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「21世紀は心の時代」と言われて久しいですが、
新しいパラダイムにおいては、科学と宗教は再び握手をしようとしています。

僅かであっても、科学の方から、神秘への歩み寄りがみられるのです。

医学者であるアンドリュー・ニューバーグ氏とユージン・ダギリ氏の共著では、
このように結論づけられています。




超越体験の神経学には、少なく見積もっても、
あらゆる宗教を融和に導く生物学的な枠組みを提供する力がある。
さらに、ヒトが合一状態を経験するときに、
実在する高次のリアリティーを垣間見ているのだとしたら、
宗教は、神経学的合一のみならず、より深遠な、
絶対的なリアリティーも反映していることになる。
神経学はまた、科学と宗教の両方が、同じ究極のリアリティーに向かう、
強力だが不完全な道にすぎないことを示して、両者の間の溝を埋めることもできる。
この溝を作ったのは、科学の時代の無数の偉大な発見だった。
最初の亀裂は、ガリレオ・ガリレイが、観測によって、
コペルニクスの大陽系の理論の正しさを立証したときに生じたと言ってよいだろう。
彼の発見は、「地球は、創造主たる神の愛ゆえに、宇宙の中心に配置された」という、
当時のカトリック教会の教義に真っ向から反していたのだ。
この発見に対する教会側の態度が、亀裂を広げた。
彼らがガリレイを異端審問にかけて自説を撤回させるという方法で、
この対立を解決しようとしたことで、科学的な人々の多くが、
「宗教は真実よりもドグマを重視する」という印象を持つようになってしまったのだ。
以後、数世紀の時が流れた。
科学と哲学は、従来は神の名のもとに納得するしかなかったような謎を、
次々と合理的な方法で説明してのけ、
神への信仰を持ち続けることを少しずつ困難にしていった。
そして、19世紀の中頃に誕生した二つの革命的な理論により、
神は、科学の時代とは相容れない存在になった。
一つは、チャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』の中で発表した、
「自然の風景の輪郭は、神の手ではなく地質学的な力によって刻まれたもので、
地球の年齢は聖書の記述よりはるかに古い」という理論だった。
もう一つは、その29年後に、
チャールズ・ダーウインが『種の起源』の中で発表した進化論で、
「生命は神によって一瞬にして創造されたのではなく、数百万年にわたる厳正な、
生物学的適応の過程を経て進化してきた」という彼の主張は、全世界に衝撃を与えた。
科学によるこうした暴露の真っ只中で、ニーチェは、「神は死んだ」と宣言した。
けれども、科学によって殺されたとニーチェが考えた神、
もはや合理的な思考とは相容れなくなってしまった神が、
聖書の中の創造主たる人格神に限定されていることは重要だ。
われわれはまだ、高次の神秘的なリアリティーの概念を否定する根拠を、
科学や理性の中に見出すには至っていないのだ。
とはいえ、主流派の科学が、
神秘的に発見されたリアリティーの可能性を受け入れたというわけでもない。
結局のところ、科学の権威は、
「物質的なリアリティーが最も高い形態のリアリティーである」という仮定、
言い換えれば、「宇宙の中で、物理的・物質的なものよりリアルなものなど何もない」、
という仮定に根ざしているからだ。
けれども、科学者の中にも、物質的なリアリティーの本質は、
常識が示唆するほど確かなものではないのかもしれないと考える人はいる。
アルバート・アインシュタインも、その一人だった。 
1938年に、彼は、科学による物理的世界の解釈は、合理的唯物論者が、
信じたがっているほど確かなものではないのかもしれないという考えを表明した。

