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2008.06.04
坊さんの存在意義
最近の愚僧は、泣いてばかりです。
霊は永遠であることはわかっていても、あまりにも厳しい現実世界。
えてして、自信に満ち溢れた人には、愛がない。
自己卑下ばかりの人や鬱の人にも、愛はない。
ロマン主義も自我の拡張欲にすぎず、退廃主義では人類は破滅する。
日本の仏教僧は、善悪を語らず、
「死後の生命」についても、お茶をにごすばかり。
何故か?
全ては、植民地根性。
「重要な判断ごとは、アメリカ様(世界)が決めてくれる」、
「戦うことも、死ぬこともさけつづけて、安全地帯で生きていたい」、と。
人のせいにしていればいいのですか?
誰かが、解決してくれますか?
古い仏教は、もはや役割を終えてしまいました。
それはもうしかたがありません。
しかし、希望は「仏陀再誕」の事実であります。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
霊は永遠であることはわかっていても、あまりにも厳しい現実世界。
えてして、自信に満ち溢れた人には、愛がない。
自己卑下ばかりの人や鬱の人にも、愛はない。
ロマン主義も自我の拡張欲にすぎず、退廃主義では人類は破滅する。
日本の仏教僧は、善悪を語らず、
「死後の生命」についても、お茶をにごすばかり。
何故か?
全ては、植民地根性。
「重要な判断ごとは、アメリカ様(世界)が決めてくれる」、
「戦うことも、死ぬこともさけつづけて、安全地帯で生きていたい」、と。
人のせいにしていればいいのですか?
誰かが、解決してくれますか?
古い仏教は、もはや役割を終えてしまいました。
それはもうしかたがありません。
しかし、希望は「仏陀再誕」の事実であります。



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2008.06.04
ヘルマン・ベックの仏教観2
仏教学者は、宗教者でもあるべきなのです。
無責任な学者の自説によって、どれだけ仏教の真意が歪められてきたことでしょう。
ひきつづきましてベックの仏教観です。
高次の領域と結びつき、そこにある宇宙全体に広がる意識をふたたび獲得することが、
原初の神聖な科学、ヨーガの目的だった。
しかし、ヨーガは、今日の意味での抽象的で理論的な科学ではなかった。
すでにヨーガという、軛につなぐこと、馬具をつけること、
緊張(精神力の活動的な緊張)を意味する言葉が、実践的な労苦をあらわしている。
しかし、その実践は、インド人特有の科学性によって支えられている。
その科学性は今日のような自然の事実に立ち止まるものではなく、
超感覚的領域にまで探求を進めていくものであった。
この努力すべては、インド人にとっては自然なものであった。
インド人は遺伝をとおして、
特別に発展する可能性のある超感覚的な器官を内に有しているからである。
その器官によって霊的な力を探求することが、インド人には可能だったのである。
インド人にとって問題だったのは、
「どのようにして地球と物質的身体の深部の力を支配する法則性から解放されて、
高みのエーテル領域を支配する法則性とのつながりを見出すか」ということであった。
そして、彼らが見出した法則性は、深みの領域の法則性と同様に厳密であり、
情け容赦のないものであった。
古代のインド人にあっても、
この法則性の要求を満たすことは、しだいに少なくなってきた。
彼らは引きずり降ろすような欲情の力、個人的な虚栄に屈していった。
このようにして、古代のバラモン教は堕落していった。
ヨーガはますます堕落し、苦行へと退化した。
かつてはヨーガにおいて、霊的な力が地上的なものを形成し、
変容させうることが知られていた。
しかし、そのような能力は、だんだん信用されなくなっていった。
人間がまったく自己の内面に引きこもる道のみが純粋なものとみなされていった。
このようにして、ヨーガはますます一面的な神秘主義になっていった。
ここにブッダが登場する。ブッダはバラモン教の退廃、ヨーガの堕落を見た。
彼がおこなった宗教改新は、ヨーガのもっとも純粋な精神の上に構築された。
魂に道を示し、妨げとなる欲情を克服することにブッダは努めた。
偉大な秘儀参入者であったブッダは、
霊的な力が地上的なものをどのように形成し、変容させうるかを知っていた。
そして、彼は地球の深い力を知っていた。
その力について、ブッダは涅槃におもむくまえに、愛弟子アーナンダに語っている。
そして、大地の力そのものが師の決意に力強く答えている。
偉大なブッダは、こうして孤独に霊的な世界、偉大な涅槃におもむく。
