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2008.07.14
スピリチュアルの定義
スピリチュアルとは何なのでしょうか?
様々な学者がいろいろと定義していますが、
簡単に言えば、「肉体を超越して実在する霊的生命」であります。
オカルト的だと毛嫌いする人も多いようですが、
このスピリチュアルという言葉のもつ意味の大きさは、はかりしれません。
この言葉は、宗教の違いを超えたコンセンサスを与えてくれます。
また、科学や思想哲学が一変してしまうほどの、威力を持っています。
工学博士の奥健夫氏が、
スピリチュアリティーを、物理的に定義づけようと試みています。
意識は、現代科学的にみれば情報の一形態であり、
またエネルギーを有すると考えられる。
3次元境界ホログラムに、人間の意識中の情報はすべてコード化されて、
記録されていると考えられ、
この一定の空間領域が保持できる情報量の極限であるホログラフィック限界が、
意識の限界であり、スピリットと呼ばれる概念に非常に深い関わりがあると考えている。
また、情報・エネルギー・質量の三者間が相互変換可能であり、
これはすなわち原子からエネルギーそして意識・スピリットまですべて、
情報による記述が可能となる。
スピリットの一形態である3次元境界ホログラムから投影された情報が意識となり、
光凍結的現象により生命エネルギーに変換され、
その一部が光凍結して脳や身体を形成する原子を構築している。
このスピリット⇒意識⇒生命エネルギー⇒物質への情報変換は、
心身医学やプラシーボ効果など医学的観点から見ても重要であり、
またスピリチュアル・ヒーリングと呼ばれるレベルの癒しにも大きく関わり、
今後さらに詳細な検討が必要である。
ホログラフイック限界にコード化された情報が、
人間のスピリチュアリティーに対応するという仮説に基づけば、
この字宙はスピリットから形成されているということができ、
最終的には人間原理にも関わってくるものと考えられる。
「スピリチュアリティーとは何か」
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様々な学者がいろいろと定義していますが、
簡単に言えば、「肉体を超越して実在する霊的生命」であります。
オカルト的だと毛嫌いする人も多いようですが、
このスピリチュアルという言葉のもつ意味の大きさは、はかりしれません。
この言葉は、宗教の違いを超えたコンセンサスを与えてくれます。
また、科学や思想哲学が一変してしまうほどの、威力を持っています。
工学博士の奥健夫氏が、
スピリチュアリティーを、物理的に定義づけようと試みています。
意識は、現代科学的にみれば情報の一形態であり、
またエネルギーを有すると考えられる。
3次元境界ホログラムに、人間の意識中の情報はすべてコード化されて、
記録されていると考えられ、
この一定の空間領域が保持できる情報量の極限であるホログラフィック限界が、
意識の限界であり、スピリットと呼ばれる概念に非常に深い関わりがあると考えている。
また、情報・エネルギー・質量の三者間が相互変換可能であり、
これはすなわち原子からエネルギーそして意識・スピリットまですべて、
情報による記述が可能となる。
スピリットの一形態である3次元境界ホログラムから投影された情報が意識となり、
光凍結的現象により生命エネルギーに変換され、
その一部が光凍結して脳や身体を形成する原子を構築している。
このスピリット⇒意識⇒生命エネルギー⇒物質への情報変換は、
心身医学やプラシーボ効果など医学的観点から見ても重要であり、
またスピリチュアル・ヒーリングと呼ばれるレベルの癒しにも大きく関わり、
今後さらに詳細な検討が必要である。
ホログラフイック限界にコード化された情報が、
人間のスピリチュアリティーに対応するという仮説に基づけば、
この字宙はスピリットから形成されているということができ、
最終的には人間原理にも関わってくるものと考えられる。
「スピリチュアリティーとは何か」



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2008.07.14
正しい見方
仏教では、霊魂の存在を認めない、とか、
死後の世界である霊界など無い、という僧侶は、
仏教の最も基本的な修行法である八正道の、
一番初めにくる正見が出来ていません。
お釈迦さまは、正しい見方について、こう説かれています。
比丘たちよ、このなか(八正道)で正しい見方が最初にくる。
では、比丘たちよ、どうして正しい見方が最初にくるのか。
誤った見方を誤った見方と知り、正しい見方を正しい見方と知っているとき、
その人は正しい見方をしている。
では、比丘たちよ、誤った見方とはなにか。
『施し物は存在しない、供え物は存在しない、捧げ物は存在しない、
善悪の行為の果報は存在しない、この世は存在しない、あの世は存在しない、
