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2008.05.25 反骨の新聞人
超宗派の宗教新聞、「中外日報」の創刊者である真渓涙骨氏は、
明治、大正、昭和をまたにかけて活躍したジャーナリストです。

彼は、宗教界全般に絶大な影響力を持っていました。
大変、交際の幅が広く、
大本教の出口王仁三郎氏とも友好関係にあったほどです。

彼自身も、仏門に入門していましたが、
終生、仏教の覚醒と、宗教界の革新のために尽力した宗教者でもありました。

彼の力強い言葉を紹介します。




人生の要諦は自己反省にある。自己反省とは徹底的な自己発見だ。
深夜独り自己反省に耽る瞬間を持つものは、大悟の人生に触れる。

今を生活する、今を呼吸する、今を行楽する、一瞬の今、永遠の今、
今を外にして全生涯はあり得ない。

土から生れて土に還る肉の人間と、天から生れて天に還る霊の人間とがある。
その二にして不二の一体が永遠の歴史を造って行くのだ。

汝は正しく人間なり。果たして自ら天地の眼なりと信じ得るや。
果たして自ら宇宙の魂なりと悟り得るや。
この自信この自覚なくして人間は終に何処へ往かんとするか。

神の愛は隣人の愛を通して我等に交流し、
隣人の愛は神の愛を招いて我等に転入する。
神と我、我と隣人、常に三位一体の関係にあるが如し。

不可能を可能とする、それが即ち、人間の上に神力の加わった現象だ。
神の照覧にかなわねば可能すら悉く不可能となる、
恐るべくいましむべし。

宗派の垣を除け、教団の塀を崩せよ、異教徒と手を握れ!
異信者と交わりを結べ!各地各様形式にこだわらず、
魂と魂の融合に直結せよ!





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2008.05.25 木星の音
ボイジャーが録音した木星の発する音・・・らしいです。







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小泉八雲という名で、日本に定住し、
日本文化を世界に紹介したラフカディオ・ハーンは、
怪奇文学者として有名でありますが、
仏教研究者でもあったことはあまり知られていません。

ハーンは、
明治期の日本に多大な影響を与えたスペンサーの思想に傾倒していたのですが、
その思想を超えるものを、仏教に見出していたと思われます。

ちなみに、
スペンサーは「進化」という概念を提唱しましたが、唯物論者ではありませんでした。

ハーンの仏教に関する論稿です。




いまだに欧米には、涅槃というものが仏教徒にとっては、絶対の無と同じもの
―つまり、完全な寂滅を意味する、という考えが広く行なわれている。
この考えはまちがっている。
ただし、それはそのなかに半分の真理が合まれているために、誤まられているのである。
この半分の真理は、あとの半分の真理と一つにならなければ、なんの価値もないし、
またおもしろ味もない。だいいち、納得がいかない。
ところで、そのあとの半分の真理というのは、ふつうの西欧人の頭では、
てんで不審を立ててみることすらできない代物なのである。
なるほど、涅槃は消滅を意味する。
しかし、この個の消滅ということを、霊魂の死滅と解釈すると、
涅槃というものの概念と食いちがってくるのである。
あるいはまた、涅槃というものを、インドの汎神教が予言したように、
有限が無限のなかに没滅することと解釈すると、
その観念は、およそ仏教とは縁のないものになってしまうのである。
涅槃というものは、そういうものではなくて、個人の感覚・感情・想念の消滅を意味する。
―つまり、意識ある個性の究極の解体を意味する。
―いいかえれば、「我」ということばに包合されるいっさいの物の寂滅を意味する。
‥‥と、こういえば、
これなら仏教の教えの一面を正しく言いあらわしたことになるのである。

涅槃に入るのは、感覚や意識を持った「自我」ではないのである。
「我」とは、無量無尽の煩悩の一時的な集合物にすぎない。
それは魂の殻であって、いずれは破れるにきまっている泡沫にすぎない。
つまり、「我」とは、「業」から生まれたもの―というよりも、
仏教徒の主張するように、「我」がすなわち「業」なのである。

人間という不完全な存在の、偽れる意識のかげに、―覚、識、想の及ばぬところに、
無自覚にかくれ住みながら、
―われわれが霊魂と呼んでいる袋(じつは、その袋は、
煩悩という厚地の布で織ってある袋なのだが)のなかに包まれて、
そこに永遠にして神聖犯すべからざる、絶対の実在があるのである。
これは霊魂でもなく、また個性でもない。
これこそは、我所なき「全我」―「無我の大我」、つまり、
「業」のなかに胎蔵している仏性なのである。
あらゆる仮象の自我(我相)のなかに、この仏性が住んでいる。
あらゆる生類のなかに、この無量無尽の智慧が眠っているのである。
この智慧は発達もせず、埋れたなりで感得もされず、
知られもせずに眠っているのであるが、
さいごにはいっさいの無窮から目ざめて、煩悩の怪しい蜘蛛の囲を打ちはらい、
ついに肉の蛹を破って「空間」と「時間」の究極の征服に入るべく、
運命づけられているものなのである。

人格をもった神の信念が消滅して、個人の霊魂を信ずる信仰が持てなくなって、
最も宗教心に篤い人たちが、これまで宗教と呼んできたものにそっぽを向け出し、
世界的な懐疑心が倫理上の向上精神に日一日と圧力を加えて行くという、
こんにちのような知性的進化の時代にあたって、
光りはまさに東方からさしいでてきているのである。
われわれはそこに、われわれのそれよりも古い、洪大な信仰、
他のいかなる体系よりもすぐれた道徳体系を教え、
今後いかなる積極的な知識形態も打ち破ることのできない希望をもっている、
偉大な信仰に直面していることに気づくのである。


「仏の畑の落穂」




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2008.05.25 唯物論大国
日本人は、思想を持つべきだ。

根なし草のように、漂うばかりの国民。

信仰を嘲笑うマスコミ。

物質の扱いに長けることは、もちろん素晴らしい。

しかし、何故日本では、形而上学が学問になりえないのか。

何故、オカルトという言葉で、ひとくくりにされてしまうのか。

仏教は解体され、西洋神秘主義も理解されず、残されたのは神なき唯物論。

「人権を守ろう」、「美しい国に」、「いじめを止めよう」、
「ゆとり教育」、「平和主義」、「いのちの尊さ」、全てが空虚に響く。

何故、いのちは尊いのか?何故、人を傷つけてはいけないのか?

大人は、答えることが出来ない。

何故なら、唯物論には、意味や価値など存在しないのだから。




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