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2008.06.02
ダスカロスの教え
キプロスの賢者、
20世紀最高のヒーラーと言われるダスカロス(スティリアノス・アテシュリス)は、
尋ねてくる人々に、奇跡的な種々の霊的治療を無償で施し、
キリスト弟子の福音書ヨハネからの霊指導を受けて、
秘教サークルを開き、ひっそりと生徒達に教えを伝えました。
彼は、全ての過去世を覚えていて、数多くの言語にも通じていたのですが、
その過去世の一つでは、輪廻転生を唱えた神学者オリゲネスであったとも述べています。
ダスカロスの教えは、
あらゆる宗教の本質である霊的真実を熟知したものであったのです。
現在でも、彼の教えを学ぶサークルは、欧米を中心に世界に広がっています。
彼の言葉を紹介します。
輪廻転生には、まず第一に、歴史上、そして宗教上の議論がある。
これら自体は証明にならないが、輪廻の考えをサポートしている。
二番目には、輪廻が想像ではなく、現実だと証明するいくつもの例がある。
三番目に、最も良い証明は、個人が自分の過去世に目覚めることだ。
これらの議論を一つずつ辿ってみよう。
私たちの世界では、それが多数派でなくても、
大勢の人が輪廻を事実として受け入れている。
この惑星のほとんどの宗教では、
輪廻転生がはっきりと定められているか、示唆されている。
仏教、タオ、ヒンズー教などの密教的な伝統では、輸廻転生は当然とされている。
イスラム教を理解する者たち、つまリスーフィー教のことだが、
彼らにとっても輪廻転生は現実だ。キリスト教でも、示唆されている。
東洋の宗教では、輪廻などの概念はもっとずっと受け入れやすいといえる。
というのは、これらの宗教はサイキック界ともっと直接に関わり合っているからだ。
西洋の社会と異なって、
東洋では他の次元に移行した魂たちとずっと持続した触れ合いがある。
だから、彼らはそれらの次元が本当にあるという意識が強い。
キリスト教でも、教会の聖職者たちが聖書からその事実を取り去ってしまうまでは、
輪廻転生は幅広く受け入れられていた。
地獄は永遠に燃えているところだという教義は愚かであり、
教会で聖職者たちが誉め称える最も慈悲深い神への冒瀆である。
正統派のキリスト教徒でさえ、輸廻転生を受け入れていたということが分かっている。
オリゲネスや他の人びとの著作にも、この見方が表われている。
新約聖書の中でも、聖職者たちの検閲を免れた文に、
キリストが弟子たちに「人が人の子と呼ぶのは誰であろう?」と質問して、
弟子たちが「死者から来た預言者エライアス」と言う。これは輪廻転生を指している。
キリストは弟子たちに、彼らの話していることはナンセンスだと言うこともできたはずだ。
しかしキリストは、確かにエライアスだが弟子たちには見つけられない、と言った。
弟子たちはパプテスマのヨハネに、彼がエライアスか、と聞く。
ヨハネは「私はエライアスではない。今はヨハネです」と正しく答えたのだ。
「そして、あなたは誰ですか」と彼らは聞いた。
すると、「荒野で叫ぶ声です」と彼は答えた。
それはエライアスが砂漠で遭遇した状況と同じだ。
バプテスマのヨハネに、エライアスと同じ性格を見て取ることができる。
同じ美徳と、同じ弱点をね。それから、パウロのコリント人への手紙ではどうだろう。
彼は「あなた方の息子たちは、あなたの先に来ました」と述べている。
これは輸廻転生を意味するのではないだろうか。
しかし、聖書に頼らなくても、輪廻の証拠はある。
たとえば、それ以前にその言語を習ったことのない子供が、
その言葉を流暢に話しはじめたりする時だ。
それから、親戚が誰々で、自分はこういう人間だった、と言いはじめた時などだ。
証拠書類のあるケースがたくさんある。真理の探究者にとって、
強力な証拠は自分の潜在意識に入り、自分の過去世を知る時だ。
これ以上の証拠はないということを信じてもらいたい。
「メッセンジャー」
オリゲンとしての私はインテリであり、正教会の保護のために戦った。
正教会と言った時、私は一時的な聖職者の、教義を指しているのではない。
私はキリスト教の本質を指していて、
これは世界の偉大な宗教の本質とほとんど同一のものなんだ。
私が正教会に心が引かれている理由が分かるだろう。
キリストについて、ある特定の見方をする者と、違ったように見る者がいるとする。
両方とも、聖パウロが言ったような内なる光を通してキリストを見ていない。
神秘家は神を自分の中に探す。
キリストは愛である。で、もうそれ以上、言う必要はないのだ。
禅宗の仏教徒には彼らが、八正道と呼ぶものがあり、祈りや修行を通して、
邪悪を乗り越え、忍耐力を養い、執着を断つ訓練をして、
これらの性質を意識の一部分にする努力を続けることで、
彼らはドグマ的な神父や神学者たちよりずっとキリスト的な道を歩んでいるのだ。
「太陽の秘儀」
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20世紀最高のヒーラーと言われるダスカロス(スティリアノス・アテシュリス)は、
