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2008.06.09 僧侶の覚醒
僧侶は、宗教の専門家であることに自信と誇りを取り戻すべきです。

近代に入ってからの日本の仏教僧は、
すっかり自信を無くし、社会的な地位や影響力も失ってしまいました。

最近の僧侶には、世間に迎合した日和見的な発言が目立ちます。
僧侶は宗教家なのであって、学者ではないのです。

僧侶にしか出来ない仕事があるはずです。

科学的次元を超えた霊性や、死後の世界について教えること、

神や愛について積極的に語ること、

人生の目的や意味を示し、人々に生きていく方向性を与えること、

輪廻転生や霊的進化、あの世の法則を探求すること、

天上界の諸菩薩や諸如来の実在を知らせること、


これらは、宗教家の仕事です。

しかし、霊的な事柄について説くのには、
それなりの覚悟が必要ですし、責任もともないます。

何故なら、
誤って、神の理法、宇宙の法則、仏法真理に背いたことを説いて、
人々を惑わし、魂を誤った方向に導いてしまった場合には、
そのカルマを背負うこととなり、
その人々が救われるまでは、本人も救われません。

ある意味では、
魂を汚染させることは、肉体生命を奪うことよりも罪が重いのです。

宗教家の仕事とは、それほど大切で、重要なのです。


また愚僧自らにも出来ないことを書いてしまいました。

精進します。




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2008.06.09 死後の真実
死の医学、終末期医療の第一人者であった、
精神科医のE・キューブラー・ロス博士の言葉です。




死ぬときの経験は、誕生の時の経験とほとんど同じです。
死とは別の存在への誕生であり、このことはいとも簡単に証明することができます。
何千年もの間、私たちはあの世に関するものを「信じる」ように仕向けられてきました。
しかし、私にとってはもはや信じるかどうかの問題ではありません。
知るかどうかの問題なのです。

私の本当の仕事は、
死は存在しないということをみなさんに伝えることであって、
だからこそみなさんの助けが必要なのです。
人類は、このことを知らねばなりません。
というのも、今、私たちは困難な時期の初めにさしかかっているからです。
この国だけでなく、地球全体という惑星全体がそうなのです。
これは、私たち自身がおこなっている破壊のためです。
核兵器のためです。私たちの貪欲さや物質至上主義のためです。
エコロジーという見地から言って、私たちのあまりに強欲なためであり、
天然資源をあまりに多く破壊しすぎたためであり、
そして本当の意味での霊性を失ってきたためです。
ニューエイジへと変化していく唯一の方法は、
この地球が目覚め、私たち自身が目覚めることですが、
私たちはすでに目覚めつつあるのです。
もうすでに、それが始まっていることも知っています。
おそれてはいけません。
チャネルを開き、恐れを追いやって広い心を持つことができれば、
すばらしい洞察や啓示がやってくるはずです。

ただ自分自身の内部で静かに自分自身と触れ合えばよいのです。
内なる自己に触れ、恐れないことを学べばよいのです。
恐れない方法の一つは、死は存在しないことを知り、
この人生で起こることは全て肯定的な目的を持っているのだと知ることです。
否定的な考えを全て捨て、
人生を内なる資質や力量を試すというチャレンジだという目で見てゆきなさい。
偶然は存在しません。神は罰したり、意地悪くもありません。
あの世に移行した後に、これまで天国と地獄として描かれてきたものと出会います。
あの世の入り口に行って戻ってきた人たちの話によると、この移行の後、人間は皆、
テレビにようによく見えるスクリーンの前に立たされるそうです。
そして、神が判断するのではなく、自分自身で、自分の人生の中での行動、
発した言葉、考えたことを一つ一つ判断する機会が与えられます。
みなさんは自分の生き方がどうだったかによって、
自分自身の地獄か天国かを作っているのです。

