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2008.04.22 両部の大経
「大日経」と「金剛頂経」は、
真言密教の両部の大経といわれ、根本経典とされています。

これらの経典は、
陀羅尼(ダラニ)や呪文、魔術などが中心の雑蜜に対して、
瞑想法や成仏法がシステム的に説かれた純蜜の経典であるといわれています。

「大日経」は、「大毘盧遮那成仏神変加持経」とも呼ばれるように、
大毘盧遮那仏即ち大日如来が、衆生本来の心のあり方を説いたお経です。
自己の心を如実に知ることが、
大宇宙の根本仏を知ることである、とする理法が中心に説かれます。

「金剛頂経」には、ヨガなどの実践法が中心に説かれていて、
宇宙的な究極的実在と、自己との即時合一の、即身成仏が説かれています。


密教は、
哲学的に偏ろうとする仏教に、宗教的生命を取り戻すべくしておこってきたものであり、
内なる心の世界において、大宇宙の根本仏(神)と合一をはかる神秘思想です。

段階を踏んで、生きている間に仏に成るという、
いわば、純粋に仏陀の悟りそのものの霊体験を得ようというものであったのです。

また、宇宙の真理を顕す曼荼羅を用いるところも独特です。

空海は、この曼荼羅を、
「密教の教えは奥深く、言語や文字で表現することは困難であるから、
仮に図画をもって密教の大生命の世界を、まだ知らぬ人々に示す」
と説明しています。

心理学者のユングなどは、
「曼荼羅こそひとつの個としての人間の完成像であり、すべての道はそこに通じる」
と高い評価をしています。

この密教では、師弟の相承が大切にされるので、
中国僧恵果が異国人の空海に相伝した後、中国では密教が途絶えてしまいます。
それほどの決断をさせるほど、空海というのは優れていたのです。
この空海が、「金剛頂経」を日本に持ち込みました。


仏教は、本来、神秘思想なのですが、
無の哲学に偏りすぎて、霊的次元との接触が失われつつありました。

また、西洋神秘思想で言うところの、
宇宙から注がれる神の愛を受けて、神への道を進む道、
神を絶対的に信仰することにより、神との合一を目指す道、
が軽視されがちでありました。

絶対者である神や、行動原理である愛に関して弱い部分が出てきたのです。
何故なら、「無」からは慈悲や愛、積極的な行動原理が生じてこないからです。


そこで、密教や浄土教などの神秘思想が、仏教の中からも起こってきたのです。

ちょっと難しくなってしまいました。(反省)




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第二の例は、ガイアの理論がもたらしているものです。
地球の有機的無機的諸層が全体として唯一のシステムを、
一種のメタ有機体、生ける惑星=ガイヤを構成しているとするこの理論は、
母なる大地の原形として、古代の女神ガイアにちなんだ名がつけられています。
しかしこれは恐らくあらゆる宗教に共通するものでありましょう。
ガイア理論によれば、われわれはもっとずっと大きな全体の一部であり、
われわれの運命は、自分のためにすることばかりでなく、
われわれが総体としてのガイアのためにすることにも左右されるのです。
われわれがガイアを脅かすならば、ガイアはあるべき生命、
というより高い価値を守るために、われわれを見捨てることになりましょう。
人間原理とガイアの理論が、われわれにもたらす霊感とは、
どのようなものなのでしょうか。それはじつに単純なものです。
どちらも人間が太古の昔から直感し、昔から神話の中に投影し、
昔からさまざまな原形として神話の中にこめた内容を、
現代の言葉で語っているだけなのです。
つまりそれは、自己と地球や宇宙との結びつきの意識であり、
今ここにいる自己だけではなく、触れることのかなわぬもっと広大で、
神秘な総体の一部であるという意識なのです。
この忘れられた意識は、あらゆる宗教の象徴に再び書き写され、
あらゆる文化において、さまざまなやり方で知覚されています。
これは人間が自己を理解し、この世界における自己の位置を理解し、
この世界のあるがままの姿を理解する能力の一つの大きな基盤ですらあるのです。
もうずっと前のことになりますが、その評価についてはとかく議論の的となった、
哲学者ハイデッガーが「今後、われわれを救えるのは神のみである」と宣言しました。
実際問題として人間の真の希望は、自己がこの地球と宇宙に根づいているのだ、
という確信を新たにすることと、この確信を通じて花開く固有の超越性についての、
自覚と能力を増大させることに見出されるものでありましょう。
政治家が世界の新しい秩序の基礎は基本的人権の尊重にあると、
事あるごとに至るところで繰り返したとしても、それが生命の奇蹟に、宇宙の奇蹟に、
自然の奇蹟に、自らの存在の奇蹟に対する畏敬の念から生じたものでないかぎり、
何の効果ももたらさないでありましょう。
宇宙の秩序の権威の前に、万物創造の権威の前にひざまずき、
それを自己の一部となし、他者とも分かち合える権利を評価し得ないような人間は、
隣人を心から尊重することも―したがって諸権利を尊重することもできないはずです。
そこから論理的に得られる結論は、文化の多様性の中で平均的な共存と、
創造的な協力に至る最も確実な道は、
人間の超越性を原理とするものでなければならない、ということなのです。
これこそ、あらゆる文化の出発点であり、前提であります。
これこそ人間の心の奥底と理性に最も深く刻み込まれているものなのです。
身近な人間に、見知らぬ人に、人間の社会に、生きとし生けるものすべてに、
自然に対して、宇宙にさしのべられる理解に満ちた手としての超越性。
われわれ自身ではないもので、われわれには理解できないもの、
時間と空間の中ではるか彼方にあると覚しきものの存在を含め、
一切のものと調和して深く喜びに満ちて生きる必要としての、超越性なのです。
われわれは唯一のこの同じ世界の一員として、
この超越性と神秘的な絆を保っているのです。
この超越性こそ、われわれが絶滅を免れる、唯一の現実的な選択なのです。







