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仏教は、
決して自分だけが幸福になればいいという教えではなく、
他の人の幸福も同じように願います。

そして、仏教でいう幸福とは、
物質の問題ではなく、内面的なものであります。

仏教は、心の科学なのです。

ですから、仏教者は、
瞑想次元の事柄や神秘主義的概念、霊的世界について語らなければいけません。

何故なら、
仏教の、悟りと救済の理念である上求菩提・下化衆生は、
霊的世界の認識が、この原動力となるからです。

上求菩提・下化衆生とは、
上には限りない悟りの境地を目指し、
下に向かっては、その悟りの境地でもって、他の人々を教化し導いて救っていこう、
という仏教徒の持つべき理想です。

あらゆるいのちが、相互に依存し合って自他は一如である、という縁起の思想もまた、
物質的次元だけではなく、霊的次元も含めてはじめて把握できるものです。

仏教でいう悟りとは、
内なる自分を見つめる瞑想体験のなかで、
肉体自我ではない、永遠の霊的世界につながる我をつかむこと、
そして、その霊的存在である我は、個別の存在ではなく、
あらゆる生命とつながっていることを知ること、なのです。

自他は別の存在ではないという霊的覚醒、
そこから、愛他や利他の行動が出てくるわけです。
真実の自己を知るということが、利他、愛他へとつながっていくことになるのです。


ですから、瞑想次元を語らない現代の仏教は、
大切な真実を見落としていると言えます。




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150年前に、高級霊は予言しています。
しかし、物質主義との戦いはいまだに続いています。

僧侶はどちらの側につくべきなのでしょうか?




心霊主義は間違いなく一般の信仰となり、人類史に一新紀元を画すことになろう。
と申すのは、心霊主義は大自然の秩序であって、それゆえに今、
人類の知識の分野に格付けされる時が来ている、この故である。
しかしながら、心霊主義は今後かなり多くの攻撃に耐えねばならないだろう―
それは信念よりむしろ利害から出た攻撃、と言うのは、うぬぼれとか世間体から、
心霊を叩くことに関心をもつ連中が存在するということである。
しかし、このような反対は勢力を失っていき、ばかばかしくなって、
遂には大方の意見の下に集まらざるを得なくなろう。

社会の傷である唯物主義の打破、こうして、人々の真実の利益がどこにあるのかが、
人々にも理解されるようになろう。
人間の未来生活のヴェールがはがれて見えて来よう。
人々が現在の生活さえしっかりやれば、
未来の幸福は保証されるということが、よく分かるようになって。
宗派とか階層や皮膚の上の特権が打破されて、
人間がやがて兄弟として一つに結ばれる大きな連帯が見えて来よう。

何かの原因があれば、人類が魔法をかけたように変わると思うことは、
人間性に関する随分と浅薄な知識を示すものだろう。
観念というものは、個々の人間性の変化に応じて、
徐々に変化するもので、古い習慣の根絶には数世代を要する。
それ故人類の変革は時間をかけて、一歩一歩、
事実をもってする影響感化によってのみ進展する。 
一つ一つの世代を経て、ヴェールの一部づつが融けていく。
心霊主義は今このヴェールを消散させようとしている。
さて、もしここに心霊主義が、
一人の人のせめて一つの欠陥を癒すとすれば、この人を一歩前進させたこととなる。
そしてこの事はこの人に多大の善を為したことになる。
と言うのは、人は第一歩が肝心なのであって、
これによりその人の以後の進歩は、容易となるからである。


「霊の書」




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実験と最先端の統計学手法を用いて、
超常現象の実在を証明しようとしている超心理学ですが、

他の学術分野とも遜色のない研究体制が整っているにもかかわらず、
なぜか擬似科学として扱われることがあります。


超心理学への批判の傾向にはこのようなものがあるようです。


一、偏見による拒絶反応的な批判。

二、通常の現象として説明できる可能性がまったくないということを示すべき、
   という「オッカムのかみそり」などの哲学記号を用いた批判。

三、オカルト的な基盤をもっているという理由による批判。

四、「超常現象はない」という前提での、統計方法の正統性の否定。

五、通常科学と比較して、理論が確立されていないという批判。

六、トリックを用いても同じことが出来ることを示し、イカサマ仮説に信頼性を与える。

七、超常現象そのものに何の価値もない、というすりかえの批判。

八、正統的科学出版物への掲載拒否または、
   批判的なコメントによる掲載効果の打ち消し。


この分野では、物質主義との戦いがくりひろげられているのです。




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