fc2ブログ
東京大学名誉教授であった玉城康四郎氏は、
近代では数少ない霊性を理解した仏教学者でありました。

彼の理論は、
自らの瞑想中に体験したという、

「形なきいのちそのものであり、
言葉をこえた純粋生命である『業熟体』が、
限りない以前から、生まれ替わり死に替わり輪廻転生し、
生きとし生けるものと交わりながらいまここに実現している、私自身の本質である。
また、それは同時に、宇宙共同体の結び目である。」

という悟りの内容を中核とするものでした。

彼は、仏陀の禅定経験である悟りに、自ら禅定して肉薄しようとしました。
それだけではなく、
あらゆる宗教の冥想行を「全人格的思惟」として、それを探求したのです。

また、現代科学と宗教の一致を唱え、
普遍的なるもの、根源的なる神、をも視座においた論考を発表しています。

彼は、単なる学者にとどまらない、霊的体験を持った仏教者でありました。

その著書、「東西思想の根底にあるもの」では、このように主張しています。


イエスやパウロにおける霊も、
ゴータマのダンマも、まったく形なきものであり、
神的であり出世間的でありながら、主体者に生き生きと感知され、
それによって貫きとおされ、ついに一如体となり、しかも果てしなく、
神の智慧、超脱の智慧が開発されていく。
このような智慧に目覚めたものは、奇しくも、しかしながら実は必然的に、
一方では「神の子」といわれ、他方では「世尊の子」と称され、
また一方では「神の相続者」と名づけられ、
他方では「ダンマの相続者」といわれている。
宗教的生命の根源態において、
両者がこのように類型を同じゅうしていることに、
われわれは深い熟慮を留めねばならない。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト



2008.05.22 修行者の心得
シュタイナーは、
名著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」において、
神秘道を歩むための条件として、下記の七つを挙げています。

修行者は、これらの七つの条件を充たすべく努力することが求められるのです。


一、肉体と精神の健康に留意すること。

二、自分を全体生命の一部分と感じること。

三、自分の思考と感情が、世界に対して、
   自分の行為と同じ意味を持つ、という立場に立つこと。

四、人間の本質が外観にではなく、
   内部に存する(自分は魂的=霊的である)、
   という観点を獲得すること。

五、一旦決心した事柄は、忠実にこれを実行すること。

六、自分に向かってくるすべての事柄に対する、
   感謝の気持ちを養うこと。

七、人生を、これら全ての条件にふさわしく形成すること。





クリックして愚僧の活動に御協力ください。
明治生まれの三浦関造氏は、
青山学院神学部に学び、卒業後は、ルソーの「エミール」を翻訳します。
これが、多くの読者を得て、当時の大正リベラリズム教育の柱となりました。
その後は、タゴール、ドストエフスキー、トルストイなどの翻訳、多数の自著の出版、
全国講演をするなど教育啓蒙活動に従事しました。
昭和に入ると、神智学やオカルティズムを講じ、海外向けに英文著作も出版しています。
戦後には、綜合ヨガ団体である竜王会を設立し、その神秘思想の普及に努めました。

彼の主張は、ニューエイジ的であり、現代人にこそ傾聴されるべきものです。




残念なことには、日本は明治以来、国家主義、官僚主義でおし通して来た為、
幕末に当って現れた三浦梅園のような、神秘直感の大人材を尊重する認識力を喪失し、
西洋物質主義の真似ばかりして、
人類至尊の宝を東洋の古代聖典にさがし出すことを忘れてしまった。
仏教学者は出て来たが、聖典が教える源泉に体験を進めて、
密教科学の本領を説く人は一人も出て来なかった。


「天国は一粒の芥子種の如し」とイエスはいった。
真我は一粒の芥子種のようなものである。
この一粒が、智慧の宇宙大なる光となる。
「一粒の智慧といえども、大いなる危険より汝を救う」と、
前生のキリストであるクリシュナは教えた。
その一粒を持つ人間の神秘をしみじみ味わって見よう。
不安も恐れも、貧因も疾病も、一粒の智慧が、
胸のまん中なる真我から輝き出ないが為におこる無明の重荷である。
その重荷は、燃ゆる火が薪をば灰となすように、自我の霊火が焼きすててしまう。
それによって、われわれは病に勝ち、世に打ち勝つのである。
世に勝つ者の姿は不動尊の姿、キリストの姿、如来の姿である。


万国の願うところは、世界統一、新文明への大指導家たちが出現することである。
この大破壊到来を先見して、賢明な準備をなすべきことにつき、
イエスは警告的な教訓を与えた。
それは、「燈火を持つ十人の娘」の話に寓してある。寓話のすじはこうである。
十人の娘が燈火をたづさえて、新郎の来る宴会場に待つ。
夜ふけて新郎がついた時、五人の賢い娘は油壷を持っていたが、
五人の愚かな娘は油壷を持たず、燈火はまさに消え失せんとしていた。
油壷を持つ五人は、饗宴に招き入れられる光栄に接したが、
油壷を持たぬ五人は、あわてて油を買いに出かけた。
その間に門は閉じられ、戻って来た五人は、外の暗きに泣き悲しみ、
「我等のために門を開き給え」と呼べば、「我は汝等を知らず」と主が答える。
新郎とは、世界大破壊後の大指導者である。
燈火とは真理のこと、油壼とは目ざめた魂のことである。
油壷を持つ五人の娘は、魂に目ざめて真理に立つ人類の半数を示し、
油壷を持たぬ五人は、真理にはひきつけられていたが、まだ霊性の目ざめに会わず、
愚痴をこぼしていた痴鈍な人類の半数を示す。
後者は地上大破顔の闇の中に亡びなくてはならぬ者を表象する。
われ等は今や、蚕が殻を脱ぐように、旧い心の殻を脱皮しなければならぬ。
旧い物質慾に執着して、霊性の目ざめを無視する者は、
智能に於て低劣な者で、新時代の活動に役立たず、
脱皮出来ずに茫然と立ちすくんだまま腐れ死にする蚕の運命に終らなければならない。

「真理の太陽」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.05.22 指月のたとえ
すでにありあまるほどの法が説かれている。

それを実践すれば、幸福になれるのである。

誰もが幸せになりたいのに、その方法が分からずに苦しんでいる。

まだまだ、気づいていない人が沢山いる。

しかしながら、仏陀は月を指し示すが、

実際に月を見るのは、個人の責任においてなされなければならない。

仏陀は悟りへの道を示すが、その道を歩むのは修行者自身なのである。

仏陀はいわば教師であり、

自分の力で、努力精進し悟りに到りなさい、と教えているのだ。

いたずらに、神仏を呪い、嘆いたところで何も解決はしない。

神仏は、あらかじめ、人生を操作する舵を各自に与えられている。

それぞれに、金剛不壊の仏性が宿っている。

それを磨き、内なる光を灯すことが先決だ。

まずは、自己確立である。

自助努力の精神に、大いなる他力もまた働く。

愚僧、自らに言い聞かせつつ。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。