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2008.09.01
パール判事の魂の再軍備論
最近また、
右左両陣営から注目されているパール判事ですが、
戦後間もない来日時の講演でこんなことを言っています。
少なくとも、彼は偽善的な平和主義者ではありませんでした。
私は日本のみなさん、ことに日本の青年諸君に、
非暴力の思想を充分深く研究してくださらんことをお願いする。
しかし、非暴力ということは、断じて怯懦ということではない。
「暴力と怯懦といずれを選ぶかと問われるなら、私は躊躇なく暴力を選ぶであろう」、
とマハトマ・ガンジーも喝破している。
非暴力ということは暴力以上の勇気を必要とする。
すなわち暴力を押しのけるだけの、
暴力者をしてついに暴力を放棄せしめるだけの力を必要とする。
そのための軍備こそ必要だ。
つまり人間の精神力の軍備、「魂の再軍備」を提唱したい。
この「魂の再軍備」こそ、武器による再軍備以上の非常なる決心を要求するであろう。
この道は決してなまやさしい道ではない。
私は日本国民がこぞって、この困難にして決意を要する、
平和手段による平和運動に挺身されることを祈ってやまない。
もはやわれわれは、戦争に導くような、武力による平和手段を信じてはいけない。
ローマ帝国をみるがいい。武力によって統一したローマは、武力によってほろぼされた。
武力による一時的な平和と繁栄は、かならず崩壊する運命にある。
われわれは人間の持っている高い精神を唯一の武器として、
一切の戦争の因子にむかって、激しい抗争をいどまねばならぬ。
すなわち人間の魂―人間の心の中に秘められている魂―という武器をもって、
あらゆる武力的紛争の中に敢然と戦わねばならぬ。
しかしながら、この非常なる決心をもつには、道徳的な力を必要とする。
しかして道徳的な力は宗教によってもたらされる。
宗教は人間に無畏の精神、すなわち畏れざる、恐怖観念なき、
正道を踏みて死すとも悔いなき大勇猛心を涵養する。
宗教なき国はほろび、宗教なき人間は怯懦となる。
したがって宗教のないところに、ほんとうの力ある平和の実践行動は起きてこない。
私は日本を旅行して非常に感心したのは、たくさんなお寺や神社のあることである。
そのたくさんのお寺や神社、そしてかくのごとくきれいな清楚にして荘厳な、
お寺や神社を持つ国は、世界のどこにもないのではなかろうかと思う。
日本がこのような立派な神社や寺院を持ったということは、
過去において日本に深い信仰があったことを証明する。
しかし現在におけるこれらのお寺や神社のありさまはどうか。
それは多く宗教心の対象であるというよりも、たんなる博物館ではないか。
教義を説き祈りをささげる場ではなくして、たんなる見せ物に堕しているのではないか。
かくのごとく、みなさんの祖先が、深い信仰心によって築きあげた見事な宗教の殿堂を、
みなさんがたんなる博物館にしてしまったということは、
祖先に対する背信であると同時に、宗教心の堕落を意味するものであると思う。
私は、現代日本人の心に、ふたたび宗教心がよみがえることを祈るものである。
どうかみなさんの生活の中に、宗教を生かしていただきたい。
これこそ日本の「魂の再軍備」の第一着のしごとであると確信する。
どうして僧侶や神職は、日本の次代をになう青年学徒に、
教義を説かないのか、人生問題を説かないのか。
人間の心のなかに眠っている宗教心をよび醒まそうとしないのか。
せっかくの施設と機会をもちながら、これが少しも生かされていないということは、
まことに残念なことであると思う。
きょうも私はある宗教の指導者と会って、こんなことを申しあげた。
「日本にはお寺や神社はあるが、宗教がない。
生活の中にとけこんでいない宗教、人生における精神生活の支柱をなしていない宗教、
そんな宗教はほんとうの宗教とはいえないと思う」と。
私はここで仏教の教義を説こうとするものでない。
ただ人間が信仰することによって、宗教をその生活の中に導入することによって、
凡欲下賤の子といえど、高い魂の把持者たり得るということをいいたかったのである。
