FC2ブログ
2008.04.21 仏教の神秘性
仏教の密教には、
幸福をもたらす呪文の、息災増益
敵対者の除去をもたらす呪文の、調伏、などがあります。

お釈迦さまは魔術や呪術、神通力の濫用をいましめられました。
それは、あくまでも正しい法の実践によって、人々を悟りの彼岸に導くためでありました。

しかし仏教には、最初から密教的要素、神秘性がありました。

原始仏典を読むと、お釈迦さまが数多くの神変(奇跡)をおこし、
三明六通(霊能力)を持っていたことが、わかります。

仏教学者の奈良康明著「仏教史」には、こうあります。




原始仏典においても、
仏教徒の間にもさまざまな呪的な観念の多くあったことを、
おのずと示してくれる記述が少なくない。
例えばブッダの舎利、遺髪、爪などの崇拝は現世利益があると信じられている。
あるいはブッダの衣を竿の先に掲げて町をねり歩き、
ブッダを念じると疫病が止んだりする。(『アヴァダーナ=シャタカ』)。
悪人が袈裟をまとっていたがためについに滅ぼし得なかった(『ジャータカ』)ともいう。
また、デーヴァダッタが釈尊を害せんとして精舎を大石で圧しつぶそうとした時、
比丘たちは大声で経典をとなえながら精舎の周りをまわった(パーリ律)という。
また仏典中にはヤクシャその他の鬼霊が人に憑き、
ブッダないし比丘のくることによって本復したことを多く記している。
いかなる儀礼がおこなわれたかは不明だが、
シャーマン的な治療行為に仏、法、僧がかかわっていたであろうことを告げている。
また、呪術的な治療行為について、小乗、大乗の経典は少なからぬ記述を残している。
仏教の呪術が、もう少し具体的な形態をとったものがパリッタである。
パリッタとは災難から身を守るものとされ、防護呪と訳されている。





戒律においても、
護身の為の呪文は徐々に黙認されるようになっていき、
四種呪・五種呪・六種呪などが規定されるようになります。

神秘性、超自然性がなければ、宗教というのは成り立たないのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト



アンリ・ベルクソンは、
フランスを代表する哲学者であり、ノーベル文学賞受賞者です。

ベルクソンは、
意識は物質に還元することはできず、
物質とは独立して持続していくものだとして、
形而上的な意味合いの強い「生命の飛躍」という概念を唱えました。

生命は、大いなる意志の働きを受け創造的に進化するのだ、と。

そして、こうも言っています。
宇宙は神々を作るためのしくみである、と。

ベルクソンは、新プラトニズムから影響を受けていた神秘主義者でもあり、
晩年には神に帰依します。

ベルクソンの唱えた生命概念は、
唯物的な生命観が反省されはじめた現代において、ますます評価が高まっているのです。




心霊学は、それが確実だと思っているものと、
単に確からしいもの、あるいは、たかだか可能なものとを区別する。
しかし、心霊学が確実なものとして提供するものの一部しか取り上げないとしてさえも、
心霊学が、その探検に着手したばかりの未知の土地の広大さを、
推測するに足るだけのものは残る。
この未知の世界の微光が、我々のところまで達し、
肉体の目で見えるようになった、と仮定しよう。
たとえ口では何と言うにせよ、一般にただ自分の見るものと自分の触れるものだけを、
実存的だと認めることに慣れた人類のなかに、何という変化が生ずることだろう!
我々のところにこのようにしてもたらされる情報は、恐らくは、魂のうちの下級のもの、
最低段階の精神性に関するものでしかないだろう。
しかし、大部分の人々のうちに見いだされるように思われるが、
大抵の場合、言葉だけの抽象的な、効力のないままにとどまっている彼岸の信仰を、
働く生きた実在に変えるためには、それ以上のものは必要でないだろう。
こうした信仰がどの程度に大切であるかを知るためには、
ひとがどんなに快楽に飛びついているかを見れば充分である。
ひとは、もし快楽を何か虚無から逃れるためのもの、
死を嘲るひとつの手段、と見ていなければ、これほどまでに快楽に執着しないだろう。
実際、もし我々が永遠の生命を確信しているとすれば、絶対的に確信しているとすれば、
我々はもはや、そのほかのことは考え得ないだろう。快楽は歓喜の陰に消え去るだろう。


