2008.07.27
現代版スピリチュアリズム
アメリカでジャーナリズムの仕事をしているスザン・ワードさんのところに、
17歳で死に別れた息子のマシュー君からのメッセージが送られてきました。
そのメッセージが高度な内容なのは、
魂は、何度も転生してきた経験を有しているので、
この世にいる時より、はるかに叡智に溢れているからです。
この親子には、
スピリチュアルな真実を世に広めるという使命があって、
悲しい別れを経験する必要があったのです。
そのメッセージは現在も続いており、
世界のいろいろな言語に翻訳されているようです。
マシュー君のメッセージです。
日本のみなさんに愛をこめてご挨拶いたします。
魂の永遠の旅のなかで、
人は前世からの体験でよくなじみのある国や文化を選んで転生するのですが、
皆さんもまた、地球のこの激動の時代において、
自分がベストな形で貢献できるところを魂のレベルで知っていて、
今いらっしゃるところにいるのです。
年齢や学歴、肩書きなどに関係なく、みんながこの変換に参加することが大切です。
自分には他人ほど大した役割はないなどと思わないでください。
この時代に地球に生まれ、助けることを希望した人全員が、
それを許されたわけではないのです。
でもあなたは現に許されてここにいるのですから!
愛のエネルギーを与え、そして受け取ることで、
またポジテイブな心をもって生きることであなたが周囲に放射する光は、
地球が平和と調和のより高い波動に上昇するのを助けています。
それとは逆のことをしているように見える人や状況もあるでしょうが、
これもまたあなた個人や地球のカルマの清算のために必要だからそうなっているのです。
そうした人たちを審判の目で決めつけないでください。
敵とおばしきその人たちは、もしかするとあなたのカルマの清算を、
助けてくれているありがたい人なのかもしれないのです。
この大切な魂の旅をしているのは、あなた一人ではありません。
他の数多くの肉体のある、また肉体を持たない存在たちがともに歩んでいます。
私たちもまた、地球の人々にずっと光を照射し続けています。
光と愛は表裏一体のコインのようなものです。
また慈しみ深い地球外生命体ファミリーによる進歩したETテクノロジーもまた、
悪のはびこるこの第三密度から、地球が抜け出る手助けをしています。
みなさんはこの惑星が黄金時代、光の時代、新たな世界に人り、
原始エデンの花園に戻るのを手伝っているのです。
みなさんが喜びの気持ちにあふれ、この惑星とともに上昇の旅を続けるとき、
宇宙の聖なる祝福がみなさんとともにあるでしょう。
「天国の真実」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
17歳で死に別れた息子のマシュー君からのメッセージが送られてきました。
そのメッセージが高度な内容なのは、
魂は、何度も転生してきた経験を有しているので、
この世にいる時より、はるかに叡智に溢れているからです。
この親子には、
スピリチュアルな真実を世に広めるという使命があって、
悲しい別れを経験する必要があったのです。
そのメッセージは現在も続いており、
世界のいろいろな言語に翻訳されているようです。
マシュー君のメッセージです。
日本のみなさんに愛をこめてご挨拶いたします。
魂の永遠の旅のなかで、
人は前世からの体験でよくなじみのある国や文化を選んで転生するのですが、
皆さんもまた、地球のこの激動の時代において、
自分がベストな形で貢献できるところを魂のレベルで知っていて、
今いらっしゃるところにいるのです。
年齢や学歴、肩書きなどに関係なく、みんながこの変換に参加することが大切です。
自分には他人ほど大した役割はないなどと思わないでください。
この時代に地球に生まれ、助けることを希望した人全員が、
それを許されたわけではないのです。
でもあなたは現に許されてここにいるのですから!