この高い魂をもって、平和的手段による平和の獲得のために戦うということが、
私のいう「魂の再軍備」なのである。私はくり返し申しあげる。
みなさんの国は美しい国である。自然そのものが平和と愛の国である。
この美しい国をより美しくするために、宗教によってその魂を磨きあげていただきたい。
広大なる慈悲の精神、妥協なき正義の精神、何ものをも恐れざる無畏の精神、
この高められた精神によって、この美しい国を守っていただきたい。
「パール博士平和の宣言」
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右左両陣営から注目されているパール判事ですが、
戦後間もない来日時の講演でこんなことを言っています。
少なくとも、彼は偽善的な平和主義者ではありませんでした。
私は日本のみなさん、ことに日本の青年諸君に、
非暴力の思想を充分深く研究してくださらんことをお願いする。
しかし、非暴力ということは、断じて怯懦ということではない。
「暴力と怯懦といずれを選ぶかと問われるなら、私は躊躇なく暴力を選ぶであろう」、
とマハトマ・ガンジーも喝破している。
非暴力ということは暴力以上の勇気を必要とする。
すなわち暴力を押しのけるだけの、
暴力者をしてついに暴力を放棄せしめるだけの力を必要とする。
そのための軍備こそ必要だ。
つまり人間の精神力の軍備、「魂の再軍備」を提唱したい。
この「魂の再軍備」こそ、武器による再軍備以上の非常なる決心を要求するであろう。
この道は決してなまやさしい道ではない。
私は日本国民がこぞって、この困難にして決意を要する、
平和手段による平和運動に挺身されることを祈ってやまない。
もはやわれわれは、戦争に導くような、武力による平和手段を信じてはいけない。
ローマ帝国をみるがいい。武力によって統一したローマは、武力によってほろぼされた。
武力による一時的な平和と繁栄は、かならず崩壊する運命にある。
われわれは人間の持っている高い精神を唯一の武器として、
一切の戦争の因子にむかって、激しい抗争をいどまねばならぬ。
すなわち人間の魂―人間の心の中に秘められている魂―という武器をもって、
あらゆる武力的紛争の中に敢然と戦わねばならぬ。
しかしながら、この非常なる決心をもつには、道徳的な力を必要とする。
しかして道徳的な力は宗教によってもたらされる。
宗教は人間に無畏の精神、すなわち畏れざる、恐怖観念なき、
正道を踏みて死すとも悔いなき大勇猛心を涵養する。
宗教なき国はほろび、宗教なき人間は怯懦となる。
したがって宗教のないところに、ほんとうの力ある平和の実践行動は起きてこない。
私は日本を旅行して非常に感心したのは、たくさんなお寺や神社のあることである。
そのたくさんのお寺や神社、そしてかくのごとくきれいな清楚にして荘厳な、
お寺や神社を持つ国は、世界のどこにもないのではなかろうかと思う。
日本がこのような立派な神社や寺院を持ったということは、
過去において日本に深い信仰があったことを証明する。
しかし現在におけるこれらのお寺や神社のありさまはどうか。
それは多く宗教心の対象であるというよりも、たんなる博物館ではないか。
教義を説き祈りをささげる場ではなくして、たんなる見せ物に堕しているのではないか。
かくのごとく、みなさんの祖先が、深い信仰心によって築きあげた見事な宗教の殿堂を、
みなさんがたんなる博物館にしてしまったということは、
祖先に対する背信であると同時に、宗教心の堕落を意味するものであると思う。
私は、現代日本人の心に、ふたたび宗教心がよみがえることを祈るものである。
どうかみなさんの生活の中に、宗教を生かしていただきたい。
これこそ日本の「魂の再軍備」の第一着のしごとであると確信する。
どうして僧侶や神職は、日本の次代をになう青年学徒に、
教義を説かないのか、人生問題を説かないのか。
人間の心のなかに眠っている宗教心をよび醒まそうとしないのか。
せっかくの施設と機会をもちながら、これが少しも生かされていないということは、
まことに残念なことであると思う。
