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2008.04.30 神はダルマ
あらためて今日は、

仏陀の説く法こそが、神の光なのだという認識を持ちました。

神を、教えという形で、示してくださっているのが仏陀なのです。

神を、目で見ようとしても、五感で感じようとしても、想像してみても無駄なのでした。

仏陀の説く法に従い生きることが、神の下に生きることです。

仏法を行じることで、神を知ることになるのです。


神仏の光がさしてこないのは、愚僧の側が蓋をしていたからなのでした。




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「神は死んだ」と叫ばれた、20世紀は、
退廃的、虚無的、デカダンスな生き方がもてはやされ、

近年は、健全、ポジティブ、スピリチュアル、LOHASな生き方が求められています。

この風潮は、人間本来のあり方に戻りつつある兆しだと言えるでしょう。

もはや、人々を堕落させ、悲観的にさせる哲学や思想は流行りません。

20世紀は、科学技術は高度に発達しましたが、
思想信条においては、退歩して逆行現象を示しているのです。



パラダイムシフトを起こしましょう。

それは、人口の一定の割合を超えると起こります。

宇宙は、愛や無限のエネルギーで満たされていて、
人間には、永遠の生命や無限の可能性が与えられている、
ということが、常識となるのです。

人々に意識変革が起こると、地球もまた輝きに包まれ、愛の星となるでしょう。




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2008.04.30 信仰の哲学者
セーレン・キルケゴールは、19世紀のデンマークの哲学者です。

コペンハーゲン大学神学部に入学、牧師への道を志しますが、
しだいに、哲学に興味が移り、ソクラテス、ゲーテ、ヘーゲルなどの研究を行います。

彼は、宗教的苦悩の解決を哲学的真理に求めますが、
ヘーゲル哲学などの理念や概念によるのではなく、
実存する個々の人間の苦悩の解決のための哲学を模索したのです。

42才の若さで急逝するまで、公職につくことなく著述活動に専念し、
膨大な著作を遺しました。彼は、生涯独身でありました。

その著書には、
世俗的領域にかかわる美的著書と、
信仰の問題にかかわる宗教的著書とに分類されますが、
彼の本意は宗教的著書にありました。

彼の思想は、
人間は、美的実存・倫理的実存・宗教的実存という三段階にわたって成長し、
宗教的実存に至って初めて安楽がおとずれ、自分の魂と神は接することが出来る、
というものでした。

ハイデッガー、ヤスパース、サルトルなどの、後の実存哲学者に影響を与えています。


彼は、キリスト教の信仰形態を批判しましたが、
真摯に神を信じたキリスト者であったのです。




一切の抽象物は神の前には全然存在しない。
ただ個体的な人間のみが、ただ個体的な罪人のみが、
キリストにおいてある神の前に生きているのである。
しかも神はよく全体に心をくばることができる。
だいたい神は雀の世話までもすることができるのである。
神は一般に秩序の友である。
そしてこの目的のために神自身はあらゆる場所に、
あらゆる瞬間に現在しているのである。
神は偏在者である。
神の概念は、人間の概念のようなものではない。神の概念は一切を包括する。
また別の意味では神はいかなる概念をももっていない。
神は略語の助けを借りる必要がない。
神は現実そのもの、すなわち一切の固体を把握している。


「死に至る病」




キルケゴール哲学と仏教の類似性がよく指摘されますが、
彼の過去世は、インドの大乗仏教唯識派の大成者、無着だったのです。




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2008.04.30 四摂法
仏教では、人々に愛を施す際に、
具体的にどのようにすれば良いのか、ということが説かれます。

人々を救済しようと思っても、相手をこちら側に向けさせなければなりません。
相手が喜んで、集まってくるようであらなければならないのです。

そこで、考案されたのが、四摂法というものです。

摂というのは、摂取する、取り込むという意味であり、
人々を仏道に引き入れて、幸福へと導くためなのです。


一、布施  
物資や金銭、食べ物などを施す。法を説いて、喜びを施す。

二、愛語  
愛情のこもった優しい言葉をかける。 

三、利行  
体、言葉、心を用いて、相手の利益になるような善行をする。

四、同事  
相手の悩み、感情、心を理解し、自分のこととして対応する。
  


このような愛行によって、自分もまた幸福になるのです。
愛の行為は、自分と他人が一体となっていく道なのです。




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2008.04.30 仏教と霊魂
西洋流唯物論を取り入れた無我解釈を施し進歩的な宗教だとアピールした日本仏教。

いまや時代遅れの文化遺産となりつつある。

仏教界から発信される有益な情報は、皆無。

僧侶は、読経職人、墓管理人とさえ呼ばれている。

時代の趨勢とはいえ、悲しいことである。

仏教界は閉じた社会になってしまった。

仏教界最大のボトルネックは、霊魂問題。

プライドなど捨て、スピリチュアル路線にシフトしよう!

