僧侶のたくらみ

仏教とニューエイジの対話を推進するべく、 こっそりと活動中

布施行の功徳

修行者の霊的覚醒には、様々なレベルがあります。
お釈迦さまは、決して一足飛びに仏になれるとは、説きませんでした。

さらに、仏教徒が、布施行をする場合についても、
それによって得ることのできる利益が違ってくると言われるのです。




さて、アーナンダよ、個人に対する布施として、これら十四段階がある。

まず、修行を完成した人(如来)であり、尊敬されるべき人(阿羅漢)であり、
正しく悟った人(等正覚者)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第一番目である。
独りで覚った人(辟支仏)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第二番目である。
修行を完成した人の弟子で、
聖者の最高の境地に達した者(阿羅漢果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第三番目である。
聖者の最高の境地を実証するために、
修行中の者(阿羅漢向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第四番目である。
欲界に戻ってこない者(不還果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第五番目である。
欲界に戻ってこないという結果を実証するために、
修行中の者(不還向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第六番目である。
もう一度だけ人間界に戻って来る者(一来果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第七番目である。
もう一度だけ人間界に戻って来るという結果を実証するために、
修行中の者(一来向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第八番目である。
聖者の流れに踏み入った者(預流果)に対して施しを与えるのが、
個人に対する布施の第九番目である。
聖者の流れに踏み入ったという結果を実証するために、
修行中の者(預流向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十番目である。
異教を学ぶ者(外道)で欲望への貪りを離れた者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十一番目である。
世俗の人々(凡夫)のうち戒めをよく守る者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十二番目である。
世俗の人々のうち戒めを守らない者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十三番目である。
動物(畜生)に対して施しを与えるなら、これが個人に対する布施の第十四番目である。

そこで、アーナンダよ、動物に対して施しを与えたならば、
その布施は、百の利益を得ることが期待できる。
世俗の人々のうち戒めを守らない者に対して施しを与えたならば、
その布施は千の利益を得ることが期待できる。
世俗の人々のうち戒めをよく守る者に対して施しを与えたならば、
その布施は十万の利益が期待できる。
異教を学ぶ者で、欲望への貪りを離れた者に対して施しを与えたならば、
その布施は一兆の利益が期待できる。
聖者の流れに踏み入ったという結果を実証するために、
修行中の者に対して施しを与えたならば、
その布施は、数えきれず量りきれない利益を得ることが期待できる。
そうであるから、
ましてや聖者の流れに踏み入った者に対して与えた場合は、いうまでもない。
もう一度だけ人間界に戻って来るという結果を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
もう一度だけ人間界に戻って来る者に対して与えた場合は、いうまでもない。
欲界に戻ってこないという結果を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
欲界に戻ってこない者に対して与えた場合は、いうまでもない。
聖者の最高の境地を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
修行を完成した人の弟子で、
聖者の最高の境地に達した者に対して与えた場合は、いうまでもない。
独りで覚った者に対して与えた場合は、いうまでもない。
修行を完成した人であり、尊敬に値する人であり、
正しくさとった人に対して与えた場合は、いうまでもない。


パーリ原始仏典中部第142経「施分別経」



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クリシュナの教え

クリシュナ(聖バガヴァッド)の教えは、
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」に記されています。
紀元前4700年ごろ、インドに生れた大如来クリシュナは、イエス=キリストの前世なのです。
その教えからは、その片鱗がうかがえます。
宗教の根は一つなのです。




「私は不生であり、その本性は不変、万物の主である。
実に美徳が衰え、不徳が栄える時、
私は自身を現わすのである。善人を救うため、悪人を滅ぼすため、
美徳を確立するために、私は世期ごとに出現する。」


「主は万物の心の中にある。全身全霊で主にのみ庇護を求めよ。
その恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。」


「人々がいかなる方法で私に帰依しても、
私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」


「ブラフマン(神)と一体になり、
その自己が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。
彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。
愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。
私に帰依する人は、常に一切に行為をなしつつも、
私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。」


「私は万物に対して平等である。私には恨むものも好きなものもない。
しかし、信愛をこめて、私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。
たとえ極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、
彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。
速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。
確信せよ。私を信ずるものは、滅びることはない。」


「バガヴァッド・ギーター」




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無財の七施

精神世界の探求が単なる現実逃避となってはいけません。
愚僧にもその懸念があるようです。自らを戒めたいと思います。

大切なのは、愛の実践であります。
物質の施しだけではなく、法を説く法施も大切です。

他にも、仏教には無財の七施といって、誰にでも出来る愛行があるのです。


1、眼施(げんせ)・・・慈愛のこもった眼差しを向ける

2、和顔悦色施(わげんえつじきせ)・・・常に和やかな笑顔をつくる

3、言辞施(ごんじせ)・・・愛のある優しい言葉を使う

4、身施(しんせ)・・・身体による善行によって奉仕する

5、心施(しんせ)・・・慈愛の心で接する

6、床座施(しょうざせ)・・・座席や場所を譲る

7、房舎施(ぼうじゃせ)・・・宿泊や休憩の為に自宅を提供する





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自分の可能性

現代社会は、
学校を卒業すればもう勉強しなくてもいいという時代ではなくなりました。

社会人になっても、常に学び続けることが求められる生涯学習の時代です。

本当は、学び続けることが出来るということは、幸福なことなのですが、
競争社会の中で自分と他者とを比較してしまい、
限界やスランプを感じてうつになったり、自分に絶望してしまうことがあります。