きょうも私はある宗教の指導者と会って、こんなことを申しあげた。
「日本にはお寺や神社はあるが、宗教がない。
生活の中にとけこんでいない宗教、人生における精神生活の支柱をなしていない宗教、
そんな宗教はほんとうの宗教とはいえないと思う」と。
私はここで仏教の教義を説こうとするものでない。
ただ人間が信仰することによって、宗教をその生活の中に導入することによって、
凡欲下賤の子といえど、高い魂の把持者たり得るということをいいたかったのである。
この高い魂をもって、平和的手段による平和の獲得のために戦うということが、
私のいう「魂の再軍備」なのである。私はくり返し申しあげる。
みなさんの国は美しい国である。自然そのものが平和と愛の国である。
この美しい国をより美しくするために、宗教によってその魂を磨きあげていただきたい。
広大なる慈悲の精神、妥協なき正義の精神、何ものをも恐れざる無畏の精神、
この高められた精神によって、この美しい国を守っていただきたい。
「パール博士平和の宣言」



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2008.09.01
本来の科学
還元主義の崩壊の先に、光が見え始めました。
物質主義の終焉とともに、神秘と畏怖すべき宇宙が現れたのです。
これと連動して、思想・哲学も変化を余儀なくされるでしょう。
神を否定することが主な仕事の近代の仏教学者や僧侶にも同じことが言えます。
多くの還元主義・唯物論者たちは当然、彼らの方法こそが歴史的に、
近代科学革命を起こしたのだと好んで主張するが、これは正確ではない。
科学の誕生には、思想や環境の豊かな歴史が必要であった。
大まかに言って、多くの初期の科学者を動かしたものは、それ以前の、
至高の造物主信仰によって吹き込まれた、
宇宙の規則性と優美さに対する信念であった。
この先行する信念を、近代科学の創始者たちの間に見出すのは難しくない。
たとえば、太陽系の優美な記述を求めて、ニコラス・コペルニクスは、
「最高に善なる秩序正しい創造者によって、我々のために造られた宇宙の機構」、
を発見しようとしたと説明している。
それは「最高の、もっとも秩序正しい芸術家が我々のために造った」宇宙である、
と彼は言った。この信念こそが、我々の太陽系のごたごたした内実も、
きっと完全に読解可能な、根底的な統一性をもつに違いないと、
彼に予測させたのであった。要するにコペルニクスは、
我々の最新の科学があらためて再発見しつつある前提―自然は、
叡智によって秩序付けられているという前提―から出発したのである。
我々は繰り返し「唯物論者」に言及した。
我々の頭にあるのは、宗教について疑間をもつ平均的な人々や、
自然の秩序の新しい規則性を探し出そうとしている実験科学者ではなく、
世界から超自然的なもののすべての証拠を一掃しようと躍起になる戦闘的唯物論者、
粗野な無神論者である。このような戦闘的な唯物論者は、
おそらくアメリカの人口の10パーセント未満、
ヨーロッパでもそれをあまり超えないだろう。
ところが彼らは、必死になって学問の世界の権力の座を手に入れようとし、
これを支配してきた。
そのため、そういった人々が高等教育の終身在職権のある地位を占め、
法曹界でも異常な割合でこの種の人々が支配している。
しかし彼らの努力に逆らうように、自然界の意味と秩序は、
再び自己主張をし始めている。実際、生物の非現実性を証明するどころか、
逆に唯物論・還元主義のプログラムそのものが、いかに生物の世界が、
人間の叡智の作品に通ずる特質を体現しているか、
いかに絶妙に人間の観客に適合させられ、あらゆる局面で熱心な研究者を驚かす、
深さ、明晰さ、調和、優美さの特質を示すかを、誰の目にも明らかにしつつある。
ベンジャミン・ワイカー/ジョナサン・ウィット「意味に満ちた宇宙」
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物質主義の終焉とともに、神秘と畏怖すべき宇宙が現れたのです。
