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2008.08.26 武士道の先に
明治の教育者、新渡戸稲造氏は、国際連盟の事務次長も務めました。

名著「武士道」を英文で紹介し、欧米の人々に感銘を与えたことで知られていますが、
その秘密は、世界に通用する信仰理解であったのです。

氏は敬虔なキリスト教(クウェーカー教)徒でした。

その著書でこう言っています。


人間の闘争本能というものは普遍的で、かつ自然なものであり、
また高尚な感性、男らしい徳目であるとしても、それは人間性のすべてではない。
もっと神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能の下にある。
私たちは神道や、孟子、さらに王陽明が明確にそのことを教えていることを見てきた。
しかし、武士道や、戦闘者タイプの道徳は疑いもなく、
直接的な現実の欠くべからざる問題にのみとり組まざるをえなかった。
そのため、しばしばこの愛するという本能の存在を、
正当にとり扱うことを閑却してきたのである。
近年、とみに生活にゆとりが生じてきている。
武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、
もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている。
広がった人生観、デモクラシーの成長、
他民族、他国民に対する知識の増大とともに、
孔子の仁の思想―あるいは仏教の慈悲の思想もこれに加えるべきか―は、
キリスト教の愛の観念へとつながっていくだろう。
人はもはや臣下以上のものとなり、市民という存在に成長した。
否、人は市民以上のもの、すなわち人間なのである。
現在、戦雲が日本の水平線上に垂れこめている。
だが平和の天使の翼がこれを吹き払ってくれることを信じよう。
世界の歴史は「優しき者は地を嗣がん」という預言を確信しうるものである。


「武士道」




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2008.08.26 悟りを求めて
仏教の重要なキーワードである「無我」や「空」は、
理屈や言葉だけの説明だけでは、どうしても腑に落ちません。

やはり、戒・定・慧の三学を修さないと、体得は出来ません。

この世の知識だけでは、どうしてもその本質を掴みきることは難しいのです。

何故なら、それらは霊的事象に属しているからです。

そして、「悟り」とも密接に繋がっています。

仏陀は、「この世での最高の幸福は悟りの喜びである。」と言われました。

仏陀が、法を説かれたのも、
「この幸福感を是非味わってごらんなさい。」という愛の思いからなのでした。

そして、今、仏陀は再誕し、
新たなる法が、現代の日本語で、誰にでも理解できるように説かれているのです。




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2008.08.26 生命の不思議
生命活動を、
物質に還元して説明する従来の生物学は、明らかに誤りであることが分かってきました。
当然、医学においても、人間を機械として扱うことへの反省が始まっているのです。

この点を、生物学者のルパート・シェルドレイク氏は巧みに説明しています。


体系だった生物学は、現在のところ、機械論的な生命観に支配されている。
それによれば、生きとし生けるものはすべからく複雑な機械なのであり、
原則的には、通常の物理や化学の用語で説明しつくせる、というのだ。
この理論は別段新しいわけではない。 
17世紀にはルネ・デカルトが、宇宙は一個の機械であり、
故に人間を含めその内部にあるものはすべて機械であるとする自然哲学を唱えている。
しかし、人間固有の意識である理性だけは例外で、本質的には霊的なものとされた。
それは脳の中にある小さな領域にあって、
機械である身体と作用し合っていると考えられたのだ。
これまでこの生命機械説は多くの点で実用的だった。
家畜農場、アグリビジネス、遺伝子工学、バイオテクノロジー、近代医学―、
こういったものすべてが、その実用的価値の証である。
そして、生物体の分子的基礎、遺伝物質であるDNAの本質、
神経系の化学/電気的性質、ホルモンの生理学的な役割、
といった生命の基本的な事柄について、実に多くのことを明らかにしてきた。
学問としての生物学も、17世紀以来、複雑なシステムは、
より単純かつ微小な部分をもとに説明すべきだとする、還元主義の立場を貫いてきた。
あらゆる生命現象を説明するときの基礎となるのは原子であると、
はじめから信じられてきたのである。
ところが、原子が場の内部で独自に振動するより小さい粒子から構成される、
複雑な活動体であることが了解されてからは、
一見確からしくみえた唯物科学の基礎はもろくも崩れてしまった。
科学哲学者、カール・ポッパーによれば、
「現代物理学によって唯物論はそれ自身の限界を越えてしまった」のである。
それでも、学問としての生物学には還元論者の精神が根強く残っていて、
生命現象を分子レベルヘ還元しようとする試みは今でももてはやされている。
還元主義のたすきは物理学者や化学者から生物学者へ渡されたのだ。
しかし、そもそもデカルトがはじめて提唱したときから、
生命機械説はずっと論議の的とされ、1920年代まで、
生気論という対立仮説によって反駁されてきたのである。
生物体を文字どおり生命や魂のないものとみる機械論に対し、
生気論とは、生物体は真に生きているのだ、とする考え方である。
生物体は無生物しか研究していない物理学者や化学者の知らない生命の原理によって、
命を吹き込まれているのだ、と生気論者たちは2世紀以上にわたって主張してきた。
それに対し、機械論者たちは生命因子や活力のようなものは存在しないと応酬してきた。
生命体が今は物理学や化学の言葉で説明しつくせないとしても、
近い将来にはすべて説明できるようになる、というのが彼らの信念なのであった。
未知の生命原理が存在していることを認めようとする生気論者が、
機械論の言葉では説明できない現象―人間の心霊現象や動物の超自然的な能カ―、
があることの可能性を否定しなかったのに対し、
機械論者たちは、当時の物理学や化学で説明できない現象は原則としてありえない、
とする立場をとってきた。


1920年代以来、生命機械論に代わるものとして発展してきたのは、
ホリスティックな自然哲学である。
この視点によれば、全体は部分を寄せ集めただけのものではない。
生物体だけでなく、分子、結晶、銀河といった非生物系にも、
その部分へ還元しえないホリスティックな性質がある、とされる。
自然は有機的な組織体であって、無機的な構造体ではない、というわけだ。
学問としての生物学が依然として3世紀以上も続いている、
古色蒼然としたパラダイムの影響下にあるのに対し、
他の科学分野は多くの点で機械論的な世界観から脱してしまった。
1960年代以降、宇宙全体は、大仕掛けの機械というよりは、その内部で、
新しい組織形成パターンを展開させつつ不断に成長を続ける生命体のようなもの、
とみなされている。自然は、古典物理学が教えるのと違って、
すでに決定されているものではなく、量子レベルの非決定論、非平衡の熱力学、
そしてカオスと複雑性の理論への探究からわかるように、
本来自発性をもったものだ、と認識されるようになったのである。
宇宙論の分野では、暗黒物質―その本体は不明だが、
宇宙に存在する物質の約90~99パーセントを構成していると考えられるもの―、
の発見を通して宇宙の無意識なるものが認知されている。
また、量子力学は非局所性、非分離性といった現象を含め、
自然界のもつ奇妙で逆説的な諸相を明らかにしてきたが、
それによれば、かつて大きな全体の部分であった種々のシステムは、
何キロメートル離れていても神秘的な結びつきを保ち続けるという。
一般に、生物学者は物理となると古くさい見識しかもっていない。
量子力学などの現代物理学についてはとんと無知なのだ。
彼らの多くが依然として生命現象をかつての物理学へ還元しようとしているのに対し、
当の物理学がそのはるか先へ跳んでしまったのは、皮肉というほかはない。


「世界を変える七つの実験」




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