世間は厳しいと言って、自分の夢を諦めてしまうことも多いです。

しかし、自分の可能性を信じて、努力しつづけることで、必ず道は開けます。

人間は、努力する限り成長し続けるように出来ています。

ですから、他人との戦いではなく、自分の限界との戦いなのです。

このことは、多くの先達が言っていることです。

もう駄目だと思ったときこそが、さらなる成長のチャンスなのです。


アメリカを代表する新個人主義派の心理学者ウエイン・ダイヤー博士の言葉です。


悲しみとは、金や健康、愛、友達、
場合によつては自由な時間といったものが十分にないと考えてばかりで、
「不足の観点」から世界を見る習慣のことを言う。
一方、喜びは、「満たされているという観点」から世界を見ることを言う。
喜びを感じている人々は、自分に力や才能があることを喜び、自分を人と比較しない。
他の誰かの力や所有物、権力に威圧されることもない。
喜びは、自分の可能性、自分には無限の力があるという認識から生まれるのだ。





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国民の宗教意識

国民の宗教観調査に関するニュースです。

この調査結果をみる限り、
特定の宗教団体を信じる人は減少ぎみですが、
神秘を肯定する人は約6割、魂の存在を認める人は5割以上にも達しています。
日本も、ニューエイジ的傾向を示しはじめました。
もはや唯物論者は少数派です。僧侶はどちら側に属するべきなのでしょうか?




宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査

5月29日23時41分配信 読売新聞

読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、
何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、
信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、
「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、
薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。

また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、
「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」
という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、
人知を超えた何ものかに対する敬虔さを大切に考える傾向が強いようだ。

調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。

死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、
「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%−がこれに続いた。




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愛の実践

人々は宗教の重要性に気づきはじめています。

無神論が知的で、かっこがいい、と思われた時代は終わりました。

最近は、あまりにも辛く悲しい出来事が増えてきています。

目にみえぬもの、宗教的価値観をないがしろにしてきた結果です。

すべては、人間の自我我欲から生じます。

だから、正しい宗教では無私と無我の精神が説かれます。

この世には、もっと優しさや愛が必要です。

地球を救うのは、愛しかありません。

そのためには、神仏の愛を知る必要があります。

信仰を第一の価値観とする世界が実現されなければいけません。

人々は、愛に飢えています。

愛の実践に生きる人こそが、最もかっこいいのです。




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学問としてのスピリチュアル

最近になって、
学問として、スピリチュアリティーが扱われはじめました。
特に、医療の分野では急速にスピリチュアルな考え方が広まりつつあります。

何故なら、終末期医療などでは、
患者のスピリチュアルペイン(深い心の痛み)を緩和するためには、
「肉体の死は終りではない」とする考え方が、
非常に大きな役割をはたすことが確認されているからです。

終末期医療では、スピリチュアルケアは必須の項目なのです。

唯物論的な思想を持った学者は、
日本人にはスピリチュアルの意味が分かりにくい、とよく言いますが、
理解したくないというのが本音でしょう。

スピリチュアルとは、単に霊魂のことなのですから。

仏教者はこうした風潮に対して苦肉の策で、
スピリチュアルとは、鈴木大拙氏の「日本的霊性」で言われている、
無意識に潜む大地に育まれた平等心というような「霊性」であって、
霊魂などではない、と言っています。

しかし、大拙氏には、
スウェーデンボルグの思想に共鳴していたという、
心霊主義者としての側面もあったことを見過ごしてはなりません。

これからは、スピリチュアル仏教の時代です。(?)