スピリチュアルな超越体験が神経生物学的過程に起源を持っているのなら、
神秘家たちが経験する絶対的一者は、それなりに妥当性があり、
ひょっとすると、実在すらしているのかもしれない。
われわれの理論からは、数々の驚くべき帰結が導かれた。
すなわち、神話が、生物学的過程によって強制的に作られてくるということ。
儀式が、神秘的な合一状態に入るために直観的に考案された動作であるということ。
神秘家が、必ずしも狂気に陥っているわけではないということ。
すべての宗教が、
一つのスピリチュアルな木から突き出している枝であるということなどである。
われわれが最も興味深く感じたのは、
この究極の合一状態を合理的に支持できるという事実だった。
絶対的一者のリアルさは、より高次の神が存在することの、
決定的な証明になるわけではないが、人間の存在には、
単なる物質的な存在を超えた何かがあることを強く示唆している。
われわれの心は、すべての苦しみが消え、
すべての欲望から自由になれる深遠なリアリティー、
完全な一体感があるという直感に駆り立てられている。
ヒトの脳が今ある構造を持ち続け、心がこの深遠なリアリティーを探知し続けるかぎり、
スピリチュアルな体験はなくならず、神がわれわれの傍を離れることもないのである。

「脳はいかにして神を見るか」




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2008.09.26 地球神
現代の仏陀が、地球神の実在について明らかにされています。

未だかつてない貴重な情報であります。




(九次元霊の上位にある三体の意識体のうちの)大日意識というものがあって、
これは私が今までに説いた文献から見ると、
人格を持たない意識であるという説明になっていたはずであります。
しかし、ここでは、その次のことを記しておきたいと思います。
大日意識はもちろん地上で肉体を持ったことがありません。
そういう意味で通常の人間のような意識でないことは事実であります。
しかしながら、大日意識の一部分が人格化して現われてくることはありうるのです。
十次元の意識体の一部が人格化して現われてくるのです。
なぜ十次元意識が人格化して現われてくるかというと、
(十体の九次元霊のうちの、釈迦、イエス、孔子、エンリル、モーゼの)五人の、
上段階意識の意見の統一をするためなのです。
通常は出てきませんが、必要なときに出てきて人格化した形でこの統制をつけるのです。
この大日意識の中で人格化する部分を何というかというと、
この名前はいままでだれにも知られていない名前でありますが、
聖アントニウスといいます。
そのように、九次元霊は呼んでいるのです。
この聖アントニウスという名は、地上ではいまだかつて知られたことがありません。
これが、いわゆる地球神なのです。
地球神というのは、私たちが聖アントニウスと呼んでいる、この方のことをいうのです。
私たちが父とも神とも呼んでいた部分はここなのです。
大日意識という、この地球系霊団全体へ霊光線を発している大きな光です。
これももちろん神といえば神ですが、私たちが従来、神として認識していたのは、
ある程度人格的な姿があった方であるわけです。
そして、それがある意味で大日信仰といわれたりしていたわけですが、それらは、
何らかの人間的意識を持っている部分を指していたことが多かったと考えられます。
それが、実はこの聖アントニウスと呼ばれる方なのです。
これまで明確には説かれてはいませんでしたが、この方が実在するのです。
このことがこれまで明らかにされることがなかったのは、
この方は九次元の上段階霊の五人以外に絶対に会わないからです。
これ以外と意思を交換することは絶対にありません。
もっとはっきり言うならば、この聖アントニウス意識と対話ができるのは、
この五人の上段階霊の本体だけであって、これ以外では話はできないのです。
このようなしくみになっているのです。したがって、わからないのです。
ただ、そうした存在があるということは、いろいろな形で過去推定はされておりました。




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2008.09.25 魂の親
地球人類は、
4億年の歴史において、地球で創造された人々、
他惑星から移住してきた人々が混在していて、
それぞれ起源を異にするというのが真相です。

しかし、次第に地球人類としての統一性が確立されていきました。

霊界においても、同じです。

現在では、今までベールにつつまれていた、
神々の世界、最高神霊の世界である9次元宇宙界の情報が開示されています。

そのほとんどは他惑星から、地球に招聘されてきた霊人です。

アモール(イエス)は射手座、
モーリヤ(モーゼ)は蟹座、
セラビム(孔子)は白鳥座、
エンリル(サナト・クマーラ)はマゼラン星雲、
カイトロン(ニュートン)、オルゴン(マイトレーヤ)、アケメーネ(マヌ)はオリオン座、
セオリヤ(ゼウス)、サマトリヤ(ゾロアスター)はペガサス座、