ブッダが教え、ブッダがみずから、ただ五百年、
すなわち大きな時代の転換期までしか純粋に保たれないと告げた道は、
一面的な神秘主義にとどまった。
仏教徒は、人間から地上的なものをもぎ取る法則性の領域にとどまった。
仏陀はふつうの、
経験的な思考(われわれに言わせると、頭脳に拘束された思考)を超越し、
克服することそのものを使命としている。
それだからこそ、あらゆる思弁を拒否し、
かつまた、宇宙と人間との最高の秘密は抽象的、
哲学的な思考では達することができないと宣言したのである。
感性に拘束された低級な思考が陥っていて、
どうすることもできない矛盾を解決するものは、
論理的思考ではなくて、ただ高次の意識(悟り)のみである。
仏陀は、そのころの民衆にとって、その時代にとって、
空虚な概念形式にとらわれることが危険であることを、承知していた。
仏陀はすべての神学者の論争、すべての思弁を好まず、
苦痛に満ちた『教義の密林、教義の原始林、教義の痙攣、教義の喜劇』、
から心霊を救い出そうと欲し、現実的、瞑想的、内面的な体験の道へ、
低い意識とあらゆる形式の悟性的思考とを克服する道へと、心霊を向けさせ、
ただ、実践的、教育的な目的を達成するために、
有効適切であると思われた限りにおいてのみ、
概念なり、抽象的にまとめた『真理』なりを添えてやることにした。
仏陀はその真理をまとめる場合に、インドの諸派の述語を引用することもあったが、
そういうときにも、仏陀は、そういう最高の神的なもの、
または霊的なものを言い表す概念をその説明形式から省いた。
他の諸派で積極的な最高概念を用いるところを、仏陀はいわば空白として残しておいた。
この空白は、仏教のもっとも深い本質にもとづくものであるが、
これが多くの誤解を生ずる原因となった。
仏教によれば、人間の実体は五つの主要部分(五蘊)にわかたれる。
肉体の現象(色)、感受(受)、知覚意識(想)、潜在意識ないし潜在的構想力(行)、
心霊的意識(識)がそれである。
これら五つの主要部分は、いずれもすべて「無我」であると言われている。
何度となく死に変わり生まれ変わる間に一貫して本体であるのは識ではあるまいか、
という想定は仏陀によってきっぱりと否定されている。
(この場合「不変」という語によく注意を払うべきで、
識が不変なる自己という統一体となって、
さまざまな生涯を結びつけるという点を拒否するのである。)
この識という原理が死の際に肉体を去り、
そしてその原理が誕生ないし受胎の際に、
霊体と共に再び母胎に入り込むことはしばしば言われているが、
その原理それ自体が縁起の法則に従い、かつ無常なものであるのだから、
仏教の説によれば「我」ではない。
瞑想の際に人間としての総体の中からいわば、
高度な霊体としての三つの「自我」が出てくるが、
これと蘊とのあいだには一定の関係がある。
これら三つの「自己」はいずれも本来的な真実の自我として体験されるものではなく、
瞑想のある段階において見いだされた「自己」は、次のより高い段階で克服される。
仏教の瞑想はいわば絶対的自我の如きものにまで迫ることはない。
そして仏教の無我説はこのような事情から理解されるべきものである。
「仏教(上・下)」
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無責任な学者の自説によって、どれだけ仏教の真意が歪められてきたことでしょう。
ひきつづきましてベックの仏教観です。
高次の領域と結びつき、そこにある宇宙全体に広がる意識をふたたび獲得することが、
原初の神聖な科学、ヨーガの目的だった。
しかし、ヨーガは、今日の意味での抽象的で理論的な科学ではなかった。
すでにヨーガという、軛につなぐこと、馬具をつけること、
緊張(精神力の活動的な緊張)を意味する言葉が、実践的な労苦をあらわしている。
しかし、その実践は、インド人特有の科学性によって支えられている。
その科学性は今日のような自然の事実に立ち止まるものではなく、
超感覚的領域にまで探求を進めていくものであった。
この努力すべては、インド人にとっては自然なものであった。
インド人は遺伝をとおして、
特別に発展する可能性のある超感覚的な器官を内に有しているからである。
その器官によって霊的な力を探求することが、インド人には可能だったのである。
インド人にとって問題だったのは、
「どのようにして地球と物質的身体の深部の力を支配する法則性から解放されて、
高みのエーテル領域を支配する法則性とのつながりを見出すか」ということであった。
そして、彼らが見出した法則性は、深みの領域の法則性と同様に厳密であり、
情け容赦のないものであった。
