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2008.05.02
森羅万象の探求者
エコロジーという言葉を、日本で最初に使用したのは南方熊楠であります。
熊楠は、地衣・粘菌類の研究者としての他にも、
博物学や民俗学の先駆者としても有名ですが、
あらゆる面において規格外の人物でした。
彼は、東京大学予備門に入学しますが、
学業よりも自らの植物研究に没頭し、中退しています。
その後は、アメリカに留学し、植物研究を重ねます。
そして、その研究成果が認められ、イギリスの大英博物館で職を得ることになります。
熊楠は、その博物館の書物を読み耽るかたわら、世界各地を周り、
発見した地衣・菌類に関する論文を、科学雑誌「Nature」などに、次々と寄稿します。
その論文は、ダーウィンやスペンサーなどと肩を並べて掲載されたこともあります。
しかし、33才頃に日本に帰国してからは、和歌山県の熊野に隠棲して、
菌類などの研究をしながら、読書や執筆活動に専念するようになります。
彼は、幼少のころから記憶力に秀で、
本を何冊分も丸暗記し書写することが出来たそうです。
語学にも特異な能力があり、19もの言語を操ったと言われています。
それ以外にも、
霊と話をしたり、幽体離脱をして霊界に参入することのできる体質だったようです。
また、「森羅万象は曼荼羅である」と言うほどの、仏教者でもありました。
熊楠は、生き物を愛し、生きた学問を愛しました。
それゆえ、硬直したアカデミックな世界を避け、
あらゆる事象を独学で研究する道を選んだのです。
(一)箇人心は単一にあらず、複心なり。
すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。
この数心常にかわりゆく、
またかわりながら以前の心の項要を印し留めゆく(このことは予実見せしことなり)。
(二)しかるに、複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。
しかしながら、またみな一時に滅せず、多少は残る(予は永留の部分ありと信ず)。
「土宜法龍宛書簡」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
熊楠は、地衣・粘菌類の研究者としての他にも、
博物学や民俗学の先駆者としても有名ですが、
あらゆる面において規格外の人物でした。
彼は、東京大学予備門に入学しますが、
学業よりも自らの植物研究に没頭し、中退しています。
その後は、アメリカに留学し、植物研究を重ねます。
そして、その研究成果が認められ、イギリスの大英博物館で職を得ることになります。
熊楠は、その博物館の書物を読み耽るかたわら、世界各地を周り、
発見した地衣・菌類に関する論文を、科学雑誌「Nature」などに、次々と寄稿します。
その論文は、ダーウィンやスペンサーなどと肩を並べて掲載されたこともあります。
しかし、33才頃に日本に帰国してからは、和歌山県の熊野に隠棲して、
菌類などの研究をしながら、読書や執筆活動に専念するようになります。
彼は、幼少のころから記憶力に秀で、
本を何冊分も丸暗記し書写することが出来たそうです。
語学にも特異な能力があり、19もの言語を操ったと言われています。
それ以外にも、
霊と話をしたり、幽体離脱をして霊界に参入することのできる体質だったようです。
また、「森羅万象は曼荼羅である」と言うほどの、仏教者でもありました。
熊楠は、生き物を愛し、生きた学問を愛しました。
それゆえ、硬直したアカデミックな世界を避け、
あらゆる事象を独学で研究する道を選んだのです。
(一)箇人心は単一にあらず、複心なり。
すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。
この数心常にかわりゆく、
またかわりながら以前の心の項要を印し留めゆく(このことは予実見せしことなり)。
(二)しかるに、複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。
しかしながら、またみな一時に滅せず、多少は残る(予は永留の部分ありと信ず)。
「土宜法龍宛書簡」



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2008.05.02
本来の自分
問題は、この世が全てだと思ってしまうところにあります。