京都大学大学院人間・環境学研究科兼こころの末来研究センター、
カール・ベッカー教授は、こう指摘されています。


西洋医学の調査でも、臨死体験者の多くは「光の神」を見たという報告があります。
あまりに数が多いので、
医師はやむをえず「figure of light」(光の姿)という語を作らざるをえなくなりました。
しかしこれとよく似た現象と言葉は、中国・韓国・日本の仏教には千数百年も前から、
すでにあったのです。仏教の来世観の一つである浄土思想です。
そこでは、絵巻や往生伝などで、阿弥陀如来の来迎が数多く描かれています。
阿弥陀とは「無量光」という意味です。
臨死体験は決して酸素不足や高熱、麻酔に還元できる幻覚ではなく、
むしろ健常な患者ほど体験する確率が高いことも分かってきました。
つまり我々は、死んで何もかも無になる、灰になるのではありません。
牢屋である肉体から解放されて、もっと明るい、
さらなる可能性と試練を潜めている別の次元に接する可能性の方が大きいのです。
「死はすべての終わり」という発想は仏教に反しているということです。
日本の仏教学が唯物論的になってしまったのは、
19世紀末、唯物的な西洋哲学を導入した影響でもあります。
日本人のほとんどはクリスチャンではなく、仏教的な他界観を持っています。
そうした日本人に合った日本的・仏教的スピリチュアルケアが、
求められていると思われます。  





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信仰のすすめ

仏陀が全世界の人々に、
私を信じてついて来なさいと、光を強めている今日。

仏陀は神の意思の体現者ですから、
その時代において最大の権限を有しています。

ゆえに、仏陀には最大の力が与えられているのです。

このブログが、
その事実に気づくきっかけにでもなれば幸いです。

これからも、愚僧は精進してまいります。

皆様が、永遠のいのちを掴まれますように。

これからの時代は、信仰を持つものはますます幸せになっていくことでしょう。




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近づくアセンション

ニューエイジ界は、
しきりに2012年ごろに、アセンションが起きるだろうと警告しています。

アセンションにもいろんな説があって、
地球まるごと五次元に次元上昇して、
人間の肉体生活は終焉する、というものまであります。

愚僧が考えるアセンションとは、
現代の状況から考えてみますと、
唯物論者と霊的世界を信じる人達の戦いに決着がつき、
霊性文明がはっきりとスタートするのが、2012年ごろではないかと思っています。

霊的世界を信じる人の割合がある一定の臨界点を超えると、
一気にパラダイムシフトがおこり、その後は常識となるのです。

これは、大きな意味では、宗教と科学の融合でもあります。

すでに昔から霊天上界において計画されてきたことであり、
スピリチュアリズムやニューエイジの勃興が、まさにこのことを物語っています。

現在は、ちょうど新たな文明が始まる前の胎動期なのです。

こうした状況を適確に説明している文章です。


全世界はニューエイジの光に浴し、おおわれ、洗われているように見える。
今日の重要な文化的社会的現象はすべてある程度この事実を認識させるものである。
新しいエネルギーを利用する新しいグループは各々、
まったく新しい思想形態をもっている。
古い思想形態と文化的偏見はすべてかなりのスピードをもつ速さで一掃されつつあり、
その結果、世界は一時的に混乱するかもしれない。
こうした出来事は破壊的で、暴力的でさえありうるが、
その各々が新しいものが起こるためには、
古いものは消え去らなければならないという基本的な原則を反映している。
こうした「新しいエネルギー」の意味と原因を充分に認識し、理解する能力がなければ、
混沌や混乱を巻き起こしてしまう。
何千万人の人々は、世界を取り囲み満たしているすべてのバイブレーションの場が、
急激な変化を経験する過程にあることを見ており、また感じている。
こうした変化は今まで慣れ親しんできた古い思想形態を根こそぎにするので、
それに反抗する人々に強い不快感や恐怖感や精神的な葛藤を巻き起こす。
しかし同じ変化でも、新しいエネルギーを受容する人々にとっては、
圧倒的な調和と平和の感じを与えるのだ。
世界の両極化と分散、その衝突と分裂は、それが宗教的、政治的、経済的、
社会学的、または個人的なもののいずれであろうとも、
ひとつの原因、すなわち、新しいエネルギーであると見られている。
それは地球がこれまで一度も経験したことのないもろもろの新しいエネルギーである。