とそれぞれです。

地球人類の造物主であり最高指導霊は、
遥かなる昔から、金星、地球と見守ってきた、
釈迦の生命体の中核的存在である、エル・カンターレです。

もちろん、根本仏、究極の神である高次元存在は別に存在します。

しかし、地球霊団の人霊としては頂点に君臨する存在です。

現在、1億5千年ぶりに、
地上に降臨し、地上と霊界の意思統一を図るべく、
エル・カンターレ文明の建設を使命とされているのです。

信じがたい事実でありますが、信じられる方は幸いです。

本当の魂の親を知るということは、何にも勝る喜びです。




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わたしたちの本質は、霊としての存在です。

そして、肉体の死をもって人生が終わるわけでは無いのはもちろん、
人生修行の為、何度も地上(他惑星も)に生まれては、「神仏」へと近づいているのです。

輪廻転生は、人類に希望を与える最も大切な思想です。

個性は、自らの課題でもあって、
今を如何に生きるか、ということが来世をも決定することになるのです。

まさに、自己責任の原則が厳密に適用されています。

どんな境涯でも学びの場だし、
なにより自分自身で選んで生まれてきているのですから。

人にはそれぞれ、魂の歩んできた道のりがあります。

それは、正当に評価されねばなりません。

神の仕組みは、どこまでも公平です。

失敗しても、何度でもやり直しが出来る。

永遠のいのちが与えられている、ということがどれほどの奇跡でしょうか?

神仏は、悪も失敗も退歩も許容し、
限りない慈愛でもって、一人ひとりに機会を与えておられるのです。


ゲーテ
人の魂は水に例えることができる。それは天から降り、天に戻って行く。
そしてまた地上に戻る。こうして永遠に行き来しているのである。

カール・ユング
人生は時に始まりも終わりもない一つの物語のように思えることがある。
自分が歴史の一部分で、前後のテキストを失った抜粋のような気がするときもある。
私は確かに前世紀にも生きていて、
その時出会った問題に答えを出すことができなかったような気がする。
つまり、その時に与えられた任務を十分に果たさなかったために、
もう一度生まれてこなくてはならなかったように思えるのである。

トルストイ
前世で自殺した男の今生での体験の物語を書いたとしたら、さぞかしおもしろかろう。
前世では直面した様々な問題に、彼は今生でも再び遭遇する。
そして、それらを解決しない限り、
そこから先へは進めないことに気づくまでの物語になろう。
過去の人生で行ったことが、現在の人生に方向性を与えているのだ。

アルバート・シュバイツアー
輪廻転生の考え方は現実をとてもうまく説明してくれる。
そのために、インドの思想は、ヨーロッパの思想家をなやましている困難な問題を、
楽々と乗り越えているのだ。

ウォルト・ホイットマン
さあ、と私の「魂」が言った。私の「肉体」のために歌を書こう。
わたしたちはひとつのものだ。
もしわたしが死んでから目には見えぬ姿で地上にもどり、
あるいは、遠く遙かなのちの世に、別の天体の住人となって、
大地の土壌、樹木、風、激浪のしらべに合わせつつ、
どこかの仲間たちの群れを相手に、
ふたたび歌い始める折でもあれば、
いつも嬉しげに微笑を湛えて歌い続け、
いつもなお永遠にその歌をわがものとしておけるよう。
―さらばまず、ことのはじめに、「魂」と「肉体」のために歌いつつ、
その歌にわたしはわが名をしるす。

ウィリアム・ワーズワース
この世に生まれてくることは、眠りと忘却に過ぎない。
肉体の中に宿り、我々の星である魂は、
はるかかなたから来て、
あらゆる場所にあらゆる姿で生まれる。
しかし、生まれる前のことを、完全に忘れているわけではない。
肉体の衣のうしろに、栄光の雲をたなびかせて、
我々は神のみもとの故郷より、やって来るのだ。
幼年期には天は我々のまわりにあるのだ。   

