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2008.05.18
智者大師
天台智は、日本の仏教にも多大な影響を与えた高僧であります。
中国天台宗の実質的な開祖で、
智者大師という尊号を賜るほどの天才でありました。
南岳の慧思に師事、その後は天台山で修行し、天台教学を確立します。
彼の撰述には、
「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」、の天台三大部の講義や、
「観音玄義」、「観音義疏」、「金光明玄義」、「金光明文句」、「観経疏」、
の天台五小部の著述などがあります。
彼は、39才の時に、
釈迦如来より霊示を受けて、一念三千の思想を確立します。
その思想は、
「人の心の針は、その都度様々な方向を示し、無数の想念を発している。
その心の状態によって、人は、地獄的にもなり天国的にもなる。
その様相は、下は地獄界から、上は如来界まで、無数に分類される。
死後に行くことになる世界は、今の心の状態がそのまま現れる世界である。
ゆえに、人々は、日々止観をして、その心を正していかなければいけない。
心の法則を知ることが、悟りに至る道である。」
というものでした。
彼の、『涅槃経』と『法華経』を重要視した「五時八教」という経典の分類法は、
最澄、日蓮もこれを採用しています。
智は、直接、釈尊から霊指導を受けた如来であったのです。
それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して、百法界なり。
一界に三十種の世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、
この三千は一念の心に在り。
もし心なくばやみなん、けににも心あればすなわち三千を具す。
また、一心は前に在り一切の法は後に在りといわず。
また、一切の法は前に在り一心は後に在りといわず。
たとえば八相が物を遷すがごとし。
物が相の前に在らば物は遷されず、相が物の前に在らばまた遷されず。
前もまた不可なり、後もまた不可なり。
ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。
いまの心もまたかくのごとし、もし一心より一切の法を生ぜば、
これすなわちこれ縦なり、もし心が一時に一切の法を含まば、これすなわちこれ横なり。
縦もまた不可なり、横もまた不可なり。
ただ、心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。
故に縦にあらず横にあらず、一にあらず異にあらず、
玄妙深絶にして識の識るところにあらず、言の言うところにあらず。
ゆえに称して不可思議の境となす。
「摩訶止観」
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中国天台宗の実質的な開祖で、
智者大師という尊号を賜るほどの天才でありました。
南岳の慧思に師事、その後は天台山で修行し、天台教学を確立します。
彼の撰述には、
「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」、の天台三大部の講義や、
「観音玄義」、「観音義疏」、「金光明玄義」、「金光明文句」、「観経疏」、
の天台五小部の著述などがあります。
彼は、39才の時に、
釈迦如来より霊示を受けて、一念三千の思想を確立します。
その思想は、
「人の心の針は、その都度様々な方向を示し、無数の想念を発している。
その心の状態によって、人は、地獄的にもなり天国的にもなる。
その様相は、下は地獄界から、上は如来界まで、無数に分類される。
死後に行くことになる世界は、今の心の状態がそのまま現れる世界である。
ゆえに、人々は、日々止観をして、その心を正していかなければいけない。
心の法則を知ることが、悟りに至る道である。」
というものでした。
彼の、『涅槃経』と『法華経』を重要視した「五時八教」という経典の分類法は、
最澄、日蓮もこれを採用しています。
智は、直接、釈尊から霊指導を受けた如来であったのです。
それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して、百法界なり。
一界に三十種の世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、
この三千は一念の心に在り。
もし心なくばやみなん、けににも心あればすなわち三千を具す。
また、一心は前に在り一切の法は後に在りといわず。
また、一切の法は前に在り一心は後に在りといわず。
たとえば八相が物を遷すがごとし。
物が相の前に在らば物は遷されず、相が物の前に在らばまた遷されず。
前もまた不可なり、後もまた不可なり。
ただ物に相の遷るを論じ、ただ相の遷るを物に論ずるなり。
いまの心もまたかくのごとし、もし一心より一切の法を生ぜば、
これすなわちこれ縦なり、もし心が一時に一切の法を含まば、これすなわちこれ横なり。
縦もまた不可なり、横もまた不可なり。
