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2008.05.11
とてつもない日本
人々の幸福を願うのであれば、僧侶は、国の発展に貢献するべきです。
僧侶はまた、心の力、自己実現の法則を説くべきです。
そして、神仏を信じ、人間の善性や仏性を信じ、夢や可能性、希望を語るべきなのです。
愚僧は、麻生氏を応援いたします。
『とてつもない日本』麻生太郎著(新潮社)
はじめに
第一章 アジアの実践的先駆者
日本は必ずよくなる
成功も失敗も進んでさらけ出す国
安定化装置としての役割
アジアの幸福
第二章 日本の底力
ニートも、捨てたもんじゃない
若者のソフトパワー
日本がロボット大国である理由
私は劣等生だった
第三章 高齢化を讃える
若さは至上か
還暦過ぎたジョン・レノン
老人の労働力
第四章 「格差感」に騙されてないか
平等が生み出す不平等
なんとなく気が晴れないだけ?
教育は格差より悪平等の問題
第五章 地方は生き返る
炭鉱からベンチャーへ
三位一体改革で親離れ
役人の時代の終焉
地方の底力の集合体が日本
第六章 外交の見取り図
外交は難しいか
中国の台頭を喜ぶ
北朝鮮が忘れてはならないこと
靖国は、外交問題ではない
第七章 新たなアジア主義――麻生ドクトリン
SARSと人間の安全保障
価値の外交
民主主義は終わりのないマラソン
自由と繁栄の弧を広げる
国造りのお手伝いをする
中央アジアの「グレート・ゲーム」
自衛官という外交官
アジアとのしなやかなネットワーク
おわりに
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
僧侶はまた、心の力、自己実現の法則を説くべきです。
そして、神仏を信じ、人間の善性や仏性を信じ、夢や可能性、希望を語るべきなのです。
愚僧は、麻生氏を応援いたします。
『とてつもない日本』麻生太郎著(新潮社)
はじめに
第一章 アジアの実践的先駆者
日本は必ずよくなる
成功も失敗も進んでさらけ出す国
安定化装置としての役割
アジアの幸福
第二章 日本の底力
ニートも、捨てたもんじゃない
若者のソフトパワー
日本がロボット大国である理由
私は劣等生だった
第三章 高齢化を讃える
若さは至上か
還暦過ぎたジョン・レノン
老人の労働力
第四章 「格差感」に騙されてないか
平等が生み出す不平等
なんとなく気が晴れないだけ?
教育は格差より悪平等の問題
第五章 地方は生き返る
炭鉱からベンチャーへ
三位一体改革で親離れ
役人の時代の終焉
地方の底力の集合体が日本
第六章 外交の見取り図
外交は難しいか
中国の台頭を喜ぶ
北朝鮮が忘れてはならないこと
靖国は、外交問題ではない
第七章 新たなアジア主義――麻生ドクトリン
SARSと人間の安全保障
価値の外交
民主主義は終わりのないマラソン
自由と繁栄の弧を広げる
国造りのお手伝いをする
中央アジアの「グレート・ゲーム」
自衛官という外交官
アジアとのしなやかなネットワーク
おわりに



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2008.05.11
老いと死の意味2
事故などによる急激な死の場合については、
A・J・デービスはこう述べています。
人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごくおだやかに、
そっと肉体から離れていくために、あたかもこの世への赤子の如く、
本人も自分が死んだことに一向気づかないことすらある。
しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、
苦痛が伴うために、それを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。
そんな場合は、一時的に感覚の体止という現象が生じる。
つまり、死後の睡眠状態である。
それが何日も何十日も続く。
さらに霊体のほうは、霊の道具となるための準備がまだまだ不足している。
「Answers to Questions」
急死の場合は、霊的な回復に期間を要するようです。
いずれにしても、
老いや死は、怖いものではなく、巧妙、精緻なる神の御業なのであります。
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A・J・デービスはこう述べています。
人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごくおだやかに、