尋ねてくる人々に、奇跡的な種々の霊的治療を無償で施し、
キリスト弟子の福音書ヨハネからの霊指導を受けて、
秘教サークルを開き、ひっそりと生徒達に教えを伝えました。
彼は、全ての過去世を覚えていて、数多くの言語にも通じていたのですが、
その過去世の一つでは、輪廻転生を唱えた神学者オリゲネスであったとも述べています。
ダスカロスの教えは、
あらゆる宗教の本質である霊的真実を熟知したものであったのです。
現在でも、彼の教えを学ぶサークルは、欧米を中心に世界に広がっています。
彼の言葉を紹介します。
輪廻転生には、まず第一に、歴史上、そして宗教上の議論がある。
これら自体は証明にならないが、輪廻の考えをサポートしている。
二番目には、輪廻が想像ではなく、現実だと証明するいくつもの例がある。
三番目に、最も良い証明は、個人が自分の過去世に目覚めることだ。
これらの議論を一つずつ辿ってみよう。
私たちの世界では、それが多数派でなくても、
大勢の人が輪廻を事実として受け入れている。
この惑星のほとんどの宗教では、
輪廻転生がはっきりと定められているか、示唆されている。
仏教、タオ、ヒンズー教などの密教的な伝統では、輸廻転生は当然とされている。
イスラム教を理解する者たち、つまリスーフィー教のことだが、
彼らにとっても輪廻転生は現実だ。キリスト教でも、示唆されている。
東洋の宗教では、輪廻などの概念はもっとずっと受け入れやすいといえる。
というのは、これらの宗教はサイキック界ともっと直接に関わり合っているからだ。
西洋の社会と異なって、
東洋では他の次元に移行した魂たちとずっと持続した触れ合いがある。
だから、彼らはそれらの次元が本当にあるという意識が強い。
キリスト教でも、教会の聖職者たちが聖書からその事実を取り去ってしまうまでは、
輪廻転生は幅広く受け入れられていた。
地獄は永遠に燃えているところだという教義は愚かであり、
教会で聖職者たちが誉め称える最も慈悲深い神への冒瀆である。
正統派のキリスト教徒でさえ、輸廻転生を受け入れていたということが分かっている。
オリゲネスや他の人びとの著作にも、この見方が表われている。
新約聖書の中でも、聖職者たちの検閲を免れた文に、
キリストが弟子たちに「人が人の子と呼ぶのは誰であろう?」と質問して、
弟子たちが「死者から来た預言者エライアス」と言う。これは輪廻転生を指している。
キリストは弟子たちに、彼らの話していることはナンセンスだと言うこともできたはずだ。
しかしキリストは、確かにエライアスだが弟子たちには見つけられない、と言った。
弟子たちはパプテスマのヨハネに、彼がエライアスか、と聞く。
ヨハネは「私はエライアスではない。今はヨハネです」と正しく答えたのだ。
「そして、あなたは誰ですか」と彼らは聞いた。
すると、「荒野で叫ぶ声です」と彼は答えた。
それはエライアスが砂漠で遭遇した状況と同じだ。
バプテスマのヨハネに、エライアスと同じ性格を見て取ることができる。
同じ美徳と、同じ弱点をね。それから、パウロのコリント人への手紙ではどうだろう。
彼は「あなた方の息子たちは、あなたの先に来ました」と述べている。
これは輸廻転生を意味するのではないだろうか。
しかし、聖書に頼らなくても、輪廻の証拠はある。
たとえば、それ以前にその言語を習ったことのない子供が、
その言葉を流暢に話しはじめたりする時だ。
それから、親戚が誰々で、自分はこういう人間だった、と言いはじめた時などだ。
証拠書類のあるケースがたくさんある。真理の探究者にとって、
強力な証拠は自分の潜在意識に入り、自分の過去世を知る時だ。
これ以上の証拠はないということを信じてもらいたい。
「メッセンジャー」
オリゲンとしての私はインテリであり、正教会の保護のために戦った。
正教会と言った時、私は一時的な聖職者の、教義を指しているのではない。
私はキリスト教の本質を指していて、
これは世界の偉大な宗教の本質とほとんど同一のものなんだ。
私が正教会に心が引かれている理由が分かるだろう。
キリストについて、ある特定の見方をする者と、違ったように見る者がいるとする。
両方とも、聖パウロが言ったような内なる光を通してキリストを見ていない。
神秘家は神を自分の中に探す。
キリストは愛である。で、もうそれ以上、言う必要はないのだ。
禅宗の仏教徒には彼らが、八正道と呼ぶものがあり、祈りや修行を通して、
邪悪を乗り越え、忍耐力を養い、執着を断つ訓練をして、
これらの性質を意識の一部分にする努力を続けることで、
彼らはドグマ的な神父や神学者たちよりずっとキリスト的な道を歩んでいるのだ。
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2008.06.02
肉体の超克
お釈迦さまは、
肉体を超克するための修行法を確立されました。
自らの呼吸に注意を向ける、出入息法。
自分の動作や行動に集中し、意識して所作を自覚するヴィパッサナー瞑想。
身体を地水火風の要素の点から観察する、身体構造の観察による修習。