「フィンドホーンの魔法」ポール・ホーケン




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霊的借金の返済

生きていくということは、借金を背負っていくことです。
生きることで、多くの罪をつくっています。
私達は、他のいのちを犠牲にしてしか生きていくことは出来ません。

また、この世に生きていると、
肉体が自分だと錯覚してしまい、その欲望の趣くままに罪をつくり続け、
肉体の死後には地獄といわれる世界に行くことになりかねません。

この霊的な意味での借金がカルマだと言えます。
今世で借金を返さないと、来世でその借金を返さなければならなくなります。

このために仏法が説かれているのであり、反省が必要なのです。

反省は、霊的な借金を返していく行為であり、貯金をすることでもあるのです。


人間として生きていく以上、罪は犯していまいます。
人間は誰もが完全では無いために、
犯した罪も取り返しがつくように、反省という秘法が与えられているのです。

本当は、私達の肉体も魂も、すべて神仏によって与えられたものです。

従って、反省が出来る為には、
それを与えているところの神仏を信じきることが大前提になります。
その反省の基準は、自分自身では分からないものです。

宇宙を統べる根本神を信じること、
地上に生れた仏陀を信じること、
如来や菩薩などの霊存在を信じること、

これらが出来てはじめて、
反省という行為によって、
罪が修正され、光を引き入れていくことになるのです。




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消滅した世界宗教

マニ教は、現代では忘れられた宗教です。

3世紀のペルシャで、
マニが24歳の時に啓示を受けて開教されました。

マニは自らを、「キリストの後継者」、「神の使い」と呼び、
諸宗教を統合した新しい教えを布教、伝道しました。

しかし、当時の国教であったゾロアスター教を奉じる人々から、
嫉妬や脅威による迫害を受け、
生きたまま皮をはがされるという残虐な手段により処刑されています。

マニ教は、かつては、スペインから中国にかけて広がりをみせていましたが、
現在では、幻の世界宗教となってしまいました。


マニは、天上界からの啓示を受け、
自らが救世主であることを自覚していました。

現存する著作「ケルンのマニ写本」でこう言っています。

私は、光の天使たちと、非常に強い諸力によって守られていた。
彼らは光彩を放つイエスから、私の世話をするよう命じられていた。
私は彼らから、さまざまな光景やしるしを見せられた。
それらはかすかでごく短い間しか続かなかったが、
私が可能な限り知ることができるようにしてくれた。
ときおり稲妻の閃きのように彼がやって来た。

私のこと、私は誰なのか。
私と不可分の双子の兄弟は何者なのか、高きところの父が何者か。
彼から切り離された私がどのように、彼の目的に沿って送り出されたか。
私がこの道具である肉体をまとい、
この忌まわしい肉に包まれて迷い道へと導かれる前に、
父から何を命じられ、どのような助言を受けたのか。
また、私の魂に関しては、これはすべての世界の魂として存在するのだが、
それが何であり、どのようにして生まれたのか。
さらに、私は彼から、無限の高みと底知れない深みを見せられた。
世間から隠され、誰一人見たり聞いたりすることを許されない神秘を見せられた。
彼は私にすべてを見せてくれた。



マニの言及が記録されている「シャープーラカーン」には、こうあります。

神の使徒たちはいつの時代にも絶えることなく、
霊の叡智や業を運んできた。
ある時代には、ブッダという使徒としてインドの国々を訪れた。
別の時代には、ゾロアスターとしてペルシャの地を、
また別の時代にはイエスとして西の地を訪れた。
その後、この最後の時代にこの啓示が下り、
私という預言者、真の神の使徒であるマニが、バベルの地に到来した。



マニは、世界宗教を創設するという使命をもった大如来であり、
前世では、ゾロアスター教の開祖でもあったのです。

自らの前世を開祖と崇める人々によって処刑されるとは、
何という歴史の皮肉でしょうか。
いつの時代でも、人間は、救世主の存在に気づかず、愚かな行為を繰り返しています。




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反骨の新聞人

超宗派の宗教新聞、「中外日報」の創刊者である真渓涙骨氏は、
明治、大正、昭和をまたにかけて活躍したジャーナリストです。

彼は、宗教界全般に絶大な影響力を持っていました。
大変、交際の幅が広く、
大本教の出口王仁三郎氏とも友好関係にあったほどです。

彼自身も、仏門に入門していましたが、
終生、仏教の覚醒と、宗教界の革新のために尽力した宗教者でもありました。

彼の力強い言葉を紹介します。




人生の要諦は自己反省にある。自己反省とは徹底的な自己発見だ。
深夜独り自己反省に耽る瞬間を持つものは、大悟の人生に触れる。

今を生活する、今を呼吸する、今を行楽する、一瞬の今、永遠の今、
今を外にして全生涯はあり得ない。

土から生れて土に還る肉の人間と、天から生れて天に還る霊の人間とがある。
その二にして不二の一体が永遠の歴史を造って行くのだ。

汝は正しく人間なり。果たして自ら天地の眼なりと信じ得るや。
果たして自ら宇宙の魂なりと悟り得るや。
この自信この自覚なくして人間は終に何処へ往かんとするか。

神の愛は隣人の愛を通して我等に交流し、
隣人の愛は神の愛を招いて我等に転入する。
神と我、我と隣人、常に三位一体の関係にあるが如し。

不可能を可能とする、それが即ち、人間の上に神力の加わった現象だ。
神の照覧にかなわねば可能すら悉く不可能となる、
恐るべくいましむべし。

宗派の垣を除け、教団の塀を崩せよ、異教徒と手を握れ!
異信者と交わりを結べ!各地各様形式にこだわらず、
魂と魂の融合に直結せよ!