愛のエネルギーを与え、そして受け取ることで、
またポジテイブな心をもって生きることであなたが周囲に放射する光は、
地球が平和と調和のより高い波動に上昇するのを助けています。
それとは逆のことをしているように見える人や状況もあるでしょうが、
これもまたあなた個人や地球のカルマの清算のために必要だからそうなっているのです。
そうした人たちを審判の目で決めつけないでください。
敵とおばしきその人たちは、もしかするとあなたのカルマの清算を、
助けてくれているありがたい人なのかもしれないのです。
この大切な魂の旅をしているのは、あなた一人ではありません。
他の数多くの肉体のある、また肉体を持たない存在たちがともに歩んでいます。
私たちもまた、地球の人々にずっと光を照射し続けています。
光と愛は表裏一体のコインのようなものです。
また慈しみ深い地球外生命体ファミリーによる進歩したETテクノロジーもまた、
悪のはびこるこの第三密度から、地球が抜け出る手助けをしています。
みなさんはこの惑星が黄金時代、光の時代、新たな世界に人り、
原始エデンの花園に戻るのを手伝っているのです。
みなさんが喜びの気持ちにあふれ、この惑星とともに上昇の旅を続けるとき、
宇宙の聖なる祝福がみなさんとともにあるでしょう。
「天国の真実」



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2008.07.27
ワンネス
預言者エドガー・ケイシーが、
生涯で最大の功績として自らが認めた「神の探求」というテキストから、
「神」についての文章を紹介します。
すべては「神」の顕現であり、「神」は宗教の違いを超えて一つであるはずです。
宇宙において、顕れているものはすべて神に属するものであり、神と一つです。
神の内にそれらは生き、動き、存在を得るのです。
地球をおおうこの「至高の知性」は巨大な惑星の中に完全に顕現するように、
極微の原子の中にも完全に顕現します。
この世に存在するエネルギーは一つであり、力は一つであり、存在は一つです。
それが神であり、父であることに目覚めることができれば、
どれほど素晴らしいことでしょう。神は「霊」です。
『天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、
見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、
あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導いてくださる。』
池に小石を投げ入れると波紋が広がり、ついには遠くの岸に到達するように、
わたし達の行いは、それが善いものであれ邪なものであれ、他人に影響します。
わたし達が体のどこかに怪我をするとその痛みが全身に伝わるように、
わたし達一人一人の行いは社会全体に影響するのです。
わたし達が全体に対する自分の義務を完全に自覚し、
神の御意を実現することに自らを捧げようというのであれば、
わたし達は身も心も魂も聖別して、
自らを霊的力が流れるための水路にしなければなりません。
父なる神は、一つの魂といえども減びるのを望まれません。
全ての人は、いつか神と人との関係を知るようになることでしょう。
その時には、障害は踏み石となり、わたし達の敵(妨害や弱点)は、
わたし達がより高く上がるための手段へと変わっていきます。
今日の混乱の中にあって、わたし達が忍耐と信仰という神の属性を実行していくなら、
神がその子らを通して働かれることを目の当たりにすることでしょう。
それには、何も壮大なヴイジョンを見たり、神秘体験をする必要はありません。
親切であり、各々の仕事を喜んで実行すれば、それで充分です。
これこそが霊的な態度であり、わたし達と世界に対して、
『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』、
という言葉の証しとなるのです。
このような認識からわたし達を引き離すのは自分だけです。
その認識に至る扉を開けるのも、閉じるのも、わたし達自身です。
わたし達は、自分が神や同胞から分離しているという感覚を許容してはなりません。
地球の裏側にいる「隣人」に影響することは、わたし達にも影響するのです。
地上の人間は、一つの大きな家族です。
わたし達は、全ての人の内に神がおられることを知って、
どの人も分け隔てなく愛すべきです。
自分自身が、神の恵みと慈しみと平安と愛が流れる完全な水路になることによって、
わたし達は、あらゆる被造物が一つであることをもっとよく理解できるようになります。
わたし達に呼びかける神の声が、わたし達のあらゆる思いと行為とを促して下さるよう、
いつも心を開いておきましょう。神の道は隠されてもいなければ、
遠く離れたところにあるわけでもありません。
この大いなる「一者」の栄光を見、聞こうとする者に開示されるのです。
わたし達は、強い意志をもって、
「神は一つ」という偉大な概念をこの物質世界に押し広める神の力の水路として、
自分を準備しなければなりません。
「神の探求Ⅰ」
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生涯で最大の功績として自らが認めた「神の探求」というテキストから、
「神」についての文章を紹介します。
すべては「神」の顕現であり、「神」は宗教の違いを超えて一つであるはずです。
宇宙において、顕れているものはすべて神に属するものであり、神と一つです。
神の内にそれらは生き、動き、存在を得るのです。
地球をおおうこの「至高の知性」は巨大な惑星の中に完全に顕現するように、
極微の原子の中にも完全に顕現します。
この世に存在するエネルギーは一つであり、力は一つであり、存在は一つです。
それが神であり、父であることに目覚めることができれば、
どれほど素晴らしいことでしょう。神は「霊」です。
『天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、
見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、
あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導いてくださる。』
池に小石を投げ入れると波紋が広がり、ついには遠くの岸に到達するように、
わたし達の行いは、それが善いものであれ邪なものであれ、他人に影響します。
わたし達が体のどこかに怪我をするとその痛みが全身に伝わるように、
わたし達一人一人の行いは社会全体に影響するのです。
わたし達が全体に対する自分の義務を完全に自覚し、
神の御意を実現することに自らを捧げようというのであれば、
わたし達は身も心も魂も聖別して、
自らを霊的力が流れるための水路にしなければなりません。
父なる神は、一つの魂といえども減びるのを望まれません。
全ての人は、いつか神と人との関係を知るようになることでしょう。
その時には、障害は踏み石となり、わたし達の敵(妨害や弱点)は、
わたし達がより高く上がるための手段へと変わっていきます。
今日の混乱の中にあって、わたし達が忍耐と信仰という神の属性を実行していくなら、
神がその子らを通して働かれることを目の当たりにすることでしょう。
それには、何も壮大なヴイジョンを見たり、神秘体験をする必要はありません。
親切であり、各々の仕事を喜んで実行すれば、それで充分です。
これこそが霊的な態度であり、わたし達と世界に対して、
『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』、
という言葉の証しとなるのです。
このような認識からわたし達を引き離すのは自分だけです。
その認識に至る扉を開けるのも、閉じるのも、わたし達自身です。
わたし達は、自分が神や同胞から分離しているという感覚を許容してはなりません。
地球の裏側にいる「隣人」に影響することは、わたし達にも影響するのです。
地上の人間は、一つの大きな家族です。
わたし達は、全ての人の内に神がおられることを知って、
どの人も分け隔てなく愛すべきです。
自分自身が、神の恵みと慈しみと平安と愛が流れる完全な水路になることによって、
わたし達は、あらゆる被造物が一つであることをもっとよく理解できるようになります。
わたし達に呼びかける神の声が、わたし達のあらゆる思いと行為とを促して下さるよう、
いつも心を開いておきましょう。神の道は隠されてもいなければ、
遠く離れたところにあるわけでもありません。
この大いなる「一者」の栄光を見、聞こうとする者に開示されるのです。
わたし達は、強い意志をもって、
「神は一つ」という偉大な概念をこの物質世界に押し広める神の力の水路として、
自分を準備しなければなりません。
「神の探求Ⅰ」



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2008.07.27
信仰は人を強くする
宗教(神)を信じる人は、知性が足りないのでしょうか?