死体の観察による無常観の修習。
欲望を斥ける禅、精神集中し心を統一させる禅、
安楽に住する禅、平静さと注意力を得る禅、からなる四禅定。
これらの修行は現実逃避ではなく、
積極的に、肉体を超克して自由自在な境地を得るためのものでありました。
「比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、
繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。
(一)好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、
生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
(二)恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、
生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。
(三)寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、
身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、
死にそうな感覚をこらえられるようになる。
(四)現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、
思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。
(五)多種多様な不可思議力を行使する(神足通)。一身から多身になる。
多身から一身になる。現れたり消えたり、壁を通り抜けたり、土手を通り抜けたり、
山を通り抜けたり、まるで空中を行くようにぶつかることがない。
陸上でもまるで水の上にいるように浮かんだり沈んだりする。
水の上でもまるで陸上にいるように沈むことなく歩む。
空中でもまるで翼のある鳥のように足を組んだまま進む。あれほど大神通があり、
あれほど大威力があるあの月と太陽を手でなでたりさすったりする。
梵天界にいたるまでも身体をもったまま自由に行き来できる。
(六)澄み切った超人間的な天の聴覚で、遠くであれ近くであれ、
神々と人間たち両方の声を聞く(天耳通)。
(七)他の生物や他の人々の心を心でとらえて知る(他心通)。
貪りのある心を貪りのある心と知り、貪りのない心を貪りのない心と知る。
僧しみのある心を僧しみのある心と知り、僧しみのない心を僧しみのない心と知る。
愚かさのある心を愚かさのある心と知り、愚かさのない心を愚かさのない心と知る。
慎みのある心を慎みのある心と知り、乱れた心を乱れた心と知る。
広大な心を広大な心と知り、狭小な心を狭小な心と知る。
劣った心を劣った心と知り、最高の心を最高の心と知る。
集中した心を集中した心と知り、集中していない心を集中していない心と知る。
解脱した心を解脱した心と知り、解脱していない心を解脱していない心と知る。
(八)前世での多種多様な生活を想い出す(宿明通)。
すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、
十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、
千の生涯、百千の生涯、多数の衰退の劫、多数の形成の劫、
多数の衰退と形成の劫にわたり、
『あのときわたしはこういう名前で、こういう姓で、こういう家柄に属し、
こういうものを食べ、こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。
そして、そこから没してあそこに生まれた。そこではわたしはこういう名前で、
こういう姓で、こういう家柄に属し、こういうものを食べ、
こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。
そして、そこから没してここに生まれたのだ』というように、
状景とともに詳細とともに、前世での多種多様な生活を想い出す。
(九)澄み切った超人間的な天の眼で、
生きものが死んだり生まれかわったりするのを見る(天眼通)。
下等なものや上等なもの、美しいものや醜いもの、幸せなものや不幸なものなど、
生きものたちが行為に応じて報いを受けているのを知る。
(十)煩悩を尽くして、煩悩のない心の解脱と智慧による解脱を、
現世においてみずからはっきりと知り、じかに見、そこに達してとどまる(漏尽通)。
比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、
繰り返し、完全に習熟すると、以上の十の利益が期待されるのである。」
世尊はこういわれた。比丘たちは感激して世尊のことばを讃えた。
パーリ原始仏典中部第119経「念身経」