このハベル氏の主張は、
仏国土建設運動に合致したものであり、
まさしくニューエイジ時代にふさわしいものです。

世界にこのような政治家が存在するということは、大きな希望であります。

わが国、日本においても、2020年ごろから、
あの世とこの世を知り尽くした哲人政治家の出現が予定されているようです。




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バツラフ・ハベル氏は、
劇作家出身の自由の闘士であり、
チェコ共和国の民主化に貢献し、大統領に選出されました。

ある本の中に、
彼の、1996年のアメリカのボストンでの演説が載っていました。

その内容に驚き、洗練された思想に感動しましたので、
紹介したいと思います。




新大陸アメリカの発見によって幕を開けた現代は、
やはり1969年にアメリカが月に人を送ったことによって終わったのだ、
と思想家たちは言っております。また、この歴史的な瞬間が、
人類の新時代の第一歩なのだとも言われております。
われわれが歴史の転換期にさしかかっているのだという徴候は数多くあります。
あたかもわれわれが一つの時代の終焉に直面し、何かが粉々に砕け散り、解体し、
実質が骨抜きになりつつあるかのような気が致します。そして残された廃墟から、
誰もはっきりと自覚せぬままに、何か新しいことが立ち現れて来るものと思われます。
このような価値観の基本的な再構築は、過去の歴史にもありました。
中世を誕生させた古代末期にも、近世の扉を開いたルネッサンスにも、
共通点が見出せるでしょう。こうした歴史の転換期の特徴は、
諸文化の交流と、相互影響が著しいことであり、
精神世界が多極化したり類似化したりすることであります。
既存の価値体系がことごとく崩壊する中から、新しい価値体系が胎動しているのです。
政治家は当然のことながら、これほど多様となったわれわれの世界文明が、
生き残る鍵は何か、という問題に頭を悩ませております。
異質なものの平和的共存のために、
受け入れ可能な全体のメカニズムをどのように構築し、
どのような基本原理を設定するべきなのか、と。
こうした問題は20世紀後半になって、植民地支配の終焉と共産主義の凋落という、
二つの重大な流れによって、とりわけ焦眉の急となってまいりました。
戦後数十年の間に築かれた人工的な世界秩序は崩壊したものの、もっと公正な、
新しいシステムはいまだに出現しておりません。ですから、異なる文化、国家、人種、
宗教観を相互に結びつけるような文明を、異質なものの共存のための新しいモデルを、
創造することが、20世紀末の最も重要な政治課題となってきたのです。
逆説的に言えば、過去の失われた霊感を呼び覚ますことができるような可能性は、
今日ではとりわけ科学の中に見出し得るのです。
新しい科学、言わばポストモダンの科学。
ある意味では、自らの限界を乗り越えることを可能にする、
一つの思想に行き着くような科学。
ここで二つ例をあげてみたいと思います。