弱い人間なのでしょうか?
それはとんでも無い誤解です。
歴史上、最も知的で、勇気ある人物は皆、信仰を持っていました。
釈迦やイエスをはじめ人類の進歩に貢献した方々がたくさん存在します。
信仰は、人を強くするのです。
目に見えない崇高な価値観を理解できるのは人間に与えられた特権です。
自分の「命」、以上に大切なものを持てる人は最強なのです。
その人の残した愛は、時空を越えて生き続け、他の存在をも生かし続けるのですから。
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弱い人間なのでしょうか?
それはとんでも無い誤解です。
歴史上、最も知的で、勇気ある人物は皆、信仰を持っていました。
釈迦やイエスをはじめ人類の進歩に貢献した方々がたくさん存在します。
信仰は、人を強くするのです。
目に見えない崇高な価値観を理解できるのは人間に与えられた特権です。
自分の「命」、以上に大切なものを持てる人は最強なのです。
その人の残した愛は、時空を越えて生き続け、他の存在をも生かし続けるのですから。



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2008.07.26
瞑想心理学
イタリアの精神科医ロベルト・アサジョーリは、
20世紀初頭にサイコシンセシスを創始しました。
これは、
近年発達してきたトランスパーソナル心理学の先駆けとなるもので、
統合心理学とも呼ばれています。
アサジョーリはこう述べています。
「さらに広大な、より包括的な視点からは、
宇宙生命それ自体が多様性と単一性の間の戦い、
統合への努力と切望であるように見える。
神ととらえようが、宇宙的エネルギーととらえようが、
あらゆる生きものの上に、また中にはたらいている精神が、
すべての存在を(あるものはそう望み、また多くは盲目的で反抗的であるが)、
愛の絆で結び、統合して全世界を秩序、調和、美へと導いて、
至上の統合を―ゆっくり、静かに、しかし、力強く、抗しがたい力で―、
達成しようとしているような感じがするのである。」
この文章からも分かるように、サイコシンセシスは、
宇宙(もしくは神)を信頼し、その働きを認めることが大前提にあるのです。
これは、昔からある宗教体験や神秘体験と同じものであって、
それを科学的文脈で語っているのです。
サイコシンセシスの特徴は、
曖昧であったユングの無意識領域を上位・中位・下位と区別して、
霊的存在としての高次の自己(トランスパーソナル・セルフ)を認め、
そのセルフをいかに健康的に成長させるかに主眼が置かれているところにあります。
そのために、サイコシンセシスでは、
ガイディングと呼ばれるワークを行います。
それは、東洋の伝統を取り入れたメディテーションです。
さまざまなエクセサイズが考案されていますが、
くつろいだ姿勢をとり、深呼吸して、
下記のような言葉について集中して、そのイメージを心に保持することによって、
セルフの内部に望ましい特性を育むのです。
美 創造性 永遠性 解放 同胞愛 感謝 調和 喜び 秩序
真理 晴朗 静寂 全体性 知恵 共感 エネルギー 無限
無執着 寛容 鑑識力 ユーモア 法悦 忍耐 革新 平安
穏和 理解 責任 把握力 力 普遍 協力 善 賞賛 包容
光 現実 信頼 奉仕 質素 逞しさ 勇気 情熱 自由 友愛
善意 驚異 受容性 愛 存在 信念 沈黙 統合 意思
これらの言葉を見ているだけで、いい気分になりますね。
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20世紀初頭にサイコシンセシスを創始しました。
これは、
近年発達してきたトランスパーソナル心理学の先駆けとなるもので、
統合心理学とも呼ばれています。
アサジョーリはこう述べています。
「さらに広大な、より包括的な視点からは、
宇宙生命それ自体が多様性と単一性の間の戦い、
統合への努力と切望であるように見える。
神ととらえようが、宇宙的エネルギーととらえようが、
あらゆる生きものの上に、また中にはたらいている精神が、
すべての存在を(あるものはそう望み、また多くは盲目的で反抗的であるが)、
愛の絆で結び、統合して全世界を秩序、調和、美へと導いて、
至上の統合を―ゆっくり、静かに、しかし、力強く、抗しがたい力で―、
