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2008.07.22
ニューエイジサイエンスと仏教
フロンティア科学者は、
今や宗教と科学の共通点を見出そうとしています。
仏教とニューエイジサイエンスの可能性について、
日本サイ科学理事の窪田啓次郎氏の解説です。
信仰は人に生きる道を教え、人間に寄りどころを与える。
信仰でどれだけたくさんの人が生きる力を得たことだろう。
わが国には古来からの神道、中国や朝鮮半島を経て伝わった仏教、
西欧文明とともにもたらされたキリスト教などがある。
まず仏教から取り上げてみよう。仏教は自力門と他力門とに分けられよう。
自力門といわれる禅宗では、座禅などを通して自分自身を見つめ、
煩悩を解脱して人間の真性を見きわめようとするものであろう。
一方、他力門では南無阿弥陀仏とお念仏を一心に唱えることで、
念仏三昧の境地になり、み仏の救いに身を任せ、
無我の境になって煩悩を去ることができるということであろう。
前者の自力門とは、人の中に包まれている本性の発見であり、
後者の無我の境とは、仏に帰依することで心のわだかまりをなくすことであろう。
仏教の骨子を集めたお経の中のお経といわれる般若心経には、
「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」と述べられている。
色即是空とは、この世に現れているもろもろのことはすべて実体が空である。
そして空即是色とは、空なる無からすべての現象は生じているのだと断じている。
これらは哲学的な深い認識であろうが、無から有が生じるとの認識だとすると、
現代の科学や物理学とは相容れないように見える。
ニュートン以来の物理学では、自然界は厳然と存在し、いろいろの事象は、
物理学の法則に依存して決まってくるものである。
物理学上のことは、人間の観測のいかんにかかわらず、存在するものであった。
アインシュタインの相対性理論が出てきて、
観測系のいかんが時間とか空間に関係するようになってきた。
質量(m)とエネルギー(E)との関係がE=mc²で表され(cは光速)、
物質とエネルギーが変換できることが明らかとなった。
さらに、もし仮に人間の想念とか意識とかが、
物質系に影響を及ぼしうるということになると、
さきほどの哲学的な深い認識はがぜんその実存性、真実性が出てくることになる。
しかし、実際に人間の意識と物質系との間に相関があるかということであるが、
一般的にはまだ十分に実証されたとはいえない。
しかし、超心理学のESPの実験では、確率的に偶然に起こるよりは高い確率で、
人間の意識がわずかではあるが物質系に影響を及ぽしうることが明らかとなってきた。
また気功師の実験では、人間の気によって、
触れることなく患者や生体系に変化が生じることが報告されている。
こう見てくると、堅い、不変的存在と思われてきた物質も、
人間と全然別ではなく人間の認識や、
意識と関連のあるものとみなすこともできるわけで、
仏教で説くいろいろの教義も、
まったく物質界と無縁のことではないといえるのではないかと思われる。
逆に、われわれは物質界への人間の意識、認識、働きかけをもっともっと調べて、
実証的にこれらの関係を明らかにすることが大切なのではないかということである。
サイ科学が進み、仮に物質界と人間の精神界との関係がある程度明らかになれば、
仏教教典の理解もより入りやすく、
身近かなものとなる面が出てくるのではないかとも考えられる。
「ニューエイジサイエンス入門」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
今や宗教と科学の共通点を見出そうとしています。
仏教とニューエイジサイエンスの可能性について、
日本サイ科学理事の窪田啓次郎氏の解説です。
信仰は人に生きる道を教え、人間に寄りどころを与える。
信仰でどれだけたくさんの人が生きる力を得たことだろう。
わが国には古来からの神道、中国や朝鮮半島を経て伝わった仏教、
西欧文明とともにもたらされたキリスト教などがある。
まず仏教から取り上げてみよう。仏教は自力門と他力門とに分けられよう。
自力門といわれる禅宗では、座禅などを通して自分自身を見つめ、
煩悩を解脱して人間の真性を見きわめようとするものであろう。
一方、他力門では南無阿弥陀仏とお念仏を一心に唱えることで、
念仏三昧の境地になり、み仏の救いに身を任せ、
無我の境になって煩悩を去ることができるということであろう。
前者の自力門とは、人の中に包まれている本性の発見であり、
後者の無我の境とは、仏に帰依することで心のわだかまりをなくすことであろう。
仏教の骨子を集めたお経の中のお経といわれる般若心経には、
「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」と述べられている。
色即是空とは、この世に現れているもろもろのことはすべて実体が空である。
そして空即是色とは、空なる無からすべての現象は生じているのだと断じている。
これらは哲学的な深い認識であろうが、無から有が生じるとの認識だとすると、
現代の科学や物理学とは相容れないように見える。
ニュートン以来の物理学では、自然界は厳然と存在し、いろいろの事象は、
物理学の法則に依存して決まってくるものである。
