| Home |
2008.08.07
仏教と奇跡
近代に入ってからは、
仏教には神秘や奇跡は無い、とする文献学者がたくさん現れました。
しかし、不思議なことに最古の仏典には、奇跡や神秘現象ばかりが説かれているのです。
この矛盾に、現代の仏教者は見て見ぬふりをしているようです。
名医ジーヴァカの楽しいマンゴー林に向って歩いて行く尼僧スバーを、
一人の悪者がさえぎった。スバー尼は、かれに対して言った、
「あなたは、わたしの行く手をさえぎって立っていますが、
わたしはあなたに何か過ったことをしたのでしょうか?
友よ。男子が尼僧に触れることは、宜しくありません。」
誘惑する男いわく、
「あなたは、若くて、美しい。
あなたは、出家したとて、なんになるのです?
さあ、黄衣を投げすてなさい。花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。
もしも、あなたが一人で林のなかに入って行ったならば、
あなたに、なんの楽しみがあるでしょう。
もしも、あなたが叢林のなかに住もうとなさるならば、
わたしはあなたの御意のままになりましょう。柔和な眼をした女よ!
妖精キンナリーよ!あなたより愛しい人はわたしにはいないからです。」
スパー尼いわく、
「死骸に充ち、死骸の棄て場所を増大させるものであり、
壊減する性質のものであるこの身体のうちで、なにをあなたは本質と認めるのですか?
その本質を見て、あなたは茫然自失してわたしを見つめておられるが。」
誘惑する男いわく、
「あなたの眼は、山の中の牝鹿や、妖精キンナリーの眼のようです。
あなたの眼を見たので、わたしの愛欲を楽しみたい気持は、ますますつのりました。
たとい、あなたが遠くへ去っても、わたしはあなたを憶っているでしょう。
長い睫毛の女よ!眼の清く澄んだ女よ!
わたしには、あなたの眼よりも愛しい眼はないからです。
柔和な眼をした女よ!妖精キンナリーよ!」
スバー尼にいわく、
「あなたは、邪道を行こうと望んでいます。ブッダの子を獲得しようと企むあなたは!
けだし、神々と人間の世の中において、
いまや、わたしが貧りを起す対象は、どこにもありません。
また、わたしは貧りがいかなるものであるかも知りません。
それは、聖者の道によって根絶されているのです。
だから、わたしは、幸せな人、ブッダの尼弟子であり、
正しい道の八つの実践法よりなる乗物に乗って行く者です。
わたしは、煩悩の矢を抜き去って汚れ無く、
人のいない家に入って行って、ひとりで楽しみます。
盲たる愚かな人よ。目の前につくり出された幻術によるすがたのごとく、
夢の終りに見る黄金の樹のごとく、人々の中で見せる影絵のごとく、
うつろなるものに向って、あなたは走って行きます。
眼は空洞の中に置かれた小さな球であり、眼の中央には泡状のものがあり、
涙を出し、目やにもそこに生じます。多種多様の眼が球体としてつくられます。」
眉目うるわしく、心に執著のないスパー尼は、眼をえぐり出して、執著しなかった。
「さあ、この眼をあなたのために、持ち去ってください」、
と言って、即座にそれをその男に与えた。
かれの愛欲の念は即座に消え失せた。そうして、かの女に許しを乞うた。
「燃え立つ火を抱くように、わたしは、このような人を害なった。
わたしは、謂わば、毒蛇をつかんだ。
どうぞ、お健やかに!さあ、わたしをお許しください。」
その尼僧は、その男から脱れて、妙なるプッダのみもとに行った。
ブッダの妙なる功徳の相を見て、かの女の眼は、もとどおりになったのである。
パーリ原始仏典小部「テーリーガーター」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
仏教には神秘や奇跡は無い、とする文献学者がたくさん現れました。
しかし、不思議なことに最古の仏典には、奇跡や神秘現象ばかりが説かれているのです。
この矛盾に、現代の仏教者は見て見ぬふりをしているようです。
名医ジーヴァカの楽しいマンゴー林に向って歩いて行く尼僧スバーを、
一人の悪者がさえぎった。スバー尼は、かれに対して言った、
「あなたは、わたしの行く手をさえぎって立っていますが、
わたしはあなたに何か過ったことをしたのでしょうか?
友よ。男子が尼僧に触れることは、宜しくありません。」
誘惑する男いわく、
「あなたは、若くて、美しい。
あなたは、出家したとて、なんになるのです?
さあ、黄衣を投げすてなさい。花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。
もしも、あなたが一人で林のなかに入って行ったならば、
あなたに、なんの楽しみがあるでしょう。
もしも、あなたが叢林のなかに住もうとなさるならば、
わたしはあなたの御意のままになりましょう。柔和な眼をした女よ!
妖精キンナリーよ!あなたより愛しい人はわたしにはいないからです。」
スパー尼いわく、
「死骸に充ち、死骸の棄て場所を増大させるものであり、
壊減する性質のものであるこの身体のうちで、なにをあなたは本質と認めるのですか?