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木星の音

ボイジャーが録音した木星の発する音・・・らしいです。







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ハーンの仏教観

小泉八雲という名で、日本に定住し、
日本文化を世界に紹介したラフカディオ・ハーンは、
怪奇文学者として有名でありますが、
仏教研究者でもあったことはあまり知られていません。

ハーンは、
明治期の日本に多大な影響を与えたスペンサーの思想に傾倒していたのですが、
その思想を超えるものを、仏教に見出していたと思われます。

ちなみに、
スペンサーは「進化」という概念を提唱しましたが、唯物論者ではありませんでした。

ハーンの仏教に関する論稿です。




いまだに欧米には、涅槃というものが仏教徒にとっては、絶対の無と同じもの
―つまり、完全な寂滅を意味する、という考えが広く行なわれている。
この考えはまちがっている。
ただし、それはそのなかに半分の真理が合まれているために、誤まられているのである。
この半分の真理は、あとの半分の真理と一つにならなければ、なんの価値もないし、
またおもしろ味もない。だいいち、納得がいかない。
ところで、そのあとの半分の真理というのは、ふつうの西欧人の頭では、
てんで不審を立ててみることすらできない代物なのである。
なるほど、涅槃は消滅を意味する。
しかし、この個の消滅ということを、霊魂の死滅と解釈すると、
涅槃というものの概念と食いちがってくるのである。
あるいはまた、涅槃というものを、インドの汎神教が予言したように、
有限が無限のなかに没滅することと解釈すると、
その観念は、およそ仏教とは縁のないものになってしまうのである。
涅槃というものは、そういうものではなくて、個人の感覚・感情・想念の消滅を意味する。
―つまり、意識ある個性の究極の解体を意味する。
―いいかえれば、「我」ということばに包合されるいっさいの物の寂滅を意味する。
‥‥と、こういえば、
これなら仏教の教えの一面を正しく言いあらわしたことになるのである。

涅槃に入るのは、感覚や意識を持った「自我」ではないのである。
「我」とは、無量無尽の煩悩の一時的な集合物にすぎない。
それは魂の殻であって、いずれは破れるにきまっている泡沫にすぎない。
つまり、「我」とは、「業」から生まれたもの―というよりも、
仏教徒の主張するように、「我」がすなわち「業」なのである。

人間という不完全な存在の、偽れる意識のかげに、―覚、識、想の及ばぬところに、
無自覚にかくれ住みながら、
―われわれが霊魂と呼んでいる袋(じつは、その袋は、
煩悩という厚地の布で織ってある袋なのだが)のなかに包まれて、
そこに永遠にして神聖犯すべからざる、絶対の実在があるのである。
これは霊魂でもなく、また個性でもない。
これこそは、我所なき「全我」―「無我の大我」、つまり、
「業」のなかに胎蔵している仏性なのである。
あらゆる仮象の自我(我相)のなかに、この仏性が住んでいる。
あらゆる生類のなかに、この無量無尽の智慧が眠っているのである。
この智慧は発達もせず、埋れたなりで感得もされず、
知られもせずに眠っているのであるが、
さいごにはいっさいの無窮から目ざめて、煩悩の怪しい蜘蛛の囲を打ちはらい、
ついに肉の蛹を破って「空間」と「時間」の究極の征服に入るべく、
運命づけられているものなのである。

人格をもった神の信念が消滅して、個人の霊魂を信ずる信仰が持てなくなって、
最も宗教心に篤い人たちが、これまで宗教と呼んできたものにそっぽを向け出し、
世界的な懐疑心が倫理上の向上精神に日一日と圧力を加えて行くという、
こんにちのような知性的進化の時代にあたって、
光りはまさに東方からさしいでてきているのである。
われわれはそこに、われわれのそれよりも古い、洪大な信仰、
他のいかなる体系よりもすぐれた道徳体系を教え、
今後いかなる積極的な知識形態も打ち破ることのできない希望をもっている、
偉大な信仰に直面していることに気づくのである。


「仏の畑の落穂」




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唯物論大国

日本人は、思想を持つべきだ。

根なし草のように、漂うばかりの国民。

信仰を嘲笑うマスコミ。

物質の扱いに長けることは、もちろん素晴らしい。

しかし、何故日本では、形而上学が学問になりえないのか。

何故、オカルトという言葉で、ひとくくりにされてしまうのか。

仏教は解体され、西洋神秘主義も理解されず、残されたのは神なき唯物論。

「人権を守ろう」、「美しい国に」、「いじめを止めよう」、
「ゆとり教育」、「平和主義」、「いのちの尊さ」、全てが空虚に響く。

何故、いのちは尊いのか?何故、人を傷つけてはいけないのか?

