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通常は、キリスト教徒だけに限らず、宗教を信じているならば、
ダーウィンの進化論など、とうてい受け入れることは出来ません。

ダーウィニズムは基本的に神を否定する唯物論なのですから。

国民の大半がダーウィニズムを信仰しているのは共産主義国か日本ぐらいです。

不思議なことに、日本の仏教徒はそれを支持しているか、
もしくは不可知論的立場(これは少数)を取ります。

仏教は無神論ではないはずなのですが・・・。

それだけ日本人は、科学的唯物論というものに洗脳されているのです。




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2008.07.24 小乗も大乗も
唐代の中国僧、義浄は、単身インドに渡り、
つぶさにナーランダ僧院における僧侶の生活の様子について記録しています。
これは、大変貴重な資料であり、当時の信仰のありようを知ることができます。

現代では、小乗と大乗はどちらが優れているかで論争しているありさまですが、
義浄によると、7世紀のインドには、大乗と小乗の仏教信仰があるが、
相違点よりも一致点の方が勝っていて、どちらも共存していると指摘しているのです。

釈尊の霊的影響力、久遠実成の仏陀を信じていた当時には、
近代の仏典の文献学的、考古学的研究による、
合理的解釈の産物である大乗非仏説など、あろうはずもありません。




さて、インド仏教の現勢について触れておく。
現在インドで優勢な大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部のこの四部派の中で、
大乗と小乗の区分は定まっていないのである。
北インドや南海の国は、もっぱら小乗である。
一方これに対し、我がシナの国は、意は大乗教に存る。
そして、これよりほかの諸処では、
大乗教・小乗教がまじえ行なわれているというのが、
世界の仏教の大乗・小乗の現況、その真実の姿なのだ。
ところで大乗・小乗について、このおもむきを考えてみると、
大乗も小乗も律蔵の教えによる検校、すなわち律検は異ならず、
ひとしく五篇(波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅)を制しているのだし、
大乗も小乗も、同じく四諦(苦・集・滅・道諦)を修めているのである。
もし菩薩を礼拝して大乗経を読誦するのならば、これを大乗と名づけるのであり、
このことをしなければ、これを小乗と呼ぶというただそれだけの事なのである。
そしていう所の大乗とても二種があるにすぎない。
その一つは中観、二つは瑜伽である。
中観の教えは、俗諦には「有」と見えていても真諦には「空」であり、
本質そのものはうつろにして幻のようなものであるとするものであり、
喩伽の教えは、外は「無」であるが内は「有」であり、
事、皆ただ「識」あるのみとするのである。
しかし、大乗も小乗もこれらは並びにみな釈迦の聖教に遵っているのである。
されば、大乗と小乗でいずれが是でありいずれが非だというのだろうか?
大乗も小乗も同じく涅槃を契っているのである。
されば、大乗と小乗で、何れが真であり何れが偽だというのだろうか?
大乗も小乗も、その教えの意は、同じく煩惑を断ち除き、
衆生を苦しみから引き抜き救うところに在るのである。
しかし、シナではどうして大乗だ、小乗だと色分けし、
広くごたごたをおこしていて、さらに迷いを増そうとしているのだろうか?
大乗だろうが小乗だろうが、仏の教えに依って行ずれば、
ともに彼岸に昇ることができるのであり、大乗だろうが小乗だろうが、
仏の教えを棄て、仏の教えに背けば並びに迷いの海に溺れてしまうのである。
シナとは異なり、インドでは大乗・小乗の両方が双つながら行なわれており、
道理として大乗・小乗の両者がそむき競うことなぞは無いのである。

「南海寄帰内法伝」



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2008.07.24 魂の永遠性
哲学者のケン・ウィルバー氏は、
西洋人ですが、輪廻転生についてこのように肯定的に論じています。


生まれ変わりの教義は、
世界中の神秘主義的宗教のほぼすべてになんらかの形で見出される。
キリスト教でさえ、かつてはその教義を認めていたのだが、
おもに政治的な理由によって四世紀に破棄されてしまったのである。
しかし今日でも、キリスト教神秘主義者の多くはその観念を認めている。
神学者のジョン・ヒックが主著『死と永遠の生』で指摘しているように、
なんらかの生まれ変わりが起こることは、
キリスト教を含めた世界の諸宗教の合意事項なのである。

イアン・スティーブンソン教授やその他の人たちによって記録されているように、
二、三の特殊な記憶が逃れることはあるかもしれない。
だが、そうした記憶は原則というより例外であろう。
転生するのは心ではなく魂のほうなのだ。
魂の絶対的存在を否定する仏教でさえ、魂が相対的ないし因習的な性質をもち、
その相対的・因習的に存在する魂が転生することを認めている。


「死を超えて生きるもの」




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唯物論哲学は宗教と対立する思想です。

唯物論であるマルクス主義は、
意識は脳の産物であり、人間は社会の産物であると主張します。

また、宗教は社会的な創造物であり、
人々の幸福観を錯覚させるものとして、その廃絶を求めました。

その宗教を廃絶すれば、人々は幻想としての死後の世界に頼ることなく、
この世での幸福のための条件づくりに集中することができると主張するのです。


哲学者バートランド・ラッセルは、
有名な「唯物論者の信条」と呼ばれる文章を残しています。


「人間とは、その到達しようとしている結果について、
なんの予見もできない諸原因の産物である。
人間の誕生、成長、そして希望や恐れなどは、原子の偶然の配列の結果にすぎず、
人間の情熱、ヒロイズム、崇高な思考や感情なども、
個人の生命を死から守ることはできない。
長年にわたる労働、献身、インスピレーション、燦然と光り輝く才能などの一切も、
太陽系の死とともに消滅すべき運命にあり、人類が成し遂げてきたすべては、
宇宙が崩壊すればその残骸の下に埋没されることになる。
以上のことはすべて、まったく議論の余地なしというわけではないが、
やはりほぼ確定的であり、したがって、
それらを拒否する哲学には生き残る見込みはない。
この真理の足場の内部、避けることのできない絶望という堅固な基礎の上にのみ、
精神の住み家を安全に築くことができるのである。」



このような思想の行き着く先は、人生の無意味さと、絶望しかありません。

人が善く、希望を持って生きるためには、正しい宗教観が不可欠なのです。




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