fc2ブログ
2008.07.01 法と神
仏教は、断じて無神論宗教ではありません。
このことをおさえておかないと、全てが逆に見えてきます。
これは、ものすごく重要なことなのです。

「神は存在しない」というそんな傲慢な宗教を釈尊が説くはずもありません。

仏教では、
他宗教の言う「神」はもちろん、究極の神が、「法」というかたちで説かれているのです。




カニシカ王、悠然として尋ねて言う、

「尊者よ、願くは我がために説け。
我等が仏陀を崇敬礼拝するは、その人格にあるか、またはその神格にあるか。」

馬鳴尊者言う、

「仏陀は人にあらず、神にあらず、神人を超越す、
何となれば仏陀は万徳具足円満の相なればなり。
我等が仏陀を尊崇するは、その智慧にあり、その徳相にあり、
真諦を徹見する般若力と、これを俗諦の上に活動せしむる慈悲の本願力とにあり。
真諦は古今を通じて不変なり、平等なり、
俗諦の世界のみ時時に生死す、神人といえども、これをまぬかるを得ず。」

チャラカ、遮りて言う、

「我等がいう所の神とは、諸天をいうにあらず、一神の本体を直ちに指せるなり。
あえて問う、仏陀はこの点について、如何なる垂教あるべきか。」

カニシカ王、これを補いて言う、

「我等の神とは、梵天の如き唯有の体をいうにあらず、
又、自在天の如き、個人的天地の主宰及び創造者を言うにあらず。
我等は慈悲・智慧・功徳・正義の源泉を以て神となす。
尊者はこの如きものの存在を説き給うか、はたこれを以て夢幻泡影となし給うか。
もし実在なりとせんに、我等は如何にしてそれを知り得るか。」

馬鳴言う、

「この如きは、一朝一夕の説話のつくす所にあらず、
されど略してこれを言うに、この如き本源は確かに実在なり。
この実在は万有の上に如来の善法として現前し、
一切の有情を一歩一歩進めて大覚の境に到らしむ。
この善法を領得する者は正道に入る、
我等はこの法の本体を名づけて法身仏となす、大日如来となす、無量光となす。 
一切法の儀表となり、一切の善を進め、一切の悪を挫く、
皆、因果応報の理にしたがわずということなし。」


ポール・ケーラス「無量光」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト



2008.07.01 宗教の力
宗教には、力があります。

宗教は、単なる教義や、建築物や組織のことではありません。

宗教は、今、ここに働く、現実的なる神の愛の顕れなのです。

宗教は、先端科学よりも深遠な真実を教えます。

心を扱う学問に数字は通用しません。

また、愛は数字では表せません。

善・正義・勇気・慈悲などの最も大切な徳目は、みな目に見えないものです。

霊界や魂の存在も、数学的証明にはなじみません。

夢の世界を考えれば、
それを証明しようということがいかに困難なことであるかが分かります。

しかし、近年、精神も波動であることが解ってきました。

この波動が謎を解く鍵になりそうです。

宗教は誤解されてきましたが、
これからは、宗教と科学の逆転現象が起きてくるでしょう。

それが、本来の姿なのです。

中世には、世界は神の創造の産物であると、
実際上すべての人が信じていたのです。

神に不可能は無い故に、信仰や祈りの力は絶大なのです。

だから、宗教には、現実や人間を根本から変える力があるのです。

仏教は信仰無き宗教、神秘無き宗教である」と喧伝する勢力には注意が必要です。

それは、形を変えた唯物論者、無神論者が生き残ろうとしている姿なのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.07.01 霊性文明へ
一宗一派にこだわっている時代ではなくなりました。

霊性文明の胎動は、
人類に共通した目覚めであり、真実であります。

ニューエイジの流れは、
仏教も既存宗教もすべてを包含するものです。

全ては、
霊天上界の計画により、進められているのです。

そして、地上では、
神の意を受けた、再誕の仏陀が希有なる法を説いているのです。

人類の末来は、
闇になるか、光に満ちたものになるか、今がその分水嶺なのです。




クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.07.01 三宝帰依
仏教者は、三宝帰依をしなければなりません。
これはとても重要で、修行者が単独で悟りに到るのは難しいのです。


我は仏陀に帰依し奉る。
円かにして欠くることなき彼は神聖なり。最勝なり。
仏陀は我等に教えと智慧と解脱とを与え給えり。
彼は天の福を享け給えるものなり、万有の法を知り給うものなり。
彼は世の主なり、牧牛者の如く我等を護り給う。
彼は人天の師なり、聖に到れる仏なり。
我は仏陀に帰依し奉る。

我は教法に帰依し奉る。
法は聖者の説き給う所なり。
法は我等の見得る程に顕わになれり、
法は時と所との上にあり、
法は伝説口碑に基けるにあらず、
「来たりて看よ」との義あり。
法は幸福に到る道なり、
法は賢き人の自ら認め識る所なり、
我は法に帰依し奉る。

我は僧伽に帰依し奉る。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして正義の生を送るべきかを教う。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして正直律義を行うべきかを教う。
仏弟子の僧伽は、我等に如何にして真理を実践するべきかを示す。
仏弟子は慈愛の団結を作れり。その聖きものは皆尊敬するに足れり。
仏弟子の僧伽は、人々が義の守るべき、善の行うべきを教えんため、
神聖なる同盟をなさんとて建てられたるものなり。
我は僧伽に帰依し奉る。


ポール・ケーラス「仏陀の福音」




クリックして愚僧の活動に御協力ください。