うのです。
『私は昔、如来常住の真理を聞いたことがありましたが、
今解脱を得て、まさに如来常住の真理を体得しました。
私は今までこの現象界にあって、無智のせいで、
迷いの輪廻転生の中で苦しみを受けてきましたが、
今こそ真の智慧を得ることができました』と。
こうして、無常にして苦なる境涯を越えて、如来常住の悟りに入ることができるならば、
これこそ、苦諦を修行したことになるのであり、利益も多いのです。
このことを本当の〈苦〉を知るとなづけ、苦聖諦と言うのです。
魂の不滅を悟る道程としての〈苦〉があらわれていることを知らない者は、
どのように〈苦〉を感じても、何の利益もないのです。
このような苦しみは、ただの〈苦〉であって、苦聖諦と言うべきではありません。」





クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

どうでもいい話

今日生れてはじめて、ニコニコ動画にコメントしました。

しかし、タイミングを間違えてしまいました。

ニコニコ動画はタイミングが命ですね。(何の話をしているのでしょうか?)


今日感じたこと ― 娯楽や芸術は、ゆとりがなければ楽しめない。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

スピリチュアル界は大盛況!

哲学や思想、古い宗教が、袋小路に陥っている現在、

今後可能性があるのはスピリチュアルであり、

実際に今一番元気で、輝きを放っているのが、この分野です。

何故なら、
あらゆる分野に結びつき、それぞれに新たな生命を与えることが出来るからです。

科学と霊性、宗教と霊性、哲学と霊性、政治経済と霊性、医学と霊性。

スピリチュアル批判をするのは、もはや時代遅れだといえます。

ニューエイジ時代に突入です。


僧侶も乗り遅れないようにしましょう。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

日本宗教学の祖

姉崎正治は、
東京帝国大学宗教学の初代教授であり、日本宗教学の祖ともいわれます。
 
姉崎氏は、宗教学者というだけではなく、
貴族院議員、国際連盟委員等でも活躍しました。

また、
明治維新を支えた国民精神の衰退を危惧して結成された、
「帰一協会」の中心的存在として、国民教化にあたります。

この協会は、実業家渋沢栄一氏の支援を受けて、
国民道徳を養う何らかの新宗教を模索するために、
指導的な知識人、宗教家、財界人などを集めて結成された研究団体でありました。

ここで彼は、人間を超越する偉大なものの存在を信じ、
それに対する畏敬の念に、万教の帰一を探ろうとしました。

彼の主張は、

人間心霊の無盡なる価値を発揮する、

人類生活の感応結合に依って、人性の醇化を成就する、

一切生存の根底に神霊あるを信じ、人心人生に於ける神霊の開発を人生の帰趣とする、

個人各自の心霊が、不朽の生命を存し、無盡の価値を蓄へて居る事を信ずる、


というものです。

彼はまた、仏教徒でもありました。
弟子には、増谷文雄、岸本英夫らがいます。


現代の宗教学者は、宗教を信じない立場で宗教を分析するのに対し、
宗教学の祖は、確固たる信仰を持ち、そして国民教化に尽力したのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

汎神論の祖

スピノザは、17世紀のオランダの哲学者です。

スピノザは、高等教育を受けておらず、
在野の哲学者として執筆活動に専念する生涯をおくりました。

大学の教授職に要請されますが、
思索の自由を選び、辞退しています。

彼は、レンズ磨きで生計をたてていたようです。


スピノザ哲学は、自然は神である、という汎神論が特徴で、
ユダヤ教や聖書の神概念を批判し、
人格神は人間の理解力に応じたものにすぎないとして、大変な物議をかもしました。

当時は、神を批判するなどということは許されないことであり、
それほど、神の権威は絶大だったのです。

スピノザの思想は、

神は、独立して存在するのではなく、あらゆるものに内在している。

すべては、神の内にあり、神こそ唯一の実在である。

われわれもまた、無限の神の愛の内に包摂されている存在である。


というものです。

スピノザは汎神論の先駆者であり、
後のフィヒテやヘーゲル、ゲーテの思想などにも影響を与えています。

著書に「神学・政治論」、「国家論」、「エチカ」などがあります。

彼の思想は、どことなく、仏教にも似ているようですが、
それもそのはず、スピノザは過去世に、
釈迦十大弟子、多聞第一の阿難として生れているのです。




精神は身体と、自らがその観念であるところの身体と、合一することも出来るし、
また精神は神と、自らが存在するにも理解されるにも欠くことのできない神と、
合一することが出来る。