ただ、心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。
故に縦にあらず横にあらず、一にあらず異にあらず、
玄妙深絶にして識の識るところにあらず、言の言うところにあらず。
ゆえに称して不可思議の境となす。
「摩訶止観」



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2008.05.18
アーカーシャの記録
霊界のアーカーシャの記録は、
現在、ノストラダムス、エリヤ、黙示録のヨハネ、
らによって管理されているようです。
昔から予言者達は、
これによりビジョンを与えられ、それを地上の人々に伝えてきました。
近年でも、スウェーデンボルグ、エドガー・ケーシー、ルドルフ・シュタイナーは、
これを垣間見ることが出来たといわれています。
アーカーシャとは、
古代インドの言葉で、空、エーテル、虚空を意味します。
そこには、地球や人類の歴史全てが記録されおり、
過去だけではなく、末来をも包括した情報がおさめられています。
実在界には、時間は流れていない為、
時間という細長いチューブに、
びっしりと過去や未来の出来事がつまっているように見えるのだそうです。
しかし、それを見る者の、認識力によって見えるビジョンは違ってきます。
つまり、より高い霊的知覚力を持った魂ほど、正確に読み取ることが出来るのです。
予言が外れたり、時期がずれたりするのはこのためです。
人類の秘史を見ることは、
神仏の計画を知るということにもなる為、
如来以上の霊格を持っていないと、アーカーシャの記録を閲覧することは許されません。
ニューエイジでは、アカシックレコードとも呼ばれ、
仏教では、空海の「虚空蔵求聞持法」で知られるように、虚空蔵として伝わっています。
アーカーシャは、宇宙の叡智がつまった宝庫なのです。
シュタイナーはアーカーシャの記録についてこう述べて居ます。
自分の認識能力を拡大した人は、過去の事柄を知るのに、
もはや外的な証拠に頼る必要がなくなる。
その時には、出来事の中に感覚的には知覚できぬ事柄、
時間が破壊することのできぬ事柄が見えるようになる。
過去の歴史から不減の歴史へと、その人は進んでいく。
勿論不減の歴史は通常の歴史とは異なる文字で書かれている。
グノーシスや神智学はこの不減の歴史を「アカシャ年代記」と呼んでいる。
アカシャ年代記をわれわれの言語で語ろうとする者は、
不確かな観念しか与えることができないであろう。
なぜならわれわれの言語は感覚世界にしか対応しておらず、
われわれの言語で記述した事柄は、
直ちにこの感覚世界の性質を担わされてしまうからである。
従ってこのような記述は、
霊界の存在を経験的に確信できずにいる霊界未参入者に対して、
その著者が妄想家、或いはもっとひどい場合には、
詐欺師であるかのような印象を与えてしまいかねない。
―霊界を知覚する能力を得た人は過去の諸事象をその永遠の相において認識する。
それらの事象は生命を失った歴史資料としてではなく、
生命の横溢の中で、その人の前に現れてくる。
過去においてすでに生起してしまった事柄が、
今あらためてその人の眼前で、特定の仕方で展開しはじめる―。
この生きた書物を読むことが許された人たちは、
外的な歴史が扱う時代よりも遥かに遠い過去にまで眼を向けることができる。
そのような人たちはまた、霊界を直接体験することによって、
歴史学の方法が為しうるよりも遥かに確実な仕方で、
歴史的現実を記述することができる。
ここであらかじめ誤解をさけるために述べておくならば、
霊視もまた決して常に真実を教えるとは限らない。
霊視も錯覚に陥ったり、不正確であったり、ゆがんだ見方をしたり、
とんでもない誤りを犯したりする。
この面でも人間は決して誤謬から解放されてはいない。
どんなに進歩した人間であっても、この点に変りはない。
従って霊的知覚によって伝えられた情報が常に完全に一致しないからといって、
そこで躓いてしまってはならない。
この場合観察の正確さが外的感覚世界の場合よりもはるかに決定的に重要なのである。
さまざまの霊界参入者が先史時代や有史時代について語る事柄は、
本質的な点では一致している筈である。
事実いずこの神秘教派においても、
このような先史時代と有史時代とについての教えがあり、それら相互の間には、
たかだか一世紀にわたる外的歴史叙述者たち相互の一致とは、
全然比較にならぬくらいの、完全な一致が数千年にわたって続いている。
霊界参入者たちはあらゆる時代に、
あらゆる場所で、本質的には同じ内容を伝授してきた。
「アカシャ年代記より」
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らによって管理されているようです。
昔から予言者達は、
これによりビジョンを与えられ、それを地上の人々に伝えてきました。
近年でも、スウェーデンボルグ、エドガー・ケーシー、ルドルフ・シュタイナーは、
これを垣間見ることが出来たといわれています。
アーカーシャとは、
古代インドの言葉で、空、エーテル、虚空を意味します。
そこには、地球や人類の歴史全てが記録されおり、