そっと肉体から離れていくために、あたかもこの世への赤子の如く、
本人も自分が死んだことに一向気づかないことすらある。
しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、
苦痛が伴うために、それを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。
そんな場合は、一時的に感覚の体止という現象が生じる。
つまり、死後の睡眠状態である。
それが何日も何十日も続く。
さらに霊体のほうは、霊の道具となるための準備がまだまだ不足している。
「Answers to Questions」
急死の場合は、霊的な回復に期間を要するようです。
いずれにしても、
老いや死は、怖いものではなく、巧妙、精緻なる神の御業なのであります。



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2008.05.11
老いと死の意味1
スウェーデンボルグが指導していたといわれる霊能者A・J・デービスは、
150年以上前に、スピリチュアリズムの到来を、
「一方が肉体に、もう一方が高次の領域にいながら、
スピリット同士が交わるという1つの真実がまもなく明らかになるだろう」、
と予言しました。
彼の老死に関する卓見です。
肉眼はその最上のエキス分を霊眼の製造のためにエーテル体に供給していく。
そして、その供給量は年齢と共に増えていくので、
晩年に至って視力が急速に衰えていく。
耳も、数十年の間このエキス分をエーテル体の耳の製造に供給していく。
そして、いわば磨り減っていく機械のように、徐々に聴力を失っていく。
「あの人も耳が遠くなったな」―あなたはそう思って気の毒に思うかも知れない。
が、少しも気の毒がることではない。
内体の聴力がエーテル体ヘ撤退して、次の世界での生活の準備を整えているのである。
頭の働きも同様である。「気の毒に、あの人もボケて来たな」―そう思うかも知れない。
確かにつじつまの合わない話をするようになる。回想力が衰えるからである。
が、これも目や耳の場合と同じく、エーテル体の脳の準備のために、
肉体の脳がそのエキス分をエーテル体に着々と送り続けてきた結果なのである。
そのために肉体の脳細胞は磨り減り、衰弱し、そしてストップする。
崇高なる使命を終えて、大工場が閉鎖したのである。
が、それまで工場を動かし続けてきた動力が消減したのではない。
動力源である霊は生き生きとしているのである。
うわべの肉体は確かに衰えた。言うことがおかしい。手がふるえる。
「エネルギーが切れたのだろう」―そうおっしゃる方がいるかも知れない。
が、そうではない。肉体は全盛をきわめた時点から、
骨、筋肉、神経、繊維等、要するに肉体を構成するあらゆる要素が、
そのエキス分をエーテル体に供給して、地上よりはるかに清らかで美しい次の世界、
すなわち幽界で使用する身体を着々と用意してきたのである。
内臓についても同じことが言える。ある一定の成熟度に達すると、
内臓の諸器官、すなわち肺、胃、肝、腎、膵等は、
これらと密接につながった細かい器官と共に徐々にその機能を低下させていく。
やがて弱さが目立つようになり、病気がちになり、耄碌しはじめ、
そして老衰する。これをただの老化現象だと決め込んでは見当違いである。
というのは、表面的には確かに老化していくだけのように見えても、
その内実は、各器官がその最高のエキス分を死後の生活に備えて、
着々とエーテル体の形成に送り込んでいるのである。
肉体的には確かに老衰した。話をしても、まともな返事が返ってこない。
が、それは脳味噌がそのエキス分をエーテル体に取られたからである。
何たる不思議な変化であろうか。
人間の老化と死は昆虫の羽化とまさしくそっくりである。
いや、昆虫にかぎらない。
植物の世界でも―地衣類のコケにさえ―この束縛から自由への決定的瞬問、
危険に満ちた運命の一瞬が必ず訪れる。
小麦がようやく地上に顔を出す直前をよく観祭するがよい。
種子が裂けて、そこから新しい茎が出てくる時の様子ほど人間の死に似たものはない。
死に瀕した老人は、声をかけても、もはや聞こえない。なぜか。
エーテル界へ生まれ出る瞬間のために音もなくせっせと準備しつつあるからである。
目も見えない。いかに上等のメガネをあてがってくれても、
もはや肝心の機能そのものが働きをやめているのであるから、どうしようもない。
これを悲しんではいけない。大自然の摂理はすべてが有難く出来あがっている。
