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2008.08.03
ニューエイジから見た親鸞仏教2
日本の浄土教はかなり形骸化して、あの世のことを説かなくなって久しいのです。
先ほどの続きです。
親鸞は時代に敏感でした。親鸞そしてその師匠の法然は、
その時代に全く相応しい新しい運動を起こしたということです。
そうであるとするならば、ちょうど大乗仏教のように、その時代に適合して、
もとの精神を甦らせるルネッサンスのようなことこそ必要なのではないでしょうか。
親驚はゴータマ・ブッダとどこか直結しています。
自分自身を見つめていく、そして先祖や両親などとの関わり方、
或いは先祖から子孫に向かう因縁の系列などをあまり言わなかった点。
自業自得のところを見ていったこと、そしてあまり形而上学的なことは扱わなかったこと、
迷信や苦行はあまり認めなかったこと、内省を重んじ心主体に捉え、
自分を磨いて絶対のところにシンプルに関わらせていくことなどです。
そのように親鸞はどこかゴータマ・ブッダという元の精神を日本に於いて、
当時甦らせたと言えるでしょう。そのような意味ではこの現代、
八正道や中道など基本的な精神を甦らせるということが、
親鸞を甦らせるということに相通ずるでしょう。カルト系に最も欠如しているのが、
ブッダの説き勧められた中道、八正道、縁起の法、責任感、慈悲です。
また、親鸞の時代に於いては生まれ変わりや三世因果説、
夢を通しての深い意識からのメッセージということがとても大事でありました。
そして実はこの現代に於いてもそのようなことが言えるのです。
現代に於いて、例えば多くの識者の方たちや文化人の方々は、
親鸞の歎異抄の論法や知性は認め評価するけれども、
親鸞の当時生きたなかでの「後世を祈る」など三世因果や前世、
宿業などの事柄に関しては、
「それは迷信でしかたがなかった、親鸞も時代の子であったから」位で、
処理してしまい片づけられてしまっているようです。
しかしそのようにすると親鸞の最も奥深い面、
親鸞を突き動かしていた大事な面が失われます。
やはり親鸞の根本精神を捉える為には、生まれ変わりとかカルマ、宗教的な救い、
夢によるメッセージのお告げの重大さと真実性、聖徳太子に帰依したこととか、
また一人間としての親鸞の具体的な苦悩やコンプレックス、性格面での弱さなどと、
それにどのようにこの宗教天才が立ち向かっていったかなどを見て行きませんと、
何か表面的で綺麗なところの親鸞だけで終わってしまい兼ねません。
親鸞は真面目な内省の人でした。世間や周囲からの反応にはとても鋭敏でした。
それは良い点でこれからもとても大事になってきます。
しかし一方、自己責めというのがあまりにきつく、弊害もあります。
人は自分で自分を愛し、自分で自分を許してあげることも一方では大事なのです。
正しくその際、許すということです。その意味で今後、
親鸞の流れで親鸞の影響を受けている人やグループ或いは教団は、
親鸞の自分で自分を責めるような自己卑下とか、罪悪視、
それをもう少し改めて行くことが必要だと思われます。
或いは露悪つまり悪をもろに外に出す表現の仕方など、
そのようなこともあまりよろしくない側面だと思われます。
その辺も今後、検討され改められて行く面であり、
あまり見習わない方が良い親鸞の面ではないでしょうか。
或いは宗祖親鸞の持っていたある側面だけ助長していったとも言えます。
むしろ、もっと積極的に還相廻向などや現世を力強く生き改善し、
自分を目一杯生かして行くこと。そして涅槃経から来ている楽しく、
全てが永遠であり生命の世界ゆえ、生かされて生きている喜び、
救われた感謝を懐き、自分を充分役立て、
自分が生きているうちに自分を充分感じられること、
そのような清々しさと力強い自己確信、そのようなものも今後付け加えられて行ったり、
親鸞のその面が強調される必要があります。
さて、親鸞の教えと精神は今後とも、とても有益であり、大切にされて行くでしょうし、
それが必要でありましょう。今後とも役立つ面としては、
人間・人生に対する鋭い洞察とあたたかいまなざし、本物の信仰心と神仏把握、
親鸞の自己省察、自己内省があります。
また親鸞の謙虚さ素直さ、そしてごまかさない、偽善に落ちない、
真摯に生きるひたむきさ、そして他力の純粋さなどです。
心の細やかさ、ほがらかな面もそうです。
作らず飾らない、ありのままの彼の人柄です。
自力の修行が今後復興しますが、