大人は、答えることが出来ない。

何故なら、唯物論には、意味や価値など存在しないのだから。




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愛の医学

唯物論の間違いを認めることは、人間の敗北ではありません。
むしろ人間にとっての福音です。

それはとにかく、大いなるものにたいして謙虚になるということなのです。

特定の花びらから作られる液薬を用いる、
バッチフラワー療法の創始者である、
イギリスの医学者、エドワード・バッチ博士のお言葉です。




病気をなくすことは、人類が宇宙の不変の法則の真実を理解し、
それを人間に適応し、その法則に従い、魂と個性の間の調和を実現し、
人生に真の喜びと幸福をもたらすことができるかどうかにかかっています。
そして、医師の役目は患者に真実を理解させ、調和を実現させる方法を解き、
自分の中にすべてを克服することのできる神の力があることを信じさせ、
性格の調和と身体自体の治癒力を高める薬をあたえることです。
ここでいう、力のつく薬は、自然の中に存在しています。


「汝自身を癒せ」




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菩提心

仏教においては、菩提心ということが非常に大切にされます。

菩提心とは、簡単にいうと、悟りを目指すと決意することです。

また、他者のために愛に生きると決意することです。

仏教では、最初から他力に救い求めるのではなく、

まず、内なる仏性を信頼して、開発していこうとするのです。

大乗仏教では、修行者は菩薩になることを目指します。

菩薩とは、慈悲心を持って、衆生を救うために尽くす存在です。

菩薩になるためには、まず菩提心を起こす必要があるのです。

菩提心とは、自他と仏は根本において一つであることを信じる心です。

また、常に、霊性の向上を目指して修行する意欲を保ち続けることです。

そして、正しい修行法を知り、それを実践して仏道を歩むことです。

菩提心を起こすということは、修行者の原点であり、かくも尊い行為なのです。




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因果応報

輪廻転生は、仏教教義において中核をなす重要な概念です。
にもかかわらず、これを否定する仏教徒は数多くいます。

例えば、インドの新仏教徒運動で知られるアンベードカル博士は、
輪廻転生は、カースト制度を温存する原因になっているとして、
仏教からこれを意図的に排除しました。

日本においても、
輪廻転生の教義は、差別を助長するものであるとして、
これを排撃しようとする動きもあります。

アンベードカル博士は、その著書「ブッダとそのダンマ」でこのように言っています。

「前世カルマ説は、全くもってバラモン教義そのものである。
現世に影響をおよぼす前世のカルマは、バラモンの霊魂説と全く合致するが、
ブッダの非霊魂説とは全然一致しない。
これは、仏教をヒンズー教と同じものにしようと考えた何者かか、
仏教とはいかなるものかをまるで知らない者によって、持ちこまれたものである。」

「前世カルマが来世を支配するというヒンズー教義は、正に邪悪なものである。
このような教義を作り上げた目的は何であったのか。
考えられる唯一の目的は、国あるいは社会が、
貧しく身分の低い人びとの悲惨な状態に対し責任逃れするためである。」

このような主張は、日本でもよく聞かれるものです。

仏教者は、こうした意見に対してきちんと反論していくことが今後の課題です。

因果応報は、宇宙の法則であるという事実は曲げられません。
原因があれば必ず結果があります。
私達人間においても、今世のみで、その法則が完結するということはありません。

輪廻転生をかたよってとらえると運命論的になり、努力の放棄や諦めの理論にもなります。

しかし、本来の輪廻転生は、
自分の人生に自らが責任を持ち、末来を切り開いていくためのものです。

生れによって幸・不幸が決るのではなく、行為によって幸福になれる、
という視点を忘れてはいけません。

私達は、何度も、
地上のいろいろな環境下に生れては、魂修行を繰り返している存在です。
この永遠のいのちを与えられているという事実は、
大いなる神の恩寵以外のなにものでもありません。


新進の仏教学者、宮元啓一氏は、大変説得力のある主張をされています。

インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されてきた。
しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動のなかで、
輪廻説は急速に旗色を悪くしていった。
科学(サイエンス)は、経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、
死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することがない。
したがって、科学的な死生観などあるはずもないのに、多くの人々は、
輪廻説は非科学的な迷信だという。科学的か否かという基準で死生観を論ずるなど、
これこそまさに迷信にほかならない。しかしそれにしても、輪廻説は人気がなく、
そのような迷信を仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが信じたはずがない、
いや、輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったのだ、
と主張する仏教学者や僧侶や熱心な仏教信者が多いのには、
いささか驚かされるところもある。これでは僧侶は仕事がしにくいであろうに。
また、輪廻の六道からの一種の抜け道ともいうべき極楽往生も、極楽の存在を、
同じような理由で信じない人が多い昨今、とんと人気がなく、
浄土教系宗門の僧侶たちにとって悩みの種である。 