過去だけではなく、末来をも包括した情報がおさめられています。
実在界には、時間は流れていない為、
時間という細長いチューブに、
びっしりと過去や未来の出来事がつまっているように見えるのだそうです。
しかし、それを見る者の、認識力によって見えるビジョンは違ってきます。
つまり、より高い霊的知覚力を持った魂ほど、正確に読み取ることが出来るのです。
予言が外れたり、時期がずれたりするのはこのためです。
人類の秘史を見ることは、
神仏の計画を知るということにもなる為、
如来以上の霊格を持っていないと、アーカーシャの記録を閲覧することは許されません。
ニューエイジでは、アカシックレコードとも呼ばれ、
仏教では、空海の「虚空蔵求聞持法」で知られるように、虚空蔵として伝わっています。
アーカーシャは、宇宙の叡智がつまった宝庫なのです。
シュタイナーはアーカーシャの記録についてこう述べて居ます。
自分の認識能力を拡大した人は、過去の事柄を知るのに、
もはや外的な証拠に頼る必要がなくなる。
その時には、出来事の中に感覚的には知覚できぬ事柄、
時間が破壊することのできぬ事柄が見えるようになる。
過去の歴史から不減の歴史へと、その人は進んでいく。
勿論不減の歴史は通常の歴史とは異なる文字で書かれている。
グノーシスや神智学はこの不減の歴史を「アカシャ年代記」と呼んでいる。
アカシャ年代記をわれわれの言語で語ろうとする者は、
不確かな観念しか与えることができないであろう。
なぜならわれわれの言語は感覚世界にしか対応しておらず、
われわれの言語で記述した事柄は、
直ちにこの感覚世界の性質を担わされてしまうからである。
従ってこのような記述は、
霊界の存在を経験的に確信できずにいる霊界未参入者に対して、
その著者が妄想家、或いはもっとひどい場合には、
詐欺師であるかのような印象を与えてしまいかねない。
―霊界を知覚する能力を得た人は過去の諸事象をその永遠の相において認識する。
それらの事象は生命を失った歴史資料としてではなく、
生命の横溢の中で、その人の前に現れてくる。
過去においてすでに生起してしまった事柄が、
今あらためてその人の眼前で、特定の仕方で展開しはじめる―。
この生きた書物を読むことが許された人たちは、
外的な歴史が扱う時代よりも遥かに遠い過去にまで眼を向けることができる。
そのような人たちはまた、霊界を直接体験することによって、
歴史学の方法が為しうるよりも遥かに確実な仕方で、
歴史的現実を記述することができる。
ここであらかじめ誤解をさけるために述べておくならば、
霊視もまた決して常に真実を教えるとは限らない。
霊視も錯覚に陥ったり、不正確であったり、ゆがんだ見方をしたり、
とんでもない誤りを犯したりする。
この面でも人間は決して誤謬から解放されてはいない。
どんなに進歩した人間であっても、この点に変りはない。
従って霊的知覚によって伝えられた情報が常に完全に一致しないからといって、
そこで躓いてしまってはならない。
この場合観察の正確さが外的感覚世界の場合よりもはるかに決定的に重要なのである。
さまざまの霊界参入者が先史時代や有史時代について語る事柄は、
本質的な点では一致している筈である。
事実いずこの神秘教派においても、
このような先史時代と有史時代とについての教えがあり、それら相互の間には、
たかだか一世紀にわたる外的歴史叙述者たち相互の一致とは、
全然比較にならぬくらいの、完全な一致が数千年にわたって続いている。
霊界参入者たちはあらゆる時代に、
あらゆる場所で、本質的には同じ内容を伝授してきた。
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2008.05.18
ヒロイズム
愚僧は、孤独を埋めようとしてブログを書く。
信仰告白をすると、親族にすら拒絶される。
それはもう乗り超えた。
もう、どこでも、言える。
しかし、一抹の淋しさはある。
何も悪いことをしている訳じゃないのに。
あたりまえのことを主張しているだけなのに。
神が存在し人間の本質は霊である、ということを信じる事のどこが間違っているのか。
宇宙は愛で結びつきあっている、ということに何故怯える必要があるのか。
この悲しさは、ヒロイズムなのか、被害妄想なのか。
たぶん、それもある。
太陽は、何も言わず、暗闇を照らし続ける。
合掌。
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信仰告白をすると、親族にすら拒絶される。
それはもう乗り超えた。
もう、どこでも、言える。
しかし、一抹の淋しさはある。
何も悪いことをしている訳じゃないのに。
あたりまえのことを主張しているだけなのに。
神が存在し人間の本質は霊である、ということを信じる事のどこが間違っているのか。
宇宙は愛で結びつきあっている、ということに何故怯える必要があるのか。
この悲しさは、ヒロイズムなのか、被害妄想なのか。
たぶん、それもある。
太陽は、何も言わず、暗闇を照らし続ける。
合掌。



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2008.05.18
どちらを選ぶ?
