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2008.04.27 如来蔵思想2
「若し苦集諦のところを知らざるありて、
『正法は常住あること無し、悉くこれ滅法なり』と言わん。
この因縁をもって、無量劫において生死に流転して諸の苦悩を受く。
もし能く法の常住不異なるを知らば、これを集を知ると名づけ、
集聖諦と名づく。もし人、かくの如く修習すること能わずんば、
これを名づけて、集と為す。集聖諦に非ず。」

「苦滅諦とは、もし多く空法を修習し学ぶことあれば、これを不善となす。
何をもっての故に。一切の法を滅するが故に。
一切法を滅するが故に、如来の真法蔵を壊るが故なり。
この修学をなすを、これを空を修すと名づく。
苦滅を修する者は一切の諸の外道に逆う。
もし空を修するを滅諦と言わば、
一切の外道もまた空法を修すれば、まさに滅諦あるべし。」

「もし説いて言うあらん。
『如来蔵あり、見るべからずと言えども、もし能く一切の煩悩を滅除すれば、
しかしてすなわち入ることを得ん』と。
もしこの心をおこす一念の因縁にて、諸法の中に自在を得ん。
もし如来の密蔵は無我空寂なりと修習するあらば、
かくの如きの人は無量世に於いて、生死の中に在って流転して苦を受く。
もしかくの如きの修をなさざるあらば、煩悩ありといえども、疾くよく滅除す。
何をもっての故に。如来の秘密蔵を知るによるが故なり。
これを苦滅聖諦と名づく。もし能くかくの如く滅を修習すれば、これ我が弟子なり。
もしかくの如き修をなすことあたわざることあらば、
これを修空と名づく。滅聖諦には非ず。」

「道聖諦とは、いわゆる仏法僧及び正解脱なり。諸の衆生あり。
転倒心にて仏法僧及び正解脱なし、生死流転、
なお幻化の如しと言い、この見を修習す。
この因縁をもって三有に輪転し、久しく大苦を受く。
もし能く発心して如来は常住無変なり、法僧解脱もまたかくの如しと見れば、
この一念に乗じて無量世に於いて自在の果報を意にしたがって得。」

[現代語訳]

「もし苦集諦の意味を知らない人がいて、
『正法というような常住なる存在は無い、ことごとく生滅し無常なのだ』
というならば、この因縁によって、その人は、長い間迷いの輪廻転生を重ねて、
さまざまな苦しみを受けることになります。
もし、実相(霊界)というのは常住で不変であり、
その上に幻のようなこの現象世界が顕れている、ということを知るならば、
これを集聖諦と名づけることが出来ます。
もし、このように世界を見ず、ただ愛欲葛藤の集まる世界だけを見ているのならば、
それは〈集〉を知っただけで、集聖諦とは言えないのです。」

「多くの空観を修し、学ぶだけでは、これは善なる行為にはなりません。
何故なら、この世の現象世界もあの世の実相も区別せず、
一切を空として滅し去ることになるからです。
如来の実相である真理の蔵、すなわち金剛不壊の仏性さえも、
空であるからとして、それを破壊してしまうからです。
一切を空として観ずることは、空を修すと言うのですが、
これを滅諦と言うのであれば、仏法以外を信仰する行者の空観も、
滅諦と言わなければなりません。
真に苦を滅する苦滅諦を修する者は、
一切の諸の外道の修法とは逆になるのです。」

「もし誰でもあれ、
『人間は、如来蔵といって、内部に如来を蔵しているのであって、
それは肉眼では見えないが、もしよく努めて一切の煩悩を滅し除くならば、
その如来蔵に達して、その秘密の蔵を開くことが出来るのだ』
という心をおこすならば、その因縁によって、その人は、
どのような世界にあっても自由自在の境地を得ることが出来ます。
ところがもし、如来の秘密の蔵とは、結局、無我であって、
虚無であるということ修行するのならば、このような人は、
実相の仏性を否定することになるので、迷いの輪廻転生を繰り返し、
苦しみを受けることになります。
もしこのような外道の修行をせずに、如来の秘密の蔵を開いて、
仏性は永遠不滅であることを知るならば、
たとえ煩悩があっても、それはすみやかに滅してしまうのです。
これこそ苦滅聖諦と名づけるものであって、
このような滅諦を修行する者が、私の仏弟子であるが、
このように修せず、もし単に空を修するだけならば、
それは修空と名づけるものであって、滅聖諦ではありません。」

「道聖諦とは、苦を滅する悟りに入る神聖な道であり、
仏法僧の三宝と、それを縁とする正しい解脱のことであります。
しかしながら、人々は、有るものを無いとする逆さまの心を起こして、
仏法僧も正解脱も、虚しく消え去るもので、生死流転する我々の姿も、
結局、夢や幻のようなものにすぎない、といって空観の修行をします。
この真理を知らないという因縁によって、
欲界・色界・無色界の迷いの世界を流転して、
長い間、大いなる苦しみを受けることになります。
しかしながら、如来は常住であって変化しない金剛不壊の存在であり、
仏法僧や正解脱も、また常住不変の実相のあらわれであるということを知るならば、
この一念に乗じて、永世の世代を通じて、
思うがままに、自在無碍の果報を得ることが出来るのです。」