化生の生きもの(霊的存在)は存在しない、
この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、
正しく道を修めた沙門やバラモンは、世間に存在しない。』
というのが、比丘たちよ、誤った見方である。
では比丘たちよ、正しい見方とはなにか。
比丘たちよ、正しい見方をわたしは二つ説く。
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』があり、
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』がある。
比丘たちよ、
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』とは何か。
『施し物は存在する、供え物は存在する、捧げ物は存在する、
善悪の行為の果報は存在する、この世は存在する、あの世は存在する、
化生の生きものは存在する、この世やあの世のことみずからはっきりと知り、
じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、
正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在する。』
というのが、
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』である。
では、比丘たちよ、
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』とはなにか。
比丘たちよ、
『心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、
聖道を修めている人の智慧、智慧の能力、智慧の力、
物事の解明という悟りの支分、聖道に属する正しい見方。』
比丘たちよ、
これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』である。
誤った見方を捨てよう、正しい見方を備えようと努力するとき、
その人は正しい努力をしている。注意して誤った見方を捨て、
注意して正しい見方を備えているとき、その人は正しい注意をしている。
こうしてこの三つのもの、すなわち、正しい見方、正しい努力、正しい注意が、
正しい見方につきしたがい、ついてまわる。
パーリ原始仏典中部第117経「聖道経」
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死後の世界である霊界など無い、という僧侶は、
仏教の最も基本的な修行法である八正道の、
一番初めにくる正見が出来ていません。
お釈迦さまは、正しい見方について、こう説かれています。
比丘たちよ、このなか(八正道)で正しい見方が最初にくる。
では、比丘たちよ、どうして正しい見方が最初にくるのか。
誤った見方を誤った見方と知り、正しい見方を正しい見方と知っているとき、
その人は正しい見方をしている。
では、比丘たちよ、誤った見方とはなにか。
『施し物は存在しない、供え物は存在しない、捧げ物は存在しない、
善悪の行為の果報は存在しない、この世は存在しない、あの世は存在しない、
化生の生きもの(霊的存在)は存在しない、
この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、
正しく道を修めた沙門やバラモンは、世間に存在しない。』
というのが、比丘たちよ、誤った見方である。
では比丘たちよ、正しい見方とはなにか。
比丘たちよ、正しい見方をわたしは二つ説く。
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』があり、
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』がある。
比丘たちよ、
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』とは何か。
『施し物は存在する、供え物は存在する、捧げ物は存在する、
善悪の行為の果報は存在する、この世は存在する、あの世は存在する、
化生の生きものは存在する、この世やあの世のことみずからはっきりと知り、
じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、
正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在する。』
というのが、
『徳行のひとつではあるが、迷いの生存の下地をつくる正しい見方』である。
では、比丘たちよ、
『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』とはなにか。
比丘たちよ、