達成しようとしているような感じがするのである。」
この文章からも分かるように、サイコシンセシスは、
宇宙(もしくは神)を信頼し、その働きを認めることが大前提にあるのです。
これは、昔からある宗教体験や神秘体験と同じものであって、
それを科学的文脈で語っているのです。
サイコシンセシスの特徴は、
曖昧であったユングの無意識領域を上位・中位・下位と区別して、
霊的存在としての高次の自己(トランスパーソナル・セルフ)を認め、
そのセルフをいかに健康的に成長させるかに主眼が置かれているところにあります。
そのために、サイコシンセシスでは、
ガイディングと呼ばれるワークを行います。
それは、東洋の伝統を取り入れたメディテーションです。
さまざまなエクセサイズが考案されていますが、
くつろいだ姿勢をとり、深呼吸して、
下記のような言葉について集中して、そのイメージを心に保持することによって、
セルフの内部に望ましい特性を育むのです。
美 創造性 永遠性 解放 同胞愛 感謝 調和 喜び 秩序
真理 晴朗 静寂 全体性 知恵 共感 エネルギー 無限
無執着 寛容 鑑識力 ユーモア 法悦 忍耐 革新 平安
穏和 理解 責任 把握力 力 普遍 協力 善 賞賛 包容
光 現実 信頼 奉仕 質素 逞しさ 勇気 情熱 自由 友愛
善意 驚異 受容性 愛 存在 信念 沈黙 統合 意思
これらの言葉を見ているだけで、いい気分になりますね。



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2008.07.26
仏教の葬送儀礼
義浄の「南海寄帰内法伝」には、
7世紀インドの仏教式の葬儀のようすが、記録されています。
お釈迦さまは、正しい供養や葬儀の仕方を説いていたのです。
霊魂が無いのであれば、死者を送る必要などありません。
(哀しみを誇示する、喪に服すなど)のことはみな、
中国の儒教の伝統に基づく葬送法なのであって、
インドの仏教本来の教誠・律儀ではなく、されば、
このようなことは仏者としては、当然ながら行わなくとも過ちではないのである。
では、仏者としてなすべき葬送とはどのようなものなのだろうか?
インド仏教本来の葬送法の正則とはどのようなものかといえば、
道理として、その死亡者の為に一房を浄らかにこそ飾るべきなのである。
或いは時に随ってかりに天蓋や幡幔を施し、
読経、念仏をし、つぶさに香や花を設けて、
亡魂を善処(浄土)に託生させようと冀(こいねが)うのである。
このようにしてこそ、儒教でいう孝子・報恩の定義はいざ知らず、
仏教では始めて孝子と成るのであり、始めて父母の恩に報いることになるのである。
仏の教えに依るならば、葬送の儀礼は、
まず第一に死亡者が必ず死んでいるや否やを観て知る、にはじまる。
葬儀の当日は死体をかついで焼処に向かい、ついで火で之れを焚く。
之の死体を焼く時に当たっては親友がみな集まって、傍らの一辺に座る。
その座処はと言えば、或いは草を結んで台座となし、
或いは土をあつめて台座となし、
或いは焼いた煉瓦の甎石を置いて座物に当てるなどしているのである。
その次に、一人の能者に『無常(三啓)経』を読誦させる。
この経は小さいもので、半紙か一紙程度、中国のように読誦が長時間に及び、
参列者を疲れさせるようなことはない。
火葬の後には、或いは設利羅(せつりら、骨)を収めて、
死亡人の為に塔を作ることもある。
これは倶羅(くら、塚)と名づけられ、形状は小塔のようである。
この小塔の上には輪蓋は無く、しかも塔には、その死亡者による格づけがあり、
凡夫善人から如来までの凡夫・聖人の区別があるのである。
これについては、律蔵の中であまねく論じている。
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7世紀インドの仏教式の葬儀のようすが、記録されています。
お釈迦さまは、正しい供養や葬儀の仕方を説いていたのです。
霊魂が無いのであれば、死者を送る必要などありません。
(哀しみを誇示する、喪に服すなど)のことはみな、
中国の儒教の伝統に基づく葬送法なのであって、
インドの仏教本来の教誠・律儀ではなく、されば、
このようなことは仏者としては、当然ながら行わなくとも過ちではないのである。
では、仏者としてなすべき葬送とはどのようなものなのだろうか?