「道徳と宗教の二源泉」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.04.21 仏陀の瞑想
現代の仏陀による止観瞑想の説明です。
まれなることです。




空にかかっている満月を、心のなかにずっとえがいていくのです。
そうすると、満月と自分とが一体になって、自分自身が満月そのものになってきます。
満月が自分、自分が満月、そうした状態になってくるのです。
そのあと、宇宙自体が自分自身であるという感覚が訪れてきます。
全宇宙のなかに自分がいて、
全宇宙が自分であるという神秘体験を、釈尊はしているのです。
これを「五相成身観」といいます。
現在では「阿字観」などの観法になっています。
満月のなかに梵語の「阿」という字が書いてある、掛け軸のようなものを掛け、
それを観ながら、「阿」の文字と一体になるという行法を、密教ではよく行ないます。

結局、まず心の波立ちを抑え、次に何かに集中して、
何かに向けて自己を開放していくこと、これが止観の意味なのです。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.04.21 餓鬼事経
仏教では、死者供養をしない、霊的存在を認めない、とよく言われますが、
これはとんでも無い誤解です。

原始仏典の小部に「ペータヴァッツ(餓鬼事経)」という経典があります。

餓鬼というのは、迷っている霊であります。

修行者にとって供養は善行であり、喜悦です。
また、その慈愛の行為は、迷っている霊にとっても益となり、
共に救われる自利利他行として説かれているのです。


一、彼らは住家の外に、または街の四辻に立ち、
   あるいは古き各自の家に行きて戸口に立つ。

二、過去の業によって多く食物や飲物、堅き食物、軟らかき食物の供えられたる時、
   この世の因縁あるものは、誰も彼らを記憶するものなし。

三、慈悲ある人は、因縁あるもののために、清浄にして、すぐれたる、
   時に適したる食物飲物をあたふ。これらは、汝ら逝きにし因縁あるもののためとなれ。
   因縁あるものは満足してあれと言いつつ。

四、彼らは此処に集まり、集まりし因縁ある餓鬼らは多くの食物飲物に非常に喜ぶ。

五、彼らは言う。これらのものを受けたるその人々によりて、
   我ら因縁あるものは長く生きん。
   我らのために供養はなされる。またこの施主は果なきことなしと。

六、実にこの世界には耕すこともなく、牧畜もなく、
   商売の如きもなく、金によりて売買することもなし。

七、この世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きていく。
   高き所の水の低きに流るるが如く、
   かくの如く実にこの世からの施物はもろもろの餓鬼に利益あり。

八、溢るる河の流れ海を満たすが如く、
   実にこの世からの施物はもろもろの餓鬼に利益あり。

九、我に施したり、我に善行をなせり。彼らはわが因縁あるものなり、友なり、仲間なり。
   過去の業を憶い起こして餓鬼に施物を与えしめん。

十、泣くことも、悲しむことも、その他嘆くことも、この餓鬼らには何の益ともならず。
   かくの如く因縁あるものは立ちてあり。

十一、されどこの施物の僧団に与えられ使用せられなば、
    長く死人の利益となり、よく彼を利す。

十二、ここに記せられたるこれは、因縁あるものに対する義務にして、
    もろもろの餓鬼には非常なる供養がなされ、
    僧には力を与える。また汝らには少なからず福が得られると。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.04.21 愚僧の抱負
こうして、毎日ブログ活動が出来るのは幸せです。

文明に感謝、読んでくださる皆様に感謝です。

ここのところ一人よがりのものになっていないかと心配しています。

今後は少しでも、皆様の幸福増進に貢献できるブログにしていきたいです。


愚僧の力不足は否めませんが、僧侶としての役割を果たしたい。

僧侶は、自ら信じ、実践し、人に教えるのが仕事である。

僧侶は、生きる喜びと幸せになれる方法を説かなければならない。

僧侶は、努力、忍耐、反省、持戒を怠ってはならない。

仏教に霊性と活力と社会的信用を取り戻したい。

精進します。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。