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2008.06.21 学問と修行
仏道修行と、
仏教を字づらで捉える学問は全く別物です。

文献学者や言語学者に、仏教が理解できるはずもありません。

学者は、
自分の脳髄で把握できないものは何もないとばかりに、
仏典を読み、分析し、分類し、解釈します。

僧侶は、
およそ、この世には常識を超えた世界が存在することを認め、
仏典の真意を掴みとり、大宇宙の神秘に随順して、
その神法より智慧を授かるのです。

しかし、明治以降、西洋流の唯物論の興隆とともに、
神通や加持祈祷、霊能力、悟性、鎮魂行法等は蔑まれるようになり、
次第に僧侶自身も、仏教を学問や哲学の一種として修めるようになります。

近年においては、仏教界から人物が輩出されていないのはそのためです。


現代の僧侶のなかにも、真の行者は少なからず存在します。

しかし、
仏教者の多くが、唯物論者のごとくになっている現状は、憂うべきことです。

宗教の敵は、宗教にあり。
ボトルネックは、獅子身中の虫なのです。




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2008.06.21 違いを超えて
宗教が、争いや分裂の原因を生んでいるのならば、
宗教によってこそ、それらは解消されていかなければなりません。

宗教は本来、素晴らしいものです。

既存宗教は、形骸化しセクト化してしまい、本来の輝きを失ってしまいました。
ニューエイジやスピリチュアルの勃興が、それを証明しています。

もはや、宗教や宗派の違いにこだわっている時代ではありません。


生前、世界最大のニューソート団体である生長の家を率いて、
万教帰一を唱え続けた、谷口雅春氏の言葉です。




すべていろいろの宗教が、分かれて、宗派別のようになっているのは、
それは、その時代の背景、その宗教が発生した民族、人種、
あるいは、その住民の理解の程度、常識の程度というものが背景となり、
当時のその地の人々に解り易いように、
教祖は説かなければならなかったのであります。
だから、およそ宗教はその発生した土地とか時代とかによって、
説き方が変っているのです。説き方や比喩の立て方が変っているけれども、
人類の魂を救う真理の根本は同じなのです。
そこに万教帰一の所以があるのであります。
『人間の生命』は佛教的にいえば『如来の生命』である。
キリスト教的にいうならば、神の生命がここに分かれて宿っているんだから、
『神の子』であるということなんであります。
古神道によれば、すべての人間は皆、日子(ひこ)であり、
日女(ひめ)であり命(みこと)である。
換言すれば天照大御神の御子であります。
それが、あらゆる宗教の共通の真理であるわけなんであります。


「真佛教の把握」




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ブログ修行は続きます。

愚僧では、全くの力量不足ですが、
少しでも仏教の覚醒に寄与したいのです。

現代には、悩み苦しみ悲しみを抱えた方が沢山います。

皆、魂が飢えているのに、僧侶はそれに答えることが出来ていません。

このままでは、いつまでたっても葬式仏教と揶揄されたままです。

僧侶の仕事は、愛の実践と、他者の幸福に貢献することです。

皆様の魂の糧となるような光を発信するブログに出来れば、存外の喜びです。

日々に精進します。




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