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2008.09.30 三方よし
近江商人の「三方よし」の精神は、
売り手よし、買い手よし、世間よしのWin-Winの関係が、
ビジネスの秘訣だと教えてくれています。

結局のところ、神仏の御心にかなったものが繁栄するのです。


たとえ他国へ行商に出かけた時でも、
自分の商品を、その国のすべての顧客が、
気持ちよく使用できる様にこころがけ、
自分のことよりも先ず、お客さまのためを思って計らい、
一挙に高利を望まず、何事も天の恵み次第であると心得て、謙虚に身を処し、
ひたすら行商先の地方の人々のことを愛して、商売をするべきです。
そうすれば、天の道にかない、身心とも健康で豊かに暮らすことが出来るのです。
自分のこころに悪心が生じないように、神仏への信仰をつねに忘れないことです。
行商に出かけるときは、以上のような心がけが一番大事なことなのです。


中村治兵衛宗岸宗次郎幼主書置




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2008.09.29 日本始まる
テンションがあがってしまいます。
ついに始まりました。(偏向気味)







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2008.09.29 天の掟
「人間は、蒔いたものを刈り取る。
未来は現在の行動によって決定される。
現在は、良かれ悪しかれ、過去の結果だ。
現在の瞬間ごとに未来に向けて準備し、
誤ってなされたことを正すことは、人間の義務だ。
これは天の掟だ。あらゆる掟の根源だ!」

これは、神秘家グルジェフ氏の言葉です。

このようなカルマの教えは、
仏教の専売ではなく、秘教文献や聖書にも説かれています。

幸福への鍵は、ここに見出されるでしょう。


悪いカルマ(応報)の影響を緩和させるためのあなたの努力は、
それら悪いカルマのいずれかを現在の生活の中で動き出している原因に、
ほぼ帰することができる場合は、あなたが他人にした悪事ならびに、
あなた自身に加えた危害に対する自責を含む。
もし初めのうちは自責の念が自然に起こらなければ、
あなたがした悪事を私情にとらわれない観点から再考する努力を、
何度かしてみれば、その後に起こるかもしれない。
あなたが過去に犯した大きな罪と過ちに、じっと思いを凝らし、
あなたがどうふるまうべきであったかについて思い描いて、
あなたの実際の行動をそれに対比させてみれば、
やがて深い悲しみと後悔の念が生じ、その念の強さがあなたの性格を浄化し、
あなたの行動の仕方を改善するのを助けるであろう。
もし、そのような頻繁なかつ偏らない内省によって、
あなたが過去の不品行の教訓を完全に学び取れば、超自己の恩籠が、
あなたに報いを受けさせるべく待ち受けている悪いカルマの記録を帳消しにするか、
または少なくともそれを緩和する見込みがさらに大きくなる。

起こったことは起こったことであって、われわれがそれについてできることは何もない。
われわれは過去を書き直し、自分がおかしてしまった過ちを正し、
してしまった悪行―他人に与えてしまった傷、こうむらせてしまった不幸―、
をもとどおりにすることはできない。
が、たとえ過去の記録を変えることはできなくても、
それらに対するわれわれの現在の態度を変えることはできる。
われわれは過去から教訓を学び、知恵をそれに注ぎ、
自分自身および自分の行為を改善すべく心がけ、
そして新しい、より良いカルマを創り出すことができるのである。
最善のことは、これらすべてをなし終わってから、過去をそっくり手放し、
真の存在―「私はあった」ではなく「私はある」という意識―の中に入ることによって、
「永遠の今」に生きることを覚えることができるようになることである。

恩寵によって過去の過ちが水に流され、
現在の癒しが受け入れられるかもしれない。
この恩寵の歓喜の中で、昔犯した過ちによる不幸が永久に一掃されるかもしれない。
過去に戻ってはならない。
ひたすら永遠の「今」の中で―その平和、知恵、および力の中で―生きよ。


ポ-ル・ブラントン「新カルマ論」




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2008.09.29 信者倍増計画
いきなり苦境に立たされている麻生総理。

著書「自由と繁栄の弧」にある、この祈りの言葉を捧げます。


神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。



ついでに、総理の達筆度を見てください。


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2008.09.28 新聞屋精神
マスコミの迷走具合がにがにがしいこのごろです。

諸悪の根源は、唯物論だと思うのです。

本当は、人種や能力や性や宗教の差異など関係ありません。

しかし、彼ら唯物論者の帰結するところは、

神(真・善・美)の否定、

DNA(優生学)の偏重、

闘争本能(ダーウィニズム)の強調、

自我(エゴ)の増長、

にあるからです。

マスコミは被害者意識を止め、人類愛や普遍的な価値基準をもつべきです。




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2008.09.28
悪魔は世界中の宗教のなかで生きています。

実際に悪魔は存在します。

憑依現象、悪魔崇拝、マッドサイエンス、呪術、黒魔術、など事実は小説より奇なりです。

悪なんて無いのだよ、としたり顔でいう異星人チャネリング系は間違いです。

悪魔の存在を否定するスピリチュアル系は間違いです。

イエス様(愛の神・ホワイト霊団)を貶めるニューエイジ系は間違いです。

現代悪魔の得意技、「価値相対主義」、「ポストモダン」に騙されてはいけません。

神の眼からすれば、善と悪は100%、はっきりしているのです。




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2008.09.28 悪しき見解
仏教では、
あの世や霊的世界は無いとする見解は、邪見とされ、しりぞけられます。