倫理は、人に、未来を視野に置いて、為すべきことは何かを考えさせる。 
因果応報というと、それぞれの人の今の境涯を、過去の因によって、
いわゆる宿命論的に決定づけ、支配者、社会的強者による弱者への差別を、
固定化することに用いられることが、わが国の歴史にもあった。
しかし、倫理への動機づけであるはずの因果論は、
過去の行いが現在を規定するという場面で用いられるのはやはり誤りで、
現在のわが実存が、自由に未来をみずからの力によって切り開く、
という文脈で用いられるのが本来である。
倫理の視野は常に未来にあるから、したがって、
倫理はわれわれの短いこの世での人生だけでは完結しない。
倫理は、生を超え、死の向こう側をも志向し、ゆえに死生観に深く関わる。
世界で数ある死生観のうち、輪廻説は、倫理的、
論理的にきわめて多様で緻密に出来ている。
一部の仏教学者や僧侶たちが主張したがるように、
現代の仏教においてパラダイムの転換が必要だというならば、
それは、輪廻説という枠を否定することではなく、
輪廻説の枠の内をいかに巧みに解釈改変をするかに腐心することである。
知性のある人ならば、汚れた盥の水といっしょに赤子を流すような愚を犯してはならない。





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希望の光

邪教は数限りなく存在します。

しかし、神は人類を見捨てるようなことはしません。

正しい宗教は、存在するのです。

ニューエイジ運動もその一環です。

よく目を凝らせば、世界的な霊性復興のうねりが見えてきます。

全人類救済の為に本気で立ち上がっている団体があります。

一見同じようなことを言っていても、その違いは明確に分かります。

その教えを奉じる人々が実際に幸福になっているかどうか?

その教えを奉じる人々が無私の精神を持ち、愛溢れる人格者となっているかどうか?

その教えを奉じる人々が伝道に熱意を持っているかどうか?

神の使命を帯びた人々は、闇の中で強烈な光を放つのです。

仏法僧の三宝に帰依し、無我に生きている人々が、人類の希望の光なのです。

よもやその光に破られる闇とはならぬよう、愚僧も精進します。




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神々の師

お釈迦さまは、神々の師でもありますから、
法を説かれる時には、多くの神々が集まってきました。

ある時、お釈迦さまは、
弟子達に、天眼(霊能力)でもってこれらを見るように促され、
神々の名前を明かしていきます。
一方で、誘惑しようとしてやって来た悪魔をもよく知るように告げられ、
これを退散させています。

このことが書かれたお経は、「神々の愛する経」とも言われて、
伝統仏教では、「護呪経典」の一つとして、尊重されているのです。



世尊は、比丘たちに告げて言われた。

「比丘たちよ、十方世界の多くの神々が、
如来と比丘僧団に会うために、集まっています。
比丘たちよ、過去において、
かの阿羅漢にして正自覚者となった世尊たちにもまた、
現在の私にあるように、これが最高のものであるとして神々が集まりました。
比丘たちよ、未来において、かの阿羅漢にして正自覚者となる世尊たちにもまた、
現在の私にあるように、これが最高のものであるとして神々が集まるはずです。
比丘たちよ、天の群衆の名前を述べることにします。
比丘たちよ、天の群衆の名前を讃えることにします。
比丘たちよ、天の群衆の名前を示すことにします。
それを聞き、よく考えなさい。それでは語ります。」

