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2008.04.07 四無量心
私達は、愛が足りない、愛が欲しいと、いつも愛に苦みます。

愛は目に見えませんが、たしかに存在します。
愛の大きさによって、人間の価値が決まるとも言われます。

実は、愛は他に与えることで、神から与えられるものなのです。

欲しい欲しいと求めているだけでは、与えられず、
逆に、自分から積極的に他に与えることで、神から愛が与えられるのです。

そしてその愛を、また他に振り向けていくことが出来る、
という良い循環が始まるのです。
与えれば与えるほど、与えられるという、無限供給の法則です。

これが、キリストの「持てるものにはさらに与えられる」という言葉の意味です。

愛は霊的なものです。
その、愛の器を広げていくことが、宗教修行でもあります。

この修行を、仏教では、四無量心として説きます。

これは、
慈、悲、喜、捨の四つのことで、
これらの心を無量におこして、自他を幸福に導くというものです。

慈とは、楽を与えることであり、人が幸せになることをしてあげること。
悲とは、苦を取り除いてあげることであり、人の苦しみや悲しみに寄り添うこと。
喜とは、人の幸せを妬まず、幸せを共に喜ぶこと。
捨とは、人に施した恩や、人から受けた害も、一切のこだわりを捨て去ること。


このように、愛は具体的な行為なのです。

愛は与えることで、神より与えられます。
何故なら、神は愛なのです。




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勝手に作成しました。
一人で精進します。


ニューエイジ僧心得

一、神仏に帰依するべし
一、愛を説くべし
一、霊界の法則を学ぶべし
一、霊力(チャクラ)を開発するべし
一、仏国土建設、霊性文明樹立、衆生済度に尽力するべし
一、発展、繁栄の精神を持つべし
一、政治、経済、学問を尊ぶべし





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2008.04.07 日本の神々
日本神道は、日本古来の宗教です。

わが国の主宰神は、天之御中主神です。
その他にも、神御産巣日神、高御産巣日神、天照大神と鎮座されています。

実は、この方々は、究極的な神ではなく、
紀元前800年頃に、人間として日本の地に生まれた霊人なのです。

この霊人達が、日本文化の土台をつくり、神話となっていったのです。

日本の神々はまた、戦後の、神道系新宗教の指導もしています。

例えば、
万教帰一を説いた「生長の家」の谷口雅春氏は、伊邪那岐大神の生まれ変わりであり、
その教団を指導したのが、天之御中主神であったようなのです。

日本もまた神の国なのです。


日本民族は、ムーで活躍した霊団が母体となっています。
ムー大陸の沈没後、日本列島に流れてきて新しい文明を建設しました。

日本の神々も、かつてのムー大陸で、
仏陀の過去世ラ・ムーの説く法に帰依していたのです。

この事実からも、宗教の淵源は一つであることがわかります。




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2008.04.07 信解脱の法門
神仏の慈悲には限りがありません。

しかし、神なき時代の現代では、
悟りを開くどころか、信仰を保つことすら難しい。

仏教には、信解脱という法門があります。

信仰の力によって、解脱をはかるのです。

まず、神仏の存在を信じきること、
これが、全ての始まりなのです。

信じるものは救われる、というのは本当です。

信じるということは、あの世とこの世に橋をかける行為です。

これだけでも、五次元霊界に帰ることが出来ます。


この世ならざるものを信じることが出来るかどうか、にかかっているのです。




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キリスト教は、
輪廻転生の教義とは無関係であると思われていますが、
実は、初期のころのキリスト教では輪廻転生が説かれていました。

近年では、西洋文化圏でも、4人に1人は、輪廻転生を信じていて、
その割合は増え続けている、という調査報告があります。

これは、退行催眠による前世療法の認知、
輪廻転生を説くニューエイジ思想の広まり、
とも関係しているのです。

また、最近では、輪廻神学なるものを唱えているキリスト者もいるようです。


イエスさまが最初学んだエッセネ派では、輪廻転生が信じられていました。

聖書には、「洗礼者ヨハネは預言者エリヤだった。」
という転生を認めている発言があります。

ヴァレンティヌス、クレメンス、オリゲネス、アタナシウスなどの司教の教義には、
輪廻思想が認められますし、

異端となった、カタリ派、ボゴミール派などにも輪廻転生の信仰がありました。

神との合一を説く、グノーシス主義は、
プラトンやヘルメス思想から影響を受けており、魂の再生を説きました。


553年のコンスタンティノ公会議で、

「この世に生まれる以前の霊魂の存在と、
その帰結としての霊魂の再来という、根拠なき見解をもつ驚くべき教義を支持する者は、
誰であろうと破門されるべきである。」

という裁定がなされて以降は、
キリスト教で輪廻転生を説くことはタブーになってしまいました。


しかし今後は、いくら事実を覆い隠そうとしても、
ニューエイジの興隆によってあきらかにされていくのです。




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フレデリック・ショパン

それでも私は、この不従順な魂の上に神の慈悲が勝利をもたらすと確信していた。
どのようにしてかは知るすべもなかったが。
あらゆる手を尽くし、結局唯一の手段として残ったのは祈りであった。


