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2008.09.03 出家の願い
お釈迦さまの説かれる仏道修行の基本方針です。

現代の仏教には、何の為に修行するのか、
どんな果報や功徳があるのか、ということが抜け落ちているのです。




世尊はこう述べた。

「比丘達よ。君達は戒をそなえ、戒条を守って住しなさい。
戒条による防護によって守られ、行為と行動の領域をそなえて住しなさい。
わずかの罪に対しても恐れを見て、もろもろの学処を受持して学びなさい。


比丘達よ。もし比丘が、
『わたしは同梵行者達に愛され、また意にかない、尊ばれ、見習われる者になろう』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの戒を完成させ、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『およそ親族・血縁の者達、亡者達、命を終えた者達が、
心が浄まってわたしを追憶するとき、かれらのそれに大果報、大功徳がありますように』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの戒を完成させ、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『わたしは五つの下の部分の結縛をことごとく減して化生者となり、
そこで般涅槃し、その梵天の世界から別の世界に転じない者となりたい』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの戒を完成させ、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『わたしは種々の神通の類を経験したい。
わたしが一人であっても多様なわたしになり、多様なわたしであっても一人になり、
現われ、消え失せ、あたかも空を行くように、壁の外に、垣の外に、山の向こうに、
邪魔されずに行きたいものだ。梵天界までも身をもって支配したい』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの戒を完成させ、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『わたしは、清らかな超人的な神の聴覚をもって、神と人間の両方の声を、
およそ遠くのものも近くのものも、聞きたい』、と願うのであれば、
ひたすらもろもろの戒を完成させ、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『わたしは種々に配置された前生の住所を思い出したい。
すなわち、一つの生れをも、五つの生れをも、十の生れをも、
五十の生れをも、百の生れをも、千の生れをも、百千の生れをも、
多くの壊劫における生れをも、多くの成劫における生れをも、
多くの壊劫・成劫における生れをも思い出したい。
そこでわたしはこのような名前で、このような種姓で、このような階級で、
このようなものを受用し、このように楽と苦を受け、このように寿命を終えて、
そのわたしはそこから死没し、そこに再生した。
そこでもわたしはこのような名前で、このような種姓で、このような階級で、
このようなものを受用し、このように楽と苦を受け、このように寿命を終えて、
そのわたしはそこから死没し、ここに再生した、と。
このように様相をともない説明をともなった、
種々に配置された前生の住所を思い出したい』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの成を完成し、内に心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

もし比丘が、
『わたしは浄らかな超人的な神の眼で、死没しては再生する有情達を見たい。
劣った、優れた、美しい色の、きたない色の、よく逝った、悪く逝った、
業に従って行った有情達を知りたい。すなわち尊者達よ。
実にこれらの有情達は身の悪行をそなえ、ことばの悪行をそなえ、
意の悪行をそなえて、聖者達をそしり、邪見をいだき、邪見による行為を持ち続けて、
かれらは身が壊れて死後には苦界に、悪趣に、堕処に、地獄に再生している。
しかしまた、尊者達よ。
これらの有情達は身の善行をそなえ、ことばの善行をそなえ、意の善行をそなえて、
聖者達をそしらず、正見をもち、正見による行為を持ち続けて、
かれらは身が壊れて死後には善趣に、天国に再生していると、
このように浄らかな超人的な神の眼をもって有情達が死没しては再生するのを見たい。
劣った、勝れた、美しい色の、きたない色の、よく逝った、悪く逝った、
業に従って行った有情達を知りたい』、
と願うのであれば、ひたすらもろもろの戒を完成させ、自身の心の寂止に努め、
禅定を軽視せず、観法をそなえて、もろもろの空屋にて修練を積む者であれよ。

比丘達よ。戒をそなえ、戒条を守って住しなさい。
戒条による防護によって守られ、行為と行動の領域を守って住しなさい。
わずかの罪に対しても恐れを見て、もろもろの学処を受持して学びなさい。
およそ以上において説かれたことは、このこと、すなわち、
それが大功徳、大果報をもたらすというこのことに関して説かれているのだ」と。

このように世尊は述べた。
意を得たかれら比丘達は世尊が述べたことに大歓喜した、という。

パーリ原始仏典中部第6経「願経」




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2008.09.03 人は変われる
仏道修行に終わりはありません。

一旦この道に入った以上は、いつでも、どこでも修行中の身です。

修行者は、自分のなした行為、発した言葉、思ったことを振り返って反省します。

過ちを発見すれば、すぐに修正を入れる習慣が大切です。

そういうことを何度も何度も繰り返し行っていると、
心に付着した汚れがとれ、魂が清められていくのです。

そして、
神仏の光を受ける、もしくは内から光を発することが出来るようになっていきます。

地味ですが、
絶え間ない努力こそが、非凡なる境地にまで押し上げる原動力となるのです。

人は変わることが出来ます。

個々人のカルマによる傾向性には根深いものがありますが、
これを発見し改善していこう、という強い意思を持つことです。

いつしか、昔とくらべて随分成長したと気づく時がくるでしょう。

幸福感は、自分の霊的な成長を確認できた時に生じます。

仏道修行は、苦しいことばかりではなく、喜びを伴うものなのです。

日々、精進です。




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