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2008.07.18
公教育と宗教
教員採用試験をめぐる不正の発覚によって、公教育の信用が大きく揺らいでいます。
腐敗した教育界の実態が明らかになりつつありますが、
教育界は、公平や正義という美徳を知らないようです。
これも公教育の場から、熱心に宗教を排除してきたせいです。
民間人校長の大島謙氏のお話を聞いて、猛省するべきです。
「長崎の事件(小6少女同級生刺殺事件)その後」、
といったタイトルの番組をやっていたのだが、
それを見ていて首をかしげたのは、今頃になって、
「心の教育」といったことをテーマにしていたことだった。
もちろん、これは私が見たテレビだけではなく、他のマスコミもそうなのだが、
口を揃えて「心の教育」ということを言い出している。
それは動物を飼うとか、いい野菜をつくらせて命の大事さを知るといったことなのだ。
もちろん、それはそれでいいと思うのだが、しかし、
私はそれで済む問題ではないと思うのである。
もっと基礎基本を教え込まなければ、心の教育といえないのではないかと思う。
動物を飼うことよりも、まずは道徳を教えなくてはいけないと思うのである。
実は公教育では道徳教育をほとんどやっていない。
長崎の事件はその結果と見ることもできる。
私立学校では、仏教の時間があったり、ミッションスクールでは、
キリスト教の講話の時間もあって、宗教の時間とともに道徳教育をやっている。
ところが、公立学校では皆無なのだ。
道徳教育と口に出した途端に、右だ右翼だと言われるのが現状である。
当然のことながら先生自身にもそんなことはやれないのである。
道徳と言ったら、すぐに修身教育みたいなことを考える先生がほとんどなのである。
そうではなくて、「道徳教育というのは、人として生きていく道を示すことでしょう、
それこそ生きる力の基礎じゃないですか」と言うのだが、なかなか通じない。
道徳を教えようとしたら必ず宗教に行き着く。なぜなら、
宗教というものは死に向かい合ったものであり、人の道を説くものだからだ。
動物を飼う→かわいがる→死んだらかわいそうという図式では、
人間の死はとうてい語れないだろう。
死の話を、宗教を交えて話さなければいけないということになると、
自信のある先生はいない。自信がなくてもやってみようという先生も少ない。
しかし、道徳教育というのをやらない限りは、心の教育など、
言葉の遊びのようなものだ。道徳教育をやるには何をすべきか、
そういう真剣な検討を、文部科学省にしても県教委にしてもやってほしいと思う。
アメリカでは私が知っている範囲では宗教の時間があった。
ちゃんと牧師が来て、講話みたいなものをやる。
そのアメリカでさえ、公立学校で宗教を教えることは最近ではうるさくなったが、
日本ほど、毛嫌いもしていないし、当たり前だと思っている。
しかも、毎週日曜日には家族全員で教会に行き、牧師の説教を聞いている。
基本的にこのような道徳教育の基礎をやってから学校に行くから、
先生が社会の規範について話をしても、どんどん染み込んでいく。
ところが、そういう基礎が、日本人の中にないばかりか、
もちろん小学校でもまったく教えもしない。その復活のほうが、よほど先だと思う。
急にとってつけたように、「命とは」という授業をしたところで、わかりっこないと思う。
そのくせ、ああいう事件が起きると、
心の教育をもう一回見直すといったコメントが出るのである。
それなら、今までどんな心の教育をやっていたのですかと言いたくなる。
私は、昨年赴任した時から、機会があるごとに、「魂とは?」とか、
「自分を磨く」ということを全校集会で紙を配って話してきた。
自分を磨けというのはどういうことか。
学校は自分を磨くために来るところで、遊ぶためだったら学校へ来る必要はない。
しかも、ここは街中ではない、自分自身を磨くところなのだと言い続けている。
それは最初、教師たちから冷ややかに見られていたし、悪口を言われていたようである。
「うちの生徒にそんな話したってわかるわけがない」とか、
「こんな紙配ったって、すぐポイと捨てられるだけだよ」、
「学校にゴミが増えるだけじゃないか」といった悪口が聞こえてきたが、
私は、「それでもいいじゃないか。一人でも二人でも、それを持ち帰る生徒がいたり、
あるいは読み返す生徒がいたら、それはすごいことじゃないか」と言ってきた。
そうしたらある時、職員会議で、ある先生が、みんなの前で言ってくれたことがある。
全校集会があるので体育館へ行く途中に、自分のクラスの謹慎中の生徒が、
ちゃんとやっているかな、と思って生徒指導室を覗いてみると、その謹慎中の生徒が、
「先生、今から全校集会なんだろう?」と言うので、「そうだよ」と言うと、
その生徒が「おれ、全校集会に出たいな」と言ったというのである。
聞いてみると、その生徒はだいぶ前の全校集会で校長の話を聞いた。
それは「魂について」ということだったが、
そのことが頭に残っていたと言うのだそうである。
その教師は「君は謹慎中だから出られない」と言うと、
「おれ、校長先生が次にどんな話をするか聞きたいんだ」と言ってくれたという。
それを聞いたのは職員会議の時だったが、不覚にも私は涙ぐんでしまった。
「高校を変えたい!」
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腐敗した教育界の実態が明らかになりつつありますが、
教育界は、公平や正義という美徳を知らないようです。
これも公教育の場から、熱心に宗教を排除してきたせいです。
