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2008.09.04 仏教と進化論
本来、仏教を信仰することと、
ダーウィンの進化論を信じることが両立するはずはありません。

しかし、日本人の多くは仏教徒のはずなのですが、
世界水準では、進化論を信じる人の割合が非常に多い国だという調査結果が出ています。

この理由は、仏教国だからというよりも、
日本では、科学=唯物論=真実という誤った図式が常識となっているからです。

ダーウィンの進化論は、まさに唯物論信仰そのものです。


インテリジェント・デザインの日本の第一人者である、
京都大学名誉教授の渡辺久義氏はこう論じておられます。


数学者の岡潔という人は晩年かなり精力的に講演活動をしたようだが、
その一つにこんなことを言っている。

『東洋では自然を無生物だなどと思ってやしない。これは直観なんでしょうね。
老子の自然学というものは、自然を無生物だなどと思ってやしませんし、
日本の古事記だって国は神が生んだとして、
生物と無生物の間に区別 を置いていない。これが正しいでしょう。
これは直観でしょう。西洋人だけが無生物だと思うらしいですね。
欧米人は無生物から生物が生まれる、と、
無生物が生物を生む、つまり体が心を作るという風にしか思えない。
それから五感で分からないものはないとしか思えない。
この二つの非常な間違いを初めから持っているんですね。…身体だけ見ましても、
人の身体は非常に数多くの細胞から成っている。
その細胞の配列は実に精緻を極めたものです。単細胞がこんな生物、身体に進化した。
これ実に不思議ですね。
あなた方は、人が自分でここまで向上したんだと思いますか? 
そんなこと思えんでしょう。造化が向上させてくれたんだとしか思えないでしょう。
造化が単細胞を向上させて人の身体にまで持ってきたのです。
じゃあ、そうして一旦、人というものができてしまったら、
後は造化の手を離れて自分だけでやれるか。
振り返ってみますと、赤ん坊が生まれるとき、最初は胎内に単細胞として現れますね。
それが細胞分裂を起こして、そして人の身体になるんですね。
これは人が自分の力でやっているんでしょうか? 
そんなこと思える人いないでしょう。やっぱり造化にやってもらっている。
だから一旦、人になってのちも、絶えず造化によって人の五体を作ってもらっている。
こう考えた方がずっとよく分かるでしょう?』

「造化」という言葉は「造化の妙」という熟語としてしか使わなくなったが、
これは造物主の意味である。
岡潔は、こういう考え方が日本人には昔から当たり前のことで、
西洋から唯物主義という馬鹿な考えが入ってきてからおかしくなったのだと言う。
「物質から生命は出てこない」と、西田幾多郎も書き物の中で何回となく繰り返している。
これはむしろ当たり前のことである。西田が何度も念を押さなければならなかったのは、
唯物進化論のようなものがますます幅を利かせるようになっていく、
当時の雰囲気を感じていたからであろう。
唯物進化論が当たり前だと言う日本人が、
もし本当に心底からそう思っているとしたら、恥ずかしいことである。
「非科学的」なことを言いたくない、それはそれで分からないでもない。
自分だけ変わったことを言いたくないのが日本人の特徴でもある。
しかし、「本当に生命は物質から出てくると思うか」ともう一度念を押されて、
それでも「当然だ」と答える日本人が多いとしたら、私はこれは由々しい問題だと思う。


もはや神が存在するかどうかという問題は、科学的真実かどうかなのです。

仏教国だからとか、キリスト教国ではないから、というような次元の話ではありません。




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西洋流の唯物論哲学や新カント派の立場から、
文献学的に仏教を解釈する近代の仏教学は、大きな間違いを犯してしまいました。

最大の罪は、
仏教から、霊的世界や神秘性を剥ぎ取ってしまったことです。

しかし、それも過去の話。

過去の仏典にどう書かれているかは、もはやどうでもいいことです。

何故なら、仏は再び下生して、現在進行形で法を説かれているからです。

仏陀が再誕している以上、
僧侶は、これに帰依するのが義務です。

この事実に気づかないだけならまだしも、
これを愚弄し、批判し、迫害するなどということは、何千年もの悔いを残すことになるでしょう。

近代仏教学の権威である中村元氏は、霊界から、
現代の僧伽に、このようなメッセージを送っているのです。


「お釈迦様が現代日本に転生しているなんて知らなかった。
2千5百年前のインドの方向ばかり見ていて灯台もと暗しでした。
ちょっと残念で、不覚をとった気がする。
自分より若いお釈迦様なんて想像できなかった。」