ラルフ・ワルド・エマーソン
この世の秘密とは、すべてのものは死なないということだ。
しばらくの間、視界から消え失せても、あとで再び戻ってくる。
何ものも死なない。
人間は死ぬふりをするだけだ。
見せかけの葬儀、悲しげなとむらいに退屈して死者は別の姿をして、
元気はつらつ窓から外を覗いている。




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2008.09.25 縁起の法則
誤解されている「縁起の法則」でありますが、
これは、自然法則(物質)レベルの相互因果関係のみに適用されるものではありません。

現代科学で言うところの、
素粒子の結びつきによって事象を説明するものではないということです。

仏教は当然宗教なのですから、形而上的領域も含まれています。

お釈迦さまは、こう説かれています。


「アーナンダよ、『識(vinnana)という縁から名色(物質)がある』、
とこのように言いましたが、
それはつぎの理由によって、識という縁から名色があるというように、知られるべきです。
アーナンダよ、識(魂)が母胎に入らなかったとするならば、
はたして名色(肉身)は、母胎の中で育つでしょうか?」

「そのようなことはありません、尊師よ。」

「ではまたアーナンダよ、識(魂)が母胎に入ったあと、外れたとするならば、
はたして名色(肉身)は、五蘊の備わった状態に生まれることになるでしょうか?」

「そのようなことはありません、尊師よ。」

「アーナンダよ、識(魂)が、まだ若い少年、あるいは少女のうちに断たれたとするならば、
はたして名色(肉身)は、成長し、成熟し、老大となるでしょうか?」

「そのようなことはありません、尊師よ。」

「アーナンダよ、それゆえに、この識こそが名色の因であり、
これが因縁であり、これが生起であり、これが縁なのです。
アーナンダよ、『名色という縁から識がある』とこのように言いましたが、
それはつぎの理由によって、名色という縁から識があるというように、知られるべきです。
アーナンダよ、識(魂)が名色(肉身)において根拠を得ることがなかったとするならば、
はたして未来に生・老・死という苦の集まりの発生は知られるのでしょうか?」

「そのようなことはありません、尊師よ。」

「アーナンダよ、それゆえに、この名色こそが識の因であり、
これが因縁であり、これが生起であり、これが縁なのです。
アーナンダよ、実にこの名色(肉身)が識(魂)とともに互いに縁起する限り、
その限りにおいて生まれたり、老いたり、死んだり、没したり、再生したりし、
その限りにおいて名称の路があり、その限りにおいて語源の路があり、
その限りにおいて説明の路があり、その限りにおいて慧の領域があり、
その限りにおいてこの状態を説明するために輪廻が起こるのです。」


パーリ原始仏典長部第15経「大因縁経」




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異例の総理による新閣僚名簿発表の模様です。
保守革命なるか?マスコミとの戦いの始まりです。(偏向ぎみ)







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2008.09.24 新たなる神話
21世紀に入って、
人類は大きな転換期に直面しています。

還元主義批判、全体性、統一性、創発などがキーワードです。

所詮、ものの見方や常識も時代の制約を受けています。

古い価値観は、いずれそれを包括する新しいものに取り替えられていきます。

科学も思想哲学も宗教もこの変化から逃れることは出来ません。

ニューエイジの新たなる神話が生まれようとしているのです。


詩が直接的な象徴として身近だった時代、
誕生と死が周期的に脈打つような世界は、すでに遠い過去のものとなってしまった。
そのような時代には、霊や神秘的エネルギーが、
われわれの内部にはもちろん、環境のなかにも浸透していた。
また、神について語ることで、神と自分たちの間にクッションをおくことなく、
意識的に真に「偉大なるもの」に触れることができた。
現代は超自然的なものから離別した時代といえる。
天使たちは単なる風聞にすぎなくなり、奇蹟はほとんどすたれてしまった。
人間は短い一生を「霊的なるもの」(光輝く永遠を指す賢人の言葉)のまぎわで、
暮らすという事実に、われわれは目をつぶっている。
現代人が住むこの窓のない部屋は、
敬度なるものや人間を超越する奇怪なるものを締めだしてしまう。