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肉体を超克するための修行法を確立されました。
自らの呼吸に注意を向ける、出入息法。
自分の動作や行動に集中し、意識して所作を自覚するヴィパッサナー瞑想。
身体を地水火風の要素の点から観察する、身体構造の観察による修習。
死体の観察による無常観の修習。
欲望を斥ける禅、精神集中し心を統一させる禅、
安楽に住する禅、平静さと注意力を得る禅、からなる四禅定。
これらの修行は現実逃避ではなく、
積極的に、肉体を超克して自由自在な境地を得るためのものでありました。
「比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、
繰り返し、完全に習熟すると、次の十の利益が期待される。十とはなにか。
(一)好き嫌いを克服できるようになる。かれは嫌悪感をものともせず、
生じてくる嫌悪感を打ち負かし続ける。
(二)恐れと怖じ気を克服できるようになる。かれは恐れと怖じ気をものともせず、
生じてくる恐れと怖じ気を打ち負かし続ける。
(三)寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻・蚊・風・熱・蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、
身体に生じる苦しい、はげしい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、
死にそうな感覚をこらえられるようになる。
(四)現世で気持ちよく過ごすことのできる、雑念を離れてすっきりした四つの禅定を、
思うままに得、難なく得、苦労なく得られるようになる。
(五)多種多様な不可思議力を行使する(神足通)。一身から多身になる。
多身から一身になる。現れたり消えたり、壁を通り抜けたり、土手を通り抜けたり、
山を通り抜けたり、まるで空中を行くようにぶつかることがない。
陸上でもまるで水の上にいるように浮かんだり沈んだりする。
水の上でもまるで陸上にいるように沈むことなく歩む。
空中でもまるで翼のある鳥のように足を組んだまま進む。あれほど大神通があり、
あれほど大威力があるあの月と太陽を手でなでたりさすったりする。
梵天界にいたるまでも身体をもったまま自由に行き来できる。
(六)澄み切った超人間的な天の聴覚で、遠くであれ近くであれ、
神々と人間たち両方の声を聞く(天耳通)。
(七)他の生物や他の人々の心を心でとらえて知る(他心通)。
貪りのある心を貪りのある心と知り、貪りのない心を貪りのない心と知る。
僧しみのある心を僧しみのある心と知り、僧しみのない心を僧しみのない心と知る。
愚かさのある心を愚かさのある心と知り、愚かさのない心を愚かさのない心と知る。
慎みのある心を慎みのある心と知り、乱れた心を乱れた心と知る。
広大な心を広大な心と知り、狭小な心を狭小な心と知る。
劣った心を劣った心と知り、最高の心を最高の心と知る。
集中した心を集中した心と知り、集中していない心を集中していない心と知る。
解脱した心を解脱した心と知り、解脱していない心を解脱していない心と知る。
(八)前世での多種多様な生活を想い出す(宿明通)。
すなわち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、
十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、
千の生涯、百千の生涯、多数の衰退の劫、多数の形成の劫、
多数の衰退と形成の劫にわたり、
『あのときわたしはこういう名前で、こういう姓で、こういう家柄に属し、
こういうものを食べ、こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。
そして、そこから没してあそこに生まれた。そこではわたしはこういう名前で、
こういう姓で、こういう家柄に属し、こういうものを食べ、
こういう楽しみと苦しみを味わい、こういう年齢でなくなった。
そして、そこから没してここに生まれたのだ』というように、
状景とともに詳細とともに、前世での多種多様な生活を想い出す。
(九)澄み切った超人間的な天の眼で、
生きものが死んだり生まれかわったりするのを見る(天眼通)。
下等なものや上等なもの、美しいものや醜いもの、幸せなものや不幸なものなど、
生きものたちが行為に応じて報いを受けているのを知る。
(十)煩悩を尽くして、煩悩のない心の解脱と智慧による解脱を、
現世においてみずからはっきりと知り、じかに見、そこに達してとどまる(漏尽通)。
比丘たちよ、『身体にむけた注意』を習い、養い、強化し、操り、基本とし、実行し、
繰り返し、完全に習熟すると、以上の十の利益が期待されるのである。」
世尊はこういわれた。比丘たちは感激して世尊のことばを讃えた。
パーリ原始仏典中部第119経「念身経」



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