仏教の話題ばかりですいませんが、
最近では、このような一歩踏み出した意見を述べられる学者さんも現れています。
願わくば、このような学説が主流となりますように祈念いたします。
東大印哲卒、青森公立大学教授の羽矢辰夫氏の主張です。
「ゴータマ・ブッダのさとりは直観であった」といわれる場合があるが、
これだけでは、その直観とは感覚的直観なのか、言語的直観であるのか、
霊的直観であるのか、あるいはまたそれらすべてを含んだものなのか、不明である。
領域の指示があってはじめて相互に語り合いができるのである。
あいまいなままでは、誤解を生じやすいのである。
このように、唯物論的な科学主義にきわめて深刻に影響を受けている、
われわれの生死観は、もろもろの原子の集合が生で、
それらの離散が死である、という極端な見方にもなり、
つきつめて考えれば、結局は死んでしまえばそれですべて終わり、
というようなニヒリスティックな結論にいたる。
仏教的な文脈でいえば、これは「断滅論」であり、ゴータマ・ブッダは明確に退けている。
さらに、われわれは考える。
『来世、輪廻、解脱、涅槃、これらは所詮、想像による産物であり、
想像しない者にとっては、それらは存在しないも同然である。
ありもしないものを想像で作りあげて、それによって苦しみ悩んだり、
また喜んだりするのは、それこそ無明の発露である。
したがって、何も考えないし、何も感じないのが究極なのではないだろうか。
事実、経典にも分別がないこと、すなわち無分別がさとりであると説いてある。
しかし、そのことによって、たとえさとりを得て涅槃にいたろうとも、
結局は死んでしまうのだろう。
それがいったい何になるというのだろう』と。
経典においても、parinibbanaは、「完全な涅槃」の意味であり、
それは同時に「死」をも意味する。
そこで「肉の眼」はためらうことなく、身心が完全に滅した涅槃、
すなわち「死」が究極の境地である、と読むであろう。
しかし、疑間は残る。何もしなくても人は身心が完全に滅した状態、
すなわち死をむかえるはずである。
それなのに、どうして、それが命がけで求められなければならないのだろうか。
これも当然の疑問である。
原始仏教経典には、ゴータマ・ブッダをはじめとして、
多くの弟子たちが厳しい修行をおこなっていた様子が、
ありありと描かれているではないか。疑問はけっして解決できない。
かろうじてできるのは、ことばによる解決である。
それは「大自然に帰る」などの表現に活路を見出そうとするのであるが、
実際にイメージされているのは、もろもろの原子がそれぞれバラバラに離散して、
もともとの自然の状態にもどるということである。
ことばで解決できたような錯覚をもたらすが、問題は何も解決されてはいないのである。
無分別というのも、「黙想の眼」を用いて理解しなさい、という意味なのであり、
「肉の眼」や「理知の眼」を放棄しなさい、という指示ではないのである。
経験主義的ないし科学的方法は事実上「質」を扱えないのである。
科学、すなわち「肉の眼」は世界をもっぱら量的客観的なものとしてとらえるが、
「質」そのものは測定不能だからである。
経験論的な知だけが唯一の知の形態ではないことを理解すれば、
科学主義や排他的な経験主義からのがれられる。
それを超えたところには、理知的・合理的な知と黙想的・霊的な知が存在するのである。
「ゴータマ・ブッダの仏教」
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願わくば、このような学説が主流となりますように祈念いたします。
東大印哲卒、青森公立大学教授の羽矢辰夫氏の主張です。
「ゴータマ・ブッダのさとりは直観であった」といわれる場合があるが、
これだけでは、その直観とは感覚的直観なのか、言語的直観であるのか、
霊的直観であるのか、あるいはまたそれらすべてを含んだものなのか、不明である。
領域の指示があってはじめて相互に語り合いができるのである。
あいまいなままでは、誤解を生じやすいのである。
このように、唯物論的な科学主義にきわめて深刻に影響を受けている、
われわれの生死観は、もろもろの原子の集合が生で、
それらの離散が死である、という極端な見方にもなり、
つきつめて考えれば、結局は死んでしまえばそれですべて終わり、
というようなニヒリスティックな結論にいたる。
仏教的な文脈でいえば、これは「断滅論」であり、ゴータマ・ブッダは明確に退けている。
さらに、われわれは考える。
『来世、輪廻、解脱、涅槃、これらは所詮、想像による産物であり、
想像しない者にとっては、それらは存在しないも同然である。
ありもしないものを想像で作りあげて、それによって苦しみ悩んだり、
また喜んだりするのは、それこそ無明の発露である。
したがって、何も考えないし、何も感じないのが究極なのではないだろうか。
事実、経典にも分別がないこと、すなわち無分別がさとりであると説いてある。
しかし、そのことによって、たとえさとりを得て涅槃にいたろうとも、
結局は死んでしまうのだろう。
それがいったい何になるというのだろう』と。
経典においても、parinibbanaは、「完全な涅槃」の意味であり、
それは同時に「死」をも意味する。
そこで「肉の眼」はためらうことなく、身心が完全に滅した涅槃、
すなわち「死」が究極の境地である、と読むであろう。
しかし、疑間は残る。何もしなくても人は身心が完全に滅した状態、
すなわち死をむかえるはずである。
それなのに、どうして、それが命がけで求められなければならないのだろうか。
これも当然の疑問である。
原始仏教経典には、ゴータマ・ブッダをはじめとして、
多くの弟子たちが厳しい修行をおこなっていた様子が、
ありありと描かれているではないか。疑問はけっして解決できない。
かろうじてできるのは、ことばによる解決である。
それは「大自然に帰る」などの表現に活路を見出そうとするのであるが、
実際にイメージされているのは、もろもろの原子がそれぞれバラバラに離散して、
もともとの自然の状態にもどるということである。
ことばで解決できたような錯覚をもたらすが、問題は何も解決されてはいないのである。
無分別というのも、「黙想の眼」を用いて理解しなさい、という意味なのであり、
「肉の眼」や「理知の眼」を放棄しなさい、という指示ではないのである。
経験主義的ないし科学的方法は事実上「質」を扱えないのである。
科学、すなわち「肉の眼」は世界をもっぱら量的客観的なものとしてとらえるが、
「質」そのものは測定不能だからである。
経験論的な知だけが唯一の知の形態ではないことを理解すれば、
科学主義や排他的な経験主義からのがれられる。
それを超えたところには、理知的・合理的な知と黙想的・霊的な知が存在するのである。
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