存在の輝きに対して鈍感になったわれわれは、
自分たちを包む波動スペクトルのほんの一部にしか気づいていない。
ところが、潮の干満、植物の幹や茎を上下する樹液、
天文学者によって観測される宇宙からの正体不明の電波など、
人間をとりまく自然はすべて一定のリズムに従って呼吸している。
人間の身体、目、声でさえそれらのリズムを反映しているし、
手首に触れてみるなら、血液の流れに宇宙の脈動を実感することができる。
われわれの身体に残っている健康と美でさえ、
原始時代の力と太陽の光の名残りとみなせないこともない。
都会の通りにひしめく群衆のなかには、
本人も気づかぬままに苦痛や近視に悩まされる多くの顔がある。
古代から遠ざかれば遠ざかるほど人間の身体は衰えていく。
背中は曲がり、目の輝きが消え、愛は生殖器の収縮にすぎない性欲になってしまう。
文明化した現代人を野生の生物、
たとえば曲がりくねって伸びる蔦やクーガの美しさと比べてみたまえ。
いったいいかなる瀆神の儀式ゆえに、われわれは自分自身をゆがめ、
不恰好に太らせ、自らの生命の火を消そうとしているのだろうか! 
われわれはいま、自分たちが栄光から失墜し、
霊妙なる世界の豊かさを知る内なる自己という、
「エデンの園」から追放された日陰者であり、
外部の荒野に追いやられてしまったことに気づいている。
しかし、この世界が混沌と恐怖に満ちているように見えるのは、
ただ単に、われわれの遠近法、
すわち「物を見る角度」が誤って調整されていたからにすぎない。
「見方」を変え、いままで無限に分裂し、
関連性を欠いた事実からなる外の世界に合わせていた照準をずらしてみるだけで、
見かけの混乱の底に横たわる驚くべき秩序が見えてくる。
この秩序はエネルギーの運動のなかにある。
エネルギーについてはっきりしているのは、
それ以外存在するものが何もないということである。
エネルギーのリズムは、われわれの内や外に存在するばかりか、
骨やまゆ毛を構成する原子の振動から、気分の浮き沈みに至るまで、
われわれそのものでもある。
エネルギーは周期的に、あるいは波形をなして動く。
それは決して一箇所に留ることはなく、常にあらゆるところに遍在し、
無限の階層的様式をとって現われる。
思考の過程、神話、象徴などは、まさにエネルギーのさまざまな様式であり、
自然界の結晶体に対応するパターンを示す。
したがって、日常的思考がもたらす混沌を離れて、
神話と現実の双方の世界を構成するエネルギー・パターンを、
再結合を通して意識することが、新しい宗教を発見するうえでの第一歩となる。
われわれは「感情」と「理性」をともにもつ二元的な生きものだが、
宇宙のリズムとの再結合は、
情緒と知性の対立する諸機能を結びつけてくれるだけでなく、
個々の生命をあらゆる存在に通底する全体的な意味の調和に結びつけてくれる。