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『ナルニア国ものがたり』の著者であるイギリスの作家、
C・S・ルイス氏は、キリスト教神学者としても有名です。

彼は、近代合理主義に影響され、一度、無神論に陥りますが、
30歳ごろに回心体験を経験することになります。

その時の興味深い内面の葛藤を自叙伝より紹介します。




わたしが考えていた「神」や「霊」を真面目に信じていると、
全然新しい局面が展開するかも知れないという恐れがあった。
わたしはもはや哲学をもてあそぶことが許されない運命にあった。
わたしの「霊」がいろいろな点で「民衆の宗教の神」と異っているかも知れないと思った。
わが対戦者(神)は、そうした問題を顧みず、取るに足らぬこととして無視した。
論議しようとさえしなかった。ただこう言ったのである。
「わたしは主である。」「わたしはありてある者である。」「わたしは存在する。」
生来信仰心に篤い人たちは、
そうした啓示がいかに恐しいものであるかをなかなか理解できない。
愛想のよい不可知論者は、これを快活に「神についての人間の探求」だと評するだろう。
当時のわたしは、そんな風な言い方をされるよりも、
いっそ猫についての鼠の探求とでも言ってもらいたかった。
わたしは気狂いじみた望みだが、自分の魂は自分のものだと主張したかった。
それに楽しい思いをするよりも苦しみを避けることを切実に望んでいた。
なるべく負債を少くするように努めたのである。
超自然的な存在は、当初は禁制の酒のようなものだったが、
酒を飲みすぎた時とおなじで吐き気をもよおすようになった。
自分の哲学の方針に従って生きてゆこうとしても、
いろいろな思わぬ条件がついていることを知った。
世の道徳の理想を目標にしていれば、
耐えがたいほど苦しい目にあわないですむと思い、理知をはたらかすように努めた。
だが理想であったものが、厳しい命令に変った。
命令であれば、あれこれと詮議することができない。神はもちろん理性的な存在である。
しかし人間に対して没義道なことを要求しないだろうか。
それについてはどうとも言えなかった。
むしろ全面降伏、暗闇にむかってのひたすらな飛躍を求められた。
神は人間と安易な交渉をして取決めを結ぶような方ではなかった。
神が命ずることは、「すべてか無か」でさえなかった。
パスに乗っていて、わたしは鎧を脱ぎかけ、
自我の雪だるまが溶けはじめた時、新たな局面を迎えたのだと思う。
神の命令は、「すべてに賭けよ」というものであった。
わたしはモードリン学寮の個室にいて、一瞬仕事から気がそれた時、
こちらからは会いたいとは思わないのに、神がゆっくりと執拗にせまってくるのを感じた。
恐れていたことが、ついにやって来た。一九二九年の夏学期、わたしは降伏した。
神を神であると認め、ひざまずいて祈った。
その夜、英国中で最も意気上らぬ、不承不承納得した回心者だったろう。
その時のわたしは、旭日のように明々白々なことが理解できなかった。
その程度の回心者をもよしとし給う神の謙遜に思い及ばなかったのである。
放蕩息子が少くとも自分の足で家に帰った。
しかしもがいたり、あばれたり、憤慨したり、
何とか逃げだそうとして様子を伺ったりする放蕩息子を許して、
門を開く大いなる愛の神に対して、だれがそのことにふさわしい崇拝ができるだろうか。
神は人間に有無を言わさないということばが、つまらない人間に乱用されているので、
ぞっとする思いをしているが、これを正しく理解するならば、
そのことばは神の慈悲の深さを遺憾なく示している。
神の厳しさは、人間の優しさよりも情深い。
神が強制することは、人間の解放なのだから。

「喜びのおとずれ」




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