民間人校長の大島謙氏のお話を聞いて、猛省するべきです。
「長崎の事件(小6少女同級生刺殺事件)その後」、
といったタイトルの番組をやっていたのだが、
それを見ていて首をかしげたのは、今頃になって、
「心の教育」といったことをテーマにしていたことだった。
もちろん、これは私が見たテレビだけではなく、他のマスコミもそうなのだが、
口を揃えて「心の教育」ということを言い出している。
それは動物を飼うとか、いい野菜をつくらせて命の大事さを知るといったことなのだ。
もちろん、それはそれでいいと思うのだが、しかし、
私はそれで済む問題ではないと思うのである。
もっと基礎基本を教え込まなければ、心の教育といえないのではないかと思う。
動物を飼うことよりも、まずは道徳を教えなくてはいけないと思うのである。
実は公教育では道徳教育をほとんどやっていない。
長崎の事件はその結果と見ることもできる。
私立学校では、仏教の時間があったり、ミッションスクールでは、
キリスト教の講話の時間もあって、宗教の時間とともに道徳教育をやっている。
ところが、公立学校では皆無なのだ。
道徳教育と口に出した途端に、右だ右翼だと言われるのが現状である。
当然のことながら先生自身にもそんなことはやれないのである。
道徳と言ったら、すぐに修身教育みたいなことを考える先生がほとんどなのである。
そうではなくて、「道徳教育というのは、人として生きていく道を示すことでしょう、
それこそ生きる力の基礎じゃないですか」と言うのだが、なかなか通じない。
道徳を教えようとしたら必ず宗教に行き着く。なぜなら、
宗教というものは死に向かい合ったものであり、人の道を説くものだからだ。
動物を飼う→かわいがる→死んだらかわいそうという図式では、
人間の死はとうてい語れないだろう。
死の話を、宗教を交えて話さなければいけないということになると、
自信のある先生はいない。自信がなくてもやってみようという先生も少ない。
しかし、道徳教育というのをやらない限りは、心の教育など、
言葉の遊びのようなものだ。道徳教育をやるには何をすべきか、
そういう真剣な検討を、文部科学省にしても県教委にしてもやってほしいと思う。
アメリカでは私が知っている範囲では宗教の時間があった。
ちゃんと牧師が来て、講話みたいなものをやる。
そのアメリカでさえ、公立学校で宗教を教えることは最近ではうるさくなったが、
日本ほど、毛嫌いもしていないし、当たり前だと思っている。
しかも、毎週日曜日には家族全員で教会に行き、牧師の説教を聞いている。
基本的にこのような道徳教育の基礎をやってから学校に行くから、
先生が社会の規範について話をしても、どんどん染み込んでいく。
ところが、そういう基礎が、日本人の中にないばかりか、
もちろん小学校でもまったく教えもしない。その復活のほうが、よほど先だと思う。
急にとってつけたように、「命とは」という授業をしたところで、わかりっこないと思う。
そのくせ、ああいう事件が起きると、
心の教育をもう一回見直すといったコメントが出るのである。
それなら、今までどんな心の教育をやっていたのですかと言いたくなる。
私は、昨年赴任した時から、機会があるごとに、「魂とは?」とか、
「自分を磨く」ということを全校集会で紙を配って話してきた。
自分を磨けというのはどういうことか。
学校は自分を磨くために来るところで、遊ぶためだったら学校へ来る必要はない。
しかも、ここは街中ではない、自分自身を磨くところなのだと言い続けている。
それは最初、教師たちから冷ややかに見られていたし、悪口を言われていたようである。
「うちの生徒にそんな話したってわかるわけがない」とか、
「こんな紙配ったって、すぐポイと捨てられるだけだよ」、
「学校にゴミが増えるだけじゃないか」といった悪口が聞こえてきたが、
私は、「それでもいいじゃないか。一人でも二人でも、それを持ち帰る生徒がいたり、
あるいは読み返す生徒がいたら、それはすごいことじゃないか」と言ってきた。
そうしたらある時、職員会議で、ある先生が、みんなの前で言ってくれたことがある。
全校集会があるので体育館へ行く途中に、自分のクラスの謹慎中の生徒が、
ちゃんとやっているかな、と思って生徒指導室を覗いてみると、その謹慎中の生徒が、
「先生、今から全校集会なんだろう?」と言うので、「そうだよ」と言うと、
その生徒が「おれ、全校集会に出たいな」と言ったというのである。
聞いてみると、その生徒はだいぶ前の全校集会で校長の話を聞いた。
それは「魂について」ということだったが、
そのことが頭に残っていたと言うのだそうである。
その教師は「君は謹慎中だから出られない」と言うと、
「おれ、校長先生が次にどんな話をするか聞きたいんだ」と言ってくれたという。
それを聞いたのは職員会議の時だったが、不覚にも私は涙ぐんでしまった。
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2008.07.18
信仰による奇蹟
ノーベル生理学・医学賞受賞者のアレキシス・カレル博士は、
南フランスのルルドで、多くの不治と断定された病人が、
瞬時に癒るという現象を調査した結果、
奇蹟を認めざるを得ないという確信を、
『ルルドへの旅』という書物に著し、当時大きな波紋を起こしました。
奇蹟は、イエスさまの時代だけではなく、現代にも起きています。
物質界は、神の光の現れです。
本当は、神に不可能はないのです。
人生修行の妨げになるので、奇蹟は一定の範囲で抑えられています。
しかし、すでに霊天上界の奇蹟の門は開かれました。
救世主が光を強められているのです。
