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2008.06.11 阿羅漢の境地
現代の仏陀が、仏道修行者の目指すべき阿羅漢について説かれています。
まれなることであります。




一般的な阿羅漢の基準としては、心に引っ掛かりがなく、透明感が増すこと、
そして第二に霊道が開けるか、あるいはそれに近い状態になること、
三番目に、他人の気持ちが手にとるようにわかり始めること、
この三つの基準をあげることができるでしょう。
ただ、霊道が開けて、本人は阿羅漢だと思っていても、
じつは、地獄の悪霊に支配されている人もよくいますから、
これはよくよく注意しなければなりません。
増上慢にならないということです。
どうしても、霊的能力を持ちたがる人、あるいは持った人というのは、
うぬぼれの気持ちが出てきます。
そのうぬぼれの気持ちのところに魔が忍び込み、
本人を転落させるように誘惑する事になるのです。
これがいちばん危険な現象です。
ですから、阿羅漢の状態に近づいたと思ったら、
みずからを謙虚に考える必要があります。
こうしてはじめて、真実の阿羅漢となれるのです。
単に霊の声が聞こえたといっても、阿羅漢とは言えません。
その人が増上慢で、心が高ぶり、揺れているときに、阿羅漢ということはありません。
阿羅漢の状態になれば、心は不動心であって揺れず、そして透明感があります。
いつも心が揺れないで、安らいでいる状態でなければならないのです。
では、この阿羅漢という境地は何のために必要なのかと考えてみるときに、
やはりこれは、菩薩への登竜門であるという考え方を抜きに、
語る事はできないと思います。
阿羅漢は、まさしく菩薩への登竜門であり、菩薩の卵たちの修行の心境です。
この阿羅漢の境地で、数多くの人が、天上界でも地上界でも修行しているのです。
菩薩というのは、これは、プロの光の天使と言ってもよい境涯です。
愛他、利他の実践行に励んでいる人たちが、その境地にあります。
この菩薩の世界に入っていく前の関門として、阿羅漢があるのです。
そうして、阿羅漢が真の菩薩になってゆくためには、
阿羅漢の心境を長く続けてゆく必要があります。
一生を通じて阿羅漢であるという心境を全うする事ができれば、
その方は、まちがいなく菩薩の境涯に上がっていくこととなるのです。





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近代の仏教学では、

ものごとは、独立して存在せず、
相互依存的に関係しあい、因と縁とが結びついついて、宇宙が形成されている。
それぞれには、実体というものはなく、仮により集まっている無自性空なる存在である。


という縁起の思想が強調されています。

この思想を唯物論的に解釈すると、
無神論者が主張するように、
『仏教は絶対者の存在を認めない』ということになってしまいます。

これは、とんでもない誤りです。

お釈迦さまは、瞑想的次元において、
この世とあの世を貫く因果の法則、カルマの法則を説きました。

縁起の思想は、

「これあれば、かれあり。これ生ずるがゆえに、かれ生ず。
これ無ければ、かれなし。これ滅するがゆえに、かれ滅す。」

という原始仏典の言葉を根拠にしていますが、
これは、苦の原因を究明するために説かれたものです。


森羅万象は、偶発的なる粒子の結合によって形成されている、
というような物質次元の話ではありません。


まず、お釈迦さまは、創造神である大梵天を認めています。
また、神が存在することも認めています。
それをあまり強調せず、内なる叡智を開発する道を説いたのです。


神が存在しないということは、
人知を超えた神秘は存在しないということになります。

神秘が存在しないならば、
縁起の法則というのは、単なる物理法則と同じになってしまいます。

このような理屈で、
仏教が、近代科学と合致した合理的な教えだというならば、もはや宗教ではありません。

さらに、科学は発展しますから、
唯物論を捨て神秘へと向かいつつある科学思想とも、矛盾が生じることとなるでしょう。


宇宙や生命は、偶然に誕生したのでしょうか?
自由意志や、真・善・美や慈愛はどこから生まれるのでしょうか?
神通力、霊界や魂の存在はどのように説明するのでしょうか?
仏とは一体何なのでしょうか?

宇宙を統べる大いなるものの存在を認めずには答えることは出来ません。




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NHKのクローズアップ現代で、
スピリチュアルブームの報道がなされていました。

おなじみの反スピリチュアル論客が出てきて、
「無限の可能性などどうのこうの」と言っていました。

面白くなかったので、きちんと見ていません。


反スピリチュアルの人達は、
実は霊には大いに関心を持っていて、
もしかして、本当だったらどうしようと思っているはずです。

霊についての議論では、
否定派は潜在的な恐れを持っているため、感情的になりがちです。


何故なら、霊の実在は、
過去の偉大な宗教家や科学者、哲学者、
その他大勢が、うったえ続けてきていることですから。

一方、霊が存在しないことの証明に成功した人は皆無です。

ですから100%の確信をもって否定することなど、出来るわけはないのです。


目に見えぬものを信じるということは、飛躍であり、一歩を踏み出すことです。

現代の日本では、唯物論以外の思想体系を受け入れるのには勇気が必要なようです。




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