エネルギーは、振り子のように極限から極限へと移動し、
固有の振動数をもって上下している。
生長とは、単にエネルギーがさまざまな様式を通して上昇することにほかならず、
作用と反作用を永遠にくり返しながら進展する。
まず最初に、「生命力」のほとばしりがあり、その周囲にさまざまな形が形成される。
すると、それに対して「反作用」が起こり、
さらに高度で複雑な結晶体が物質のなかに生みだされる。
満月の夜ごとに節目をつくりながら生長する竹を思い浮かべてもらいたい。
交互にくり返されるこのような重力と無重力、エントロピーと活力、
呼気と吸気の間の脈搏は、銀河の世界と同様、
人間に関しても、容易に見出すことができる。
なぜなら、われわれの神話や「物の見方」も、時間という岸辺に、
周期的なリズムで打ち寄せるからである。
ロマン主義は理性を打ち破るが、時がたつにつれ単なる空想的な迷信となり、
ふたたび事実を重視する風潮により現実に引き戻される。
文化的な変革期にあるいまこそ、人間の「感情的側面」と「理性的側面」を統一する、
新しい神話の織物を発見するときなのである。
中世においては、「感情」すなわち内的体験に文化的焦点があてられていたので、
天使や悪魔も人間と同じくらい現実的であった。
しかし、この傾向が頂点に達し、
日常的事実からなる経験的世界があまりにも無視されたため、その反動が起こった。
やがて、啓蒙主義運動の勃興とともに、
合理主義的な現実解釈が「感情」神話にとってかわった。
それまで中世の神話を支えていた教会の権威が、
テクノロジーの進歩をかかげる神話、すなわち、外的な手段により、
内的苦悩をやわらげるという神話を支持する科学の権威に、その座を譲ることになった。
こうして、客観的事実からなる世界が人間より現実的になった。
だが、いまふたたび、新たな神話による揺り戻しが起こっている。
というのは、新しく噴出しはじめたエネルギーが、科学的啓蒙主義の誕生以来、
あれほど独占的な力を獲得してきた堅牢な思考形態を融かしはじめているからである。
われわれのひとりひとりがその一端を担っている、この新しい神話の織物こそ、
理性と感情という相対立する世界を統合する方法を示すものなのである。


ローレンス・ブレア「超自然学」




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2008.09.23 三大誤導思想
人類が迷妄、無明から目覚めるためには、
過てる思想、常識を捨て、白紙の状態にしてから、
真理の光に照らして世界を見ていかなければなりません。

そろそろ、20世紀の退廃的な思想から脱却するべき時に来ています。


マルクスやエンゲルスがダーウィンを救世主のごとく大歓迎したのはよく知られている。
ダーウィン自身は、その書いたものを読んでみればわかる通り、
絶対の自信があるわけではなく、自説の難点をよく承知していて、
むしろ蛮勇をふるってものを言っているようなところがある。
これを絶対の「科学」として祭り上げたのは、
利用価値をそこに見出だした追随者たちである。
たとえばエンゲルスは次のように書く。

自然は弁証法の検証である、そして近代の自然科学のためにいうならば、
自然科学は極めて豊富にして日々目撃する材料を提供して次のことを検証している。
すなわち、自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、
それは不断の循環運動をいつも同じように繰り返さない一つの現実の歴史なのである。
この点で誰よりも先にあげられるべき名はダーウィンである。
彼は、今日の一切の有機的自然、すなわち植物も動物も、したがってまた人間も、
幾百万年にわたるたえまない進化の過程の産物であることを証明し、
それによって自然についての形而上学的見方に強烈な打撃を与えた。

同様に、フロイトもダーウィンを大歓迎した。
ダーウィニズム、マルクシズム、フロイディズム、この三者が類縁者、というより、
むしろ兄弟であることは、今ようやく目覚めつつあるわれわれからみれば明らかである。
闘争、反抗、排除、自己主張、
そういったものがこの三つの思想に共通するキーワードである。
そういった性質はすべて物質、あるいはせいぜい下等動物の属性であり、
これは世界を物質あるいは機械として捉える世界観からしか出てこないものである。
人間に対する侮辱ではないか、という非難に対しては、
どんなにつらかろうとこれがこの世の法則なのだから仕方なかろう、
と答える点でも三者は同じである。
自己中心的に(すなわち「煩悩」を中心として)世界を見る者には、
世界は見る人間に合わせた小さな姿をしか現さない。
この世の実相は結局、色と欲と喧嘩なのだと思い込んだ人間は、
世界のすべての事象を、色と欲と喧嘩として実証する、
非の打ちどころのない大論文をいくらでも書くことができよう。
私はこの三つの思想を現代の三大誤導思想であったと言ってよいと思う。
仮にもっぱらこの三つの思想によって子供を教育することを考えてみよう。
この子が不良にならなければ奇蹟である。
その子にはこう教える、―人間は何ら自らの根拠というものをもたぬ存在で、
「原始スープ」ないし下等動物から(ちょうど泥沼からメタンガスが発生するように)、
発生してきたにすぎず、歴史はもっぱら生存闘争と階級闘争によってつくられるもので、
暴力革命によらなければ前進も改善もできないのであり、
宗教は幻想、芸術は性欲の変形、
良心は「超自我」という黙契による社会の自動安全装置にすぎない・・・。