精神は、不変であり、かつ不変に止まるところの神と合一するのであるから、
精神もまた、不滅であらなければならない。


「神・人間及び人間の幸福に関する短論文」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

大切なこと

大切なのは、肉体が我ではないということを悟ること。

生老病死の苦しみは、誰にでも必ず、やってきます。

しかし、その苦しみを苦しみとする必要はありません。

本当の自分は、永遠の魂であると知れば、

生れてくる苦しみも、老いる苦しみも、病気の苦しみも、死の苦しみも、

乗り越えられます。

神が私達を苦しめるために、そのような仕組みを作ったのではありません。

限りがあり、不自由で、儚く、不浄なる世界を経験してこそ、

常住で安楽、清浄なる霊界での生活の価値が分かるからです。

あの世では、食べる必要もなく、眠る必要もなく、自由自在の世界です。

この世での経験は、あの世での経験の何倍にも相当するのです。

あの世へ帰れば、その喜びは何倍にもなり、限りない光輝につつまれます。

必ず報いがあるのです。

また、人は、決して一人ではありません。

必ずあの世で見守っている霊存在がいます。

そして、神仏も、限りない慈愛をもって見守っておられます。

信じることで、この世とあの世はつながります。

この世にいながら、あの世にいるように生きる。

これが、悟りなのです。 

精進します。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

循環文明論

ニューエイジでは、はるか昔に地球上に栄えた、
アトランティス、ムー、レムリアなどの超古代文明が存在していたと言われます。

常識では、ダーウィンやスペンサー流の社会進化論的見方が適用され、
人類は、原始社会から徐々に文明社会に進化発展し、
現在もまたその途上にある、とされています。

人類学によると、
人間の文明の歴史は、たかだか1万年ほどであるということです。

しかし、最近の発掘調査や遺跡の発見などで、
この年数はどんどん過去に遡っています。

また、いわゆるオーパーツなどの発掘物も無数に発見されていますし、
常識では説明のつかない、古代遺跡や建造物がたくさんあります。

インド聖典ヴェーダなどの古代文献には、超古代文明について書かれたものがあります。

証明するのは難しいのですが、

最近の霊界情報によると、
アトランティスは1万年前、ムーは1万5千年前、レムリアは15万年前、
に滅びていった文明であるそうです。

それ以前にも、文明はいくつも生れては滅び、
それぞれの文明が異なった価値尺度を求めるようになるそうです。
その中には、現代の科学水準をはるかに超え、
人類が宇宙に出て、他の惑星に移住していった時代もあるとのことです。
また、核戦争によって滅びてしまったことも・・・。

実は、地球人類の歴史は、4億年もあるのです。

人類文明は一直線に進化しているのではなく、循環しているのです。
文明にもまた、栄枯盛衰があり、輪廻転生がある。

そして、そのはるか昔の文明に生きていたのは、
他ならぬ、輪廻転生をしながら魂修行をしている私たちであるのです。


文明の転換期には、必ず大指導霊が地上に生まれ、人類を導くことになるという。

そう考えると、
現代の時代は、危機の時代でもあり、希望の時代でもあることが分かるのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。

PageTop

私達は一体何を知っているのか?

スピリチュアル映画、
「What the Bleep Do We Know!?」のダイジェスト版です。

What Happens When You Combine Today's Cutting Edge Scientists & Mystics?
最先端の科学と神秘思想が融合したら、一体何が起こるのでしょう?

Can Science And Religion Really Be On The Same Path? 
On The Same Planet? In The Same Movie!?
科学と宗教は本当に同じ道を通ることができるでしょうか? 
同じ惑星の上で? 同じ映画の中で?







クリックして愚僧の活動に御協力ください。