その本質を見て、あなたは茫然自失してわたしを見つめておられるが。」
誘惑する男いわく、
「あなたの眼は、山の中の牝鹿や、妖精キンナリーの眼のようです。
あなたの眼を見たので、わたしの愛欲を楽しみたい気持は、ますますつのりました。
たとい、あなたが遠くへ去っても、わたしはあなたを憶っているでしょう。
長い睫毛の女よ!眼の清く澄んだ女よ!
わたしには、あなたの眼よりも愛しい眼はないからです。
柔和な眼をした女よ!妖精キンナリーよ!」
スバー尼にいわく、
「あなたは、邪道を行こうと望んでいます。ブッダの子を獲得しようと企むあなたは!
けだし、神々と人間の世の中において、
いまや、わたしが貧りを起す対象は、どこにもありません。
また、わたしは貧りがいかなるものであるかも知りません。
それは、聖者の道によって根絶されているのです。
だから、わたしは、幸せな人、ブッダの尼弟子であり、
正しい道の八つの実践法よりなる乗物に乗って行く者です。
わたしは、煩悩の矢を抜き去って汚れ無く、
人のいない家に入って行って、ひとりで楽しみます。
盲たる愚かな人よ。目の前につくり出された幻術によるすがたのごとく、
夢の終りに見る黄金の樹のごとく、人々の中で見せる影絵のごとく、
うつろなるものに向って、あなたは走って行きます。
眼は空洞の中に置かれた小さな球であり、眼の中央には泡状のものがあり、
涙を出し、目やにもそこに生じます。多種多様の眼が球体としてつくられます。」
眉目うるわしく、心に執著のないスパー尼は、眼をえぐり出して、執著しなかった。
「さあ、この眼をあなたのために、持ち去ってください」、
と言って、即座にそれをその男に与えた。
かれの愛欲の念は即座に消え失せた。そうして、かの女に許しを乞うた。
「燃え立つ火を抱くように、わたしは、このような人を害なった。
わたしは、謂わば、毒蛇をつかんだ。
どうぞ、お健やかに!さあ、わたしをお許しください。」
その尼僧は、その男から脱れて、妙なるプッダのみもとに行った。
ブッダの妙なる功徳の相を見て、かの女の眼は、もとどおりになったのである。
パーリ原始仏典小部「テーリーガーター」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
スポンサーサイト
2008.08.07
宗教と平和
アメリカのスピリチュアルリーダーで医師のチョプラ博士は、
平和のために、このような提案をしています。
宗教は、暴力の責任は人間の心にあるということを明確にすべきである。
宗教は、異教徒を神に断罪されるべき罪人とみなすのをやめるべきである。
宗教は、戦争を擁護することを一切やめるべきである。
宗教は、みずからの教えが神への唯一絶対の道だと主張することをやめるべきである。
宗教は、傲りを捨て、権成を主張することをやめるべきである。
宗教は、密かな欲望や権力欲を捨てるべきである。
宗教は、再び愛に最高の価値を与える道を見いださなければならない。
既存宗教が偏狭であって、
スピリチュアルな真実を受け入れるのを拒んでいることが、
平和実現の妨げとなっています。
日本の仏教者もよくよく反省する必要があります。
仏教は神を認めない宗教だ、という主張も、
エゴにもとづく優越感の裏返しであり、立派な他宗教に対する攻撃です。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
平和のために、このような提案をしています。
宗教は、暴力の責任は人間の心にあるということを明確にすべきである。
宗教は、異教徒を神に断罪されるべき罪人とみなすのをやめるべきである。
宗教は、戦争を擁護することを一切やめるべきである。
宗教は、みずからの教えが神への唯一絶対の道だと主張することをやめるべきである。
宗教は、傲りを捨て、権成を主張することをやめるべきである。
宗教は、密かな欲望や権力欲を捨てるべきである。
宗教は、再び愛に最高の価値を与える道を見いださなければならない。
既存宗教が偏狭であって、
スピリチュアルな真実を受け入れるのを拒んでいることが、
平和実現の妨げとなっています。
日本の仏教者もよくよく反省する必要があります。
仏教は神を認めない宗教だ、という主張も、
エゴにもとづく優越感の裏返しであり、立派な他宗教に対する攻撃です。



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.08.07
内村鑑三の信仰
神なき近代日本において、
不屈の精神で、神の教えを説き続けた内村鑑三氏は、預言者エレミヤの再出でした。
非戦論をつらぬき、教会制度を批判し無教会主義を唱えるなど、
戦い続けた孤高の生涯をおくりました。
近代日本に、このような強烈な信仰心を持つ人物がいたのは驚きです。
私はまことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。
否、奇跡を信ぜずして、いかなる宗教も信ぜられません。
私はいまだ世に奇跡のない宗教のあるのを知りません。
しかるに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、あるいは理学宗とか、
あるいは倫理宗とか唱えて、奇跡のない宗教を造らんといたしまするが、
しかし、かかるものが宗教の用をなさないことは誰でも知っております。
私の考えまするに、奇跡を排斥しまするならば、
それと同時に宗教を排斥するべきであると思います。
奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら、
健康の幸福を説くの類であると思います。
奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、
宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。
奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。