しかし他力の凄い面や他力でしか起こり得ない信仰のすばらしさや効力というのは、
依然として残り、その価値はいささかとも翳りが出ません。
それも親鸞の真骨頂です。また親驚の忍耐力、持続力、一貫性と確信です。
そして親鸞の家庭を愛する精神もそれです。
その他、偉ぶらず、自分を教祖としない、人間を尊重する他との関わり方、
良い方の平等主義、「弟子一人も持たず候」という精神、
そして師匠をちゃんと立てる精神です。
なぜなら生きた人から本当の教えは伝わって行くからです。
親鸞は他の教えや宗教に寛大でした。しかし消極的ではありました。
その辺も今後留意し、学び直す点です。
「親鸞の心」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
先ほどの続きです。
親鸞は時代に敏感でした。親鸞そしてその師匠の法然は、
その時代に全く相応しい新しい運動を起こしたということです。
そうであるとするならば、ちょうど大乗仏教のように、その時代に適合して、
もとの精神を甦らせるルネッサンスのようなことこそ必要なのではないでしょうか。
親驚はゴータマ・ブッダとどこか直結しています。
自分自身を見つめていく、そして先祖や両親などとの関わり方、
或いは先祖から子孫に向かう因縁の系列などをあまり言わなかった点。
自業自得のところを見ていったこと、そしてあまり形而上学的なことは扱わなかったこと、
迷信や苦行はあまり認めなかったこと、内省を重んじ心主体に捉え、
自分を磨いて絶対のところにシンプルに関わらせていくことなどです。
そのように親鸞はどこかゴータマ・ブッダという元の精神を日本に於いて、
当時甦らせたと言えるでしょう。そのような意味ではこの現代、
八正道や中道など基本的な精神を甦らせるということが、
親鸞を甦らせるということに相通ずるでしょう。カルト系に最も欠如しているのが、
ブッダの説き勧められた中道、八正道、縁起の法、責任感、慈悲です。
また、親鸞の時代に於いては生まれ変わりや三世因果説、
夢を通しての深い意識からのメッセージということがとても大事でありました。
そして実はこの現代に於いてもそのようなことが言えるのです。
現代に於いて、例えば多くの識者の方たちや文化人の方々は、
親鸞の歎異抄の論法や知性は認め評価するけれども、
親鸞の当時生きたなかでの「後世を祈る」など三世因果や前世、
宿業などの事柄に関しては、
「それは迷信でしかたがなかった、親鸞も時代の子であったから」位で、
処理してしまい片づけられてしまっているようです。
しかしそのようにすると親鸞の最も奥深い面、
親鸞を突き動かしていた大事な面が失われます。
やはり親鸞の根本精神を捉える為には、生まれ変わりとかカルマ、宗教的な救い、
夢によるメッセージのお告げの重大さと真実性、聖徳太子に帰依したこととか、
また一人間としての親鸞の具体的な苦悩やコンプレックス、性格面での弱さなどと、
それにどのようにこの宗教天才が立ち向かっていったかなどを見て行きませんと、
何か表面的で綺麗なところの親鸞だけで終わってしまい兼ねません。
親鸞は真面目な内省の人でした。世間や周囲からの反応にはとても鋭敏でした。
それは良い点でこれからもとても大事になってきます。
しかし一方、自己責めというのがあまりにきつく、弊害もあります。
人は自分で自分を愛し、自分で自分を許してあげることも一方では大事なのです。
正しくその際、許すということです。その意味で今後、
親鸞の流れで親鸞の影響を受けている人やグループ或いは教団は、
親鸞の自分で自分を責めるような自己卑下とか、罪悪視、
それをもう少し改めて行くことが必要だと思われます。
或いは露悪つまり悪をもろに外に出す表現の仕方など、
そのようなこともあまりよろしくない側面だと思われます。
その辺も今後、検討され改められて行く面であり、
あまり見習わない方が良い親鸞の面ではないでしょうか。
或いは宗祖親鸞の持っていたある側面だけ助長していったとも言えます。
むしろ、もっと積極的に還相廻向などや現世を力強く生き改善し、
自分を目一杯生かして行くこと。そして涅槃経から来ている楽しく、
全てが永遠であり生命の世界ゆえ、生かされて生きている喜び、
救われた感謝を懐き、自分を充分役立て、
自分が生きているうちに自分を充分感じられること、
そのような清々しさと力強い自己確信、そのようなものも今後付け加えられて行ったり、
親鸞のその面が強調される必要があります。
さて、親鸞の教えと精神は今後とも、とても有益であり、大切にされて行くでしょうし、