インド仏教本来の葬送法の正則とはどのようなものかといえば、
道理として、その死亡者の為に一房を浄らかにこそ飾るべきなのである。
或いは時に随ってかりに天蓋や幡幔を施し、
読経、念仏をし、つぶさに香や花を設けて、
亡魂を善処(浄土)に託生させようと冀(こいねが)うのである。
このようにしてこそ、儒教でいう孝子・報恩の定義はいざ知らず、
仏教では始めて孝子と成るのであり、始めて父母の恩に報いることになるのである。
仏の教えに依るならば、葬送の儀礼は、
まず第一に死亡者が必ず死んでいるや否やを観て知る、にはじまる。
葬儀の当日は死体をかついで焼処に向かい、ついで火で之れを焚く。
之の死体を焼く時に当たっては親友がみな集まって、傍らの一辺に座る。
その座処はと言えば、或いは草を結んで台座となし、
或いは土をあつめて台座となし、
或いは焼いた煉瓦の甎石を置いて座物に当てるなどしているのである。
その次に、一人の能者に『無常(三啓)経』を読誦させる。
この経は小さいもので、半紙か一紙程度、中国のように読誦が長時間に及び、
参列者を疲れさせるようなことはない。
火葬の後には、或いは設利羅(せつりら、骨)を収めて、
死亡人の為に塔を作ることもある。
これは倶羅(くら、塚)と名づけられ、形状は小塔のようである。
この小塔の上には輪蓋は無く、しかも塔には、その死亡者による格づけがあり、
凡夫善人から如来までの凡夫・聖人の区別があるのである。
これについては、律蔵の中であまねく論じている。



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2008.07.25
魂を語ろう
本当に激動の時代です。
今日の常識が、明日も通用するとは限りません。
時代は変わりつつあります。
医学界ですら、スピリチュアルについて目を向けはじめているのに、
本職のはずのお坊さんにとっては、まだ対岸の火事みたいです。
魂が餓えている人があちこちにいるのです。
学校で教えられないのならば、
せめてお坊さんぐらいは、魂について語るべきです。
何を恐れているのでしょうか?
仏教が唯物論なのだったら、
そのような主張をしている人はいくらでもいるので、別にお坊さんなんていりません。
仏教に魂を取り戻すために、愚僧のブログ修行は続きます。
日々、精進します。
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今日の常識が、明日も通用するとは限りません。
時代は変わりつつあります。
医学界ですら、スピリチュアルについて目を向けはじめているのに、
本職のはずのお坊さんにとっては、まだ対岸の火事みたいです。
魂が餓えている人があちこちにいるのです。
学校で教えられないのならば、
せめてお坊さんぐらいは、魂について語るべきです。
何を恐れているのでしょうか?
仏教が唯物論なのだったら、
そのような主張をしている人はいくらでもいるので、別にお坊さんなんていりません。
仏教に魂を取り戻すために、愚僧のブログ修行は続きます。
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2008.07.25
魔パーピマン
魔というのは、架空の存在ではありません。
魔が修行者に憑依して転落させようとするのは、現代にもよくあることです。
仏典にも、
神通第一の目連尊者が霊眼によって、
魔の存在を見抜くところが説かれています。
仏教が霊的存在を認めない、というのはとんでもない話なのです。
そのとき尊者マハーモッガッラーナは空き地で経行をしていた。
ちょうどそのとき、
魔パーピマンは尊者マハーモッガッラーナの腹のなかに入り込み、下腹部に至った。
尊者マハーモッガッラーナは、
「わたしの腹は臨月に至ったように重苦しいが、なぜだろう」と考えた。
そこで尊者マハーモッガッラーナは経行をやめて、
部屋へ入り、設けられている座にすわった。
すわって尊者マハーモッガッラーナは一人で注意深く思いを凝らした。
尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンが下腹部に至っているのを見た。
見て魔パーピマンにいった。
「パーピマンよ、出てきなさい。パーピマンよ、出てきなさい。
如来や如来の弟子を困らせてはいけない。
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない」と。
魔パーピマンは考えた。
「この沙門はわたしを知らずに、見ずに、
『パーピマンよ、出てきなさい。パーピマンよ、出てきなさい。
如来や如来の弟子を困らせてはいけない。
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない』といった。
この者の師ですら、わたしをこんなに早く知ることはできないであろう。
どうしてこの沙門がわたしを知ることができようか」と。
そこで尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンにいった。
「パーピマンよ、わたしはこのようにあなたを知っている。
あなたは『かれはわたしを知らない』と考えてはならない。
パーピマンよ、あなたは魔である。
パーピマンよ、あなたは考えたのだ。
『この沙門はわたしを知らずに、見ずに、
パーピマンよ、出てきなさい、パーピマンよ、出てきなさい、
如来や如来の弟子を困らせてはいけない、
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない、といった。
この者の師ですら、わたしをこんなに早く知ることはできないであろう。
どうしてこの沙門がわたしを知ることができようか』と」
そこで魔パーピマンは考えた。
「この沙門はわたしを知り、見ているから、
『パーピマンよ、出てきなさい、パーピマンよ、出てきなさい、
如来や如来の弟子を困らせてはいけない、