これから始まる第二の人生のために着々とエーテル体を整備しつつあるのである。
やがて老躯は一切の食事を受けつけなくなる。
工場が完全にストップしたのである。炉の残り火がやっとくすぶっているだけである。
工場全体に静寂が訪れる。すべての仕事が終わった。
が、その長きにわたる仕事の産物がいま、
いま工場から運び出された、それが霊である。
あとに残した工場は永久に使用されることはない。死が訪れたからである。
が、霊は住み慣れたその生命の灯の消えた肉体から抜け出て、
歓迎のために訪れた霊魂の集まリヘと歩み寄る。
その様子はあなたには見えないであろう。
「The Thinker」
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150年以上前に、スピリチュアリズムの到来を、
「一方が肉体に、もう一方が高次の領域にいながら、
スピリット同士が交わるという1つの真実がまもなく明らかになるだろう」、
と予言しました。
彼の老死に関する卓見です。
肉眼はその最上のエキス分を霊眼の製造のためにエーテル体に供給していく。
そして、その供給量は年齢と共に増えていくので、
晩年に至って視力が急速に衰えていく。
耳も、数十年の間このエキス分をエーテル体の耳の製造に供給していく。
そして、いわば磨り減っていく機械のように、徐々に聴力を失っていく。
「あの人も耳が遠くなったな」―あなたはそう思って気の毒に思うかも知れない。
が、少しも気の毒がることではない。
内体の聴力がエーテル体ヘ撤退して、次の世界での生活の準備を整えているのである。
頭の働きも同様である。「気の毒に、あの人もボケて来たな」―そう思うかも知れない。
確かにつじつまの合わない話をするようになる。回想力が衰えるからである。
が、これも目や耳の場合と同じく、エーテル体の脳の準備のために、
肉体の脳がそのエキス分をエーテル体に着々と送り続けてきた結果なのである。
そのために肉体の脳細胞は磨り減り、衰弱し、そしてストップする。
崇高なる使命を終えて、大工場が閉鎖したのである。
が、それまで工場を動かし続けてきた動力が消減したのではない。
動力源である霊は生き生きとしているのである。
うわべの肉体は確かに衰えた。言うことがおかしい。手がふるえる。
「エネルギーが切れたのだろう」―そうおっしゃる方がいるかも知れない。
が、そうではない。肉体は全盛をきわめた時点から、
骨、筋肉、神経、繊維等、要するに肉体を構成するあらゆる要素が、
そのエキス分をエーテル体に供給して、地上よりはるかに清らかで美しい次の世界、
すなわち幽界で使用する身体を着々と用意してきたのである。
内臓についても同じことが言える。ある一定の成熟度に達すると、
内臓の諸器官、すなわち肺、胃、肝、腎、膵等は、
これらと密接につながった細かい器官と共に徐々にその機能を低下させていく。
やがて弱さが目立つようになり、病気がちになり、耄碌しはじめ、
そして老衰する。これをただの老化現象だと決め込んでは見当違いである。
というのは、表面的には確かに老化していくだけのように見えても、
その内実は、各器官がその最高のエキス分を死後の生活に備えて、
着々とエーテル体の形成に送り込んでいるのである。
肉体的には確かに老衰した。話をしても、まともな返事が返ってこない。
が、それは脳味噌がそのエキス分をエーテル体に取られたからである。
何たる不思議な変化であろうか。
人間の老化と死は昆虫の羽化とまさしくそっくりである。
いや、昆虫にかぎらない。
植物の世界でも―地衣類のコケにさえ―この束縛から自由への決定的瞬問、
危険に満ちた運命の一瞬が必ず訪れる。
小麦がようやく地上に顔を出す直前をよく観祭するがよい。
種子が裂けて、そこから新しい茎が出てくる時の様子ほど人間の死に似たものはない。
死に瀕した老人は、声をかけても、もはや聞こえない。なぜか。
エーテル界へ生まれ出る瞬間のために音もなくせっせと準備しつつあるからである。
目も見えない。いかに上等のメガネをあてがってくれても、
もはや肝心の機能そのものが働きをやめているのであるから、どうしようもない。
これを悲しんではいけない。大自然の摂理はすべてが有難く出来あがっている。
これから始まる第二の人生のために着々とエーテル体を整備しつつあるのである。
やがて老躯は一切の食事を受けつけなくなる。
工場が完全にストップしたのである。炉の残り火がやっとくすぶっているだけである。
工場全体に静寂が訪れる。すべての仕事が終わった。
が、その長きにわたる仕事の産物がいま、
いま工場から運び出された、それが霊である。