それが必要でありましょう。今後とも役立つ面としては、
人間・人生に対する鋭い洞察とあたたかいまなざし、本物の信仰心と神仏把握、
親鸞の自己省察、自己内省があります。
また親鸞の謙虚さ素直さ、そしてごまかさない、偽善に落ちない、
真摯に生きるひたむきさ、そして他力の純粋さなどです。
心の細やかさ、ほがらかな面もそうです。
作らず飾らない、ありのままの彼の人柄です。
自力の修行が今後復興しますが、
しかし他力の凄い面や他力でしか起こり得ない信仰のすばらしさや効力というのは、
依然として残り、その価値はいささかとも翳りが出ません。
それも親鸞の真骨頂です。また親驚の忍耐力、持続力、一貫性と確信です。
そして親鸞の家庭を愛する精神もそれです。
その他、偉ぶらず、自分を教祖としない、人間を尊重する他との関わり方、
良い方の平等主義、「弟子一人も持たず候」という精神、
そして師匠をちゃんと立てる精神です。
なぜなら生きた人から本当の教えは伝わって行くからです。
親鸞は他の教えや宗教に寛大でした。しかし消極的ではありました。
その辺も今後留意し、学び直す点です。
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2008.08.03
ニューエイジから見た親鸞仏教1
日本ニューエイジ界を代表する浅野信氏は、
日本最大の伝統仏教教団である浄土真宗に対して極めて的確な提言を行っています。
そこには、霊覚者にしか解りえない真実が述べられています。
お坊さんこそが傾聴すべき意見です。
親鸞の時代、あの末法史観のもとで、皆、大変な時代を実際生き抜いていました。
単に、末法史観があったと言うだけでなく、
実際末法の様相を呈していたという意味です。
そのようななかにあって、したくないことでもどうしてもしなくてはならない、
時には悪いことでもせざるを得ない、とても自力の修行を行えない、
そのような厳しい状況のもとで、その時代に一人でも多くの人に、
神仏の救いの手が差しのべられて、機会が開かれ、
希望を持って元気よく溌剌と生きられる道は無いものかどうかと言うことで、
その時代状況に合わせて、簡易な仏教としての浄土門、
即ち他力の方法としての「南無阿弥陀仏」と言う、専修念仏が法然上人によって、
打ち立てられたのです。それを受けて、更に親鸞が深め、
そしてそれがだんだん辺境の地や各層にまで拡げられて行ったのです。
多くの人々へ救済の対象が広げられました。
そのような時代背景や時代の要請というのがあって、
初めてそれが出てきたということです。
親鸞は法然を受けて、それを実行に移し、その流れが見事に実現して行きました。
しかしながらこの現代において当時の方法論をそのまま繰り返し述べたり、
それをそのまま適用したりするということは、どうしてもそぐわない面が出てきます。
今でも普遍的に言い得ること、役立つこと、行うとよいこと、正しいことと、
一方もはや時代に合わずそぐわないこと、この両方があるということです。
彼の時代はどうしてもそれまでの自力の修行型が難しくなって来たので、
他力の簡易仏教が求められ、日蓮の方法も、道元の方法も、法然や親鸞の方法も、
一つの簡便なものを選びとったものでした。
総合的なものではなく、一つのものだけを選んだ簡便な方法です。
それが当時に相応しく、またそうでもないと、とてもやれなかった時代でした。
今は、違います。今は、寧ろ全く対照的に総合化ということが、
求められている時代なのです。しかもそれがただ多様化するだけでなく、
多様の自由性を許し尊重しながらも、
全体が一つでもあるという捉え方が今の精神としての要請だということです。
そのもとで一つひとつが尊ばれ、真に発揮され全体の為に活かされ役立てられて行く、
そのようなことが今の時代の要請なのです。
必ずその時代に出てくるものは、必要あって役目があり、出て来ます。
だからと言って、出てくるもの全てが完壁で正しいという意味ではありません。
しかし必ず時代の要請で出てくるのですから、今の時代に出てくる、
例えば新宗教とか、ニューエイジ運動、その他様々な動きがあって、
それらをある立場や観点からのみ簡単に批評を加えたり、
それらをどこかで冷ややかに見たり軽蔑したりというのがあったとしたら、
それは傲慢というべきでしょう。
「親鸞の心」
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日本最大の伝統仏教教団である浄土真宗に対して極めて的確な提言を行っています。