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない』といったのだ」
そこで魔パーピマンは尊者マハーモッガッラーナの口から出て、僧坊の戸口に立った。
尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンが戸口に立ったのを見た。
パーリ原始仏典中部第50経「降魔経」
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魔が修行者に憑依して転落させようとするのは、現代にもよくあることです。
仏典にも、
神通第一の目連尊者が霊眼によって、
魔の存在を見抜くところが説かれています。
仏教が霊的存在を認めない、というのはとんでもない話なのです。
そのとき尊者マハーモッガッラーナは空き地で経行をしていた。
ちょうどそのとき、
魔パーピマンは尊者マハーモッガッラーナの腹のなかに入り込み、下腹部に至った。
尊者マハーモッガッラーナは、
「わたしの腹は臨月に至ったように重苦しいが、なぜだろう」と考えた。
そこで尊者マハーモッガッラーナは経行をやめて、
部屋へ入り、設けられている座にすわった。
すわって尊者マハーモッガッラーナは一人で注意深く思いを凝らした。
尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンが下腹部に至っているのを見た。
見て魔パーピマンにいった。
「パーピマンよ、出てきなさい。パーピマンよ、出てきなさい。
如来や如来の弟子を困らせてはいけない。
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない」と。
魔パーピマンは考えた。
「この沙門はわたしを知らずに、見ずに、
『パーピマンよ、出てきなさい。パーピマンよ、出てきなさい。
如来や如来の弟子を困らせてはいけない。
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない』といった。
この者の師ですら、わたしをこんなに早く知ることはできないであろう。
どうしてこの沙門がわたしを知ることができようか」と。
そこで尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンにいった。
「パーピマンよ、わたしはこのようにあなたを知っている。
あなたは『かれはわたしを知らない』と考えてはならない。
パーピマンよ、あなたは魔である。
パーピマンよ、あなたは考えたのだ。
『この沙門はわたしを知らずに、見ずに、
パーピマンよ、出てきなさい、パーピマンよ、出てきなさい、
如来や如来の弟子を困らせてはいけない、
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない、といった。
この者の師ですら、わたしをこんなに早く知ることはできないであろう。
どうしてこの沙門がわたしを知ることができようか』と」
そこで魔パーピマンは考えた。
「この沙門はわたしを知り、見ているから、
『パーピマンよ、出てきなさい、パーピマンよ、出てきなさい、
如来や如来の弟子を困らせてはいけない、
長いあいだあなたに不利益と苦しみとをもたらすことを行なってはならない』といったのだ」
そこで魔パーピマンは尊者マハーモッガッラーナの口から出て、僧坊の戸口に立った。
尊者マハーモッガッラーナは魔パーピマンが戸口に立ったのを見た。
パーリ原始仏典中部第50経「降魔経」



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2008.07.25
大黒神の奇跡
先述した、義浄の「南海奇帰内法伝」には、
7世紀インドの僧伽の生活が描写されていますが、
義浄が目撃したいろいろな奇跡現象も報告されているのです。
これは、現代と違って、
仏教徒は、霊的世界との交わりを日常的に持っていた証拠です。
ところで、私、義浄はかつて、
自ら親しく大聖釈迦世尊が、大涅槃を説かれた処である般弾那寺で、
奇瑞のあったという大黒神の神容を見たことがある。
奇瑞というのは次のような話である。
ここのつねの僧衆の食事の数は一百有余なのだが、
仏跡の巡礼が集中する春と秋の一年二時の礼拝の際、期せずして大量の巡礼があり、
僧徒の五百人にもならなんとするものが、
正午になろうとしているとき、たちまちに来たのであった。
もうそのときは、正に正午になろうとしており、
よろしくさらにに煮る(非時食戒を守るため)ことができなかったのである。
知事僧の人が、まかない方に告げて言った、
「これは何とも突然のことだ。さて、どうしたものだろうか?」
時に一人、浄人の老母があって、知事僧に告げて言った、
「なになに、いつものこと、わざわざ、憂えられることはありません」と。
ついにこの老母は、さかんに香火を燃やし、さかんにお供えを並べて、
大黒神に告げて言ったのである、
「大聖釈迦世尊は般涅槃なされましたが、教えを受け継ぐその徒は尚、今も在ります。
あちこちから僧徒がきては、大聖釈迦世尊の御跡仏跡に礼拝を為しております。
どうぞ、彼ら法門の徒への飲食の供給と承受は欠乏させないでください。
これはあなたさまの力でなすべきところであります。
そうぞ時を知って、どうか急いで、正午までの食事時間に間に合わせてください」と。
つぎに僧伽の人々を集め、命じて大衆を座らせ、寺のいつもの食事を、
何時もの通りに上座から次第にくばると、大衆各自、みな足りたのであり、
その上、その餐食のあまったのもまた、いつものようであったのである。
これを見て皆、「すばらしい!」と唱えて天神の力を讃えたのである。
以上の話は、私、義浄が実際に自ら親しくこの寺に礼拝し、
まみえることを行ない、ことさらに、神容を見たときのものである。
この大黒神、願い求める者には効験があり、
人知の及ばない不思議なはたらきは、虚しくはないのである。
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7世紀インドの僧伽の生活が描写されていますが、