渡辺久義「意識の再編」




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2008.09.23 不合理な哲学
あまりにも当たり前で、
自明であると思っていることなので、夢にも、それが間違っていることに気づかない。

その思想的態度こそ、
最も知性的、科学的で揺るぎのない事実であると思っている。

このような状態に集団で陥っているのが現代の特徴です。

まるで、重苦しい空気のようなものに支配されているかのようです。

この態度に異をとなえると、
憎悪、侮蔑の対象と成り、即刻、非科学的というレッテルを貼られてしまう。

多くの人々が、無自覚に唯物論的世界観を受け入れています。

一刻も早く、宇宙から意思・意味・目的、すなわち神を取り戻す必要があります。

京都大学名誉教授の渡辺久義氏は、このような風潮を痛烈に批判しています。




もし、われわれが共産圏の失敗を嗤うとすれば、
それは目クソ鼻クソをわらうというものである。
共産圏では唯物論・無神論は上から押しつけられたものである。
押しつけられれば反発するだろう。
心の中でそんなものを信じない多数のものたちは、かえって逆の信念を固めるだろう。
けれども自由主義世界の唯物論者・無神論者は、自分でこれを選び取ったのであり、
それが自由の証だと思っている。
それは自らを自由と思っている暴君が、
実は恐怖と猜疑のなかに拘束されて生きているのに似ている。
そのことが明瞭に意識されてはいなくとも、
ともかくも自覚を持った唯物論者・無神論者は救いようがある。
ドストエフスキーの小説にでてくる無神論者たちは、すべて自覚を持った、
自分の選び取ったものが何であるかを知っている人々である。
われわれの周囲にそのような唯物論者を見つけることはまずあるまい。
われわれの時代、われわれの世界の悲劇は、
考えることをやめた無自覚の唯物論者というものが大量に生み出されたことである。
生まれ落ちるとともに最初から「科学」の思考枠を、すなわち唯物論的世界観を、
唯一の住みかとして、これを空気のように呼吸して生きるということ、
このことはわれわれにとって、どれほどの不幸であることか。
われわれのこのような状況が出来するにいたった経緯を見極めるためには、
実は、長大な歴史的パースペクティヴを必要とする。
(「科学」のパラダイムは世界共通であるから、歴史は一つしかなく、
わが国の特殊相といったものはとりあえず捨象してよいだろう。)
自然界を、生物も無生物も人間をも含めて、機械仕掛けとしてみるということ、
これが多少の修正や留保はあるにせよ、デカルト=ニュートンに始まり、
われわれの時代に至る「科学主義」の基本をなす考え方である。
これはもともと機械の側面を持つということであった。
これが時代を経るにつれて機械であるということになってしまった。
このとき神は放逐される。
ところで人類の文明史上、そういう考え方はきわめて特殊なものである。
この間の事情を把握するためには、ホワイトヘッドが言ったように、近代科学の始まりを、
かえって不合理の時代の始まりと捉える観点がなければならない。
こんな「不合理」な哲学を持った文明は、人類史上おそらく他に例がないであろう。
周知のように、中世までの西欧を支配した自然学は、
アリストテレスを基調とするものであった。
アリストテレスは原因というものが四種類あると考えた。
形相因、質料因、作用因、目的因、この四原因は自然物にも人工物にも適用される。
そのこと自体、近代人から失われた洞察というべきである。
チューリップの球根がチューリップに変化するという場合、
形相因は球根が自らのなかに持っている完成したチューリップのイメージであり、
質料因は水や養分や日光であり、
作用因は人が球根を植え水をやり世話をすることであり、
目的因は人の目を楽しませ心を和ませ自然に美を添えることである。
(花はすべて人が愛することができるように設計されているではないか。
人の目から見えぬ位置に好んで咲く花はない。)