第一の例は、良く知られている、いわゆる「人間原理」です。
その創始者たちは、宇宙は物質の進化の数ある可能性のうちから、
内部に生命が宿る唯一の可能性を自ら選んだのだ、と指摘しております。
それは必ずしも、宇宙がいつの日かわれわれの目を通じて、
自己の姿を眺めるのだということの保証にはなりません。
しかしそうではないとしたら、ほかにどんな解釈のしようがあるのでしょうか。
われわれが空中を浮遊する物体にたまたま芽生えた、
ちっぽけな苔のようなものでしかあり得ず、
余計な有機体なぞに汚されていない物体が他にいくらでもあるのだと考える限りは、
古典科学にとってこの問題は説明のつかぬものでありました。
だがわれわれもまた宇宙全体と深く結びついているのだと考えるようになって初めて、
科学は自らの能力の限界に達しました。一般法則の探求に基礎をおいた科学では、
特異性や特殊性は処理しきれなくなってしまったのです。宇宙は唯一の事件であり、
唯一の物語であります。そしてわれわれは今のところその唯一の結論なのです。
だが唯一の事件や物語は、詩の特権ではあっても、科学の特権ではありません。
現代科学は人間原理を設けることで、再び公理と物語の、科学と神話の岐路に、
立たされてしまいました。だが逆にそうすることで、科学は人間に近づき、
人間に失われた統一性を、人間と宇宙の新しい関わりを回復させることになったのです。




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2008.04.22 音楽の効能
音楽は慰めです。
粗雑な現実世界を彩る天の恵み。
音楽は極めて霊界に近い存在です。

ルネサンスの思想家フィチーノはこう言っています。

空気の律動によって生じる音楽の響きは、肉体を動かし、純化された空気により、
肉体と霊魂の絆たる空気のごとき精気を刺激し、情緒を通して五感と同時に、
霊魂にも作用し、意味を通して知性にも働きかけうる。その結果、遂に音楽の響きは、
霊妙なる空気の律動そのものにより強力に浸みわたり、そのまったき節度をもって、
淀みなく流れ、その調和のとれた性質により我々を素晴らしい喜びで満たしてくれ、
霊的であると同時に物質的でもあるその本性から、
人を丸ごと捉えてわがものとすべく要求するのである。


いい音楽は、人生を豊かにしてくれ、
音楽による波動は心身に作用し、癒しの効果を発揮します。

体に響くのは吹奏楽器、打楽器、バスや電子音楽、
感情に響くのは木管楽器と弦楽器、
意識に影響を与えるのは弦楽器、
魂に直接響くのはハープ、オルガン、風鈴や高音の弦楽器なのだそうです。




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2008.04.22 耳の痛い話
「千の風になって」の歌では、
霊について肯定され、スピリチュアルは広く認知されています。

しかし、仏教界は閉鎖的で権威主義的であり、
未だ古い因習にとらわれたまま、無我無霊魂説が主流であります。

スピリチュアルやニューエイジを公然と批判する僧侶もちらほらと目につきます。

そんな中で、
スピリチュアリズムの代表格江原啓之氏の著書に、このような仏教批判がありました。




霊の存在を受け止め、真摯な動機で宗教活動をなさっているのであれば、
その報酬を何に使おうと構わないとは思います。
しかし宗教に従事する以上は、やはり慎み深くあるべきなのです。
なぜなら宗教法人は税金を納めなくてよい、
という優遇措置を国から受けているのですから。
「霊や死後の世界は文化だ(真実ではなくフィクション)」と宗教従事者が言うなら、
宗教法人法を改める必要があると思います。
霊の存在を信じず、ビジネスとして宗教をやっている方々からは、優遇措置をなくして、
キッチリ税金を取るべきです。そしてそのお金を福祉に回せばよいのです。
一部の宗教関係者から弾圧を受けることは覚悟の上です。
といっても、たましいの存在を信じ、真摯に学んでいる良識ある宗教人は、
賛同してくれると思います。
そうした宗教人の中には、すでに弾圧を受けている人もいます。
宗教界にも私の理解者はいるんですよ。
また、懐深く受け入れてくださるところもあります。
高野山大学で講演をしたことがあります。巨大な弘法大師の絵を背景にしながら。
私は弘法大師のお導きだと思いました。弘法大師が言ってくれと願ったのだと。
というのも、大師様はおそらく霊能力者ですから。
日蓮もそうでしたが、真理が視えていた思想家なんです。
もちろん、視える視えないと思想は関係ないし、
宗教者が全員視える必要はありません。
私に対するご意見はお受けしておきますが、
その前に、足もとの仏教界に横たわる問題について真剣に考え、
意見を発信することが必要なのではないでしょうか。

「本音発言」






降参であります。




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