あの世がなければ、死ねば終りということになり、
そんな宗教が成り立つはずもありません。

何故か現代では仏教の専門家ほどこの邪見を好むようです。




「カッサパ尊者よ、私はつぎのような説、つぎのような見解をもっています。
『このことによっても、あの世の世界はない。化生の生けるものはいない。
善行・悪行の業の果報はない。』と。」

「しかし、王族よ、あなたが、そのように考える根拠はあるのですか?」

「カッサパ尊者よ、私がそう考える根拠はあります。」

「どのようにですか、王族よ。」

「カッサパ尊者よ、ここで、人々が盗賊犯罪者を捕らえ、
『主よ、この男はあなたの盗賊犯罪者です。
望むがままに、この者を罰してください。』と、
私に示すとします。私はかれらに、こう言います。
『それでは、友らよ、この者を生きているままで釜に投げ込み、蓋を閉じ、
濡れた毛皮で覆い、濡れた泥で厚く塗り、竈に載せ、火を付けなさい。』と。
かれらは私に『わかりました。』と答え、その男を生きているままで釜に投げ込み、
蓋を閉じ、濡れた毛皮で覆い、濡れた泥で厚く塗り、竈に載せ、火を付けます。
『その男が死んでいる。』と知ると、われわれは、そこでその釜を下ろし、
解体し、蓋を開け、『かれの霊魂(jiva)が出て行くのを見よう。』と、ゆっくり観察します。
しかし、われわれは、かれの霊魂が出て行くのを見ません。
カッサパ尊者よ、これが、私が『このことによっても、あの世の世界はない。
化生の生けるものはいない。善行・悪行の業の果報はない。』と考える根拠です。」

「それでは、王族よ、ここであなたに質問をしましょう。
あなたは随意にそれに答えることができます。
王族よ、あなたは昼寝に入り、園で楽しむ、林で楽しむ、野で楽しむ、
蓮池で楽しむ夢を見たことを覚えていませんか?」

「カッサパ尊者よ、私はそのような夢を見たことを覚えています。」

「そのとき、年老いた女性も幼い女性も乙女も少女もあなたの世話をしていますか?」

「そのとおりです、カッサパ尊者よ。」

「それでは、彼女たちはあなたの霊魂が入ったり出たりするのを見ていますか?」

「いいえ、カッサパ尊者よ。」

「王族よ、実に彼女たちは、生きていながら、
生きているあなたの霊魂が入ったり出たりするのを見ていないのです。
それをどうして、あなたが、死んでいる者の霊魂が入ったり出たりするのを見ましょうか。
王族よ、この根拠によっても、あなたはつぎのように考えるべきです。
『このことによっても、あの世の世界はある。化生の生けるものはいる。
善行・悪行の業の報いはある』と。」


パーリ原始仏典長部第23経「パーヤーシ経」




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瞑想の意義は、高次なる世界との交流にあります。

高次なる世界と交流するためには、反省によって心の曇りを取り去る必要があります。

瞑想の習慣のない僧侶は、祈りをしないクリスチャンのようなものです。

漢文の経典を唯物論的に解釈してみても、何にもなりません。

仏法は、探求してみて、知って、実践してはじめて腑に落ちるものです。

仏法は自他の幸福のために説かれました。

どうすれば、幸福になれるのでしょうか?

反省瞑想によって自我の執着を捨て去り、
与える愛に生きることで、神仏の加護を得ることが出来るのです。

昔から、
もろもろの悪をなすこと無く、もろもろの善行愛行をなし、
自らのこころを浄くせよ、これがもろもろの仏の教えである、と言われてきました。

現代仏教は最も大切なものを失ってしまいました。

仏教の失われた叡智を再認識するべく、このブログを続けてまいります。

ここを見てくださる皆様に、より一層の幸福がありますように。

日々、精進します。




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信仰を持てるものには、絶望はありません。

つねに魂の最深部に明かりが灯っているからです。

信仰とは、永遠のいのちを掴み取ることです。

われわれは、選択を迫られています。

希望や向上の道か、絶望や虚無の道かを。

真実は、神やあの世が、実在するかしないかのどちらかしかありえません。

どちらを選ぶ方が、幸福になることができるでしょうか?


ヒューマニズムは私の見るところ、
「ヒューマン」という言葉の詐術にきわめて大きく依存している。
そしておおむね、ありもしない明確な哲学的概念が、
そこに含まれているようにみせることに依存している。
私が反対するのは、ヒューマニストが「人間」を「自然」から区別するときに、
彼が否定するあの「超自然」を利用することである。
というのは、もしこの「超自然」が抑圧されるならば、
たちどころに人間と自然の二元性は崩れてしまう、というのが私の確信だからである。
人間が人間であるのは、彼が超自然的現実を認識することができるからであって、
それを作り出すことができるからではない。
人間の中のすべてが、下から発達してきたものとして跡付けられるか、
あるいは、何ものかが上から来なければならないか、のいずれかなのである。
そのジレンマを避けることはできない。
人は自然主義者か超自然主義者かのどちらかを選ばなければならない。
もし「人間」という言葉から、超自然的なものに対する信仰が人間に与えたものの、
すべてを取り去ってしまうならば、結局は人間を、きわめて賢い、
適応力を持つ、かつ狡い小さな動物と見做すほかはなくなる。

T・S・エリオット「ヒューマニズム再考」




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2008.09.27 早くも大仕事
やはり乱世には人物が現れるようです。
胸が熱くなる演説です。







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