イギリスの人気作家、コリン・ウィルソンは、
膨大な読書量を誇る、20世紀の思想状況を的確に把握した人物です。
その彼が、
「どの本を読むべきなのかを、よく選びなさい」、と言うのです。
私が影響を受けた書物とは、私を考えさせてくれた書物だった。
もちろん、ひたすら「面白い話」を語る本もたくさん楽しんだ。
子供のころ、ライダー・ハガード、エドガー・ライス・バロウズ、
R・L・スティーブンソンなどは、それこそ貪るように読んだ。
でも物語だけでは、私の場合どうしてもじきに飽きてしまう。
『デイヴィッド・リンゼイの不思議な天オ』に収めた、リンゼイをめぐるエッセイのなかで、
私は「高く飛ぶ人」と「低く飛ぶ人」という区別を立てた。
「高く飛ぶ人」とは、
ドストエフスキー、トルストイ、バーナード・ショー、ウェルズといった、
人は、人生をいかに生きるべきかを知ろうとする作家たちである。
「低く飛ぶ人」とは、
ジェーン・オースティン、ディケンズ、サッカレーなど、
知的ではあれ、「大きな問い」を問うことは決してない作家たちだ。
さて、人間存在の根本的問題は何か。私にはきわめて明白に思える。
たしかに、我々の世界は、惨めな悲劇に満ちている。集団飢餓、大いなる不正。
しかし、平均的な人間にとっての問題は、
悲惨と肯定のどちらを、―カーライルの言う「永遠のイエスと永遠のノー」を―、
選ぶかではなく、むしろ、
永遠のイエスの感覚を与えてくれる「鳥の視点」と、
ハイデガーが「日常性の瑣末さ」と呼ぶ「ぬるま湯」、
のどちらを選ぶかなのだ。
「Books In My Life」
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膨大な読書量を誇る、20世紀の思想状況を的確に把握した人物です。
その彼が、
「どの本を読むべきなのかを、よく選びなさい」、と言うのです。
私が影響を受けた書物とは、私を考えさせてくれた書物だった。
もちろん、ひたすら「面白い話」を語る本もたくさん楽しんだ。
子供のころ、ライダー・ハガード、エドガー・ライス・バロウズ、
R・L・スティーブンソンなどは、それこそ貪るように読んだ。
でも物語だけでは、私の場合どうしてもじきに飽きてしまう。
『デイヴィッド・リンゼイの不思議な天オ』に収めた、リンゼイをめぐるエッセイのなかで、
私は「高く飛ぶ人」と「低く飛ぶ人」という区別を立てた。
「高く飛ぶ人」とは、
ドストエフスキー、トルストイ、バーナード・ショー、ウェルズといった、
人は、人生をいかに生きるべきかを知ろうとする作家たちである。
「低く飛ぶ人」とは、
ジェーン・オースティン、ディケンズ、サッカレーなど、
知的ではあれ、「大きな問い」を問うことは決してない作家たちだ。
さて、人間存在の根本的問題は何か。私にはきわめて明白に思える。
たしかに、我々の世界は、惨めな悲劇に満ちている。集団飢餓、大いなる不正。
しかし、平均的な人間にとっての問題は、
悲惨と肯定のどちらを、―カーライルの言う「永遠のイエスと永遠のノー」を―、
選ぶかではなく、むしろ、
永遠のイエスの感覚を与えてくれる「鳥の視点」と、
ハイデガーが「日常性の瑣末さ」と呼ぶ「ぬるま湯」、
のどちらを選ぶかなのだ。
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