「涅槃経」




このように、お釈迦さまは、
聖なる悟りの方法である、苦集滅道の四聖諦を説かれたのでした。




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2008.04.27 如来蔵思想1
お釈迦さまの最後の法が説かれている「大乗涅槃経」には、

人間は、如来蔵という如来の種子を宿していること、
また人間には、金剛不壊の仏性があるということ、
このことを知らないで、単に無我や空法を修行することの危険性が説かれています。

無我や空ということに捉われて、
永遠の魂、真我をも否定してしまうと、単なる虚無主義になってしまうのです。

如来という語は、釈尊自身のことであると同時に、
私達すべての人間の実相を指しているのです。

ここは非常に大切なところなのです。




佛、また迦葉に告げたまわく、
「言う所の苦とは、苦聖諦と名づけず。何をもっての故に。
もし、苦聖諦と言わば、一切の畜生及び地獄の衆生、まさに聖諦あるべし。
善男子、もしまた、人ありて、如来の甚深の境界、常住不変、
微密法身を知らずして、『これ食身、これ法身に非ず』という。
如来の道徳、威力を知らず、これをなづけて苦となす。何をもっての故に。
不知をもっての故に。法を非法と見、非法を法と見る。
まさに知るべし、この人は必ず悪趣に堕し、
生死に輪転し、諸結を増長し、多く苦悩を受けん。
もし能く、如来常住変異あること無きを知り、或いは常住の二字、音声を聞くありて、
もし人たび耳を経ばすなわち天上に生ぜん。
後、解脱の時、すなわち能く如来常住にして変易あること無きを證知す。
すでに、證知しおわりてこの言をなさく、
『我、往昔においてかつてこの義を聞く。今解脱を得てまさにすなわち證知す。
我、本際において不知をもっての故に、生死に流転して周廻きわまりなし。
今日に始めてすなわち真智を得』と。
もしかくの如く知らば、真にこれ苦を修す、利益する所多し。
もし知らざる者はまた勤修すといえども、利益する所なし。
これを苦を知るとなづけ、苦聖諦と名づく。
もし、人かくの如く修習することあたわざれば、
これを名づけて苦となす。苦聖諦に非ず。」

[現代語訳]

お釈迦さまは、弟子の迦葉に言われました。
「世間で言うところの〈苦〉というのは苦聖諦と名づけるものではありません。
その〈苦〉を苦聖諦だと言うならば、
畜生界や地獄界で苦しみを受けている者が、苦聖諦を得たということになります。
善男子よ、誰もが皆、内なる仏性が輝いていることや、
常住不変で霊妙な法身がそなわっていることを知らないで、
肉眼で見えるこの身体だけを見て、
『如来といえども、食べ物の成分によって出来た物質の体にすぎない』などと言うのです。
また、如来の高徳や神通力を知らずに、これを単なる苦しみに満ちた身体だ言います。
こう言うのは、無智によるものです。何故ならば、
存在するものを存在しないと見て、非存在のものを存在すると見ているからです。
これらの人は、本来存在しない肉体に執着をつくり、地獄界などの悪い境界に流転し、
煩悩を増長させ、多くの苦しみを受けることになってしまいます。
しかし、如来の実相が常住であって、不滅の魂であることを知ること、
如来常住の常住の二字を音声によって聞くこと、によって大きな功徳があるのです。
常住の二字が耳を通過するだけでも、その人は天上界に帰れるほどです。
そして、その後悟りを得て、いよいよ如来が常住で不滅であることを知り、
無常ではなかったと、知ることになります。
そして、その人はこう言うのです。
『私は昔、如来常住の真理を聞いたことがありましたが、
今解脱を得て、まさに如来常住の真理を体得しました。
私は今までこの現象界にあって、無智のせいで、
迷いの輪廻転生の中で苦しみを受けてきましたが、
今こそ真の智慧を得ることができました』と。
こうして、無常にして苦なる境涯を越えて、如来常住の悟りに入ることができるならば、
これこそ、苦諦を修行したことになるのであり、利益も多いのです。
このことを本当の〈苦〉を知るとなづけ、苦聖諦と言うのです。
魂の不滅を悟る道程としての〈苦〉があらわれていることを知らない者は、
どのように〈苦〉を感じても、何の利益もないのです。
このような苦しみは、ただの〈苦〉であって、苦聖諦と言うべきではありません。」





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今日生れてはじめて、ニコニコ動画にコメントしました。

しかし、タイミングを間違えてしまいました。

ニコニコ動画はタイミングが命ですね。(何の話をしているのでしょうか?)


今日感じたこと ― 娯楽や芸術は、ゆとりがなければ楽しめない。




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