フランツ・リスト

実行あるのみです。ただし信仰による確信を抱き、心に湧き出た霊感を携えて。
そうすれば主の恵みは、すべての素直な魂の上に臨まれます。
最も困難な日々においても、キリスト者であることに唯一の至福を感じる者には、
確かな平安があるのです。


リヒャルト・ワーグナー

キリスト教の宗祖は賢人ではなく、神のような人であった。
彼を信じるということは、彼のまねびに徹することであり、
救済を望むということは彼との合一を求めることであった。


シャルル・グノー

時の順序では生は死に先行するが、神の順序では死が生に先行する。
死は実在するもの、すなわち日々死に行くものの終わりだが、
それは、決して死なないものの始め、すなわち誕生でもある。


アントン・ブルックナー

いつの日か、私は自分自身の弁明を求められるだろう。
天の御父は、私が彼に従わず、他の者の言いなりになっていたら、
私をどう裁かれるだろうか。


ヨハネス・ブラームス

イエスは、霊の影響を及ぼすこの世で至高の存在であり、
唯一の力の真の源泉を身につけていることに気づいていた。
かつてこれに気づいた者は一人もいない。


アントニン・ドヴォルジャーク

ぼくは窓のそばで祈るのが一番好きだ。緑の景色と空が見えるから。

エドワード・エルガー

神は、人間に影響を及ぼす時には神の霊と呼ばれる。
神の霊は神に他ならない。神そのものだ。


イゴール・ストラヴィンスキー

音楽は、我々人間と交わる型として現れようとする。
さらに、至高の存在である神と交わる型として。





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クラシック音楽の、西洋の作曲家達は、皆信仰を持ち、神を讃え、
神の栄光、霊の喜びを音楽で表現しました。

クラシック音楽は、ほとんど宗教音楽だといってもいいかもしれません。

真善美の源泉は、神であり、
芸術活動には、霊界からの、インスピレーションが働いているのです。

大作曲家はほぼ例外なく、神を信じていました。
残されている言葉を見てみましょう。



ヨハン・セバスチャン・バッハ

音楽の唯一の目的は、神の栄光が顕され、
人の魂が再生されることでなければならない。


ジョージ・フレデリック・ヘンデル

この死は全能者である神をお喜ばせしたのです。
私はキリスト者としての従順をもって、大いなる神の神聖なご意志に従います。


フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

私は、賛美をすべて全能の神に捧げる。
賛美は神にのみ帰すべきものだから。
私のただ一つの願いは、隣人の機嫌を損ねず、優しい侯爵の機嫌も損ねず、
何より慈悲深い神のご機嫌を損ねないことだ。


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

神を信頼しましょう。
そして万能の神のみ心にかなえば何ごともうまく行くものだと考えて、
みずから心を慰めましょう。
神こそが、われわれみんなの現世ならびに永生の幸福と救済にとって、
何が有効で有益であるかを、いちばんよくご存じなのですから。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

世界を形成している原子の配列は、偶然の出会いによるものではない。
宇宙の構成に秩序や美が反映しているなら、そこには神がおられるのだ。


フランツ・ペーター・シューベルト

この世は舞台に似ていて、人間は各自その上で何かの役を演じている。
この演技に対して、称賛か非難が来世で待ち構えているのだ。


フェリックス・メンデルスゾーン

私には文句なく良く分かる。いかなる音楽家といえども、
その考えや才能を、天がお造りになったものとは別のものにすることはできない。
だがこうも理解している。天が良きものを与えておられるなら、
音楽家はそれを適切に伸ばすことができなければならない。





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霊魂が人に憑依することが、仏典には説かれています。
古代インドでは、精霊などが人にとり憑くことをアーヴェーシャと言いますが、
これが仏教を通じて、日本に、阿比舎法、阿比奢法として伝わりました。

お釈迦さまは、在家信者にとり憑いている悪霊を霊視しています。


あるとき尊師(釈尊)は、
サーバッティー市のジェータ林の園にとどまっておられた。
そのとき、ある女性在家信者であるサーヌが、
ヤッカ(悪霊)に憑かれていた。
その女性が嘆いていたので、そのときに次の詩句をとなえた。
 
「第14日と第15日と、および半ヶ月の第8日と、
神変を得る特別の日、8つの支分より成る斎戒をよくたもち、
ウポーサタを実修する、ということを敬わるべき聖者から聞いた。
ところが、いま、ヤッカ(悪霊)たちがサーヌを玩ぶのを、私はみる。」


「サンユッタ・ニカーヤ」



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