あとに残した工場は永久に使用されることはない。死が訪れたからである。
が、霊は住み慣れたその生命の灯の消えた肉体から抜け出て、
歓迎のために訪れた霊魂の集まリヘと歩み寄る。
その様子はあなたには見えないであろう。
「The Thinker」



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2008.05.11
霊魂もまた無常なり
仏教でいう「無我」の本当の意味を、現代の仏陀が説明されています。
まれなることであります。
キリスト教などでは、「霊と肉とはまったく別なものである。
そして、肉に奉仕するものは地獄的なものであり、霊に奉仕するものは天国的なものだ」
という単純明快な説明をすることがよくあるのです。
「肉体に奉仕するというのは、すべて、サタンの王国に奉仕するのと同じであって、
霊に奉仕することこそ、神の国に奉仕することなのである」というような考え方です。
しかし、それだけでは、多少、単純すぎるきらいがあります。
霊的な存在というのは、もちろん、だいじな存在なのですが、
この霊的な存在は、究極の人間存在そのものではないのです。
霊的な存在も、まだ霊としての肉体である「霊体」というものをまとって、
魂修行している段階であって、それは人間のほんとうの姿ではありません。
ほんとうのものというのは、そうした姿形あるものではないのです。
もっと究極にいくと、ほんとうに自由自在な、
個性を持ったエネルギー体としてものがあるだけです。
仏性という、それ自体がほんとうに仏と同じような性質を持っているものが、
どの人間にもあり、それが霊界では霊的な姿形をまとって生活しています。
そして、地上に出てくると、それがさらに肉体というものをまとっているだけであって、
肉体も乗り物であれば、霊体も一種の乗り物なのです。
ほんとうは、もともとそうした個性あらしめるエネルギーがあるだけなのです。
詳しくいえば、魂あるいは霊といっても、まだ根本的なものではなく、
さらにその奥があるということです。
すなわち、霊の究極にあるものとして、
「不滅の知性」「不滅の力」というものを述べています。
実際は、人間の姿形をした幽霊のようなものではないのです。
姿形のあるものを「魂」と言うこともありますが、それだけではなくて、
「不滅の知性」「不滅の力」としての性質を持っているものが霊存在なのだ、
ということを知っていただきたいのです。
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まれなることであります。
キリスト教などでは、「霊と肉とはまったく別なものである。
そして、肉に奉仕するものは地獄的なものであり、霊に奉仕するものは天国的なものだ」
という単純明快な説明をすることがよくあるのです。
「肉体に奉仕するというのは、すべて、サタンの王国に奉仕するのと同じであって、
霊に奉仕することこそ、神の国に奉仕することなのである」というような考え方です。
しかし、それだけでは、多少、単純すぎるきらいがあります。
霊的な存在というのは、もちろん、だいじな存在なのですが、
この霊的な存在は、究極の人間存在そのものではないのです。
霊的な存在も、まだ霊としての肉体である「霊体」というものをまとって、
魂修行している段階であって、それは人間のほんとうの姿ではありません。
ほんとうのものというのは、そうした姿形あるものではないのです。
もっと究極にいくと、ほんとうに自由自在な、
個性を持ったエネルギー体としてものがあるだけです。
仏性という、それ自体がほんとうに仏と同じような性質を持っているものが、
どの人間にもあり、それが霊界では霊的な姿形をまとって生活しています。
そして、地上に出てくると、それがさらに肉体というものをまとっているだけであって、
肉体も乗り物であれば、霊体も一種の乗り物なのです。
ほんとうは、もともとそうした個性あらしめるエネルギーがあるだけなのです。
詳しくいえば、魂あるいは霊といっても、まだ根本的なものではなく、
さらにその奥があるということです。
すなわち、霊の究極にあるものとして、
「不滅の知性」「不滅の力」というものを述べています。
実際は、人間の姿形をした幽霊のようなものではないのです。
姿形のあるものを「魂」と言うこともありますが、それだけではなくて、
「不滅の知性」「不滅の力」としての性質を持っているものが霊存在なのだ、
ということを知っていただきたいのです。



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