古代のインド人にあっても、
この法則性の要求を満たすことは、しだいに少なくなってきた。
彼らは引きずり降ろすような欲情の力、個人的な虚栄に屈していった。
このようにして、古代のバラモン教は堕落していった。
ヨーガはますます堕落し、苦行へと退化した。
かつてはヨーガにおいて、霊的な力が地上的なものを形成し、
変容させうることが知られていた。
しかし、そのような能力は、だんだん信用されなくなっていった。
人間がまったく自己の内面に引きこもる道のみが純粋なものとみなされていった。
このようにして、ヨーガはますます一面的な神秘主義になっていった。
ここにブッダが登場する。ブッダはバラモン教の退廃、ヨーガの堕落を見た。
彼がおこなった宗教改新は、ヨーガのもっとも純粋な精神の上に構築された。
魂に道を示し、妨げとなる欲情を克服することにブッダは努めた。
偉大な秘儀参入者であったブッダは、
霊的な力が地上的なものをどのように形成し、変容させうるかを知っていた。
そして、彼は地球の深い力を知っていた。
その力について、ブッダは涅槃におもむくまえに、愛弟子アーナンダに語っている。
そして、大地の力そのものが師の決意に力強く答えている。
偉大なブッダは、こうして孤独に霊的な世界、偉大な涅槃におもむく。
ブッダが教え、ブッダがみずから、ただ五百年、
すなわち大きな時代の転換期までしか純粋に保たれないと告げた道は、
一面的な神秘主義にとどまった。
仏教徒は、人間から地上的なものをもぎ取る法則性の領域にとどまった。
仏陀はふつうの、
経験的な思考(われわれに言わせると、頭脳に拘束された思考)を超越し、
克服することそのものを使命としている。
それだからこそ、あらゆる思弁を拒否し、
かつまた、宇宙と人間との最高の秘密は抽象的、
哲学的な思考では達することができないと宣言したのである。
感性に拘束された低級な思考が陥っていて、
どうすることもできない矛盾を解決するものは、
論理的思考ではなくて、ただ高次の意識(悟り)のみである。
仏陀は、そのころの民衆にとって、その時代にとって、
空虚な概念形式にとらわれることが危険であることを、承知していた。
仏陀はすべての神学者の論争、すべての思弁を好まず、
苦痛に満ちた『教義の密林、教義の原始林、教義の痙攣、教義の喜劇』、
から心霊を救い出そうと欲し、現実的、瞑想的、内面的な体験の道へ、
低い意識とあらゆる形式の悟性的思考とを克服する道へと、心霊を向けさせ、
ただ、実践的、教育的な目的を達成するために、
有効適切であると思われた限りにおいてのみ、
概念なり、抽象的にまとめた『真理』なりを添えてやることにした。
仏陀はその真理をまとめる場合に、インドの諸派の述語を引用することもあったが、
そういうときにも、仏陀は、そういう最高の神的なもの、
または霊的なものを言い表す概念をその説明形式から省いた。
他の諸派で積極的な最高概念を用いるところを、仏陀はいわば空白として残しておいた。
この空白は、仏教のもっとも深い本質にもとづくものであるが、
これが多くの誤解を生ずる原因となった。
仏教によれば、人間の実体は五つの主要部分(五蘊)にわかたれる。
肉体の現象(色)、感受(受)、知覚意識(想)、潜在意識ないし潜在的構想力(行)、
心霊的意識(識)がそれである。
これら五つの主要部分は、いずれもすべて「無我」であると言われている。
何度となく死に変わり生まれ変わる間に一貫して本体であるのは識ではあるまいか、
という想定は仏陀によってきっぱりと否定されている。
(この場合「不変」という語によく注意を払うべきで、
識が不変なる自己という統一体となって、
さまざまな生涯を結びつけるという点を拒否するのである。)
この識という原理が死の際に肉体を去り、
そしてその原理が誕生ないし受胎の際に、
霊体と共に再び母胎に入り込むことはしばしば言われているが、
その原理それ自体が縁起の法則に従い、かつ無常なものであるのだから、
仏教の説によれば「我」ではない。
瞑想の際に人間としての総体の中からいわば、
高度な霊体としての三つの「自我」が出てくるが、
これと蘊とのあいだには一定の関係がある。
これら三つの「自己」はいずれも本来的な真実の自我として体験されるものではなく、
瞑想のある段階において見いだされた「自己」は、次のより高い段階で克服される。
仏教の瞑想はいわば絶対的自我の如きものにまで迫ることはない。
そして仏教の無我説はこのような事情から理解されるべきものである。
「仏教(上・下)」



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2008.06.04