物理学上のことは、人間の観測のいかんにかかわらず、存在するものであった。
アインシュタインの相対性理論が出てきて、
観測系のいかんが時間とか空間に関係するようになってきた。
質量(m)とエネルギー(E)との関係がE=mc²で表され(cは光速)、
物質とエネルギーが変換できることが明らかとなった。
さらに、もし仮に人間の想念とか意識とかが、
物質系に影響を及ぼしうるということになると、
さきほどの哲学的な深い認識はがぜんその実存性、真実性が出てくることになる。
しかし、実際に人間の意識と物質系との間に相関があるかということであるが、
一般的にはまだ十分に実証されたとはいえない。
しかし、超心理学のESPの実験では、確率的に偶然に起こるよりは高い確率で、
人間の意識がわずかではあるが物質系に影響を及ぽしうることが明らかとなってきた。
また気功師の実験では、人間の気によって、
触れることなく患者や生体系に変化が生じることが報告されている。
こう見てくると、堅い、不変的存在と思われてきた物質も、
人間と全然別ではなく人間の認識や、
意識と関連のあるものとみなすこともできるわけで、
仏教で説くいろいろの教義も、
まったく物質界と無縁のことではないといえるのではないかと思われる。
逆に、われわれは物質界への人間の意識、認識、働きかけをもっともっと調べて、
実証的にこれらの関係を明らかにすることが大切なのではないかということである。
サイ科学が進み、仮に物質界と人間の精神界との関係がある程度明らかになれば、
仏教教典の理解もより入りやすく、
身近かなものとなる面が出てくるのではないかとも考えられる。
「ニューエイジサイエンス入門」



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2008.07.22
宗教擁護論
宗教はよく批判されるように、そんなに危険なものなのでしょうか?
カルト教団による様々な事件、
霊感詐欺、宗教テロなどが実際に起きているにしても、それは特例であります。
カルトや霊感商法にしても、当事者は純粋に信じている場合も多いのです。
宗教の大半は、善を勧め、人を愛するように説き、
魂の永遠性を納得させ、世界中で多くの人々を救っています。
また、悪いことをすれば、死後悪い所にいかなければならない、
ということが安全弁となり、宗教を信じている人は、そう悪いことはしません。
むしろ、宗教は、楽しく、希望を与えてくれるものであります。
宗教を悪くいう人は、信仰を持っていないことが多いのです。
それでは、
宗教批判を信条とする共産主義はどれほどの害悪をなしてきたでしょうか?
神を否定し、人間の魂を否定し、人間を機械と同じに扱うため、
魂を腐らせてきただけでなく、世界中で億単位の人々を虐殺してきました。
どちらが危険な思想なのでしょうか?
神を否定するということは、人間の尊厳をも否定することと同じです。
その証拠に、
宗教心の大切さは、共産主義国以外では、どの国の憲法にもかかれています。
崇高なる神を信じ、魂の向上を望んで、
その教えにしたがって善く生きようとすることの、どこが間違っているのでしょうか?
宗教心を持つことや神を信じることが悪であるかのように言われるほど、
本来の立場が逆転してしまっているのが現状なのです。
この世界に神秘や不思議は無いと見るか、
人知を超える何かが存在すると見るか、
それは、各人の自由であります。
しかし、諸学問や文化・芸術の根源は宗教にあります。
また、神を信じるということは、事実の確認にすぎないのです。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
カルト教団による様々な事件、
霊感詐欺、宗教テロなどが実際に起きているにしても、それは特例であります。
カルトや霊感商法にしても、当事者は純粋に信じている場合も多いのです。
宗教の大半は、善を勧め、人を愛するように説き、
魂の永遠性を納得させ、世界中で多くの人々を救っています。
また、悪いことをすれば、死後悪い所にいかなければならない、
ということが安全弁となり、宗教を信じている人は、そう悪いことはしません。
むしろ、宗教は、楽しく、希望を与えてくれるものであります。
宗教を悪くいう人は、信仰を持っていないことが多いのです。
それでは、
宗教批判を信条とする共産主義はどれほどの害悪をなしてきたでしょうか?
神を否定し、人間の魂を否定し、人間を機械と同じに扱うため、
魂を腐らせてきただけでなく、世界中で億単位の人々を虐殺してきました。
どちらが危険な思想なのでしょうか?
神を否定するということは、人間の尊厳をも否定することと同じです。
その証拠に、
宗教心の大切さは、共産主義国以外では、どの国の憲法にもかかれています。
崇高なる神を信じ、魂の向上を望んで、
その教えにしたがって善く生きようとすることの、どこが間違っているのでしょうか?
宗教心を持つことや神を信じることが悪であるかのように言われるほど、
本来の立場が逆転してしまっているのが現状なのです。
この世界に神秘や不思議は無いと見るか、
人知を超える何かが存在すると見るか、
それは、各人の自由であります。
しかし、諸学問や文化・芸術の根源は宗教にあります。
また、神を信じるということは、事実の確認にすぎないのです。



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