このような原因の考え方が中世まで主流を占めたのであった。
何という健全で豊かな考え方であろう。これが近代科学ではどうなったか。
原因といえばもっぱら作用因と質料因だけを指すことになった。
花が咲いたり卵から鳥が現れたりするのは、
物理化学的な機械的な作用によってである。
アリストテレスの自然観は目的論的パラダイムと呼ばれ、
近代科学のそれは機械論的パラダイムと呼ばれる。
C・U・M・スミスという人によれば、これは「パラダイムの突然変異」である。
近代科学が自然界から切り落とした目的という概念の何と大きいことであろうか。
われわれの不幸が始まったのは実はこのときである。
この世の中のすべては機械的因果関係だけで動いているのであり、
目的などなく、また目的をそこへ読み込むのも間違いである、という考え方によって、
われわれは徐々に、しかし否応なく「洗脳」されてしまったのである。 
一切のものに目的の欠落した世界観―これは考えてみれば、
ずいぶん気持ちの悪い世界観のはずである。
ところがわれわれは、ちょうどお尻の濡れたままほっておかれたために、
何とも思わなくなった子供のように、その状態に慣らされてしまったのである。
実は、このパラダイム・シフトの代表者として名を借りているデカルトとニュートンは、
決してわれわれのように、宇宙から目的も意志も意味も切り落として、
ケロリとしていたわけでなく、かなり「気持ちの悪い」思いがしていたのだということは、
少し調べればわかる。彼らは悩む人たちであった。
彼らはアリストテレスと同様に、宇宙はその全体性において摑まえられるべきだ、
と考えたのであり(ニュートンは神秘思想家であった)、ただ科学には、
数理的明証性が要求されるということ、数理的明証性だけで、
世界を記述する学問があってもよいではないか、ということを言っただけである。
彼らは宇宙の一つの側面のことを言っていたのである。
有名なニュートンの「私は仮説を作らない」という言葉は、
神の意志や目的は私の関知するところではない、
私はただ宇宙の運動についての事実をそのまま述べているだけだ、という意味であろう。
彼は万有引力の「なに」であるか「なぜ」であるかを問わず、
「いかに」それがあるかということに、おのれを限定したのである。
パスカルから見れば、デカルトは神を始動力に使っただけであるがゆえに、
「許すことができない」存在であった。
けれどもデカルトの書いたものを読んでみれば、
彼の頭のなかには常に神があることがわかる。
彼は神の存在と偉大さを片時も疑ったことはなかった。
ところが歴史上よく起こる出来事がここでも起こった。
ある画期的な考え方が現れると、
その中の新しい要素だけが誇張されて暴走するのである。
デカルトの示唆からド・ラ・メトリの人間機械論のような、
極端なものを引き出すのに、人々はそう悩まなかった。
そこにはニーチェのいう不特定多数の人間の「底意」のようなものが働いていた、
と見るべきであろう。こうして西欧人は、ニーチェの言ったように「神を殺した」。
神を殺すのに刃物はいらなかった。
ただ、方法としての科学を実体のように思わせること、
科学の誇大宣伝と自然征服、それに人間の驕慢、この三つ四つがあればよかった。
われわれの時代、われわれの周囲に満ちあふれる、
もっとも始末の悪い存在である無自覚の唯物論者、
「洗脳」と自堕落の相乗効果から生まれた無宗教者というものが、こうして出現した。
それは社会の一人ひとりは少しも罪の意識を持つことのない体制的神殺し、
一人ひとりは傲慢でないどころか謙虚でさえあるかも知れぬ構造的傲慢である。
神の敵というものがいるならば、ほくそ笑むに違いない風景なのである。


「意識の再編」




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2008.09.22 ヲタの逆襲
日本始まった(大化の改新)、と後にいわれる麻生祭りの模様です。(偏向ぎみ)








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