| Home |
2008.05.04
スター・デーリーの回心
かつて、アメリカにスター・デーリーという人物がいました。
極悪非道ぶりで有名で、因人となってからも二度も破獄を企てます。
そんな彼は、悔い改めの為に地下牢に吊るされることになります。
しかし、彼は赦しを請うことをせず、強情にも15日間も耐え続けるのです。
そして、気を失ってしまいます。
意識を取り戻した彼の前には、なんとキリストが立っているのです。
「彼は私の方へ近づいて来た。彼の唇は動いている。
しかし言葉はきこえない。彼は私の側に来た。
そして私を見下した。そして深く私の眼に見入ったのである。
それはまるで私の魂深く貫き通るような慈愛の眼であった。
自分は未だかつて人間の眼で、
彼の眼に輝いているような、そんな深い愛を見たことがなかった。
愛の虜となってわけもなく、
まったくそのところにひざまずいてしまった私をはじめて私は見出した。
私はこの夢の中のある神秘的な感覚によって、
私が『実在』の世界の中に浸されていることを知ったのである。
永遠に、久遠に、私の生命に力を与えているアルモノを私は見たのである。」
と後に語っています。
回心後の彼は、神の導きにより、ライファーという老囚人と出会うこととなります。
ライファーは、キリスト教の深い霊的意味を理解しており、
その言葉で多くの因人達を救っている、驚くべき人物です。
ライファーは言います。
愛のない説教は未だかつて一人の魂を救ったことはないし、
これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ。
人を愛するということは、人を知るということである。
人を知るということは彼を助け、癒すことが出来るということである。
このようにして神は、愛を通してその癒す力を働かせ給うのである。
愛は決して失敗しない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。
愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。
憎しみにみたされたる無神論者も、知識や智慧は持ち得るのであるが、
それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえもある意味では信仰をもち、不屈の信条をもっている。
しかし、それには真の癒しのカも、聖句を解釈する真の力もない。
真の宗教か否かの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂をもっているかどうかの問題である。
神の愛と人の愛とを持っているかどうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである。
スター・デーリーは、監獄の中で180度の転身を遂げ、神の使者となりました。
出獄後は、「愛は刑よりも強し」などの本を記し、講演活動で各地を飛び回ります。
昭和29年には、日本にも来て講演しています。
彼は、どのような罪を犯した人間でも、回心して神に愛されることが出来るのだ、
ということを身をもって証明したのです。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
極悪非道ぶりで有名で、因人となってからも二度も破獄を企てます。
そんな彼は、悔い改めの為に地下牢に吊るされることになります。
しかし、彼は赦しを請うことをせず、強情にも15日間も耐え続けるのです。
そして、気を失ってしまいます。
意識を取り戻した彼の前には、なんとキリストが立っているのです。
「彼は私の方へ近づいて来た。彼の唇は動いている。
しかし言葉はきこえない。彼は私の側に来た。
そして私を見下した。そして深く私の眼に見入ったのである。
それはまるで私の魂深く貫き通るような慈愛の眼であった。
自分は未だかつて人間の眼で、
彼の眼に輝いているような、そんな深い愛を見たことがなかった。
愛の虜となってわけもなく、
まったくそのところにひざまずいてしまった私をはじめて私は見出した。
私はこの夢の中のある神秘的な感覚によって、
私が『実在』の世界の中に浸されていることを知ったのである。
永遠に、久遠に、私の生命に力を与えているアルモノを私は見たのである。」
と後に語っています。
回心後の彼は、神の導きにより、ライファーという老囚人と出会うこととなります。
ライファーは、キリスト教の深い霊的意味を理解しており、
その言葉で多くの因人達を救っている、驚くべき人物です。
ライファーは言います。
愛のない説教は未だかつて一人の魂を救ったことはないし、
これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ。
人を愛するということは、人を知るということである。
人を知るということは彼を助け、癒すことが出来るということである。
このようにして神は、愛を通してその癒す力を働かせ給うのである。
愛は決して失敗しない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。
愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。
憎しみにみたされたる無神論者も、知識や智慧は持ち得るのであるが、
それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえもある意味では信仰をもち、不屈の信条をもっている。
しかし、それには真の癒しのカも、聖句を解釈する真の力もない。
真の宗教か否かの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂をもっているかどうかの問題である。
神の愛と人の愛とを持っているかどうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである。
スター・デーリーは、監獄の中で180度の転身を遂げ、神の使者となりました。
出獄後は、「愛は刑よりも強し」などの本を記し、講演活動で各地を飛び回ります。
昭和29年には、日本にも来て講演しています。
彼は、どのような罪を犯した人間でも、回心して神に愛されることが出来るのだ、
ということを身をもって証明したのです。



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト
2008.05.04
良心的なる哲学者
カール・ヤスパースは、20世紀のドイツの哲学者です。
始めは、ハイデルベルク大学で精神医学を教えていましたが、
後に、哲学に転じて、世界的な実存哲学者となりました。
ヤスパースは、
「哲学者は神が存在するかどうかに答えなければならない」、
として、神を「包括者」と呼び、その存在証明は難しいが、
信仰によって確認されうるとしています。
そして、その「包括者」とは、
「存在それ自身として考えられた場合は、神および世界と呼ばれ、
私たち自身であるものとしては、現存在・意識一般・精神・実存と呼ばれるのだ」、
と説明しています。
彼は、ニヒリズムからの脱出のために、
秩序ある哲学的な生活態度の重要性を説いたのでした。
彼の思想と仏教の親和性が指摘されることがありますが、
その前世は、単身でインドに渡り唐に仏典をもたらした僧、義浄だったのです。
私は包括者によって生き、かつよりよく生きることができるのですが、
私が内省においてこのような包括者を覚知するならば、
この内省は無限の活動において、また技術的装置へ心を奪われているときでも、
終日私をささえてくれる根本的気分として光を放つでしょう。
こうして「哲学すること」は生の学びであるとともに死の学びであります。
一義的・直接的に私たちに聞こえてくるような神の言葉でなくして、
むしろ事物の常に多義的な言葉としての暗号に耳を傾け、
しかも超越者(神)が存在することの確信をもって生きることであります。
そこからしてはじめて、この疑惑に包まれた現存在において、
人生が善となり、世界が美となり、現存在そのものが充実したものとなります。
哲学が死の学びであるとしたら、この死の能力こそまさに、
正しく生きることの条件であります。生の学びと死にうることとは同じことなのであります。
「哲学入門」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
始めは、ハイデルベルク大学で精神医学を教えていましたが、
後に、哲学に転じて、世界的な実存哲学者となりました。
ヤスパースは、
「哲学者は神が存在するかどうかに答えなければならない」、
として、神を「包括者」と呼び、その存在証明は難しいが、
信仰によって確認されうるとしています。
そして、その「包括者」とは、
「存在それ自身として考えられた場合は、神および世界と呼ばれ、
私たち自身であるものとしては、現存在・意識一般・精神・実存と呼ばれるのだ」、
と説明しています。
彼は、ニヒリズムからの脱出のために、
秩序ある哲学的な生活態度の重要性を説いたのでした。
彼の思想と仏教の親和性が指摘されることがありますが、
その前世は、単身でインドに渡り唐に仏典をもたらした僧、義浄だったのです。
私は包括者によって生き、かつよりよく生きることができるのですが、
私が内省においてこのような包括者を覚知するならば、
この内省は無限の活動において、また技術的装置へ心を奪われているときでも、
終日私をささえてくれる根本的気分として光を放つでしょう。
こうして「哲学すること」は生の学びであるとともに死の学びであります。
一義的・直接的に私たちに聞こえてくるような神の言葉でなくして、
むしろ事物の常に多義的な言葉としての暗号に耳を傾け、
しかも超越者(神)が存在することの確信をもって生きることであります。
そこからしてはじめて、この疑惑に包まれた現存在において、
人生が善となり、世界が美となり、現存在そのものが充実したものとなります。
哲学が死の学びであるとしたら、この死の能力こそまさに、
正しく生きることの条件であります。生の学びと死にうることとは同じことなのであります。
「哲学入門」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
| Home |