奇跡の内容とは霊の活動であります。
もし霊なるものの実在を認めますならば、
奇跡はいやでも信じなければならなくなります。
霊そのものが天然以上のものであります。
またもし霊も天然の一部分であると言う人がありまするならば、
さらば奇跡もまた天然現象の一種でありまして、
これについて何の疑いをはさむの必要もなくなります。
もちろん、この事は哲学上の大問題であります。
自由意志を有する霊なるものありや否や、この問題を充分に討究せんとすれば、
スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、
その他の大哲学者をことごとく呼びきたらなければなりません。
しかしながら、これかならずしも大哲学者の判断を待たなければ、
解決のできない問題ではないと思います。
自由意志とは自由意志であります。すなわち外界何物の束縛をも受けずして、
その上に超然たるものであります。人はパンのみをもって生くる者ではない。
正義、真理、神、愛、これは全世界よりも尊いものである。
人が身を処するにあたって、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない。
霊には霊界の法則があって、
人はこの「自由の律法」に従ってのみ、さばかるる者であると。
これは自由の精神であります。自由意志を哲学的にどう説明しましょうとも、
自由とはかかるものであります。
そうして自由のあるところには奇跡をなし得るの力があります。
人が人たるの特権をふるう時に、彼は奇跡の可能力を疑いません。
彼が神の子たることを忘れて、たんに天然の子であるとのみ思う時に、
彼は奇跡の有無について彼の心思をひじょうに悩ますのであります。
奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、
自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。
奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。
世に愛にまさるの権能はありません。
そうして、そのまことに宇宙を動かすの能力なることを示さんために、
神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります。
「キリスト教問答」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
不屈の精神で、神の教えを説き続けた内村鑑三氏は、預言者エレミヤの再出でした。
非戦論をつらぬき、教会制度を批判し無教会主義を唱えるなど、
戦い続けた孤高の生涯をおくりました。
近代日本に、このような強烈な信仰心を持つ人物がいたのは驚きです。
私はまことに奇跡を信じます。奇跡を信ぜずしてキリスト教は信ぜられません。
否、奇跡を信ぜずして、いかなる宗教も信ぜられません。
私はいまだ世に奇跡のない宗教のあるのを知りません。
しかるに今の人は奇跡を信ずるの困難なるよりして、あるいは理学宗とか、
あるいは倫理宗とか唱えて、奇跡のない宗教を造らんといたしまするが、
しかし、かかるものが宗教の用をなさないことは誰でも知っております。
私の考えまするに、奇跡を排斥しまするならば、
それと同時に宗教を排斥するべきであると思います。
奇跡を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱えながら、
健康の幸福を説くの類であると思います。
奇跡は宗教の滋養であります。この養汁ありてこそ、
宗教なる生物は存在しかつ繁殖するのであります。
奇跡を取り除いてごらんなさい、宗教という宗教はみな死んでしまいます。
奇跡の内容とは霊の活動であります。
もし霊なるものの実在を認めますならば、
奇跡はいやでも信じなければならなくなります。
霊そのものが天然以上のものであります。
またもし霊も天然の一部分であると言う人がありまするならば、
さらば奇跡もまた天然現象の一種でありまして、
これについて何の疑いをはさむの必要もなくなります。
もちろん、この事は哲学上の大問題であります。
自由意志を有する霊なるものありや否や、この問題を充分に討究せんとすれば、
スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、
その他の大哲学者をことごとく呼びきたらなければなりません。
しかしながら、これかならずしも大哲学者の判断を待たなければ、
解決のできない問題ではないと思います。
自由意志とは自由意志であります。すなわち外界何物の束縛をも受けずして、
その上に超然たるものであります。人はパンのみをもって生くる者ではない。
正義、真理、神、愛、これは全世界よりも尊いものである。
人が身を処するにあたって、彼は風の方向や世の潮流に眼を注いではならない。
霊には霊界の法則があって、
人はこの「自由の律法」に従ってのみ、さばかるる者であると。
これは自由の精神であります。自由意志を哲学的にどう説明しましょうとも、
自由とはかかるものであります。
そうして自由のあるところには奇跡をなし得るの力があります。
人が人たるの特権をふるう時に、彼は奇跡の可能力を疑いません。
彼が神の子たることを忘れて、たんに天然の子であるとのみ思う時に、
彼は奇跡の有無について彼の心思をひじょうに悩ますのであります。
奇跡をおこなうの能力は、これは献身犠牲、
自己を忘れて神の栄えと人の善とを計らんとする者にのみ与えられるものであります。
奇跡は、愛とこれに伴う威権とのしるしであります。
世に愛にまさるの権能はありません。
そうして、そのまことに宇宙を動かすの能力なることを示さんために、
神は愛をもって充満する人にとくにこの能力を賜うのであります。
「キリスト教問答」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2008.08.07
癒し動画
| Home |