『心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、
聖道を修めている人の智慧、智慧の能力、智慧の力、
物事の解明という悟りの支分、聖道に属する正しい見方。』
比丘たちよ、
これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい見方』である。
誤った見方を捨てよう、正しい見方を備えようと努力するとき、
その人は正しい努力をしている。注意して誤った見方を捨て、
注意して正しい見方を備えているとき、その人は正しい注意をしている。
こうしてこの三つのもの、すなわち、正しい見方、正しい努力、正しい注意が、
正しい見方につきしたがい、ついてまわる。
パーリ原始仏典中部第117経「聖道経」



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2008.07.14
偉大なる無
仏教でいう無とは、霊魂が無いということではありません。
科学の知見が、仏教の本質に近づいているのに、
一方の僧侶は、虚無に捉われているのは、なんとも皮肉なことです。
サイエンスライターのK・C・コール氏は、こう言います。
こと無の認識について、仏教、
それも禅ほど真剣に考えた「分野」は、おそらくないのではあるまいか。
無を理解しそれに到達することは、
禅では魂の平和と深い悟りに通じる道として求められ、称揚される。
この無は虚無主義とは何の関係もない。
仏教で言う「空」には、量子的真空同様ポテンシャルが漲っている。
それはすべての入ったヒョウタンであり、
限りない可能性とポテンシャルでキラキラした「虚」である。
からっぽどころか、それは何かを待ちうけているうつわなのだ。
ほんとうに心をからにしなければ、悟りも魂の成長もありえないと仏教は教える。
空と満とは相反するものではなく、ともにさらに大きい現実の一部なのだ。
それは同じものの二つの局面であり、
どちらも互いの存在のために、なくてはならないものである。
仏教徒によると、無であってこそ何かを容れる余地ができるのだから、
心を空にする努力を重ねるのだ。
すでに溢れるほど一杯の盃には、それ以上何も入れることはできない。
空白な心は、普通の脳がかもしだす日常の騒音のなかでは、
とうてい会得できない洞察を誘う。
禅の修行は心のなかの蜘蛛の巣を取り払い、曇った眼鏡を拭うように、
鼻先にあるものさえ見えなくするもろもろの邪魔物をぬぐい去るのだ。
無に満ちた心だけが、すべてを受け容れることができるのである。
禅の境地に探りを入れた心理学も、これに共感を抱くようになった。
ニューヨーク大学の神経病理学者マーク・エプスタインは、
治療に瞑想を取り入れており、心は無を受け容れてこそ、
はじめて静まることができるのだと結論している。
「無の科学」
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科学の知見が、仏教の本質に近づいているのに、
一方の僧侶は、虚無に捉われているのは、なんとも皮肉なことです。
サイエンスライターのK・C・コール氏は、こう言います。
こと無の認識について、仏教、
それも禅ほど真剣に考えた「分野」は、おそらくないのではあるまいか。
無を理解しそれに到達することは、
禅では魂の平和と深い悟りに通じる道として求められ、称揚される。
この無は虚無主義とは何の関係もない。
仏教で言う「空」には、量子的真空同様ポテンシャルが漲っている。
それはすべての入ったヒョウタンであり、
限りない可能性とポテンシャルでキラキラした「虚」である。
からっぽどころか、それは何かを待ちうけているうつわなのだ。
ほんとうに心をからにしなければ、悟りも魂の成長もありえないと仏教は教える。
空と満とは相反するものではなく、ともにさらに大きい現実の一部なのだ。
それは同じものの二つの局面であり、
どちらも互いの存在のために、なくてはならないものである。
仏教徒によると、無であってこそ何かを容れる余地ができるのだから、
心を空にする努力を重ねるのだ。
すでに溢れるほど一杯の盃には、それ以上何も入れることはできない。
空白な心は、普通の脳がかもしだす日常の騒音のなかでは、
とうてい会得できない洞察を誘う。
禅の修行は心のなかの蜘蛛の巣を取り払い、曇った眼鏡を拭うように、
鼻先にあるものさえ見えなくするもろもろの邪魔物をぬぐい去るのだ。
無に満ちた心だけが、すべてを受け容れることができるのである。
禅の境地に探りを入れた心理学も、これに共感を抱くようになった。
ニューヨーク大学の神経病理学者マーク・エプスタインは、
治療に瞑想を取り入れており、心は無を受け容れてこそ、
はじめて静まることができるのだと結論している。
「無の科学」



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