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2008.05.31 布施行の功徳
修行者の霊的覚醒には、様々なレベルがあります。
お釈迦さまは、決して一足飛びに仏になれるとは、説きませんでした。

さらに、仏教徒が、布施行をする場合についても、
それによって得ることのできる利益が違ってくると言われるのです。




さて、アーナンダよ、個人に対する布施として、これら十四段階がある。

まず、修行を完成した人(如来)であり、尊敬されるべき人(阿羅漢)であり、
正しく悟った人(等正覚者)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第一番目である。
独りで覚った人(辟支仏)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第二番目である。
修行を完成した人の弟子で、
聖者の最高の境地に達した者(阿羅漢果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第三番目である。
聖者の最高の境地を実証するために、
修行中の者(阿羅漢向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第四番目である。
欲界に戻ってこない者(不還果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第五番目である。
欲界に戻ってこないという結果を実証するために、
修行中の者(不還向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第六番目である。
もう一度だけ人間界に戻って来る者(一来果)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第七番目である。
もう一度だけ人間界に戻って来るという結果を実証するために、
修行中の者(一来向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第八番目である。
聖者の流れに踏み入った者(預流果)に対して施しを与えるのが、
個人に対する布施の第九番目である。
聖者の流れに踏み入ったという結果を実証するために、
修行中の者(預流向)に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十番目である。
異教を学ぶ者(外道)で欲望への貪りを離れた者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十一番目である。
世俗の人々(凡夫)のうち戒めをよく守る者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十二番目である。
世俗の人々のうち戒めを守らない者に対して施しを与えるなら、
これが個人に対する布施の第十三番目である。
動物(畜生)に対して施しを与えるなら、これが個人に対する布施の第十四番目である。

そこで、アーナンダよ、動物に対して施しを与えたならば、
その布施は、百の利益を得ることが期待できる。
世俗の人々のうち戒めを守らない者に対して施しを与えたならば、
その布施は千の利益を得ることが期待できる。
世俗の人々のうち戒めをよく守る者に対して施しを与えたならば、
その布施は十万の利益が期待できる。
異教を学ぶ者で、欲望への貪りを離れた者に対して施しを与えたならば、
その布施は一兆の利益が期待できる。
聖者の流れに踏み入ったという結果を実証するために、
修行中の者に対して施しを与えたならば、
その布施は、数えきれず量りきれない利益を得ることが期待できる。
そうであるから、
ましてや聖者の流れに踏み入った者に対して与えた場合は、いうまでもない。
もう一度だけ人間界に戻って来るという結果を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
もう一度だけ人間界に戻って来る者に対して与えた場合は、いうまでもない。
欲界に戻ってこないという結果を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
欲界に戻ってこない者に対して与えた場合は、いうまでもない。
聖者の最高の境地を実証するために、
修行中の者に対して与えた場合は、いうまでもない。
修行を完成した人の弟子で、
聖者の最高の境地に達した者に対して与えた場合は、いうまでもない。
独りで覚った者に対して与えた場合は、いうまでもない。
修行を完成した人であり、尊敬に値する人であり、
正しくさとった人に対して与えた場合は、いうまでもない。


パーリ原始仏典中部第142経「施分別経」



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クリシュナ(聖バガヴァッド)の教えは、
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」に記されています。
紀元前4700年ごろ、インドに生れた大如来クリシュナは、イエス=キリストの前世なのです。
その教えからは、その片鱗がうかがえます。
宗教の根は一つなのです。




「私は不生であり、その本性は不変、万物の主である。
実に美徳が衰え、不徳が栄える時、
私は自身を現わすのである。善人を救うため、悪人を滅ぼすため、
美徳を確立するために、私は世期ごとに出現する。」


「主は万物の心の中にある。全身全霊で主にのみ庇護を求めよ。
その恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。」


「人々がいかなる方法で私に帰依しても、
私はそれに応じて彼らを愛する。人々はすべて私の道に従う。」


「ブラフマン(神)と一体になり、
その自己が平安になった人は、悲しまず、期待することもない。
彼は万物に対して平等であり、私への最高の信愛を得る。
愛により彼は真に私を知る。私がいかに広大であるか、私が何者であるかを。
かくて真に私を知って、その直後に彼は私に入る。
私に帰依する人は、常に一切に行為をなしつつも、
私の恩寵により、永遠で不変の境地に達する。」


「私は万物に対して平等である。私には恨むものも好きなものもない。
しかし、信愛をこめて、私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。
たとえ極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、
彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。
速やかに彼は敬虔な人となり、永遠の寂静に達する。
確信せよ。私を信ずるものは、滅びることはない。」


「バガヴァッド・ギーター」




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2008.05.31 無財の七施
精神世界の探求が単なる現実逃避となってはいけません。
愚僧にもその懸念があるようです。自らを戒めたいと思います。

大切なのは、愛の実践であります。
物質の施しだけではなく、法を説く法施も大切です。

他にも、仏教には無財の七施といって、誰にでも出来る愛行があるのです。


1、眼施(げんせ)・・・慈愛のこもった眼差しを向ける

2、和顔悦色施(わげんえつじきせ)・・・常に和やかな笑顔をつくる

3、言辞施(ごんじせ)・・・愛のある優しい言葉を使う

4、身施(しんせ)・・・身体による善行によって奉仕する

5、心施(しんせ)・・・慈愛の心で接する

6、床座施(しょうざせ)・・・座席や場所を譲る

7、房舎施(ぼうじゃせ)・・・宿泊や休憩の為に自宅を提供する





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