義浄が目撃したいろいろな奇跡現象も報告されているのです。
これは、現代と違って、
仏教徒は、霊的世界との交わりを日常的に持っていた証拠です。
ところで、私、義浄はかつて、
自ら親しく大聖釈迦世尊が、大涅槃を説かれた処である般弾那寺で、
奇瑞のあったという大黒神の神容を見たことがある。
奇瑞というのは次のような話である。
ここのつねの僧衆の食事の数は一百有余なのだが、
仏跡の巡礼が集中する春と秋の一年二時の礼拝の際、期せずして大量の巡礼があり、
僧徒の五百人にもならなんとするものが、
正午になろうとしているとき、たちまちに来たのであった。
もうそのときは、正に正午になろうとしており、
よろしくさらにに煮る(非時食戒を守るため)ことができなかったのである。
知事僧の人が、まかない方に告げて言った、
「これは何とも突然のことだ。さて、どうしたものだろうか?」
時に一人、浄人の老母があって、知事僧に告げて言った、
「なになに、いつものこと、わざわざ、憂えられることはありません」と。
ついにこの老母は、さかんに香火を燃やし、さかんにお供えを並べて、
大黒神に告げて言ったのである、
「大聖釈迦世尊は般涅槃なされましたが、教えを受け継ぐその徒は尚、今も在ります。
あちこちから僧徒がきては、大聖釈迦世尊の御跡仏跡に礼拝を為しております。
どうぞ、彼ら法門の徒への飲食の供給と承受は欠乏させないでください。
これはあなたさまの力でなすべきところであります。
そうぞ時を知って、どうか急いで、正午までの食事時間に間に合わせてください」と。
つぎに僧伽の人々を集め、命じて大衆を座らせ、寺のいつもの食事を、
何時もの通りに上座から次第にくばると、大衆各自、みな足りたのであり、
その上、その餐食のあまったのもまた、いつものようであったのである。
これを見て皆、「すばらしい!」と唱えて天神の力を讃えたのである。
以上の話は、私、義浄が実際に自ら親しくこの寺に礼拝し、
まみえることを行ない、ことさらに、神容を見たときのものである。
この大黒神、願い求める者には効験があり、
人知の及ばない不思議なはたらきは、虚しくはないのである。



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2008.07.24
ダーウィンはお好き?
通常は、キリスト教徒だけに限らず、宗教を信じているならば、
ダーウィンの進化論など、とうてい受け入れることは出来ません。
ダーウィニズムは基本的に神を否定する唯物論なのですから。
国民の大半がダーウィニズムを信仰しているのは共産主義国か日本ぐらいです。
不思議なことに、日本の仏教徒はそれを支持しているか、
もしくは不可知論的立場(これは少数)を取ります。
仏教は無神論ではないはずなのですが・・・。
それだけ日本人は、科学的唯物論というものに洗脳されているのです。
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ダーウィンの進化論など、とうてい受け入れることは出来ません。
ダーウィニズムは基本的に神を否定する唯物論なのですから。
国民の大半がダーウィニズムを信仰しているのは共産主義国か日本ぐらいです。
不思議なことに、日本の仏教徒はそれを支持しているか、
もしくは不可知論的立場(これは少数)を取ります。
仏教は無神論ではないはずなのですが・・・。
それだけ日本人は、科学的唯物論というものに洗脳されているのです。



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2008.07.24
小乗も大乗も
唐代の中国僧、義浄は、単身インドに渡り、
つぶさにナーランダ僧院における僧侶の生活の様子について記録しています。
これは、大変貴重な資料であり、当時の信仰のありようを知ることができます。
現代では、小乗と大乗はどちらが優れているかで論争しているありさまですが、
義浄によると、7世紀のインドには、大乗と小乗の仏教信仰があるが、
相違点よりも一致点の方が勝っていて、どちらも共存していると指摘しているのです。
釈尊の霊的影響力、久遠実成の仏陀を信じていた当時には、
近代の仏典の文献学的、考古学的研究による、
合理的解釈の産物である大乗非仏説など、あろうはずもありません。
さて、インド仏教の現勢について触れておく。
現在インドで優勢な大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部のこの四部派の中で、
大乗と小乗の区分は定まっていないのである。
北インドや南海の国は、もっぱら小乗である。
一方これに対し、我がシナの国は、意は大乗教に存る。
そして、これよりほかの諸処では、
大乗教・小乗教がまじえ行なわれているというのが、
世界の仏教の大乗・小乗の現況、その真実の姿なのだ。
ところで大乗・小乗について、このおもむきを考えてみると、
大乗も小乗も律蔵の教えによる検校、すなわち律検は異ならず、
ひとしく五篇(波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅)を制しているのだし、
大乗も小乗も、同じく四諦(苦・集・滅・道諦)を修めているのである。
もし菩薩を礼拝して大乗経を読誦するのならば、これを大乗と名づけるのであり、
このことをしなければ、これを小乗と呼ぶというただそれだけの事なのである。
そしていう所の大乗とても二種があるにすぎない。
その一つは中観、二つは瑜伽である。
中観の教えは、俗諦には「有」と見えていても真諦には「空」であり、
本質そのものはうつろにして幻のようなものであるとするものであり、
喩伽の教えは、外は「無」であるが内は「有」であり、
事、皆ただ「識」あるのみとするのである。
しかし、大乗も小乗もこれらは並びにみな釈迦の聖教に遵っているのである。
されば、大乗と小乗でいずれが是でありいずれが非だというのだろうか?