「かしこまりました、尊師よ。」と、かれら比丘は世尊に答えました。  

世尊はつぎのように言われた。

「私は詩句を唱えよう。 
地の神々の場所に依存し、山・洞窟に依存し、
かれらは自ら励み、入定している。

多くの者は獅子の如く、身じろぎもなく坐している。
心は純白、清浄にして、濁りを離れ澄んでいる。

カピラヴァットゥの近くの林で、五百に余る者たちを知り、
教えを喜ぶ弟子たちに、それより師は告げて言った。

『天の群衆はやって来ている、かれらを知るのだ、比丘たちよ。』

仏の教えを聞いたあと、かれらはまた熱心となった。

霊的存在たちを見るという、天眼智がかれらに現われた。
ある者たちは百を千を、あるいはまた七万を見た。

ある者たちは、十万の霊的存在たちを見てとった。
ある者たちは無数を見た、全方向に広がっていたゆえ。

またその一切をよく知って、
具眼者として確定し教えを喜ぶ弟子たちに、
それより師は告げて言った。

『天の群衆はやって来ている、かれらを知るのだ、
比丘たちよ、私はかれらを讃えよう、言葉で順にそなたらに。』

人を幻術で惑わす、四天王の手下が来た。
マーヤー、クテーンドゥ、ヴェーテーンドゥ、
チャンダナ、カーマセッタ、キンヌガンドゥ等。

神の御者である、マターリが遣って来た。
羽を持つ天使、ガンダッバの王も遣って来た。
天候を自在に司る龍の神、ナーガも遣って来た。

金剛杵を手に持つ、インドラ神によって、
打ち負かされた阿修羅は、海に暮らしている。
強力な軍を持っていて、第二天界と戦っている。

地の神、水の神、火の神、風の神、更に、
ヴァルナ神、ヤサ神、ソーマ神が遣って来た。
慈悲の瞑想をして、光輝を持って再生した神々。

サハリ神、アサマ神、双子であるヤマ神、
月に住む神々が、月を先頭にして遣って来た。
太陽に住む神々が、日を先頭にして遣って来た。

ヴァス神の首長、インドラが遣って来た。
帝釈天サッカは、三十三天の指導者であって、
神通を備えて、容姿に優れた、高貴な王である。

燃え上がる火、サハブー神が遣って来た。
アリッタカ神、ロージャー神、ヴァルナー神、
神通を備え、容姿に優れた、高貴な神々である。

赤色の神々である、ローヒタヴァーシン、
緑色の神々である、ハリの神々が遣って来た。
神通を備え、容姿に優れた、高貴な神々である。

雷鳴を轟かせつつ、豪雨を降らせながら、
雷雨の神である、パッジュンナが遣って来た。
神通を備えて、容姿に優れた、高貴な神である。

第四天界のトゥシタ天より、遣って来た。
第五天界のニンマーナラティが、遣って来た。
第六天界からは、パラニンミタが、遣って来た。

梵天からは、サナンクマーラ、ティッサ、
ハーリタ、スブラフマー、パラマッタが来た。
神通を備え、容姿に優れた、高貴な神々である。

大梵天と共に、かれらすべての神が来たとき、
魔の軍勢は前進した。
見よ、黒なる魔の愚かしさを!

電光ともに雨雲が、あたかも雷鳴するように、
怒り、自ら力を失い、かれらはそこで退散した。

またその一切をよく知って、世尊は語ろうと思い、
教えを喜ぶ弟子たちに、それより師は告げて言われた。

『魔の軍勢が前進している、比丘らよ、そなたらは知るがよい。』

かれらは仏の教えを聞いて、また熱心に努め励んだ。
魔の軍勢は、離貪の聖者たちから去って行った。

戦いに勝ち、すべての者は、恐怖が過ぎ去り、誉れあり。」



パーリ原始仏典第20経「大集会経」




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ラマナ・マハルシの教え

ガンジーやユングも尊崇していたといわれる、
インドの20世紀の聖者ラマナ・マハルシの言葉です。



人間の真性質は幸福です。幸福は真の自我に植えつけられた天性です。
幸福を求めるのは、真の自我を無意識的に求めているのです。
真の自我は亡びるものではありません。
だからそれを見出した人は、終りなき幸福を見出します。


すべての思想の初一歩は、各人の心の中に在る原始的思想で、我という思想です。
この思想が生れて来た後、さまざまな思想がおこって来ます。
心の中に最初の個人的代名詞「我」というものがおこって来た後、
第二の個人的代名詞「汝」というものが生れて来ます。
「我」というものの糸を知的に辿っていくと、その源泉に戻れば、
「汝」という思想も、「我」という思想も消えてしまいます。これは経験されることです。


私という感覚は肉体や脳髄の人間にこびりついています。
人が初めて、真の自我を知ると、
自己の存在の深い根底から何ものかが盛り上って来て、その人を促えます。
その何ものかは心の背後にあって、永遠無限神聖なものです。
ある人はそれを天国といい、ある人はそれを魂といい、
またある者はそれを涅槃といいます。
どういう名称だろうと、お好み次第につけてよいのです。
これが起って来ると、人間は自我を失ったのではなくて、自我を発見したのです。


人は、真我の質問に出発しなければ、
不安懐疑が、一生涯彼につきまとうことになります。
世の中には様々と知識を集める大知力の人達がいます。
この人達に人間の神秘を説くことが出来るか、
自己に打ち勝っているか聞いて御覧なさい。
彼等は恥入って頭を垂れてしまいます。
自分が何ものであるかということを知らないで、
様々な事を知ろうとしても何の役にも立ちません。
人々は真我の探求を避けて、何を計画しても無駄です。


真理はインド人にも欧州人にも同じことです。
俗悪生活に鈍している者には、この道を辿ることが難しいですが、
それでも人間はこの困難を克服しなければなりません。
瞑想裡に湧き出て来た活泉の流れは、善習慣により、
瞑想の実修によって持続されます。
その活泉に汲んで、自分の仕事も活動も出来るのです。
瞑想と外的活動の間には区別がありません。
「我は誰であるのか?」
人がこの問題を瞑想して、自分は肉体でもなく、頭でもなく、
欲望でもないことを知り始めたなら、
甚深な自己存在の根底から答えはおのずから出て来ます。
深遠な実現と調和して解って来るものです。





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スピリチュアル・ヒーリング

時代はもうここまで来ています。
僧侶も取り残されないようにしなければいけません。



『こころの癒し スピリチュアル・ヒーリング
―医師・科学者・セラピストによる未来医療への架け橋』
(出帆新社)
奥 健夫 (監修)

推薦の言葉:
『現代医療が直面している大きな壁、それが「スピリチュアル・ケア」である。
本書では、大学教官・研究者・医師・カウンセラーなど、
統合医療の第一人者の方々が、
多様な観点から「スピリチュアル・ケア」について考察し、
その大きな壁を乗り