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プラトンの魂は、
臨済そして、ヘーゲルと転生していることは、すでに述べましたが、

ヘーゲルは、
ドイツ観念論哲学の大成者で、後に多大な影響を与えた大哲学者です。

彼は、
神学校で教育を受けましたが、牧師にはならず、
ギリシャ語、ラテン語、博物学、天文学、物理学などを修め、
哲学者としての道に進みます。

ヘーゲルは、
絶対精神といわれる神を認識し、
その視点から、あらゆる事象を語ることが出来ました。

知性という点では、人類を代表する一人であるそうです。

哲学は彼のところで頂点をむかえたと言えるのかもしれません。




哲学は理想を夢想するのではなく、
冷静な洞察をもたらさねばなりませんが、
その洞察とは、本当の善ないし普遍的な神の理性は、
自己を実現する力をももっている、という洞察です。
この善、この理性を、もっとも具体的にしめすのが神です。
世界を支配するのは神であり、
神の支配の内容、ないし、神の計画の実行が世界史なのです。
哲学はそれをとらえようとする。
神の計画を実行したものだけが現実であり、
それに反するものはいつわりの存在にすぎないからです。
神の理念はたんなる理想とはちがうので、
その純粋な光のなかに身をおけば、
世界が狂った、ばかげたものだとはとうてい思えなくなる。
哲学は神の理念の内容たる現実を認識し、
軽蔑にさらされた現実を正当化するものです。
理性とは、神の作品に耳かたむけることですから。

歴史に登場する民族がつぎつぎと交替するなかで、
世界史がそうした発展過程をたどリ、
そこで精神が現実に生成されていくこと―それこそが正真正銘の弁神論であり、
歴史のなかに神の存在することを証明する事実です。
理性的な洞察力だけが、聖霊と世界史の現実とを和解させうるし、
日々の歴史的事実が神なしにはおこりえないということ、のみならず、
歴史的事実がその本質からして神みずからの作品であることを認識するのです。


「歴史哲学講義」




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現代の仏陀によるヘルメス意識による祈りです。
そこには、キリスト的な精神とはまた違う、ギリシャ的精神が流れています。
まれなることです。




神よ、神よ、神よ、
われ今 膝を深く折りて 汝に祈らん
神よ、神よ、神よ
われ今 己を低うして 汝に祈らん
われ今 教会の鐘の音を聞き
われ今 山の端に夕日の落つる音を聞き
われ 大宇宙のしじまの中にて 汝に祈らん

神よ、
われは今 深き悲しみの中にあり
われは今 深き苦しみの中にあり
われは今 深き混迷の中にあり
われは今 大いなる挫折の中にあり
われ今 日が暮れんとするに
わが前に道なく わが前に光なし
われ大いなる闇の中にて ひとり沈まんとす

神よ、この時こそ われを救うべき時ではないでしょうか
神よ、この暗闇の中に
神よ、この日に沈んだ後の静寂の世界の中に
われをひとり置き去りにされるのでしょうか

いや 神よ、
あなたはそうした方ではないはずです
あなたはきっと 迷子になった子供を親が探し求めるように
暗さの中で打ち震えている私に
必ず大いなる手を差し伸べてくださることでしょう

ああ 神の足音が聞こえる
ああ 神の息遣いが聞こえる
ああ 神が手を伸ばしている姿が目に浮かぶ
もうすぐ大いなる母が 子供を迎えに来るように
神が私を必ず救ってくださるに違いない

われ 神と共にあり
われ 神と共にあり
神 われを抱きて
われを遥かなる天空に連れてゆくものなり

われ 神と共にあり
われ 神と共にあり
大いなる光に向けて飛翔するなり

われ 神と共にあり
われ 神と共にあり
神 われを知る
われ 神を知る
神 われを知るが如くに われ 神を知る
われ 神を知るが如くに 神 われを知る

神 われと共にあり
われ 神と共にあり
共に一体として歩む
共に一体として進む
共に一体として空高く駆け上る

神 われと共にあり
神 われと共にあり

われと共にありて
幸せの彼岸にわれを導くなり

神 われと共にあり
神 われと共にあり
われ 勇気と共にあり
われ 知恵と共にあり
われ 光と共にあり
われ 神と共にあり





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2008.05.16 一夜賢者の偈
人生は、 「今」の積み重ね。

他の動植物を見ると、彼らがいかに懸命に今を生きているかがわかります。

人間だけが、取りこし苦労をし、余計な心労をつくっています。

ほとんど、心配するようなことは起こりません。

只、今を生ききることで、黄金の人生が開かれるのです。

聖書にも、

「明日のことを思い煩うな、
明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。」

こう記されています。

お釈迦さまも、このように説かれています。


過去を振り返るな、未来を追い求めるな。
過去となったものはすでに捨て去られたもの、
一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。
そこで、いまあるものをそれぞれについて観察し、
左右されず、動揺せずに、それを認知して、増大させよ。
今日の義務をこそ熱心にせよ。
明日の死を知り得る人はないのだから。
死神の大軍勢と戦わないという人はいないのだから。
このように熱心に禅定を行なう人、昼夜怠けぬ人、
その人こそが「吉祥なる一夜における、心静まった聖者」として語られる。


パーリ原始仏典中部第131経「跋地羅帝経」




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