結局のところ、肉体に執着するから、苦しみが起こるのです。
仏教では、肉体を超越する道を説きます。
肉体の奥にある不滅の霊的存在である金剛心、
永遠の霊妙なる仏身、が本来の自分なのです。
是の身は実ならず、四大を家と為す。
是の身は空なり、我と我所とを離る。
是の身は知なし、草木瓦礫の如し。
是の身は作無く、風力の轉ずる所なり。
是の身は不浄なり、穢悪充満す。
是の身は虚偽なり、假りに澡浴衣食を以ってすと雖も、必ず摩滅に帰す。
是の身は災なり、百一の病悩あり。
是の身は丘井の如し、老の為に逼らる。
是の身は定なし、必ずまさに死すべしと為す。
是の身は毒蛇の如く怨賊の如く空聚の如し。
陰界諸入の共に合成する所なり。
諸諸の仁者、此れを患厭すべし。
まさに仏身を願うべし。
所以は如何となれば、仏身とは即ち法身なればなり。
「維摩経」
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結局のところ、肉体に執着するから、苦しみが起こるのです。
仏教では、肉体を超越する道を説きます。
肉体の奥にある不滅の霊的存在である金剛心、
永遠の霊妙なる仏身、が本来の自分なのです。
是の身は実ならず、四大を家と為す。
是の身は空なり、我と我所とを離る。
是の身は知なし、草木瓦礫の如し。
是の身は作無く、風力の轉ずる所なり。
是の身は不浄なり、穢悪充満す。
是の身は虚偽なり、假りに澡浴衣食を以ってすと雖も、必ず摩滅に帰す。
是の身は災なり、百一の病悩あり。
是の身は丘井の如し、老の為に逼らる。
是の身は定なし、必ずまさに死すべしと為す。
是の身は毒蛇の如く怨賊の如く空聚の如し。
陰界諸入の共に合成する所なり。
諸諸の仁者、此れを患厭すべし。
まさに仏身を願うべし。
所以は如何となれば、仏身とは即ち法身なればなり。
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2008.05.02
仏教は宗教です
仏教僧侶は、とかくヒンドゥー教を外道といったり、
キリスト教やイスラム教を非科学的だといったり、神秘思想をオカルトだといったり、
孔孟老壮思想を訓詁学だといったりして、自らの宗教を上に置こうとします。
これは大いなる誤りです。
仏教僧でなくても、覚者は世界中にたくさん存在します。
釈尊当時にも、維摩居士のような人物もいたのです。
六師外道といっても、邪教だという意味ではありません。
その中では、部分的には真実が説かれていたのです。
ヒンドゥー教では、釈尊も聖者の一人です。
マホメットはキリストを預言者として尊敬していました。
そして、過去にも末来にも仏陀は地上に降りて、法を説くのです。
何故、仏教のみが真実なのでしょうか?
そのようなことがあり得るのでしょうか?
きっと、そのような人は、仏教を合理主義の哲学のようなものにしたいのでしょう。
しかし、仏教は宗教であり、
宗教は霊界からの啓示や指導を受けて説かれる教えであります。
いくら教義や専門用語を勉強したところで、知識と心の状態は一致しません。
霊的修行なくして、宗教的真理には到達できないのです。
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キリスト教やイスラム教を非科学的だといったり、神秘思想をオカルトだといったり、
孔孟老壮思想を訓詁学だといったりして、自らの宗教を上に置こうとします。
これは大いなる誤りです。
仏教僧でなくても、覚者は世界中にたくさん存在します。
釈尊当時にも、維摩居士のような人物もいたのです。
六師外道といっても、邪教だという意味ではありません。
その中では、部分的には真実が説かれていたのです。
ヒンドゥー教では、釈尊も聖者の一人です。
マホメットはキリストを預言者として尊敬していました。
そして、過去にも末来にも仏陀は地上に降りて、法を説くのです。
何故、仏教のみが真実なのでしょうか?
そのようなことがあり得るのでしょうか?
きっと、そのような人は、仏教を合理主義の哲学のようなものにしたいのでしょう。
しかし、仏教は宗教であり、
宗教は霊界からの啓示や指導を受けて説かれる教えであります。
いくら教義や専門用語を勉強したところで、知識と心の状態は一致しません。
霊的修行なくして、宗教的真理には到達できないのです。



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