これと連動して、思想・哲学も変化を余儀なくされるでしょう。
神を否定することが主な仕事の近代の仏教学者や僧侶にも同じことが言えます。
多くの還元主義・唯物論者たちは当然、彼らの方法こそが歴史的に、
近代科学革命を起こしたのだと好んで主張するが、これは正確ではない。
科学の誕生には、思想や環境の豊かな歴史が必要であった。
大まかに言って、多くの初期の科学者を動かしたものは、それ以前の、
至高の造物主信仰によって吹き込まれた、
宇宙の規則性と優美さに対する信念であった。
この先行する信念を、近代科学の創始者たちの間に見出すのは難しくない。
たとえば、太陽系の優美な記述を求めて、ニコラス・コペルニクスは、
「最高に善なる秩序正しい創造者によって、我々のために造られた宇宙の機構」、
を発見しようとしたと説明している。
それは「最高の、もっとも秩序正しい芸術家が我々のために造った」宇宙である、
と彼は言った。この信念こそが、我々の太陽系のごたごたした内実も、
きっと完全に読解可能な、根底的な統一性をもつに違いないと、
彼に予測させたのであった。要するにコペルニクスは、
我々の最新の科学があらためて再発見しつつある前提―自然は、
叡智によって秩序付けられているという前提―から出発したのである。
我々は繰り返し「唯物論者」に言及した。
我々の頭にあるのは、宗教について疑間をもつ平均的な人々や、
自然の秩序の新しい規則性を探し出そうとしている実験科学者ではなく、
世界から超自然的なもののすべての証拠を一掃しようと躍起になる戦闘的唯物論者、
粗野な無神論者である。このような戦闘的な唯物論者は、
おそらくアメリカの人口の10パーセント未満、
ヨーロッパでもそれをあまり超えないだろう。
ところが彼らは、必死になって学問の世界の権力の座を手に入れようとし、
これを支配してきた。
そのため、そういった人々が高等教育の終身在職権のある地位を占め、
法曹界でも異常な割合でこの種の人々が支配している。
しかし彼らの努力に逆らうように、自然界の意味と秩序は、
再び自己主張をし始めている。実際、生物の非現実性を証明するどころか、
逆に唯物論・還元主義のプログラムそのものが、いかに生物の世界が、
人間の叡智の作品に通ずる特質を体現しているか、
いかに絶妙に人間の観客に適合させられ、あらゆる局面で熱心な研究者を驚かす、
深さ、明晰さ、調和、優美さの特質を示すかを、誰の目にも明らかにしつつある。
ベンジャミン・ワイカー/ジョナサン・ウィット「意味に満ちた宇宙」



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2008.09.01
試練の時
天変地異が次々と起き、
世界には不安が広がりつつあります。
地球の浄化作用はまだまだ続くようです。
これからの厳しい時代を生き抜きましょう。
とにかく、今を生きることに集中することです。
暗いニュースばかりではありません。
ニューエイジに入って、
我々は皆、永遠のいのちを与えられた神仏の子である、
というメッセージが頻繁に発信されています。
そして、真実に目覚め、愛に生きる人が増えはじめています。
宗教間対立を超越した愛のみが地球を救うことになるでしょう。
試練が過ぎれば、黄金の時代が待っているのです。
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世界には不安が広がりつつあります。
地球の浄化作用はまだまだ続くようです。
これからの厳しい時代を生き抜きましょう。
とにかく、今を生きることに集中することです。
暗いニュースばかりではありません。
ニューエイジに入って、
我々は皆、永遠のいのちを与えられた神仏の子である、
というメッセージが頻繁に発信されています。
そして、真実に目覚め、愛に生きる人が増えはじめています。
宗教間対立を超越した愛のみが地球を救うことになるでしょう。
試練が過ぎれば、黄金の時代が待っているのです。



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