主のみ光の前には、あらゆる病気や苦悩は消え去るしかないのです。
祈りは必ず天に通じ、光は届けられます。
信仰の力が、奇蹟を呼び起こすのです。
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南フランスのルルドで、多くの不治と断定された病人が、
瞬時に癒るという現象を調査した結果、
奇蹟を認めざるを得ないという確信を、
『ルルドへの旅』という書物に著し、当時大きな波紋を起こしました。
奇蹟は、イエスさまの時代だけではなく、現代にも起きています。
物質界は、神の光の現れです。
本当は、神に不可能はないのです。
人生修行の妨げになるので、奇蹟は一定の範囲で抑えられています。
しかし、すでに霊天上界の奇蹟の門は開かれました。
救世主が光を強められているのです。
主のみ光の前には、あらゆる病気や苦悩は消え去るしかないのです。
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信仰の力が、奇蹟を呼び起こすのです。



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2008.07.18
道を切り開くには
仏教は、神に頼らず、
内奥の智慧を開発する自己修行の道を説く、自力の教えだと思われています。
他力仏教と呼ばれる浄土教や、キリスト教では、
人間は自力では悟れず、無力で救われるべき存在である、と説かれがちです。
しかし本当は、救いの道には、完全な自力もなければ、完全な他力もありません。
神や高級霊は、努力する人をこそ助けたいのでありますし、
どのような修行者も、神への信仰や大いなるものの力無しでは、道は開けません。
結局、自力も他力もどちらも必要であるということです。
高級霊側の視点では、こういうことなのです。
私どもは、あなた方の生活から、
問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。
お約束できるのは全ての障害を乗り越え、
不可能と思われることを可能にする手段を、
あなた方自身の中に見いだすようになるということです。
内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、
最大のものを発揮しようと努力するとき、
私ども霊界のものの中であなたに愛着を感じ、
あなたを援助することによって、
多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。
あなた方は常にリラックスし、受け身的で穏やかで平静で、
しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。
その状態である限り万事がうまくいき、
必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。
安易な人生からは価値があるものは得られません。
困難な人生からのみ得られるのです。
神は決してあなた方を見捨てません。あなた方が神を見捨てているのです。
困難に直面したとき、その神の遺産を結集し、
必ず道は開けるのだという自信を持つことです。
不動の信念を持てば必ず道は開かれます。
「シルバーバーチの霊訓」
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内奥の智慧を開発する自己修行の道を説く、自力の教えだと思われています。
他力仏教と呼ばれる浄土教や、キリスト教では、
人間は自力では悟れず、無力で救われるべき存在である、と説かれがちです。
しかし本当は、救いの道には、完全な自力もなければ、完全な他力もありません。
神や高級霊は、努力する人をこそ助けたいのでありますし、
どのような修行者も、神への信仰や大いなるものの力無しでは、道は開けません。
結局、自力も他力もどちらも必要であるということです。
高級霊側の視点では、こういうことなのです。
私どもは、あなた方の生活から、
問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。
お約束できるのは全ての障害を乗り越え、
不可能と思われることを可能にする手段を、
あなた方自身の中に見いだすようになるということです。
内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、
最大のものを発揮しようと努力するとき、
私ども霊界のものの中であなたに愛着を感じ、
あなたを援助することによって、
多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。
あなた方は常にリラックスし、受け身的で穏やかで平静で、
しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。
その状態である限り万事がうまくいき、
必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。
安易な人生からは価値があるものは得られません。
困難な人生からのみ得られるのです。
神は決してあなた方を見捨てません。あなた方が神を見捨てているのです。
困難に直面したとき、その神の遺産を結集し、
必ず道は開けるのだという自信を持つことです。
不動の信念を持てば必ず道は開かれます。
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