そこには、霊覚者にしか解りえない真実が述べられています。
お坊さんこそが傾聴すべき意見です。
親鸞の時代、あの末法史観のもとで、皆、大変な時代を実際生き抜いていました。
単に、末法史観があったと言うだけでなく、
実際末法の様相を呈していたという意味です。
そのようななかにあって、したくないことでもどうしてもしなくてはならない、
時には悪いことでもせざるを得ない、とても自力の修行を行えない、
そのような厳しい状況のもとで、その時代に一人でも多くの人に、
神仏の救いの手が差しのべられて、機会が開かれ、
希望を持って元気よく溌剌と生きられる道は無いものかどうかと言うことで、
その時代状況に合わせて、簡易な仏教としての浄土門、
即ち他力の方法としての「南無阿弥陀仏」と言う、専修念仏が法然上人によって、
打ち立てられたのです。それを受けて、更に親鸞が深め、
そしてそれがだんだん辺境の地や各層にまで拡げられて行ったのです。
多くの人々へ救済の対象が広げられました。
そのような時代背景や時代の要請というのがあって、
初めてそれが出てきたということです。
親鸞は法然を受けて、それを実行に移し、その流れが見事に実現して行きました。
しかしながらこの現代において当時の方法論をそのまま繰り返し述べたり、
それをそのまま適用したりするということは、どうしてもそぐわない面が出てきます。
今でも普遍的に言い得ること、役立つこと、行うとよいこと、正しいことと、
一方もはや時代に合わずそぐわないこと、この両方があるということです。
彼の時代はどうしてもそれまでの自力の修行型が難しくなって来たので、
他力の簡易仏教が求められ、日蓮の方法も、道元の方法も、法然や親鸞の方法も、
一つの簡便なものを選びとったものでした。
総合的なものではなく、一つのものだけを選んだ簡便な方法です。
それが当時に相応しく、またそうでもないと、とてもやれなかった時代でした。
今は、違います。今は、寧ろ全く対照的に総合化ということが、
求められている時代なのです。しかもそれがただ多様化するだけでなく、
多様の自由性を許し尊重しながらも、
全体が一つでもあるという捉え方が今の精神としての要請だということです。
そのもとで一つひとつが尊ばれ、真に発揮され全体の為に活かされ役立てられて行く、
そのようなことが今の時代の要請なのです。
必ずその時代に出てくるものは、必要あって役目があり、出て来ます。
だからと言って、出てくるもの全てが完壁で正しいという意味ではありません。
しかし必ず時代の要請で出てくるのですから、今の時代に出てくる、
例えば新宗教とか、ニューエイジ運動、その他様々な動きがあって、
それらをある立場や観点からのみ簡単に批評を加えたり、
それらをどこかで冷ややかに見たり軽蔑したりというのがあったとしたら、
それは傲慢というべきでしょう。
「親鸞の心」



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2008.08.03
宗教の時代
「21世紀は宗教の時代になる」と言ったのは、
大歴史家トインビー博士でありました。
歴史は「神」の物語であると結論づけた博士の予言はみごとに的中しています。
まさに、宗教の時代の到来です。
19世紀後半から20世紀にかけて、一時的に「神」は死んだと信じられましたが、
21世紀には、この「神」がニューエイジ思想として復活を遂げました。
科学も、「神」を征服することを諦め、「神」に屈服しはじめているようです。
21世紀が宗教の時代に成るのは確実ですが、
その負の側面、すなわち宗教間紛争を克服するのが大きな課題です。
現在、地球規模での宗教改革が切望されています。
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大歴史家トインビー博士でありました。
歴史は「神」の物語であると結論づけた博士の予言はみごとに的中しています。
まさに、宗教の時代の到来です。
19世紀後半から20世紀にかけて、一時的に「神」は死んだと信じられましたが、
21世紀には、この「神」がニューエイジ思想として復活を遂げました。
科学も、「神」を征服することを諦め、「神」に屈服しはじめているようです。
21世紀が宗教の時代に成るのは確実ですが、
その負の側面、すなわち宗教間紛争を克服するのが大きな課題です。
現在、地球規模での宗教改革が切望されています。



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