大乗も小乗も同じく涅槃を契っているのである。
されば、大乗と小乗で、何れが真であり何れが偽だというのだろうか?
大乗も小乗も、その教えの意は、同じく煩惑を断ち除き、
衆生を苦しみから引き抜き救うところに在るのである。
しかし、シナではどうして大乗だ、小乗だと色分けし、
広くごたごたをおこしていて、さらに迷いを増そうとしているのだろうか?
大乗だろうが小乗だろうが、仏の教えに依って行ずれば、
ともに彼岸に昇ることができるのであり、大乗だろうが小乗だろうが、
仏の教えを棄て、仏の教えに背けば並びに迷いの海に溺れてしまうのである。
シナとは異なり、インドでは大乗・小乗の両方が双つながら行なわれており、
道理として大乗・小乗の両者がそむき競うことなぞは無いのである。
「南海寄帰内法伝」
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つぶさにナーランダ僧院における僧侶の生活の様子について記録しています。
これは、大変貴重な資料であり、当時の信仰のありようを知ることができます。
現代では、小乗と大乗はどちらが優れているかで論争しているありさまですが、
義浄によると、7世紀のインドには、大乗と小乗の仏教信仰があるが、
相違点よりも一致点の方が勝っていて、どちらも共存していると指摘しているのです。
釈尊の霊的影響力、久遠実成の仏陀を信じていた当時には、
近代の仏典の文献学的、考古学的研究による、
合理的解釈の産物である大乗非仏説など、あろうはずもありません。
さて、インド仏教の現勢について触れておく。
現在インドで優勢な大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部のこの四部派の中で、
大乗と小乗の区分は定まっていないのである。
北インドや南海の国は、もっぱら小乗である。
一方これに対し、我がシナの国は、意は大乗教に存る。
そして、これよりほかの諸処では、
大乗教・小乗教がまじえ行なわれているというのが、
世界の仏教の大乗・小乗の現況、その真実の姿なのだ。
ところで大乗・小乗について、このおもむきを考えてみると、
大乗も小乗も律蔵の教えによる検校、すなわち律検は異ならず、
ひとしく五篇(波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅)を制しているのだし、
大乗も小乗も、同じく四諦(苦・集・滅・道諦)を修めているのである。
もし菩薩を礼拝して大乗経を読誦するのならば、これを大乗と名づけるのであり、
このことをしなければ、これを小乗と呼ぶというただそれだけの事なのである。
そしていう所の大乗とても二種があるにすぎない。
その一つは中観、二つは瑜伽である。
中観の教えは、俗諦には「有」と見えていても真諦には「空」であり、
本質そのものはうつろにして幻のようなものであるとするものであり、
喩伽の教えは、外は「無」であるが内は「有」であり、
事、皆ただ「識」あるのみとするのである。
しかし、大乗も小乗もこれらは並びにみな釈迦の聖教に遵っているのである。
されば、大乗と小乗でいずれが是でありいずれが非だというのだろうか?
大乗も小乗も同じく涅槃を契っているのである。
されば、大乗と小乗で、何れが真であり何れが偽だというのだろうか?
大乗も小乗も、その教えの意は、同じく煩惑を断ち除き、
衆生を苦しみから引き抜き救うところに在るのである。
しかし、シナではどうして大乗だ、小乗だと色分けし、
広くごたごたをおこしていて、さらに迷いを増そうとしているのだろうか?
大乗だろうが小乗だろうが、仏の教えに依って行ずれば、
ともに彼岸に昇ることができるのであり、大乗だろうが小乗だろうが、
仏の教えを棄て、仏の教えに背けば並びに迷いの海に溺れてしまうのである。
シナとは異なり、インドでは大乗・小乗の両方が双つながら行なわれており、
道理として大乗・小乗の両者がそむき競うことなぞは無いのである。
「南海寄帰内法伝」



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