昔のほうが、もっと人々は死の問題に事情が通じていて、
天国や死後のいのちを信じていました。
肉体が死んでしまった後にも、
いのちが存在することを本当に知る人がどんどん少なくなったのは、
おそらくここ百年ほど前からでしよう。
でもいま、私たちはニューエイジにいます。
おそらく私たちは、科学と技術と物質至上主義から、
純粋で本物の霊的な時代へと移行したようです。
これは、信仰という意味ではありません。霊性という意味です。
霊性とは、私たち個人を越えたずっと大きな存在、この宇宙を創造し、
いのちを創造した存在があるという気づきであり、
自分がその存在のかけがえもなく大切で意義のある一部であって、
そうした存在の発展に大きく貢献できる、という気づきです。
私たちはみな、いのちの源泉から、いや神から生まれたときに、
神性という面を授かりました。
それは、私たちが文字通りその源泉の一部を内に持っているという意味です。
つまり、それが私たちに永遠なる英知を与えてくれるのです。
多くの人が感じ始めているとは思いますが、
自分の肉体は単に住居や神殿、あるいは私たちの言うマユに過ぎず、
死という移行を迎えるまでの何ヵ月か何年かの間、住むところなのです。
そこで、死にゆく子供たちやその兄弟たちに説明するときに使う、
象徴的な言葉を使って言うと、死が訪れるとき、
私たちはマユから出て、チョウのようにもう一度自由になるのです。

私たちの研究は、『体外への旅』という本を書いたロバート・モンロー氏の協力を得て、
実験研究によって正しいことが実証されました。
私たちは自然に起こった幽体離脱の体験はもちろんのこと、
モンロー氏が指導した、誘発による離脱体験についても研究しました。
トペカのメニンガー財団の科学者たちも一緒に観察しました。
現在では、ますます多くの科学者や研究者が、
このような研究を行い、さまざまな立証をしています。
当然これは、いのちに対して私たちが持っている三次元的な科学的思考では、
考えることが難しい次元の研究へと導いています。


「死後の真実」




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2008.06.09 二河白道
この世は誘惑にみちています。

一旦信仰の道に入っても、
違う道にそれてしまったり、
転落したり、途中で倒れたり、いろいろです。

しかし、栄光のゴールを目指してまっすぐに進んでいかなければなりません。

そのような様子を表したものに、
中国浄土教の僧、善導の著書「観無量寿経疏」に説かれた二河白道のたとえがあります。

それは、このような話です。


旅人の西の方向には、進むべき一本の白い道があります。
しかし、この道は幅が狭く、一人通るのがやっとです。
旅人の後ろからは、飢えた獣や殺人鬼がいまにも襲ってこようとし、
その白い道の左側は猛火で覆われ、右側には荒れ狂った水がせまってきています。

旅人は、
後ろに戻っても死、とどまっても死、また前に行っても死あるのみ、
という絶体絶命の窮地に立たされた時、火の河、水の河をはさんだ向こう岸から、
阿弥陀如来の、「こちらに来なさい。必ず守る。」、という声、
背後からは釈迦如来の、「心を定め、その道を行きなさい。」、という声を聞きます。

旅人は途中、後ろの群賊・悪獣からの、
「帰って来い。こっちは楽しいぞ。」という誘惑の声を無視して、
一心にその白い道を前に進んで、
ついに向こう岸にいる懐かしい人々と喜びの再会を果たすことが出来たのです。


このたとえ話での旅人は、仏道修行者です。
背後の群賊や悪獣は、他の人々からの悪の誘惑、中傷、非難、罵声です。
水河は欲・こだわり・貪り、
火河は怒り・憎しみ、などの煩悩をあらわしています。

白い道は、人生における正しい仏道修行の道です。
今いる此方の岸はこの世、彼方の岸は霊天上界をあらわします。

修行者は、この世的な欲望を断ち切ることができなかったり、
霊的世界に疑いが出てきたり、逆に慢心したり、常に困難にであいます。

しかし、仏陀は、
迷わないようにあの世の存在を教え、正しい修行法を説かれていますし、
行く先のゴールである霊天上界からは、導きの声が届けられています。

そして、その教えを信じ、今世での修行を終えて霊天上界に帰れば、
本来の仲間である霊人達と会うことが出来るのです。


このように仏教の二河白道のたとえでは、信仰の姿があらわされています。




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