愚僧も精進します。




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2008.04.29 群盲の比喩
お釈迦さまは、間違った見解を持つものが、
法(神)についてあれこれ推測しても真理に到達することはない、
ということを、「群盲象を撫でる」という例え話で明らかにされています。




その時、釈尊は、比丘たちに言われた。

昔々、鏡面という名の王がいた。
ある時、生まれながらの盲人たちを一箇所に集めて、告げた、
「お前たち、生れながらの盲人よ。象が分かるか」
すると、答えた、
「大王よ。私には見分けもつかず、存じてもおりません」
王は再度告げた、
「お前たちは、それがどのようなものかを知りたいか」
答えた、
「知りたいと思います」
そこで、王はただちに侍者に命じて、象を引いて来させ、
盲人たちに、自分の手で象を撫でさせた。
その中には、象を撫でようとして鼻を探り当てた者がいたが、王は、
「これが象なのだ」と言った。
また象を撫でようとしてその牙を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその耳を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその頭を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその背を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその腹を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその腿を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてそのふくらはぎを探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその足跡を探り当てた者もおり、
また象を撫でようとしてその尾を探り当てた者もいたが、
王はすべて、
「これが象なのだ」と言った。
さて、鏡面王は、その象を退け、盲人にたずねた、
「象はどのようであったか」
その盲人たちのうち、象の鼻を探り当てた者は、「象は曲がった轅のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の牙を探り当てた者は、「象は杵のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の耳を探り当てた者は、「象は箕のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の頭を探り当てた者は、「象は鼎のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の背を探り当てた者は、「象は小山のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の腹を探り当てた者は、「象は壁ようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の腿を探り当てた者は、「象は木のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象のふくらはぎを探り当てた者は、「象は柱のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の足跡を探り当てた者は、「象は臼のようでした」と言い、
その盲人たちのうち、象の尾を探り当てた者は、「象は組みひものようでした」と言った。
そして、それぞれ言い争い、互いに議論しあい、こちらがこうだと言えば、
あちらがそうでないと言い、やむことなくあれこれ言って、ついにとっ組み合いになった。
すると、王はこれを見て、喜び大笑いした。
それから、王はすぐさま偈を説いた。

「盲人たちが群がって、ここで言い争いをしている。
象自身はもともと一つの体なのに、
思い描いたものが多様なので、議論が起こったのだ」


仏が比丘に告げられた。

「仏道以外の異端者たちも、やはりこれと同様なのである。
苦諦を理解せず、集諦・滅諦・道諦を理解しないで、
それぞれ多様な誤った見解を起こし、互いに議論しあっている。
自分を正しいと思い込むから、言い争いを起こすのである。」


長阿含経典「世記経」




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2008.04.29 地湧の菩薩
宮沢賢治は、敬虔な仏教徒でありました。

優れた詩や童話作品などで、親しまれる宮沢賢治ですが、
その人生や信仰についてはあまり知られていません。

彼は、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学、
自然科学を学びます。そのころに、「法華経」と出会い、
日蓮宗の信者となって熱心な宗教活動を行うようになります。
東京に出て、日蓮主義の「国柱会」にも参加しています。

東京から帰った後には、花巻農学校の教師となりますが、
その変わった授業が評価されず、教職を去ることとなります。

その後は、「羅須地人協会」と自ら名づけた小さな家で、
農業と芸術の一体化による新しい村づくり、農業指導に励みます。
その後も、石灰肥料を普及する指導員となって働きますが、
激務によって体調を崩し、37才という若さで、独身のままこの世を去ります。
遺言では、「法華経」を千部配るように言い残しました。