ヘルマン・ベックの仏教観1
ヘルマン・ベックは、19世紀ヨーロッパの代表的な仏教学者です。
ベックは、欧米における仏教受容や、
明治期日本の仏教再解釈の潮流に、大きな影響を与えました。
彼は、パーリ語、サンスクリット語、チベット語を理解し、
膨大な文献を渉猟して、仏教の霊的真実を闡明した大学者です。
その慧眼を見てみましょう。
仏典に神や悪魔や精霊などがたびたび登場するのは、
ブッダがそれらと会話する霊性を備えていた証拠であり、
弟子達にたびたびそのことを語っていたのであろう。
西洋の学者たちの中にはブッダを哲学者としてとらえ、
その霊性を排除しようとする動きがあるが、とんでもない間違いである。
仏陀が「無神論者」であるという見解は今でも広くおこなわれている。
仏陀のように、霊的=超感覚的なものに傾倒していた人物を、
現代言うような意味で無神論者とよぶとはとんでもない話である。
霊的な存在である神々とは、瞑想によってしたしく交わることができるのであって、
仏陀もこのことをいつも語っている。
しかしまた、最高の神的なもの、または霊的なものをも、
仏陀はあからさまに否定はしなかった。
他の宗教ではかの最高の神的=霊的なものについてさまざまに説かれるが、
それは仏陀にあっては沈黙なのであった。
この沈黙は、われわれに多くのことを語ることができるものであり、
ただの否定的なものではなくて、仏陀の沈黙が、
一般にそうであるように、積極的な一面を持つものである。
かつまた仏陀も時には、言語は不明瞭でありながらも、積極的な意味で、
最高の超感覚的なものについて述べ、感覚世界の諸現象はその中から現れ出て、
また、その懐中に戻って行くことができる、といっている。
仏陀は決して哲学者ではなくて、道の師であった。
人類の霊的指導者のうちで、
仏陀ほどに、あらゆる哲学的思弁を徹底的に拒否したものはめずらしい。
それにもかかわらず、時代が移るにつれて、「仏教哲学」が発展して来た。
どの宗教の歴史を見ても、人類なり、民族なりの持ち分の中から、
開祖の本来の意図からたいそうかけはなれたものが発展してくる。
仏陀はいくつかの形而上学の問題に答える場合に、
論理学の立場から見ると矛盾するようではあるが、
ありとあらゆる相反する選言支を同時に拒否し、否定するのを常とした。
ところが、仏教哲学の体系の中でも、もっとも重要で、かつ、もっとも有名なもの、
すなわち、大乗に属する中観派はこの仏陀の態度に関連している。
そこで、本来、反哲学的な仏陀の教えの中に含まれていたその胚芽から、
この「哲学」がいわば必然的に生じてきたことを確認するとき、
この特異な「哲学」が明らかにされるのである。
近代になって、また最近、西洋での仏教の宣伝が行われているが、
神智学や、それに似た動きを別にすると、たいていは、
仏教は合理主義の体系、「無神論の道徳哲学」であると言い、
近代の有力な世界観とすぐにも調和し、
この意味で、西洋の思想の展開において宗教の代用につかえるものだと考えている。
このような見解は仏教の本質を誤解するもはなはだしい。
仏教は西洋でいうような無神論でもなく、また、ただの哲学的合理主義でもない。
仏教はその本質において哲学とはまったく異なったものであって、
近代の唯物論とはまったく関係のないものである。
かつまた、偏見にとらわれず学的に研究すれば明らかであるように、
ほんとうの仏教は近代の神智学の動きと同じでもない。
いくらか接触する点があるとしても本質上べつのものである。
「仏教(上)・(下)」
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ベックは、欧米における仏教受容や、
明治期日本の仏教再解釈の潮流に、大きな影響を与えました。
彼は、パーリ語、サンスクリット語、チベット語を理解し、
膨大な文献を渉猟して、仏教の霊的真実を闡明した大学者です。
その慧眼を見てみましょう。
仏典に神や悪魔や精霊などがたびたび登場するのは、
ブッダがそれらと会話する霊性を備えていた証拠であり、
弟子達にたびたびそのことを語っていたのであろう。
西洋の学者たちの中にはブッダを哲学者としてとらえ、
その霊性を排除しようとする動きがあるが、とんでもない間違いである。
仏陀が「無神論者」であるという見解は今でも広くおこなわれている。
仏陀のように、霊的=超感覚的なものに傾倒していた人物を、
現代言うような意味で無神論者とよぶとはとんでもない話である。
霊的な存在である神々とは、瞑想によってしたしく交わることができるのであって、
仏陀もこのことをいつも語っている。
しかしまた、最高の神的なもの、または霊的なものをも、
仏陀はあからさまに否定はしなかった。
