仏教は、断じて無神論宗教ではありません。
このことをおさえておかないと、全てが逆に見えてきます。
これは、ものすごく重要なことなのです。
「神は存在しない」というそんな傲慢な宗教を釈尊が説くはずもありません。
仏教では、
他宗教の言う「神」はもちろん、究極の神が、「法」というかたちで説かれているのです。
カニシカ王、悠然として尋ねて言う、
「尊者よ、願くは我がために説け。
我等が仏陀を崇敬礼拝するは、その人格にあるか、またはその神格にあるか。」
馬鳴尊者言う、
「仏陀は人にあらず、神にあらず、神人を超越す、
何となれば仏陀は万徳具足円満の相なればなり。
我等が仏陀を尊崇するは、その智慧にあり、その徳相にあり、
真諦を徹見する般若力と、これを俗諦の上に活動せしむる慈悲の本願力とにあり。
真諦は古今を通じて不変なり、平等なり、
俗諦の世界のみ時時に生死す、神人といえども、これをまぬかるを得ず。」
チャラカ、遮りて言う、
「我等がいう所の神とは、諸天をいうにあらず、一神の本体を直ちに指せるなり。
あえて問う、仏陀はこの点について、如何なる垂教あるべきか。」
カニシカ王、これを補いて言う、
「我等の神とは、梵天の如き唯有の体をいうにあらず、
又、自在天の如き、個人的天地の主宰及び創造者を言うにあらず。
我等は慈悲・智慧・功徳・正義の源泉を以て神となす。
尊者はこの如きものの存在を説き給うか、はたこれを以て夢幻泡影となし給うか。
もし実在なりとせんに、我等は如何にしてそれを知り得るか。」
馬鳴言う、
「この如きは、一朝一夕の説話のつくす所にあらず、
されど略してこれを言うに、この如き本源は確かに実在なり。
この実在は万有の上に如来の善法として現前し、
一切の有情を一歩一歩進めて大覚の境に到らしむ。
この善法を領得する者は正道に入る、
我等はこの法の本体を名づけて法身仏となす、大日如来となす、無量光となす。
一切法の儀表となり、一切の善を進め、一切の悪を挫く、
皆、因果応報の理にしたがわずということなし。」
ポール・ケーラス「無量光」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
このことをおさえておかないと、全てが逆に見えてきます。
これは、ものすごく重要なことなのです。
「神は存在しない」というそんな傲慢な宗教を釈尊が説くはずもありません。
仏教では、
他宗教の言う「神」はもちろん、究極の神が、「法」というかたちで説かれているのです。
カニシカ王、悠然として尋ねて言う、
「尊者よ、願くは我がために説け。
我等が仏陀を崇敬礼拝するは、その人格にあるか、またはその神格にあるか。」
馬鳴尊者言う、
「仏陀は人にあらず、神にあらず、神人を超越す、
何となれば仏陀は万徳具足円満の相なればなり。
我等が仏陀を尊崇するは、その智慧にあり、その徳相にあり、
真諦を徹見する般若力と、これを俗諦の上に活動せしむる慈悲の本願力とにあり。
真諦は古今を通じて不変なり、平等なり、
俗諦の世界のみ時時に生死す、神人といえども、これをまぬかるを得ず。」
チャラカ、遮りて言う、
「我等がいう所の神とは、諸天をいうにあらず、一神の本体を直ちに指せるなり。
あえて問う、仏陀はこの点について、如何なる垂教あるべきか。」
カニシカ王、これを補いて言う、
「我等の神とは、梵天の如き唯有の体をいうにあらず、
又、自在天の如き、個人的天地の主宰及び創造者を言うにあらず。
我等は慈悲・智慧・功徳・正義の源泉を以て神となす。
尊者はこの如きものの存在を説き給うか、はたこれを以て夢幻泡影となし給うか。
もし実在なりとせんに、我等は如何にしてそれを知り得るか。」
馬鳴言う、
「この如きは、一朝一夕の説話のつくす所にあらず、
されど略してこれを言うに、この如き本源は確かに実在なり。
この実在は万有の上に如来の善法として現前し、
一切の有情を一歩一歩進めて大覚の境に到らしむ。
この善法を領得する者は正道に入る、
我等はこの法の本体を名づけて法身仏となす、大日如来となす、無量光となす。
一切法の儀表となり、一切の善を進め、一切の悪を挫く、
皆、因果応報の理にしたがわずということなし。」
ポール・ケーラス「無量光」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。