評価が高まって国民的作家となったのは、没後のことです。


あまり知られていませんが、宮沢賢治は霊能力者でもあったのです。
生前に知人に語ったことばが残されています。

「僕はもう何べんか早池峰山に登りました。
あの山には、御承知かも知れませんが早池峯の七不思議というのがありまして、
その一つに河原の坊という所があります。
早池峯の登山口で裾野をのぼりつめたところの岳川という、
岩をかむ清流の岸辺にありまして、言い伝えでは何でも何百年か以前に、
天台宗の大きな寺のあった跡で、修行僧も大勢集まっていて、
随分盛んなものだったということです。そこでは今も朝の小暗い黎明時に、
ひょっとするとしんしんと読経の声が聞えて来ると噂されております。
先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが、
ふと山の方から手に錫杖を突き鳴らし、
眉毛の長く白い見るからに清清しい高僧が下りて来ました。
その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが、
その御坊さんにあったのは、何でも七百年ばかり前のようでしたよ。」

「僕は妹のとし子が亡くなってから、いつも妹を思ってやすむ前には必ず読経し、
ずっと仏壇のそばに寝起きしているのだが、
この間いつものように一心に御経を読んでからやすむと、
枕辺にとし子の姿がありありと現れたので、
すぐ起きてまた御経を上げていると見えなくなった。
次の晩もやはり姿が見え、二晩だけであとは見えなかった。
人間というものは、死んでからまた別の姿になってどこかに生を受けるものらしい。」


「宮沢賢治」佐藤隆房著

宮沢賢治は、
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として、
無私の精神で他者への献身につとめた、菩薩でありました。




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2008.04.29 奇蹟の時代
世界を救う為に、仏陀が現れている。

空前絶後の、世界規模の救済運動が起きている。

信じられる人は、幸いです。

現代の仏陀は、アメリカ人にも、英語で法を説く。

私は、イエスが「我が父」と呼んだ存在だと、

我を信ぜよ、そして、この法を広めよ、と。

奇蹟であります。

僧侶も、一刻も早く目覚めましょう。




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2008.04.29 心の力
幸せは、見つけ出し、育むことが出来ます。

幸せとは、心の状態です。
外側の出来事をどう解釈し、内面でどのように受け止めるかによって決ります。

幸せは、あらゆる所に見つかります。
実は、身のまわりに良いものはたくさん溢れています。
それらに焦点をあて感謝すると、ますます幸せを呼び込むようになります。

あらゆる出来事が、幸福の種となります。
すべては魂の成長のため、と受け止めると、すべてが学びになります。
その経験を通して、心が鍛えられます。

心には、人生を変えるものすごい力があります。
幸・不幸をつくっているのも心です。
釈尊が繰り返し、『諸の事象は皆、心を先とし、心を主とし、心により生じる』
と、説かれたように、心こそがあらゆる問題を解決する力を持つのです。

私達は、幸福になるために生れてきたのだし、
その鍵は誰にでも、神様から心の力として与えられているのです。

愚僧もまた、皆様の幸せのために、精進します。




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私達の世紀は知性の際立った時代でした。
いつのまにか、知らないものは存在しないという傲慢な態度が身についています。

科学で証明されえないものを信じる宗教者や神秘主義者は、
まるで危険人物か、知性が劣っているかのような扱いです。

しかしこの時代の風潮は、根拠のあるものではありません。

二十世紀最高の知性の一人、アインシュタインは、

わたしたちがもち得る最高の感情とは神秘的な感情だ。
そこにすべての芸術、すべての科学的事実の芽がある、
真の宗教的な感情の核心だ。
その意味で、そしてその意味においてのみ、
私は自分を非常に宗教的な人間だと思っている。


と言っています。

知性の先にあるもの、あらゆるものの根源は神なのです。

わが国では、いつのまにか、宗教が公教育から排除され、
崇高なるもの、聖なるものに対する畏怖の感情が持てなくなっています。

大人達は、何故生きるのか?何故いのちは尊いのか?
という問いに答えることが出来なくなりました。

悲しいかな、僧侶でさえも無神論者になってしまいました。


ユングはこの危機的状況に警告を発しています。

現代の人間は、自分の合理主義のせいで、
どれほど心理的な地下の世界に振り回されているかを理解していない。
迷信(あるいは当人がそう信じている)から自由にはなったが、
その途中で、危険なまでに自分のスピリチュアルな価値を失ってしまった。
モラルとスピリチュアルな伝統は分解し、
その代償として現代人は、世界的な方向性の喪失と解離を経験している。


スピリチュアルの浸透こそ急務なのです。




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