他の宗教ではかの最高の神的=霊的なものについてさまざまに説かれるが、
それは仏陀にあっては沈黙なのであった。
この沈黙は、われわれに多くのことを語ることができるものであり、
ただの否定的なものではなくて、仏陀の沈黙が、
一般にそうであるように、積極的な一面を持つものである。
かつまた仏陀も時には、言語は不明瞭でありながらも、積極的な意味で、
最高の超感覚的なものについて述べ、感覚世界の諸現象はその中から現れ出て、
また、その懐中に戻って行くことができる、といっている。
仏陀は決して哲学者ではなくて、道の師であった。
人類の霊的指導者のうちで、
仏陀ほどに、あらゆる哲学的思弁を徹底的に拒否したものはめずらしい。
それにもかかわらず、時代が移るにつれて、「仏教哲学」が発展して来た。
どの宗教の歴史を見ても、人類なり、民族なりの持ち分の中から、
開祖の本来の意図からたいそうかけはなれたものが発展してくる。
仏陀はいくつかの形而上学の問題に答える場合に、
論理学の立場から見ると矛盾するようではあるが、
ありとあらゆる相反する選言支を同時に拒否し、否定するのを常とした。
ところが、仏教哲学の体系の中でも、もっとも重要で、かつ、もっとも有名なもの、
すなわち、大乗に属する中観派はこの仏陀の態度に関連している。
そこで、本来、反哲学的な仏陀の教えの中に含まれていたその胚芽から、
この「哲学」がいわば必然的に生じてきたことを確認するとき、
この特異な「哲学」が明らかにされるのである。
近代になって、また最近、西洋での仏教の宣伝が行われているが、
神智学や、それに似た動きを別にすると、たいていは、
仏教は合理主義の体系、「無神論の道徳哲学」であると言い、
近代の有力な世界観とすぐにも調和し、
この意味で、西洋の思想の展開において宗教の代用につかえるものだと考えている。
このような見解は仏教の本質を誤解するもはなはだしい。
仏教は西洋でいうような無神論でもなく、また、ただの哲学的合理主義でもない。
仏教はその本質において哲学とはまったく異なったものであって、
近代の唯物論とはまったく関係のないものである。
かつまた、偏見にとらわれず学的に研究すれば明らかであるように、
ほんとうの仏教は近代の神智学の動きと同じでもない。
いくらか接触する点があるとしても本質上べつのものである。
「仏教(上)・(下)」



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2008.06.04
祝福の心
嫉妬は、感情の中でも強力です。
人間はどうしても、
関心領域について自分より優れている人に対して、嫉妬してしまいます。
しかしこの嫉妬は、誰も幸せにしません。
嫉妬は、その相手の価値を低くしたいという感情です。
嫉妬している相手は、なりたい自己像でもあるため、
そのようになれる可能性をも消してしまうことになります。
嫉妬を克服するには、祝福の心を持つことです。
優れた人の存在を素直に祝福することで、
自分の手本とし、その人に近づいていくことが出来ます。
祝福の心は、他人の価値を認めるだけではなく、
自分の価値も高めることになるため、自分も他人も幸せにします。
人間は、一人では生きていけません。
ですから、多様な価値観を認めなければなりません。
どんな人にもそれぞれ秀でたものがあります。
他人もまた、その特性を生かしながら、人類に貢献している存在です。
他人の才能や成功を喜ぶ人は、その幸福が何倍にもなるのです。
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人間はどうしても、
関心領域について自分より優れている人に対して、嫉妬してしまいます。
しかしこの嫉妬は、誰も幸せにしません。
嫉妬は、その相手の価値を低くしたいという感情です。
嫉妬している相手は、なりたい自己像でもあるため、
そのようになれる可能性をも消してしまうことになります。
嫉妬を克服するには、祝福の心を持つことです。
優れた人の存在を素直に祝福することで、
自分の手本とし、その人に近づいていくことが出来ます。
祝福の心は、他人の価値を認めるだけではなく、
自分の価値も高めることになるため、自分も他人も幸せにします。
人間は、一人では生きていけません。
ですから、多様な価値観を認めなければなりません。
どんな人にもそれぞれ秀でたものがあります。
他人もまた、その特性を生かしながら、人類に貢献している存在です。
他人の才能や成功を喜ぶ人は、その幸福が何倍にもなるのです。



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